【第一章:ノブレス・オブリージュ③】

 彼女が三限の授業に向かうというので、ちょうど同じ時間に図書館を出た。僕の行先は自宅だ。



 大学から歩いて数分、とても恵まれた場所にあった。そのものはボロいつくりで、中階段はやけに暗いし、外階段はジョロウグモの子供が大量に巣を張っていて使い物にならない。かといってエレベーターにはゴキブリの子供が散見されるし、まあ一人暮らしなんてこんなものか、では耐えられない人もいそうな生活レベルである。



 とはいえ、家の中まではそこまで侵入してこないし、そこは安心できる。靴をなんとなく脱いで、荷物は部屋のドア横に放っておく。



「あ」



 エアコンがつけっぱなしだった…けど、最近暑いことを加味すれば、先に部屋を涼しくしておいたとも考えられる。とりあえず大開口窓だけ開けて換気はしておこう。もちろん網戸は閉める。



 さて、図書館での課題の進捗はそれなりのものだった。全く悪くはない。これでひとまずだろう。



 僕はこれから、別の課題に取り掛かる。別に今始める必要はないけれど、これ以降では遅すぎる。僕は一昨日の休日に買ってきた角材を、ビニール袋から優しく取り出した。それから、机の上にあったカッターナイフに手を伸ばす。長い時間放置されていたカッターナイフは、冷房が効いてひんやりと冷たくなっていた。



 快調なクリック音と供に刃が伸びる。角材に手を添えて、まずは角に刃を立てた。木の筋に抗いながら、斜めに刃を進めていく。固い感触がどこまでも伝わってきて、それと同時に刃はじりじりと進んでいた。



 最後はゆっくり、手を切らないように刃を入れる。これでようやく、角材の角の部分を切り落とせた。これを上の四つ角ぶん、やる。



 次の角に取り掛かる前に、まずは木くずを下のごみ箱に落とした。材を九十度回転させて、同じ作業に取り掛かる。



 しかし、同じ角とはいえ違うものだ。物質は均一ではないから、同じ材の中のどこをとっても違う。さっきの角と今の角、どちらも全く違う手応えだった。それはこれから、この材に刃を入れていくたびに、一回一回噛み締めておかなければいけない。



 刃を入れるたびに、ここはこう違うぞ、と材が教えてくれる。だから気づくことは簡単だ。それでも、それを忘れてしまわないようにしておくことが難しい。



 作業はとにかく、静かなときに限る。静かな時間、静かな場所。それが一番大切だった。作業中は音楽も聞かないし、他のどんな雑音も許されない。できることなら、材が刃で削られていく、さらさら、がりがりというような音も無くなってしまえばいい。



 斜めに切られた断面からは、まだ粗い未熟な繊維たちが顔を出している。今の段階ではまだ、気にするべきではない。しかし、今回は趣向を変えてみてもいいか。もう少し繊細な手順で、材を削っていこう…。



 そこで、音が鳴った。ふっと集中が切れて、視線はスマホへ向く。



 瑛摩から からの着信だった。



「今日の授業終わったけど」



「けど?」



「君、図書館に忘れ物していったでしょ。スマホの充電器」



 あ、と声になるかならないかの音声が、僕の口から漏れた。そういえば僕は、家に帰ったきりスマホは放っておいたままだったんだ。



 今の充電は十二パーセント。充電しておかないと、明日の生活に支障が出る。



「今持ってる?」



「渡しに行こうかと」



「…これも借り?」



「もちろん」



 僕は出発の準備を始めながら、冷蔵庫の中身を漁った。ぎりぎり残ってる。



「それじゃ、そっち行くから」



「いや、僕から向かう。どうせ作業は続かない。場所は?」



「文化研究棟のほう」



「そっちか。じゃあ歩いて向かう」



 そう言って電話を切った。僕は冷蔵庫から一本を取って家を出た。

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