第二章 戦場に舞い下りた聖女

 俺はライナス・ベイシェンス。


 父から爵位を譲り受けて十年。辺境伯として、隣国カガール王国との国境の守りを担っている。カガール王国とは頻回に小競り合いが発生するが、すべて国境線上に広がる草原で制し、これまで一度として国境内部への侵入を許したことはなかった。

 ところが二カ月前、我がベイシェンス辺境伯領と隣接するトリンドル伯爵領に、カガール王国が正規軍三千の規模で攻め入ってきた。トリンドル伯爵領は、距離にして僅か一キロほどではあるが、カガール王国の森林と国境を接していた。森を越えての進軍はないだろうとの我が国の読みを逆手に取られられたのだ。


 俺は常日頃よりトリンドル伯爵が所有する自警団のみでは守りが心許ないと感じており、何度となく伯爵に我が領が有する辺境騎士団での守備を申し出ていた。しかしその度にトリンドル伯爵からすげなく断られてしまっていた。

 トリンドル伯爵にもプライドがあるだろう。こちらとしても無理矢理隣領に押し入って警備を展開するわけにもいかず、せめてもの対策として陛下に実情を認め、取りなしてもらえるよう請願した。その返答待ちの最中、無情にも戦の火ぶたは切られてしまった。

 案の定、トリンドル伯爵が所有する自営団は瞬く間に壊滅した。すぐに我が辺境騎士団が応戦し、途中からは駆けつけたデルミア王国騎士団と連携し交戦した。


 トリンドル伯爵領内は戦場となり、伯爵一家も領民も領地ごと戦火にさらされた。

 プライドを守っても、命が守られなければそんなものに意味はない。どうして強固に辺境騎士団での警備を主張しなかったのか。苦い後悔を剣に込め、俺は先陣を切って戦った。


 そうして両国の戦は、一カ月に及んだ。




 戦局は一進一退。それでも、なんとかカガール王国軍の進軍をトリンドル伯爵領とその隣接領までで食い止め、王都へと続く中央道への侵入は絶対に許さなかった。

 騎士たちの怒涛の粘りでカガール王国軍はじりじりと撤退していく。しかし、我が国の痛手も大きかった。負傷兵も多く出て、騎士たちは疲弊していた。

 前線基地には、夜ごと深手を負った騎士が痛みにあえぐ声が木霊していた。


 ある日。質素な携帯食を齧り終え、そろそろ交代で束の間の眠りにつこうかという時分、基地内に凛とした声が響いた。


「すぐに負傷者のもとに案内してください!」


 振り返ると後方基地の方角から、二名の護衛騎士に守られた小柄な人物が簡素なローブを翻しながら駆けてくる。金髪を無造作に括り、ぱっちりとした碧眼できつく前を見据える姿は一見少年のようにも見えるが、声は紛れもない少女のそれだ。


 ……戦場に女? 誰だ?


「ライナス、彼女が聖女・セイラ様だ」


 怪訝な目を向ける俺に、かつて同じ師のもとで切磋琢磨した友であり、現在はデルミア王国騎士団の団長を務めるドルトンが耳打ちした。そういえば昨日、魔石を用いた通信手段──魔報で軍務大臣と話した際【聖女を派遣する】とそんなことを言っていた。軍務大臣は自身は安全な王城にいながら戦に口だけは出したがる面倒な男ゆえ、話半分に聞いていたのだが。


「……聖女。そうか、彼女が」


 その正体を知り、無意識のうちに渋面になる。


 俺が聖女の姿を見たのはこれが初めて。我が国に実に三十年ぶりに生まれた尊い聖女は幼少期から王城に召し上げられて神聖省の預かりとなり、高額な布施と引き換えに高位貴族らを中心に治癒を行っていた。尊い治療に対価が発生するのは当然で、その在り方を否定する気はさらさらない。

 ただ、王城で蝶よ花よと守られ、傅かれて暮らす聖女に、凄惨な戦場での治癒が務まるのか。悲鳴をあげて怪我人の前から逃げ出すような事態にならないだろうな? そんな懸念も浮かぶ。


「しかし意外だ。旅の疲れもあるだろうに真っ先に救護用のテントに向かうとは」


 ドルトンが感心したように呟く。


「たしかに、その心意気は立派だ」


 聖女はよほど使命に燃えているのだろう。指揮官である俺やドルトンへの挨拶を省略し──というより、俺たちへの挨拶など頭にもなさそうだった──護衛の騎士の先導で負傷者らが収容された天幕に消えていく。

 その天幕からは、特に悲鳴も聞こえてこなかった。


 ……なるほど。聖女は存外気骨があるらしい。けれど俺には、もうひとつ憂慮があった。


「だが、ドルトンよ。聖女の力は無尽蔵ではないのだろう? 当然、治癒可能な上限はあるはずだ。お前、なにか聞いているのではないか?」


 俺は普段、王都から遠く離れた辺境に身を置いており、聖女の活動についての詳細を把握していない。それでも、そう頻回に治癒を行っていないことは知っていたし、彼女が日に複数人の治癒が行えるのか疑問だった。

 なにより、貴重な治癒能力が負傷者に対し平等に発揮されるのか。この部分を一番心配していた。


「正直言えば、出立前に軍務大臣から聖女派遣の際には序列の高い騎士から優先的に治療させるよう指示を受けてる」

「馬鹿な! お前はそれを受け入れたのか!?」

「まぁ落ち着け」


 ドルトンが俺の肩をトンッと叩きながら続ける。


「指示があったのは事実だが、この話は俺で止めている。世話役も兼ねて彼女に付けた護衛のふたりにも、負傷者の処置順などは指示していない。ただし、聖女自身がどんな指示を受けていて、どう動くかまでは分からんがな」

「……そうか。声を荒げてすまなかった」


 戦場にあって患者の選り好みなど許されるわけがない。

 そんなことをすれば、極限の中戦っている末端の騎士たちはどう思うか。なぜ、王城の連中はそれを考えられない。

 安全な場所から、援助どころか現場の士気を乱す愚行しかしない大臣たちを縊り殺したくなった。


「なに、お前が憤るのも無理はない。俺とて聞かされた時は、軍務大臣に殴りかかりそうになった。いずれにせよ、まずは彼女の様子を見ないことには始まらん。判断はそれからだ」

「ああ」


 重く頷いて、ドルトンと共に聖女のいる負傷者用の天幕へと足を向ける。


 この時、俺は密かに決意していた。大臣らの思惑など知ったことじゃない。たとえ国の意向に背くことになっても、必要なら俺が聖女を諫めようと。

 そう症状の重くもない高位の騎士二、三人の治療の対価が騎士団の戦力低下ならば、聖女は不要。大人しく王都にお帰り願おう。




 ところが天幕の入口を捲ると、そこには予想外の光景が広がっていた。


 なんと聖女は、重傷者が寝かされている天幕の奥で、下級騎士らの治療にあたっていたのだ。


 彼女が今夜中に息を引き取るだろうと予想されていた騎士の枕辺から立ち上がる。どうやらちょうど処置を終えたところのようで、騎士の顔から死相は消え、生気に満ちていた。

 彼女は衛生隊員に後の処置を任せると、今度は内臓を傷つけられ血反吐を吐きながら苦しむ騎士の寝台横に膝を突いた。


「よく生きていてくださいましたね。もう大丈夫です」


 聖女は力強く語りかけ、患部の上から手をあてる。すると、先の騎士と同様もう長くないと思われていた騎士の顔に、見る間に生気が蘇る。

 荒い呼吸は穏やかになり、青い頬には血色が戻った。


 聖女の力とはこれほどのものなのか……! 俺は目の当たりにした奇跡に、言葉を失った。ドルトンもまた、俺の横で目を丸くしながら立ち尽くしていた。


 聖女はホッとひと息つくと、立ち上がってまた次の負傷者のもとに向かう。その顔色がどことなく冴えないように感じた。


「た、助けてくれ……」


 ひとりの負傷者が、横を通り過ぎていく聖女に声をあげた。

 彼女は足を止め、悲壮な表情で縋り見るその男に鼓舞するように告げる。


「はい。絶対に助けます。ですが、先に治療を必要とする方がいます。どうか、あと少しだけ頑張ってください。必ずあなたを治療しに戻ってきますから」


 声を出すのも苦しそうな様子の負傷者は、聖女の目を見て頷く。まだ治療は受けていないのに、その表情は幾分穏やかになっていた。

 聖女は微笑みを返し、三つ先の寝台に向かう。そして、そこに横たわるほとんど虫の息の騎士を手当てし始める。


 ……見事だ。


 彼女は患者の症状を見極めて、冷静に治療の順位を判断していた。その行動はまさに聖女と呼ぶに相応しいもの。

 彼女を諫めようなどとんだ傲りであった。彼女の眩いほどの手腕に圧倒される。


 その後も彼女は立て続けに数人の治療を行った。六人目の治療を終えたところで体をふらつかせ、咄嗟に護衛の騎士が支えた。

 休むよう促す護衛の騎士に彼女は「大丈夫だ」と答えているが、その顔色は目に見えて青い。


 ……これは、無理にでも休ませなければ駄目だ。


 隣のドルトンを見れば、奴も同じ考えのようで頷き返してきた。

 ふむ。後のことはドルトンに任せておけば間違いないだろう。

 俺は体の向きを反転させた。


「なんだライナス。お前は聖女に会っていかんのか?」


 聖女のもとに向かいかけたドルトンが、天幕を出ていこうとする俺に気づいて問いかける。

 ここは聖女の戦場だ。ここにいても俺は役には立てない。


 俺とドルトンは共に辺境騎士団と王国騎士団を率いる団長で、両騎士団に優劣はなくその地位は同等。だが、より戦場慣れしている分、武力や統率力は俺の方が勝る。その代わり、他所との調整や根回しなどはドルトンが得意とする。


「俺はいい。副官らともう一度明日の作戦を確認してくる」


 指揮官として聖女に応対するのは武芸一辺倒で気の利かない俺よりも、ドルトンの方がいい。女性への細やかな配慮もまた、ドルトンに軍配があがるのだから。

 俺は、己の力がもっとも活かせる場所で戦うのだ。そのまま静かに天幕を後にした。






 そうして聖女は救護用の天幕で。俺は前線で。それぞれの戦場で戦った。


 聖女の登場で騎士たちの士気はうなぎ上りとなり、一気に形勢は好転した。

 それでも終戦間際は泥仕合の様相を呈した。最終局面で俺はついに敵の指揮官を討ち取り、カガール王国軍は撤退した。しかしその代償は大きく、俺もまた腹を刺されて深手を負ってしまった。


「この馬鹿野郎! 無理をし過ぎだ!」

「……ッ」


 珍しく声を荒らげるドルトンにいつも通りの軽口で返そうとするが、まるで体に力が入らずうまく声が出せない。


「だが、よくやってくれた! 後のことは任せて、お前はすぐに治療を受けてこい!」


 すぐに衛生隊員が駆けて来て、息も絶え絶えの俺から金の襟飾りが特徴的な団長用の騎士服を剥ぎ取る。


「っ、これは……! ライナス団長、どうかお気をたしかに! すぐに聖女様のもとにお運びします!」


 衛生隊員は俺の裂傷を見て息をのみ、応急で患部を布で圧迫止血して担架に乗せ、もうひとりの騎士とふたりで担ぎ上げた。


 辿り着いた救護用の天幕も負傷者であふれ、戦場のようだった。

 比較的軽症の者は屋外に敷かれたシートの上に寝かされていた。入口近くでは衛生隊員が列をなす負傷者の状態を確認し、その緊急性から治療の順番を決めていく。


 俺を運ぶ衛生隊員は迷わず負傷者の列を抜き、天幕の中に飛び込んだ。

 すると天幕の奥で、顔面蒼白の聖女が荒い息を吐きだしながら両脇を護衛の騎士たちに支えられていた。


「聖女様、これ以上の治癒は無謀です!」

「いいえ、私が治療します」

「いけません! これ以上は本当にあなた様のお命に関わります!」


 漏れ聞こえてくる会話から、聖女の窮した状況を知る。彼女もまた満身創痍なのだ。


「この方は通常の医療処置では助かりません。最後にこの方ひとりだけ、なんとかします」


 あの者の治療が『最後』と聖女は言った。

 耳にするや、俺を担いだ衛生隊員が中に大きく一歩を踏み出し、声をあげようとする。

 彼の意図に気づいた俺は、最後の気力を振り絞るようにしてそれを制止した。


「……待て。俺の身分を明かしてはならん」


 俺の髪や肌は血と泥で汚れ切り、とても人相を判別できる状態ではない。さらに今は団長用の騎士服も脱いでしまっているから、こちらから告げねば誰も担架の上の死にかけた怪我人が俺だとは思うまい。

 事実、せわしなく行き交う衛生隊員らが俺に気づく様子はなかった。


「ですが!? それでは、あなた様の治療が間に合いません!」


 俺は緩く首を振る。

 明かせば、俺の代わりにあの者が死ぬことになる。そんな事態は容認できない。


「命令だ」


 騎士団において、上官からの『命令』は絶対だ。俺が告げたこの一語で、衛生隊員は苦悶の表情で足を止めた。

 無理に声を発したせいで、胸の苦しさが増す。ここまでなんとか保っていた意識が今にも遠のきそうだ。

 頭上から衛生隊員の物言いたげな視線を感じるが、一度下した命令を覆すつもりはない。俺は聖女が〝最後のひとり〟を治癒する様子を霞がちな目で静かに見つめていた。

 治療を終えた聖女がガクンと頽れる。既に自力で立ち上がることはできないようで、彼女は護衛のひとりに抱き抱えられた。


 その時、ふいに彼女と俺の目線が絡んだ。


「……待って」


 聖女は俺を見たまま僅かに目を瞠った後、すかさず奥に移動しようとする護衛の騎士に訴える。


「聖女様? どうされました?」

「彼のところに連れて行って」


 彼女が震える指先で俺を指し示す。護衛の騎士は訝しみつつ、彼女の指示に従って人垣を割って俺の方に足を向けた。

 護衛の騎士が俺の前で足を止めると、彼女がスッと手を伸ばす。その指先が躊躇なく、おびただしい量の血を吸って色を濃くした布越しの腹部に触れる。


 ……いったい彼女はなにを?


 頭が朦朧として、彼女の突然の行動にすぐに理解が追いつかずにいた。

 すると直後、彼女が触れている部分にスーッとした清涼感を感じた。一瞬で焼けつくような痛みと苦しみが消え、全身がふわりと軽くなる。嘘のように呼吸も楽になっていた。

 目を丸くする俺を見て、彼女がふわりと微笑む。


 これは……! 聖女の治癒!! 頭の中の靄が晴れ、一気に覚醒する。


 彼女が力を行使したのだと気づいたのと同時、彼女を抱き上げていた護衛の騎士の悲痛な叫びが響き渡る。


「聖女様!! しっかりなさってください!」


 俺の腹部に添えられていた手がパタンと滑り落ちる。


「っ、馬鹿な! 君はなんという無茶をしたんだ……!!」


 彼女が護衛の騎士の腕の中で意識を失っているのを目にし、驚きの声をあげた。怪我は治っても失った血は戻らないから貧血でグラグラしたが、気力で捻じ伏せて起き上がる。そのまま蝋人形のように色を失くした彼女の頬に触れた。

 その頬の氷のような冷たさに、敵将の刃を受けた時以上の恐怖と絶望を覚えた。


「処置をしますので、聖女様をこちらへ!」


 駆け寄ってきた衛生隊員らに引き取られ、衝立の奥に運ばれていく彼女の姿を、俺はなす術なく眺めていた。


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