Sin and Punishment:Skyscraper

アイダカズキ

展望台からの眺め1:そして黒き白鳥は目醒める

 上海の金融街を一望に見下ろす上海パークハイアットホテルは、約492メートルにも達する超高層ビルの79階から95階までを占める、世界でも有数の超高層ホテルだ。「世界一」の称号こそドバイに譲ったものの、上海でまず宿泊先として候補に上がる優良ホテルに変わりはない。

 その正面ロビーが、今や大混乱に陥っていた。入浴中に避難警報を出されたからか、チェックイン・チェックアウトの宿泊客どころかバスローブ姿の男女すら混じっている始末だ。

 ブリギッテ・キャラダインはいち早く異変を察したおかげで、恐慌して押し寄せてくる宿泊客の怒涛の波に巻き込まれずに済んだ。が、潜入作戦がご破算になったのを認めないわけにはいかなかった。

「……話が違うわ。何で潜入作戦が市街戦になったのよ!?」

 既に自分の身体の一部に等しい強化弓コンパウンドボウ──技術課が必要以上に労力を注いでくれたおかげで、威力はそのままに携帯性も格段に向上している──をバックパックから取り出しながら、ブリギッテは悪態を吐いた。悪態を吐いている場合ではないのだが、そうでもしなければやっていられなかった。「〈紅涙ホンルイ〉がHWを運用できる『実行力』を持っているなんて聞いてない!」

 海外出張と聞いて出向いてみたら、ライフルを抱えて機関銃陣地に突撃しろと言われたような気分だ。当然、用意してあった変装グッズもプランも、全て台無しである。純粋な戦闘装具は用心のため持ち込んでいた強化弓と、普段着の下に着込める簡易戦闘服──ある程度の耐弾・耐衝撃機能はあるが、当然HWの火力には心許ない──くらいしかない。

 こうなっては何もかもアドリブで対処するしかない。

『あたしだって聞いてないよ!? あいつらHWをレンタルリリースできるだけの金とコネをどこで調達したんだよ!?』

 ヘッドセットから聞こえるエマの声も動揺を隠しきれていない。何しろ今回の作戦立案はほぼ彼女によるものだったのだ。

『ブリギッテ、後退しな。状況はこちらの想定を遥かに越えている。こんなもの、あたしたち現地工作員の本分じゃないよ……』

 ブリギッテとて、エマの言葉は痛いほど身に染みた。が、素直には頷けない。

「『はいそうですか』で退けると思う、エマ? 人の命が懸かっているのよ! あいつら、今すぐにでも彼女の公開処刑を始めかねないわ。第二のシャロン・テート事件をライブ動画で観たい?」

『あんた、まさか……』

「それに……室長はある程度、こうなるのを見越して私を派遣したんじゃないかと思うの。完全に自惚れでもなくてね」

『待ちな、ブリギッテ……!』

「詳細は戻ってから報告しますと伝えて。──ブリギッテ、終了アウト

 エマの言葉を聞かず、無線を切った。

 ──〈黒き白鳥〉はヨハネスの……そして、龍一への手掛かり。

 それがわかっているなら充分だ。

 覆面代わりのスカーフを口元まで引き上げた。戦闘開始オープンコンバット、と声に出さず呟く。彼らが──龍一やアレクセイたちがおそらくそうしていたように。


【数日前── ダウニング十番街、MI6・国史編纂部第2課別室】

 名前からして派手さや華やかさとは無縁なこの部署が英国における対〈王国〉、さらに〈犯罪者たちの王〉対策部門の急先鋒であるオフィスは、現在閑散としていた。ブリギッテと室長、そしてもう一人以外のメンバーが出払っているためだ。口の悪い手合いなどはここを〈ヨハネスのケツに噛みつく雌犬B b J a班〉などと呼んでいる。

「〈黒き白鳥〉を知っているか? ……などと聞く必要もないな」カーラ・キャボット室長は娘のアンナに比べると肉の付きすぎた──だが面影がなくもない顎を震わせるようにして言った。「下手をすると、私より君たちの方が詳しいかも知れない」

「……そうですね。何しろ『オデット』の──彼女の顔を見ないことには、コスメグッズも手に取れなければ、新しい服も靴も買えませんから」

 話の流れが見えないまま、ブリギッテは慎重に答えた。何しろカーラは親友の母親にして上司という、二重の意味でブリギッテの頭が上がらない相手だ。つい神妙な声になってしまう。

「オデットが出演する映画はあらゆる賞を総舐め、どんな映画だろうと大ヒット間違いなし。そのくせ、本人の私生活は一切がシャットアウト状態。本名も出身地も年齢も学歴も全部不明と来てる」エチオピアからの移民の少女、エマ・コズビーは口にゼリービーンズを放り込みながらそう評する。つんつんに立てた髪とけばけばしい原色のTシャツと短パンはオフィスどころかストリートにいた方が似合いそうだが、彼女もブリギッテと同様、カーラの部下だ。「こんな『聖なる怪物』があともう2、3人増えてみなよ。あらゆるパパラッチは商売上がったりだね」

 エマが卓上に放り出した雑誌の表紙を見る。ブリギッテとさほど歳の変わらない若さの、しかし、遥かに成熟した美貌が微笑んでいる。エキゾチックな印象を与える濡れたように艶やかな黒髪に、白磁の肌。完璧な曲線を描く鼻梁と唇、そして見る者全てを吸い込むような薄紫の瞳。あらゆる男の都合のいい夢の中から抜け出てきたような美貌だと思い、そう思う自分まで苛立たしくなる。

「アメリカのあるIT富豪がオデットに懸想してさ。いくら言い寄っても彼女に相手にされなかったんで、頭なり別のところなりに血が昇りすぎたみたいでさ、プロの傭兵部隊を雇って彼女を拉致しようとしたらしいんだ」

「乱暴にも限度があるわ……」やはり最近、暴力の閾値が下がったように思う。「それでどうなったの?」

「どうにもならなかった。。彼女の邸宅に突入した傭兵部隊は全員失踪。件の富豪も『私は見てはならないものを見た』とだけ言い残して公の舞台から姿を消し、以後行方不明だってさ」

「芸能界ゴシップ話が、どうして急にホラー映画の導入になったの?」

「生憎と、彼女が体現しているのはホラー映画よりも性質の悪い何かだ」黙っていたカーラが口を開く。「ある社会評論家はこう言った。彼女はまるで、だと」

(それは……)

 動揺を表に現すまいとは思ったが、上手くいったかは自信がなかった。実際、カーラはブリギッテの内心などお見通しだったようだ。

「そう、私たちは非常によく似た人物を知っている。どれほど探っても一切の公式記録が存在しない人物。あらゆる犯罪者たちの上に君臨するただ一人の男──〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスだ」

「ヨハネスとオデットの間に、何らかの繋がりがある……と?」

「そこまではわからない。だがこの2人には、幾つもの共通点があることは確かだ。一切の記録がなく、その過去を暴こうとする試みはいずれも無惨な失敗を遂げている。違いがあるとすればヨハネスが一般には都市伝説と思われているのに対し、オデットは少なくとも表世界で知られたである、ということくらいか」

「……仮想アイドルならもっと楽に自分の素性を隠せそうなものだけど。でも案外、賢いやり口なのかもね」

「だね。今はどんな権威だろうと美人だろうと、ネットトロールどもの玩具になるのは避けられないからね」

 ブリギッテは複雑な気分になる──彼女自身、その手のトロールどもに不愉快な思いをさせられたのは一度や二度ではないからだ。

 カーラが組んでいた指を解く。「〈黒き白鳥〉は新作映画の撮影のため、上海に滞在中だ。ブリギッテ、君はただちにエマとともに現地へ飛び、彼女の身辺を探ってもらいたい。率直に言って、遠隔地からの調査では万策尽きた。ヨハネスとオデット、その繋がりを直接炙り出す必要がある」

 興奮のあまり、全身が震え出すのを止められなかった。それはひたすらに焦れてただ待ち続けていた、その待機時間が報われた証でもあるからだ。何百時間と訓練を繰り返しても、彼女の目指すものには届かない──ヨハネスにも、そして龍一にも。

 たとえその裏に英国政府の思惑……ブリギッテを操作することで、龍一とその体内の〈竜〉を確保する意図があったとしても、やり場のない鬱屈を訓練にぶつけているよりは遥かにましである。

「『生死を問わずデッドオアアライヴ』ですか?」

 こればかりは娘と生き写しな、カーラの黒々とした瞳がこちらへ向けられる。相変わらず感情の読めない眼差しだったが──少なくとも、怒ってはいなかった。「今はそこまで思いつめたくはないな。GOサインを出すまでに上も私も、相当に悩んだ。だがオデットは現時点で、最もヨハネスとの繋がりが疑われる存在だ。これはなのだ……もしかすると最初で最後の、な」

 ブリギッテが入室して初めて、カーラは薄くだが酷薄な笑みを口元に浮かべた。なぜカーラが〈BbJa〉などという不名誉な仇名を許しているのか──当の本人がそれを気に入っているからだという噂を思い出した。

「リスクを承知の上で動こう。ただし、慎重にだ」

「はい」ブリギッテは頷くのがやっとだった。彼女に認められたのが嬉しいのか、ようやく龍一に繋がる手がかりを見出せたのが嬉しいのか、今はまだわからない。

「ああ、それと……伝えておくことがもう一つある。オデットが現地入りするのとほぼ同時に、〈紅涙〉が彼女の殺害予告を出した」

「聞かない名前ですね。政治団体ですか?」

「ある意味ではな。手早く言えば女性嫌悪主義者ミソジニストの群れだ」

「女嫌いと排外主義者は親和性が高いからね」すかさずエマがキーを叩き始めた。「我らは驕り高ぶった傲慢な女たちに虐げられた弱く善良な男たちの流した涙から生まれた、ってのが団体名の由来なんだってさ。起業家や著作家、それにニュースキャスター。とにかく女性の著名人やそれを支援する弁護士へのネットストーキングや殺害予告で、もう何件か訴訟沙汰を抱えてるよ。行き過ぎた女尊男卑社会の不公平を正すってのがその言い分らしいけど」

「この人たちがまずやるべきなのは、どちらかというと政府や役所への抗議じゃないの?」エマのPCに表示されたその〈紅涙〉とやらのサイトを見たが、内容を数行読んだだけで頭痛がひどくなってきてやめてしまった。「第一、自分たちのやっていることは弱くもなければ善良でもないじゃない」

「さあね。そこまで考えられるようなら最初からそうしてるだろうし。頭が悪いんじゃない?」

「自分たちを真に踏み躙る者を直視したくないのだ。頭が悪いのではない、心が悪いのだ」カーラは一撃で切って捨てた。そういう口調は本当にアンナそっくりだわ、とブリギッテは密かに思う。

「ジョディ・フォスターの昔から、ハリウッド女優はストーキングの被害に遭いやすい。 彼らにしてみれば〈黒き白鳥〉は女であり外国人、しかも富裕層だ。ターゲットとしては好都合、ということだろう」

「それにしても……気にはなりますね、このタイミングで」

 まさか〈紅涙〉がMI6の内部情報にアクセスできるとも思えないが、偶然にしてもできすぎてはいる。

「ま、気に留めておいた方がいいのは確かだけど。ただこの弱虫どもに何かができるとは思えないけどね。社会的脅威で言ったら〈王国〉の足元にも及ばない連中だ」エマは肩をすくめる。「こいつらが重たいケツを自宅のPC前から上げて〈黒き白鳥〉が泊まっているホテルの最上階までえっちらおっちら登っていって、重たいPCを女優の頭にぶつけない限り、人なんか殺せないと思うよ」


 結論から言えば、エマの分析は間違っていた。


 女優の宿泊しているフロアまで一息に駆け上がってきたブリギッテが見たのは、猛威を振るうHWの群れだった。控えめに言っても地獄絵図だ。

 両腕に大型の鉤爪クロウを装着した〈引っ掻き魔スクラッチャー〉──近接戦用に特化された、紛争地域では最もよく見かける低グレードのHWだ。低グレードではあっても「銃弾を浴びせられてもすぐには死なない」というHWの強みは損なわれていない。訓練を積んだ兵士でさえ相対は命がけだ。ましてや、警棒や電撃銃テーザー程度の武装しかない生身の警備員が立ち向かえる相手ではない。

「……!」

 鉤爪の先に突き刺した、既にぼろ切れのようになって事切れている警備員の死体を腕の一振りで投げ捨てた〈スクラッチャー〉が向き直った。全部で3体。それぞれが同時にではなく、微妙にタイミングをずらしてブリギッテに飛びかかってくる。わかりやすい咆哮も、呼吸音も、目配せすらない。生まれながらに情報共有能力を持つHWの強みだ。

 だがブリギッテは怯まない。こんなところで躊躇っているようでは、ヨハネスにも、そして龍一やアレクセイにも届かない。

(来い……!)

 番えた3本の矢が、絶妙な軌道を描いてそれぞれの〈スクラッチャー〉に突き刺さる。ナノコーティング化された鏃は、HWの表面装甲を容易く貫き、腕に、胸に、腹に突き刺さる。突き刺さっただけだ。機銃弾の正面掃射にさえ耐え得るHWが、それしきで止まるはずもない。

 

(重くなれ!)

 数メートルの距離を一気に詰め、鉤爪をブリギッテに振り下ろそうとした〈スクラッチャー〉たちが、がくんとバランスを崩した。

 身体の一部に突き刺さっただけの、HWにすれば致命傷とは程遠い矢が完全に自由を奪っていた。まるでピン先に突き刺された蝶のように床面でもがいてはいるが、起き上がれる個体は一つもない。

 ほぼ完全な無力化を確かめて一息吐いた。

(〈紅涙〉はもう組織としては終わりね。どれだけ動機が幼稚でも、HWというれっきとした軍用兵器で大量の死者を出しては司法当局も笑っては済ませられない……)

 問題は、それがわかってもブリギッテたちの現状は何も好転しないということだ。少なからず暗澹としていた時、ヘッドセットから呼び出し音が鳴った。

活劇アクションに一区切りはついたか、ブリギッテ?』

「室長……その……」

 カーラの声から察するに、呼び出しは叱責のためではなさそうだった。少なくとも、今は。

『悪い知らせだ。上海ハイアットホテルを中心に強烈な電波妨害ジャミングが発生している。彼らのオデット公開処刑がブロードキャストされる恐れはなくなったが、外部から増援を送り込むこともできそうにない』

「……HWには電波妨害も無意味ですからね」

『やはりHWを投入したか。何が何でもオデットを殺すつもりだな』ブリギッテは彼女の声に含まれる忿懣を聞き逃さなかった。『こうなった以上、君に任せるしかない。帰還後、直接口頭で私に報告するように。口頭でだぞ。でないと、娘への言い訳に困る』

 何か言う前に、通話は切れた。これでもう引き返せない。

 そして、引き返すつもりもない。

 ──女優の宿泊している部屋前の廊下も、また血の海だった。軍事請負企業ミリセクから派遣された護衛たちだろうか、屈強な男たちがHWともつれ合うようにして事切れている。彼らが手にした拳銃は例外なく、銃弾を撃ち尽くしていた。最後の最後まで護衛対象を守ろうとしたに違いない。

 ブリギッテとて悪名高い〈羊の血の池〉で訓練を受けた一人である。だがこのように無惨な死を見て、何も感じずにはいられなかった。

(……ごめんなさい)

 恐怖を押し殺し、深呼吸を繰り返す。ヨガの呼吸法を取り入れた戦闘時呼吸術コンバットブレスは、わずか数秒で興奮していた神経をたちまち冷ました。

 ドアの電子ロックは意外にも解除されていた。強化弓を構え、一息に扉を開ける──想像の及ぶ限り凄惨な光景を予想して。

 だがドアの向こうに広がっていたのは、どれほど馬鹿げた悪夢の中でも見たことのない光景だった。

 赤黒い粘液が、シックな調度を無惨に汚し尽くしていた。床はもちろん、テーブルから天井の照明まで、赤く黒く汚れていない箇所が見当たらない。

 そしてその赤黒い海の中に──まるで伐採され尽くした林のように、手や足や胴体、そして首が無造作に転がっていた。肉と機械が一体化した断面は不自然なほど滑らかだった。

 女優のものではない。HWのものだ。

 室内の惨状と無縁な蒼白い満月が、都市の上空に昇っている。

 それを背景に、細長い影が窓際に佇んでいた。月光に透かされた薄めのサマードレスから、完璧と言ってよい身体の線が透けて見える。

「あら」

 百万ドルの夜景を背後に、世界一の女優がブリギッテの方を向く。HWの残骸に埋め尽くされた部屋の中で。

 薄紫の瞳がブリギッテを捉えた。

「私が想定した相手ではありませんでしたが……これはこれで興味深い展開ですね。塔の上まで私を助けに来た勇敢な騎士が、こんな美しく愛らしいお嬢さんだったなんて」

 女優はひっそりと笑った。成熟した外見に似合わない幼女のような笑みだったが、それはそれで恐ろしくはあった。何しろ周囲は、まさに血の風呂ブラッドバスなのだ。

「馬鹿にしてるの?」

 ようやく全身の金縛りが解け、解けると同時にブリギッテの頭に血が上った。ようやく安心して怒れるようになった、という方が正しいか。

 オデットは目を瞬いた。正視するのも恐ろしいほど整った顔には、無邪気な驚きしか浮かんでいない。「馬鹿に? なぜそう思うのですか? 心から称賛したつもりなのに、ブリギッテ・キャラダインさん」

「……私の素性も先刻ご承知、というわけね」

「大英帝国が誇る女子アーチェリーのオリンピック候補が、どうしてここにいるかは興味深いところですが」オデットの笑みが深くなった。薄桃色の唇の隙間から、骨よりも白い歯並びが覗く。「なるほど、MI6も寝てはいない、ということですか」

 彼女は一歩踏み出す。室内履きにしか使えないような瀟洒な靴が、床の血溜まりで湿った音を立てた。

 無意識のうちに、ブリギッテは一歩後退っていた。上背こそオデットの方が優っているが、取っ組み合いに持ち込めればブリギッテの方が遥かに上手くこなす──ジュードーだろうとレスリング勝負だろうと──自信がある。なのに、震えと動悸が止まらない。

 同じだ……龍一やアレクセイと対峙した時と。

「ああ、またも私の悪い癖が出てしまいそうです。女王陛下が新しく送り込んできたエージェントの実力──いかほどのものか」

 散歩でもするような気軽さでオデットはさらに数歩歩き、大理石のテーブルにしなやかな指を這わせた。上で人が寝転がってもまだ皿を並べる余裕がありそうな、大きく分厚いテーブルだ。

 それを手に取り、無造作に投げた。

「……!」

 ブリギッテの目に映る全てがスローモーションと化した。緩やかに回転するテーブルが、放物線を描きながらこちらを目がけて飛んでくる。直撃は免れないコースだ。

(動け!)

 選択の余地はない。瞬時に〈編まれた世界ウィーヴワールド〉を発動させる。視界の全てが編まれた糸と化した。

 

 一瞬前までブリギッテが立っていた場所に、巨大なテーブルが大音響とともにめり込んだ。重量と勢いでテーブルの三分の一ほどもが床面に沈んでいる。生身の人間があそこにいたら、無惨な潰れトマトと化していたに違いない。

「こっ……のお!」

 ブリギッテは背後に回り込みながらオデットの右腕を捻り、一息に関節を固めた。セントウルスラ・レディース・カレッジでのレスリングの授業で体格に勝る上級生たちを何人も降参に追い込んだ、力任せでは絶対に解けない技だ。

「動かないで! どういうつもり!?」

 女優はわずかに身じろぎしたが、それは逃げるためではなく身動きが取れないのを確かめるためのようだった。実際、口の端には苦痛どころか笑みさえ浮かべている。

「なぜこんなことを? そう情熱的に迫らなくても、私は逃げませんよ。あなた相手なら少し嬉しくはありますが」

「世界一の大物女優は、地球の物理法則を知らないの? ほとんどの人間はね、重たい大理石のテーブルをぶつけられたら死ぬのよ!」

 半ば本気で怒りながら、ブリギッテは違和感を覚えていた。薄い衣服越しに感じられるオデットの肌の温もりは全くの生身で、薬物や擬体化など何らかの人体強化は見受けられない。この細腕であの〈スクラッチャー〉の群れを片っ端からにしたのか? どうも信じ難いし、何か不自然だ。

「もちろん、他の人にはやりません。あなたなら大丈夫だと思ったのです」

「ああ、節度はわきまえているってわけね……そんなわけないでしょ!」

 ブリギッテはひどい脱力感を堪えなければならなかった。龍一といいこの女優といい、どうして私の周りには、こうやたらと人を食った連中ばかり集まってくるのだろう?

「それよりあなたの方こそ、先ほど一瞬だけ物理法則をねじ曲げたように見えたのですが。手品にしては手が込んでいますね。何をどうしたのですか?」

「さあね。朝食をパンからシリアルに替えたからじゃない?」

 ふふ、と彼女は今度こそ声に出して笑った。思わず漏れてしまったような自然な笑い方だった。「今度試してみますね。では、

 ぱん、と真下から肘が付き出される。それだけで、

「なっ……!?」

 動揺する間すら与えられなかった。空を切り裂く勢いで、斜め下から女優の蹴りが繰り出される。太腿にまとわりつく長いスカートを物ともしない、鞭より疾く斧より重い一蹴りだ。

 反射的に後方へバック転をして逃れる。一瞬後に全身から冷や汗がどっと噴き出た。ロンドンでの死闘を経た後なら即座にわかる。まともに食らっていたら頭が弾けていたのではないかとさえ思える、遠慮も躊躇もない一撃だった。

 ヨハネスの刺客との戦闘など意外でも何でもない。自分と女優の間に立ちはだかる者が相手なら、一戦どころか万戦でも交えるつもりだった。だが当の女優が本気で襲いかかってくるなど、完全に予想の埒外だ。

(どういうこと!? 世界一の女優が、何だって私を殺そうとするのよ!?)

 不条理な悪夢の中に迷い込んだような気分に苛まれながら、それでも追撃に備えて身を起こしたブリギッテの目は、ある一点に吸い寄せられた。

 それ自体が芸術品のような、水平に伸ばされたオデットの右腕だ。その指先が小刻みに震えている。ただ震わせているのではない──何かを操作しているのだ。

 そうだ、これと全く同じ動きを自分はどこかで、

「最近の闇市場ブラックマーケットには面白い商品が売っているのですね。……〈糸〉と言いましたか?」

 アレクセイと同じだ……!

 女優が静かに掌を返した。

 薄暗い室内でも、幾つもの煌めきが──致命的な煌めきが、四方から殺到するのを彼女は嫌でも感じ取った。〈糸〉──蜘蛛の糸より細く鋼鉄より強い、あのアレクセイの恐るべき武器。肌に食い込めば肉を切り骨を断ち、たとえ切断機能をオフにしていても、あれに絡みつかれたら身動きが取れなくなる。

 他に手はなかった。

(〈編まれた世界〉よ……!)

 

 周囲の全てが織物として認識される。殺到してくる〈糸〉を包む空気そのものを。鋼線が断ち切られる甲高い音。致命的な斬撃がたちまち力を失い、床へ落ちる。

「……なるほど。空間操作ですか」

 女優の口調は抑え気味でこそあったが、紛れもない感嘆があった。「私などに褒められても嬉しくはないでしょうが、あなたほど危うげなくそのように力を行使し得る方は世界でも数えるほどです。ましてその若さではほぼ皆無と言っていいでしょう」

 自分の失策を悟り、全身から先ほどとは別種の冷や汗が噴き出してきた。こちらは死に物狂いであらゆる手札を晒しているのに、オデットの方はテーブルと〈糸〉しか使っていない。戦い方の片鱗すら見せていないのだ。

「あなたはひたむきで真っ直ぐですが、それだけに手の内を読まれる可能性があります。?」

 その声は、意外なほど近くで響いた。ブリギッテの背後──さらに言えば耳元だ。

 反射的に繰り出した肘打ちが、まるでビロードにでも包まれたように優しく受け止められる。

 次の瞬間、ブリギッテの視界が縦に一回転した。投げられたのだ。

 空中で身を捻り、床に叩きつけられるのを回避はしたが、それこそが女優の狙いだった。手首を取られ、肘に手を添えられ、瞬く間に関節を決められてしまう。自分が先ほどオデットに対してかけた技を、そっくり返された形だ。

 いや、そもそもこうも背後に回られたのはまさか、

(私の〈編まれた世界〉をそっくり模倣した……!?)

 理屈はともかく、そうとしか思えない。

王手チェックメイト

 再び耳朶を柔らかな吐息がくすぐる。梔子の花に似た芳香が微かに漂っている。

 詰みだ。自分でもわかる──これは力任せに振り解けるものではないし、できたとしても致命的な一撃は避けられない。信じられなかった。信じたくなかった。ヨハネスにも、その先にいるはずの龍一にも届くことなく、自分の人生がここで終わるのか? あれだけの覚悟を固めておいて……?

 が、オデットは何を思ったか、ブリギッテの腕をあっさり解放した。

「あ……」

 よろけた拍子に肩を押され、すとんと腰を落としてしまった。落とした先に上等なソファがあり、ブリギッテはそこへ否応なく座る形になってしまう。なおさら頭に来るのが、腰を下ろしたのは奇跡的にもHWの血で汚れていない部分だったことだ。そんな気の遣い方をするくらいなら、最初からテーブルなどぶん投げないでほしい。

 オデットはただ微笑み、静かにブリギッテの前に立っている。手を伸ばせば届く距離だが、必殺の一撃を繰り出す気配どころか殺意の欠片さえ見当たらない。

「……どういうこと? なぜ殺さないの?」

 女優の微笑みは消えない。「殺す必要がありません」

 殺されないと悟った瞬間、猛然と腹が立ってきた。自分を見下ろす形のオデットを正面から見据える。

「あなたは〈王国〉の……ヨハネスの一味ではないの?」

「一味、とは古風な表現ですね」オデットはまたも幼女のように笑う。馬鹿にしたのではなく、むしろ好意的な笑い方だ。余計に気に入らなかった。「確かに私と彼は対等どころではありませんが、どちらか一方が這いつくばるような関係でもありません。私には彼にないものがあり、彼には私にできないことができる。互いの利益のために歩み寄ったまでの話です」

「女優業の傍ら、犯罪ビジネスに精を出しているわけ?」

「女優業は私の『顔』の一つに過ぎません。あなたとて職場で『ブリギッテ・キャラダイン』の全てを明かしているわけではないでしょう? それに、正直に言えば私は彼の〈王国〉事業にはほとんど関わっていませんし、彼もまた私を自分の『ビジネス』に組み込むことにはとても慎重です」

 嘘を言っている口調ではなかった──彼女が天賦とも言える演技力の持ち主であるのを計算に入れなければだが。

「大企業の社長が自宅に帰っても大企業の社長として振る舞い出したら、周囲は気が狂ったと思うでしょう。その場、その場で被る仮面ペルソナが適切なものであれば、世間の大半は内面など気にも留めません。私たちが演じるもの、それこそが私たちなのです。何かを演じていない者などこの世にはいません。あなたも私も、そしてヨハネスでさえも」

 一理ある、とは認めるしかなかった。だが腑に落ちない部分もなくはない。

「謙遜のつもり? 私があの動きをできるようになるまでどれだけ苦労したと思っているの? 〈糸〉だって、慣れない素人が使ったら自分の手足を切るのが落ちだわ」

「ですがそれは事実です。さらに言えば、私が今日披露したもので私自身のものと言えるのは何一つありません。全て、あなたや他の誰かの模倣です」

 それはそれで大したものだ。アレクセイの〈糸〉もブリギッテの〈編まれた世界〉も、見て容易く真似られるようなものではない。

「〈竜〉もあなたの顔の一つ?」思い切って聞いてみることにした。どのみち、潜入作戦は事実上のご破算だ──たとえ拷問にかけられても、得られるだけの情報を得なければ帰るに帰れない。

「そう思われるのも無理はありませんが、違います。私が〈竜〉だなんて、買い被りもいいところです」女優の笑みが深くなる。「私はただの黒い白鳥ブラックスワンに過ぎません。ブリギッテ、あなたがただの恋する少女であるのと同じくね」

 赤くなっていいのか青くなっていいのかわからなくなる一言だった。正直、さっき関節を決められて投げられるよりもよほど効いた。

「……なるほど。あなたがMI6に見出されたのは能力だけではなく、むしろ動機ですか」

 優美な貌に初めて影が差した。どこか憐憫のようにも見えた。「一つ忠告しておきますが、MI6を『利用』しようなどとは思わないことです。彼らはたかが地上の王国。国家安寧の妨げになると見なせば、あなたを容易く裏切ります。あなたのように美しく強く優しいお嬢さんが、汚らわしいイデオロギーの狂信者どもにそれらの美点を踏み躙られるのは見るに耐えません。あなたを突き動かすのが、あなたにとって大切な誰かのためであれば、なおのこと」

「よ……よく言うわね!」

 ブリギッテが声を荒げたのは──見透かされたからだ。「どうして……どうしてあなたこそ、あなたほどの人がヨハネスなんかに従うの!? ロンドンを月まで吹き飛ばしかけた男に! 目的のためなら、人類の大半を火に焚べかねない男に!」

 女優は悲しげに首を振った。これほどの美貌だと、嫌味でなく様になる。「誰も彼もが……MI6もあなたも、あのヨハネスでさえ、私を買い被っています。言ったでしょう? 私はただの、ドラゴンに恋をした黒い白鳥に過ぎません」

 オデットは微塵の恐れも見せず窓際に歩み寄り、優美に腕を一閃させた。分厚いガラスが音もなく繰り抜かれ、大の大人が楽に通れる大穴が現出した。高度数百メートルの強風がどっと吹き込んでくる。

「しばしの別れです、美しく強く優しいお嬢さん。私もあなたも彼を追っているのであれば、いずれ運命は交わるでしょう。でもできれば次に再開する時までに、MI6からは退職しておくことをお勧めしますね」

「待って……!」

 スカートの裾をはためかせて。黒い白鳥が舞うように。

 彼女は躊躇いなく虚空に身を踊らせた。

 ブリギッテは息する間すら惜しんで窓際に駆け寄ったが、強風と目も眩む高さにもう少しで足を取られるところだった。黒い白鳥のごとき女は消えていた──夢のように、跡形もなく。

 煌びやかな百万ドルの夜景こそが、目を背けもできない失敗の証だった。言葉にならない敗北感だけがあった──MI6もブリギッテも、ヨハネスとオデットの双方にしてやられたのだ。

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