見る目を持つこと
吹井賢(ふくいけん)
見る目を持つこと
ふと、コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。
石灘家のリビングで金曜ロードショーを見ている時だった。甲斐甲斐しくも飲み物を持ってきてくれたらしい。いつものブラックだ。俺は、「ありがとう」と一言告げて、カップを受け取り、コーヒーで口を湿らせる。
……うん。今日は少し薄い。
ある夏の日のことだった。とある金曜日のことだった。
「……何してるの」
斜め前のソファーに腰掛けた少女、椥辻姫子は、自分用の麦茶を机に置きながら問い掛けてくる。
「見て分からないか?」
「……ジブリ見てる」
「『もののけ姫』だな」
尤も、今はCM中だが。
暫しの間、リビングを沈黙が支配した。
どうやら彼女の周りにいた大人、例えば両親は、ジブリ作品を見ない方だったらしい。……というよりも、アニメ映画、か? 子どもをあやす為に観ることはあっても、「今日は『風の谷のナウシカ』をやるのか、じゃあ仕事を早く切り上げようかな」とは、ならないタイプだったのだろう。
畢竟するに、彼女の認識では、大人はアニメを見ないのだ。だから、映画を鑑賞しているという自明な行為に対し、「何してるの」と問い掛けてきた。
「……ねえ」
「なんだ?」
「少し、訊いてもいい?」
遠慮がちの問い。理由はすぐに分かった。CMが明けたからだ。俺は、
「何度も観ているから気にしなくていい」
と応じる。
しかし、それはそれで、彼女にとっては不思議だったようだ。
「何度も観ているのに、また観てるの?」
と、質問してくる。
俺は言った。
「一度観ただけでは製作者の意図を読み取れ切れないからな。学んで、経験して、年を取って……。そうして、はじめて分かることもある」
「……論文とかじゃなく、アニメなのに?」
「アニメだから、じゃないか? まず楽しませる為の話の筋や絵の動きがあり、その裏には演出の意図や設定考証があり、その奥には『それを観た子どもに何を伝えたいか』というメッセージ性があり、一番の奥底に、製作者の価値観や偏見がある」
「……准さんが、言ってた」
「准が、どうした?」
「霖雨は、『そのコンテンツを作った大人の側が子どもに何を伝えたいか』を考えるのが好きだ、って」
アイツ、そんなことを言ったのか。
俺はやや悩んで、「まあ、そうだな」と同意する。
姫子は続ける。
「じゃあ、『もののけ姫』は、何を伝えたい作品なの?」
「俺の考えでいいのか?」
こくり、と頷く姫子。
「と、言っても、この作品はかなり重層的に造られているから、一概には言えないんだが。が、『人間と自然との距離』や『人間社会の変化とそれによる自然の変遷』辺りは明確に在るんじゃないか?」
「環境保護……ってこと?」
「そう言い切れると楽なんだが、そう単純な話でもない。俺はテーマ性の一つに、『人間と自然との距離』というものを挙げたが、ここでの距離には、二重の意味を持たせている」
即ち、共存共栄的な自然観と、「何を以て『自然』と見做すか」という定義論だ。
前者は姫子の言う通り、環境保護的な視点で纏められるかもしれないが、後者は定義論であり、価値観の問題であり、言語学的視座であると同時に、社会学的な見方である。
「……姫子。『自然』って言葉は、面白いよな。この映画に描かれるような自然も『自然』だが、北大路にある植物園も『自然』だ。何なら、おじさんがそこで育てている草花だって、『自然』だろう?」
この二つを『里山』と『奥山』で分けるのは、民俗学的な視点だっただろうか。前者を二次林、人工林と呼び、後者を原生林と呼ぶ分野もあったはずだ。そして、『奥山』とは、古くより、神の住まう場所とされた。
神――この作品で言えば、デイダラボッチであり、巨大な山犬だ。
「この作品の面白いところはな、姫子。『里山』と『奥山』という二種類の自然を明確に分けて描いているところだ。そして、同時に神秘主義的な、自然崇拝やアニミズム的な考え方が根底にあるんだ」
ある学生は、ある時、こう言った。「映画に出てくる『自然』って、理想的過ぎて嫌になっちゃいますよね」と。
彼はかなりの僻地――中山間地域に住んでいるらしいが、彼に言わせるならば、自然礼賛は、それは素晴らしい思想なのだが、現実はそうも行かないのだという。極論を言うならば、人が生きていく為には自然を征服しなければならない。森を拓き、山を崩す……と表現すれば、如何にも悪く聞こえるが、「人が住む」ということは、そういうことなのだ。
というよりも、動植物が住む、というのは、そもそもとして、そういうことなのかもしれない。鹿は木の皮を食べ、その木を枯らし、猪が筍を掘り返せば、竹林は広がっていかない。
動植物の営みと人間の開発では程度が違う? それもやはり、そうだろうし、説得力のある言説だろう。しかし、あえて『人間』と『自然』という概念を対立軸として考えれば、『人間』は弱過ぎる。『人間』という生物は、あまりにも弱いから、『(奥山的な)自然』の隣では生きていけないのだ。里山、という緩衝地帯を造り、ある程度、動植物の生息を制御した場所を挟まなければ、『自然』に飲み込まれてしまう。
そして、里山管理者の不足から起こる獣害は、枚挙に暇がない。里山という緩衝地帯がなくなれば動植物は人里を侵食し始める。そして、人は自然に勝てない。山の神が出るまでもなく、鹿にも猪にも勝てない。
身も蓋もない言い方をすれば。
自然なんて、放っておけば増えていく。
……高度経済成長により都市への人口集中が始まって数十年。里山管理者が減るだけでこの有り様だ、人間そのものが滅びてしまえば、言うまでもない。
「……俺はこの辺りの生まれだから、この作品で描かれる原生自然を見て、『こんな美しい景色がまだ日本の何処かにあればいいな』と思ってしまうが、実際に自然の隣に住まう人間からすれば、また違うんだろうな。同じように、俺は押井守が描く埋立地を見ても何も感じることができないが、東京湾を見て育った人間は、そのカットに込められた機微や、あるいは違和感を、読み取れるのかもしれない」
なんて、何の話をしていたんだったか、と。
姫子の方を見れば、彼女はテレビ画面に夢中になっていた。
それでいい、と思う。そんな風に楽しめるなら、それで十分だ。
それでも、いつか興味を持つことがあるのならば――それは奥山でも、自然崇拝でも、たたら製鉄でも、差別でも、戦争でも、古代日本文化でも、なんでもいいから、見ようとする目を持って欲しいと思う。
ただ見る目ではなく、見ようとする目。
作品に込められたメッセージを読み取ろうとする姿勢を持ってくれれば、嬉しく思う。
了
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