【テキストライブ】即興小説(約3,000文字)
冬場蚕〈とうば かいこ〉
第一回 0901 結果→3246文字/69分23秒
「孝弘って、わたしのこともう好きじゃないでしょ」
ブラのホックをつけながら、美佳の声は捨て鉢だった。わたしはとっさに反応できなかった。喉元まで「うん」という言葉が出かかった。あやうく殴られるところだ。かといって、これ以上の期待を持たせるのも申し訳ない気がした。
「寂しくさせたなら、ごめん」
美佳の皮膚の張った背を、そっと抱きしめる。ポイントは、言葉の一音一音をゆっくりと発音することだ。そして、たとえ美佳から見えていないとしても、眉をひそめて頬を下げること。
「これからは、もっと構うようにするから」
嘘だ。たぶんあと一、二ヶ月もしたら美佳の連絡先は消してしまうし、その後、死ぬまで会うことはない。
そして、美佳はそのにおいを嗅ぎつけた。
「……別にさあ」
美佳の声は、涙をこらえるように震えていた。そういうとろこが好きじゃないんだよ、と言ったた、美佳がどう反応するのか、気になった。
良くない癖だ。
わたしはいつも、他人の反応を試すようなことをしてしまう。ぐっと堪えて、言葉を待つ。その間も、美佳の背から少しも離れない。
「言ってくれたら、いつでも別れてあげるよ。孝弘はそうやって遊んできたんだし。でもさ――」
そのとき美佳の背が、ずいぶんと広くなったことに気がついた。肩幅も抱きしめるのに邪魔だと思うくらいには、たくましい。
「――抱かれてるとき、溜め息とか吐かれると、ちょっと傷つく」
美佳はもう泣いていた。あの日、化粧をやめたときから、彼女はアイラインやマスカラが滲むことを恐れなくなった。その証拠に、美佳はゴシゴシと目をこすった。
化粧ができなくなったときの表情は今でも覚えている。きっと、今も同じ顔をしているだろう。
だからわたしは、背に抱きついたのだ。
「ごめん、ちょっと仕事で疲れてて……」
あえて美佳の嫌がりそうなことを言ってみる。反論が飛んでくる直前を狙って、言葉を重ねる。
「――でも、そんなの言い訳だよな。ごめん」
美佳はぐっと喉を詰まらせた。怒鳴り声を飲み込んだのだ。少しずつ、手を美佳の胸へ、腹へ向かって滑らせていく。美佳は少しもいやがらない。
「もう一回しよ? ごめんね」
耳元で、低くささやく。美佳は小さく嬌声をもらした。これがいつもの合意のサインだ。くちびるを首筋に滑らせて、ちろりと舐めてやる。美佳の手がわたしの手に重なる。サイズ違いのブラジャーの下から手を入れて……
そのとき、スマホがけたたましい音を立てた。
美佳はばっとわたしから離れると、電話に出た。
「はい、駒込二等兵」
スマホを肩で押さえ、脱ぎ散らした服を器用に拾いながら、脱衣所へ向かった。
わたしはようやく広くなったベッドに、しかし悠々と寝転がることはできなかった。シーツはふたり分の汗を吸ってにおった。
なにより、まだやることがある。
サイドボードに置かれた煙草を手に取った。軍からの支給品で、美佳のものだった。パッケージは開いていたが、中身は減っていなかった。
きっと次の作戦のときの気晴らし用だろう。
「その……は、――して、……」
美佳はまだ話している。よほどの緊急事態でもあったのか、声音は激しかった。
わたしは自分のスラックスからシガーケースを取り出した。なかには、美佳の吸っている銘柄と同じものが一本だけ入っていた。
これを入れたら、もう美佳とはお別れだ。
わたしはぎゅうぎゅうに詰まった美佳の煙草から、二本、代わりにシガーケースから出した一本を入れた。
美佳の声はまだ響いている。軍人の長電話だなんて、少し笑えた。
盗んだ二本のうち、一本はシガーケースへ。そしてもう一本は咥えて、火をつけた。
軍のものだからか、タールが重く、はじめの二、三口は咽せた。
喫煙は久しぶりだった。もともとそこまで好きではなかったから、喧嘩した二年目の冬、美佳への当てつけのつもりで禁煙してしまった。
でも、久しぶりに吸うとうまかった。
一仕事、終えたあとだったからかもしれない。
バタバタと美佳が戻ってきた。来るときに着ていた仕立てのいいシャツは、適当に丸めていたせいで、皺になっていた。
「孝弘、煙草……」
「ごめん、一本もらった。懐かしくてさ」
咎められるかと思ったが、美佳の顔はどこか嬉しそうだった。そうだった。美佳と出会ったのは大学の喫煙所だった。
あのときはまだふたりとも学生で、この国はまだ戦争をしていなかった。
「美佳、こっちおいで」
「あのね、孝弘。私、行かなくちゃ」
どこに、とかは聞かない。軍人が行かなくてはいけないところは、ひとつしかない。
「うん、だからおいで」
わたしは灰皿に煙草を立てかけて美佳に向かって手を広げた。美佳は力の抜けた顔で笑って、ふらふらと近づいてきた。足の間に招き入れて、今度は正面から抱き合う。美佳の首筋からは己の唾液のにおいがした。
「孝弘……」
泣き出しはしなかったが、美佳の声はふるえていた。
「大丈夫だよ、美佳は強いんだから。きっと上手くいくさ」
「うん……」
美佳の頭を撫でてやる。トリートメントに時間をかけることは減り、指通りはあきらかに悪くなっていた。
「ねえ、昔話でもしようか」
わたしは声を潜めた。美佳は首を振った。
「そう?」
残念だ。きっとこれが最後のチャンスだったのに。
美佳は身体を離すと、キスをねだった。言うとおりにしてやった。くちびるを軽く触れさせるだけ。小学生がするようなキス。
それで終わった。
美佳は残念そうな顔をしたが、自分のスマホを見ると「行かなきゃ」ベッドから立ち上がった。
時間はあと三十分くらいだ。
「美佳、待って」
わたしは腕を掴んだ。美佳は振り向くのさえ拒むように、身体を硬直させた。
「皺になってる」
前に回り込み、襟を直してやった。それから彼女の胸ポケットに煙草とライターを入れてやって、もう一度、小学生のキスをする。
「生きて帰ってね」
わたしはにこりともせず言った。
美佳は小さく頷いた。涙をこらえるように頬を強張らせていた。
「孝弘、またね」
いつもさようならと言わないのが美佳だった。アニメか漫画の影響だと聞いた。わたしは彼女のそんなところも嫌っていた。
いよいよ解放されるのだ。
わたしはホテルを出て行く美佳を見送ってから、灰皿でくすぶっていた煙草をもみ消して、スマホをひらいた。
〉終わったよ
〉任務あるみたい。どっちにせよ死ぬと思う
美佳はヘビースモーカーだ。戦場ではいつも吸っているらしい。そして薬の効果が出ようと出まいと、美佳は死ぬだろう。
〉おつかれ
〉最後の一人だね
姉の返信はいつになく早かった。きっと待ち遠しかったのだろう。姉にはそういう分かりやすいところがある。
〉五年だっけ、あいつと付き合ってたの
〉そうだね。他のやつ殺すのも平行してたから、短かったけど
〉おつかれ
〉うん、もう帰るよ
わたしは返信をせず、ベッドから起き上がった。美佳から半ば強制的に、泊まらされたから、帰ったら姉にご飯をあげなくては。それから、着替えと、おむつの替えも。
「……こっちの方が面倒だな」
口を突いて出た。復讐に五年。その尻拭いは延々とわたし一人がやる。
殺す方法は姉がいつも考えていた。
でも――
たまに思う。
朱に交われば赤くなるように、憎む相手でも一緒にいれば情が移るように、もしかしたら、殺人計画をわたしも立てられるのではないか?
姉が死んだあとの世界を想像する。わたしはもうご飯が遅いと怒鳴られることはない、夜中に漏らしたという理由で叩き起こされることはない、移動を制限されることはない。
そして、もう復讐は終わったのだ
それは自由ではないのか。ずっと待ち望んできたことだ。
「できるさ、きっと」
自分に言い聞かせる。そうだ。きっとできる。美佳もよく言っていた。『望んでできないことは何もない』と。
だったら、やらなくては。
殺さなくては。
*
駒込美佳二等兵の訃報がとどいたのは、それから二週間後のことだった。
どうやら前線との交渉中に、突然苦しみだしてそのまま死んだらしい。遺体から薬物反応が出たため、軍内部で犯人捜しをしているそうだ。
捜査は難航しているとのことだった。
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