第十三話『罪と赦しと決意』
子供に謝りの文句を浮かべる前──ベッドに腰掛けていた男は開いた腿の上に両の肘を置いて、鳩尾の前あたりで手指を編んでいた。そこから下げた頭はゆっくりと時間をかけ、とうとう交差する親指の上に額が当たる。それは許しを乞う格好というより、居もしない神に向かって崩れた祈りを捧げる信徒のそれに近いものだった。
だがどれだけ時間が過ぎようと、男の耳には赦しも罵りも返っては来なかった。子供の代わりに責め苛むような、なにかを急き立てるような雨脚だけが途切れなく続いている。
男はもはや何の切っ掛けもなしには頭を上げるどころか、瞑った目を開く事さえできなくなっていた。
それは時を経るごとに重さを増していく、久しく忘れていた恐怖という感情によるものだった。
かつて裸に剥かれた身体を、四方から棒で滅多打ちにされた時とも。
初めて駆り出された戦場で、伸びる切っ先が首筋を掠めた時とも。
一瞬前まで身分も忘れて励まし合っていた隣の新兵が、飛んできた砲弾の爆発でばらばらに宙を舞うのを見た時とも。
がむしゃらに突き出した穂先が鳩尾を射抜き、どす黒い血の泡を顔に吐き出してきた敵兵の虚ろな瞳に捉えられた時とも。
そのいずれとも似て異なり、そのいずれよりもずっと大きな痛みを伴う怖さが男を覆っている。耐えかねた肺腑が限界まで息を吐き出し全身が酸欠に喘いでもなお、男は丸めた背を伸ばすことが出来なかった。
「あなた、は」
苦しみにどこまでも引き延ばされていた時間は、外の雨音に掻き消されそうな子供の声によってその果てを告げる。
空っぽの肺が軋む痛みを堪えながら男が顔を上げると、そこには突き付けられた現実に対してどこまでも穏やかな面立ちが掲げられていた。
「どこまでも、優しいのですね」
「そんなん、何の意味も──」
奥歯を噛みしめて激しく首を振る男の嘆きを、子供はゆっくりと小さく揺らす小首で止めた。その口ぶりも合わせる瞳のかたちもまるでこの時だけ年齢が逆しらになったように、互いの身の丈に合わないものを宿している。
その差はそのまま、受け入れるものと拒むものの心のあり方を顕していた。
「意味なら、ありました」
ずり、とシーツに皺を作って、子供が半分だけベッドを動く。男の鼻に自分と同じ石鹸の匂いがふわりと香った。身丈に余る寝間着の袖から覗く白い腕はすっかり汚れが取れて血色が戻り、滑らかな曲線を描く肩口から垂れ落ちる髪もくすみが落ちて銀灰色に部屋の光を反射している。
「この2日間、わたしは痛くも、寒くも、汚くも、ひもじくもなかった」
鼻の奥を吐く痛みと共に、男の眼が見開かれる。
「ベッドは柔らかくて、お部屋は暖かくて、お風呂から上がった身体は痒くなくて──貴方の作ってくれるごはんは、とても美味しくて」
ふつうの暮らしを送っていれば、なんの感慨も抱くことなく流れていく些細な満足。子供はそのひとつひとつを大切な思い出として、記憶の箱からそっと取り出すような口調で語ってみせた。
「……確かに何度も、貴方が本当の主であったならと思いました。さっきまで、明日もここで眠れたならと思っていました」
──けれど私にとって、それは過ぎた願いだったのでしょう。
涙に潤む事も嘆きに揺れる事もない、全てを悟っているような瞳が男に続きを語りかけていた。そこには身請けに足りなかった男にも自分をここまで連れて来た商人にも、それどころか自らを取り巻く理不尽そのものにすら恨みひとつ浮かべはしない。
全てをただ、受け入れている。その点だけを切り取れば、ここで初めて食事を振舞われた時と同じだった。
だが語る子供の瞳に晒された男だけは知ってしまう。その結論が諦めではなくまったく逆の、どうしようもなく残酷なものよって導き出されている事を。
「でも、消えたと思っていたひとの優しさが、また私の傍にも訪れた。どれほど短い時間でも、貴方が主になってくれたことは忘れません」
穏やかな声はどこまでも淀みなく続いていく。あくまで聴き手を目の前にいる者と取りながら、同時に届くとも知れない天へと向けた願いの形を模していることばの群れを前にして、男は更なる気付きを得てしまった。
「貴方があのパスタを食べさせてくれたから、次に私を買う人は、貴方のような人かもしれない。そう思えるようになりました」
生まれながらの奴隷は、まともな教育を受ける事さえ許されない。
故に、ここまで流暢に言葉を編めるはずがない。
つまりこの語り口は奴隷になる前、真っ当な教えを請える環境に身を置いていたという証明に他ならなかった。
きっとそれは、この国に生きるほとんどの人間が当たり前に享受している『家族』という幸せの形を以て──男が抱いている罪の意識に対してそれは新たな、そして恐ろしい予感をもたらしていた。
「そしたら、少しだけ明日が怖くなくなったんです。全部を諦めるよりはきっと辛いけど、その先に──」
そこで限界を迎え、男は天井を仰いで短い咆哮を上げる。
本人より先に明日待ち受けるさだめを知るものにとって、かりそめの希望を語ってみせるその声はどんな刃よりも鋭く心を抉った。叫びはその苦痛に耐えがたくなった心が上げさせたものだった。
おれが、投げ出せたものを再び握らせてしまった。
おれが、このこを、人間に戻してしまった。
乾きとひりつきを覚える喉へ唾を送り込みながら、男はようやくその顔を天井から降ろす。その途中視界の端へもう一度、隅に転がる斧の柄と丸めた外套を収めた。
取り返しのつかないその罪に、何の力を持たない自分が報いるには、やはり。
「申し訳ありません。些末な話を長々と」
「いや、違うんだ」
──もう一度、人の道を外れるしか、ない。
自分が気分を害してしまったと早合点して謝る子供へ、男はどうにか声の震えを隠しながら否定する。それからずり、とシーツの皺を深くして半分だけ距離を縮めた。
薄紙1枚ぶんにまで近づいた互いの肩に、じわりと互いの温度が行き交う。
「おまえは、俺をひとときの主と見てくれていたんだな」
「はい」
「柄じゃねえけど……明日の朝、ここを出るまでそれは変わらないか?」
「はい」
「ならひとつだけ──俺からお前へ、最初で最後の命令をしても良いか?」
こくりと落ちた首を見て、男は子供の肩へゆっくりと手を回した。
商人はとうの昔にこの店から出て行っている。もはや道という道に小川を作るような雨の中、雨の中近づいてくる足音はただのひとつもない。
それでも男は、出来る限り子供の耳へ口を近づけた。
それはこれから話すことばを他の誰にも──きっと、居もしない神にすらも聞かれたくない。そんな思いの現れでもあった。
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