お能登さま、ごむたいな

金子ふみよ

第一章 お能登さま、恐悦至極に存じます

第1話 船内

 佐渡へ向かう高速旅客船ジェットフォイルは全席座席指定である。新潟港から出航して六十七.二キロメートルはカーフェリーなら二時間半かかるが、ジェットフォイルなら一時間強で着く。乗り物に弱い自負のある俺にとっては時間がかかって乗船料金が安いのと、時間が短く乗船料金が高いのを比較した時、どちらを選ぶかは財布次第で、この時は使い慣れた黒い財布が黄金色に輝いていたので、当然後者一択だった。

 ゴールデンウィークやお盆や年末年始や、ましてや週末でもないからそうそうは混んではいないと安易に予想していたのは、一人乗船する以上指定席の隣に誰も来ないのが望ましいという全くもってパーソナルスペースに関わることだった。クッサいおじさんだったり、ヘッドフォンからの音漏れだったり、クチャラーだったりしたら、いくら珍しく分厚かった財布からの紙幣の羽ばたきが射られたようなものである。

 だから、観光季節でもない週中の、しかも日中の移動に無防備だったのだが、なぜか空席が目立つような状況ではなく、それなりに混んでいた。八割くらいの乗船だろうか。海運会社としてはウハウハものだろうが、安直な俺の予想からすれば足を伸ばして、両脇の肘掛を使ってのんびり昼寝の予定がドタキャンになったわけである。こういう時に限って文庫一冊、音楽プレイヤー一つを用意してこなかった準備不足が痛打となり、スマホに音楽がダウンロードされているものの、イヤホンがなければ宝の持ち腐れである。外は快晴だというのに足取りは重い。荷物はバッグ一つにまとめたというのに。

 カーフェリーに比べてジェットフォイルは小型である。よって碇を下ろしていても、晴れていてもエンジンを切っていると、それなりに揺れる。あるいは船に弱いせいで揺れに敏感なだけかもしれない。にぎやかというわけではないが、人が多いその密度感というか、入り混じった匂いの圧迫というか、天然露天風呂のつもりがミストサウナだったみたいな空気感をかき分けるようにして、チケットの番号を見ながら指定座席を探す。

 二階建てのこの船は乗り物が苦手な者にとっては、二階はより一層大きく揺れるように感じる。真冬なら洗濯漕とまでは言わないがメリーゴーランドを高速で乗っている感じでやはり酔ってしまうだろう。だから、今回冬ではないとはいえ、一階の席に安堵したのは、他の人から見れば大げさだろうが、俺にとってはまさにほかに言い様がない。その後方。手荷物台の前面に貼られた座席番号から自分の席を視界にとらえた。立っている視線を上げることも下げることもせずに視認できるからヘッドバンキングをしていないのだが、すでに乗客たちが座り、背もたれから飛び出た頭は、言い方が悪いがモグラたたき状態で、横に十二列、船後方に十二列もあれば、確かに番号の数字上は何の解読不能性はないのに、前後不覚な感覚に陥ってしまう。三ケタにさえいかない数字を誤解するはずはなく、というかそうしないように何度もチケットと座席番号を見ながら指定席へ。俺の座席に一人の女性が窓外の海面を見つめながらすでに座っていた。「あの、座席違ってませんか?」などと普通なら訂正を求めようが、言いをためらったのはその女性が流行のファッションにコーディネイトされていたからではなく、いつの時代の装束だろうと時代感覚にめまいを催したからというわけでもなかった。えらく美人だったからである。これはこれでご褒美かもしれないと何の根拠もないし、何の帰結でもなかったのだが、一瞬にしてそんなことを思ってしまったのも事実だ。しかも彼女が着ている和服は、着物なんだろうが、首の辺りが少し開き気味な気がして、なんだろうか妖艶な香りがそれを助長させていたのも間違いない。しかもその柄がしとやかとか単色とかではなく、どんな図柄かしれないが派手というか奇抜というかサイケデリックというか、とにかくそんな印象がした。そのような女性を見て見ぬふりをしているのか、他の船客が横目で見たり覗き見たりしてはいなかった。気にしたら負けとでも思っているのだろうか。髪も詳しくはないのだが頭頂部近くで結ったポニーテイル(? じゃないと思うのだが、そんな形状)でかんざしを挿していた。そのかんざしも細工が緻密なデザインの結構な値段がしそうな(これも詳しくないから勝手な先入観だが)ものだった。

 その女性は俺が立ち尽くしたのを気付いて見上げてきた。化粧っ気があるのかないのかすぐに判別できるほどではないが、唇の紅色は確かに口紅によるあでやかさであると見入ってしまうくらいだった。切れ長の細い目が間違いなく俺の眼をとらえた。

「そこ、私の席だと思うんですが」

 丁重にしたつもりだったが、その女性のこめかみがピクリと動いたように見えた。ご機嫌を損ねたか、とはいえ自分の座席である、主張はしておくべきだろう。

「失礼、どきましょう」

 女性はすうっと腰を上げ通路に出た。俺は自分の席に滑り込んで座った。女性は俺が座るのを見届けると、ふわっと腰を下ろした。鼻腔に届いた匂い、いや香りは俺が知っているような化粧品にはない芳香で、キツイ自己主張も人工的な強烈さもなく、ほんのりとして懐かしいというか、落ち着くというか、五月の快晴で干した布団のようなそんな香りだった。

「シートベルトをお着けください」

 船員が早足で通路を注意喚起に歩く。エンジン音が鳴り始める。出航になる。手持無沙汰な俺は隣の女性を気にしないようにして、瞼を閉じた。


 ふと気づいたら、すでに着船していた。いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。あの女性はもういなかった。


 その美人が結局は美人局みたいな感じになった、つまりはまんまとひっかかってしまったのだった。これは俺が経験した、そんな話である。

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