第10話 継承

 多くの代償と引き換えに得た勝利だった。

 兄上とフレジアさんが倒れ、その後トドメを刺したユリアも倒れ、戦いは終わったというのに、頭が真っ白になった。魔力不足で倒れた兄上に回復用の魔鉱石を使い、ユリアとフレジアさんには魔法をかけ続け————延命措置をするので精一杯でその場から動くことも出来ず、少しずつ三人の命の灯火が弱くなっていくのを肌で感じながら、必死に次の手を考えて。

 勝てたのに、このまま皆を失ってしまうのかもしれないと、恐怖した時————ようやく、助けが来た。

 結界が張られる直前に、兄上は緊急信号を王宮に送っていたらしい。ロゼヴィアさんに肩を抱かれて、もう大丈夫だと言葉を掛けられ、安堵した瞬間に、俺も意識が一時途切れた。

 目を覚ますと、そこは王宮の医務室のベッドだった。個室だったので他の三人の姿は見えず、すぐに飛び起きて部屋を出て、ロゼヴィアさんと出会した。

 皆無事だから、と宥められつつベッドに戻され、詳しい容態について説明してもらった。

 ユリアは、毒による機能低下と、全身に切り傷と打撲、そして肋骨の骨折。一番大きな怪我は、腹部の傷だった。解毒は済んでいるため、今目を覚ましていないのは身体の酷使による過労が原因で、体力が回復すれば目覚めるだろうとのことだった。

 兄上も外傷は切り傷のみで、深刻なのはやはり魔力不足だった。ほぼ全ての魔力を使っていたため意識不明に陥り、一時は命すら危うい状態になったが、無事回復の軌道に乗ったという。目覚めるまでまだ少し時間はかかりそうだが、こちらも心配はないと言われた。

 一番重症だったのはフレジアさんだった。右腕と左目の怪我による出血多量、内臓の損傷、ユリアと同じく毒の影響もあり、死の一歩手前までいっていたが、兄上の祝福が発動したおかげで一命を取り留めた。全快には数ヶ月以上かかることが想定される上、おそらくいくつか後遺症が残るだろうとのことだった。

 俺はというと、外傷は数箇所の切り傷のみで、当然魔力消費による体調不良などもない。数針縫った足の傷さえ癒えれば問題ないため、一、二週間程度で自室に帰れるだろうと言われた。

 ゆっくり休んで、と残して、ロゼヴィアさんは部屋を出て行く。ドアがパタンと閉まってから、ベッドに倒れ込んだ。

「は……」

 見慣れない白い天井を見つめながら、あの地獄のような戦いを思い出す。

 本当に、もうダメかと何度も思った。

 終わったことなのに、背筋がすうっと冷たくなるような恐怖がぶり返す。寝付ける気がしなくて、結局すぐに身体を起こした。

 松葉杖が用意されていたけれど、痛みもなく、歩くのに特に問題はなさそうだったのでそのまま部屋を出る。

 ユリアは隣の部屋に居るようだった。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けて。

「…っ」

 点滴に繋がれて真っ白なベッドに横たわるその姿を見た瞬間、胸が詰まった。

 思わず駆け寄ると僅かに怪我をした足が痛んで、けれど構わずにベッド横まで行って。

「は…」

 額にガーゼが当てられている。綺麗な寝顔だ。あまりに静かで少し不安になったけれど、僅かに上下する胸元に、確かにユリアが生きていることを実感する。

「ユリア…」

 本当に、生きてて、よかった。

 そっとその頬に触れる。温かい。生きてる。ちゃんと、生きてここに居る。

 ————『ランゼル。名前、呼んで』

 ユリアのものとは思えないほどに弱々しいその声が届いた瞬間、いろんなことが頭を巡った。

 あの時点で、フレジアさんが大きな怪我をしているのは明らかだった。ユリアももう限界なのだと、これは助けを求める声なのだと、そう思った。

 けれどユリアの求める助けとは、戦いから逃げるためのものではなく、限界でも立ち向かうためのもので。俺が鼓舞すれば、ユリアはきっと戦い続ける。それが、ユリアの望みだと、ユリアが俺に求めているものなのだと、分かっていたけれど————それはつまり、ユリアに命を削らせることに他ならない。

 俺が、その背中を押していいのか。

 もしこれで、ユリアが命を落とすようなことがあったら。そう思うと、恐ろしくて、堪らなくて。

 でも、あと少しで兄上の命懸けの魔法が完成する。フレジアさんだって、きっととっくに限界を超えて戦っている。

 そしてユリアも、生きて帰るために、俺の力を望んでいる。

 恐怖を押し殺して、言葉を伝えた。ユリアなら出来ると。信じていると。それから、震える手を握り締め、再び顔を上げたユリアに魔法をかけた。

 ユリアは、任された責務を全うした。でも、それを誇らしいと思うよりも、もしかしたらユリアを失っていたかもしれないという恐怖の方が今は大きくて。

「…ダメだな、俺」

 ごめん、ユリア。

 ユリアが頑張ったこと、ちゃんと喜べるようにするから。頑張ったねって、褒められるようにするから。

 だから、早く目を覚ましてね。今度は俺の名前を呼んで、安心させて。



 そろそろ目覚めるだろうと言われたのは、それから三日後のことだった。

「今日、すごくいい天気だよ」

 眠るユリアに話しかけて、病室の窓を開ける。そよ風がカーテンを揺らした。

 ベッド横の椅子に座って、その穏やかな寝顔を見つめる。

 手を伸ばし、前髪をそっと撫でた。早く目を開けてくれないだろうかと願いながら、柔らかな金糸を指先で梳いて。

 髪と同じ金色のまつ毛が、震えた。

 ゆっくりと瞼が開く。

「…!」

 薄く開いた瞼の隙間から、美しい紫色が覗いた。

 眩しげに眉を寄せて、少しずつ、目が開かれて————その瞳が、俺を捉えた。

「…おはよう、ユリア」

 驚かせないよう、小さな声で言って微笑んだ。

 ユリアはしばらくぼうっと俺を見上げていたけれど、次第に瞳に光が灯る。そして、その表情が強張ったのを見て、すぐに安心させるために二人の話をした。

「フレジアさんも、兄上も無事だよ。まだ目は覚ましてないけど、容態は安定してるって」

 ほっとしたように、ユリアは深く息を吐いた。

 それから、小さく口を開く。

「ラン、ゼル」

 掠れた声に、ユリアは顔を顰めた。水を飲ませてやりたいが、身体を起こさせていいのか分からない。目覚めたことを伝えるためにも、一旦医者を呼ぼうと立ち上がった時だった。

「あ…」

 小さな、本当に小さな声が、ユリアの喉から溢れた。

 何の意味も持たないその声に込められた想いが、不思議と手に取るように分かって。

「…大丈夫。どこにも行かないよ」

 笑いかけて、頭を撫でる。

 ユリアは少し驚いたように目を丸くした。それから、気まずそうに視線を逸らして小さく頷く。

 ああ、ユリアだな。

 泣きたくなるほどに愛おしい。叶うなら、抱き締めてその温もりを、命を、感じたい。

「頑張ったね、ユリア」

 ぴくりと、ユリアは小さく身体を震わせた。

 そして、再びこちらを向いて、痛々しく枯れた声で言葉を溢す。

「僕、だけじゃない…」

「うん。でも、ユリアは頑張ったよ」

 誰が欠けても勝てなかった。けれど、ユリアの功績は確かなものだ。

「みんな、ちゃんと帰って来られた。ユリアが、終わらせてくれたから」

 繋いだバトンを落とさなかった。フレジアさんが、兄上が、命懸けで作ってくれたチャンスを、無駄にしなかった。

「ありがとう、ユリア」

 心からの敬意と、感謝を伝えたい。

「戦ってくれて、皆を守ってくれて、ありがとう」

 俺の言葉に、ユリアは目を見開く。その瞳が、きらりと光を反射して————瞬きと同時に、透明な涙が溢れ落ちた。

 指先でそれを拭う。微笑みかければ、ようやくユリアもふわりと笑った。


     * * *


 俺もユリアも、経過は順調だった。

 それはもちろん喜ばしいことではあるのだが、元気になるほど病室での生活は退屈になっていった。

 最初はロゼヴィアさんが定期的にお見舞いに来て、話し相手になってくれたけれど、回復してからは頻度が減り、俺はユリアの病室に入り浸るようになった。ユリアの方には、ネモとガーバラさんも来ていたから、三人とか四人とかで話すこともあって、二人のことも少しだけ知ることが出来た。ネモは印象通りで、フランクで話しやすく、ユリアもだいぶ心を許していることが伺えた。ガーバラさんも、知っていた通り口数は少なかったけれど、ユリアとの距離感は思っていたより近くて、ぽつぽつと話をする静かな二人の心地よい空気感に、俺は勝手に癒されていた。

 一度だけ、リーフィラもお見舞いに来た。花と果物を渡され、お大事に、と言ってすぐに出て行ったから何の話もしていないけれど、少しだけ、ほんの少しだけ印象が回復した。

 そんなこんなで一週間が経ち、俺は行動の制限がなくなった。公務への復帰はまだだが、とりあえず病室から出ることを許されたので自室に戻った。

 そして、なぜかユリアにも同日に同じ許可が降りた。怪我の完治にはまだかかりそうだが、体調は安定しているし、日常生活は問題なく送れるだろうとのことだったけれど、あんな状態から目覚めて一週間で病室を出て大丈夫なのか不安で、何度も医師に確認してしまった。面倒くさそうな顔をしたユリアに止められて、結局二人で部屋に帰ったのだけれど、ユリアの体調が心配でうるさくしすぎて何度か言い合いになった。

 兄上が目を覚したのは、それから数日後のことだった。

 報告を受け、すぐに二人で病室へ行き、話をした。兄上は元気そうで、俺とユリアのことを、とても丁寧に、たくさん褒めてくれた。その言葉にちょっと泣きそうになってしまったのだけれど、どうやらユリアも同じだったようで、二人して同じ顔をしていると兄上にくすくす笑われてしまった。容態としては、怪我もかなり回復しているので、魔力の方がもう少し落ち着けば、すぐに病室を出られるだろうとのことだった。

 しかし、それからさらに一週間が経っても、フレジアさんは目を覚まさなかった。

 経過は悪くないとのことだったけれど、いつ目覚めるかは分からないと言われてしまった。

 安静にするように言われている俺とユリアは公務もないため、二人で何をするでもなく部屋で過ごしたり、散歩に出たりしていたのだけれど、ふとした瞬間にフレジアさんのことが頭を過ぎり、不安に心が曇った。

 夜になるとそれがさらに強くなって、ユリアは寝つきが悪くなっていた。俺の眠りを妨げるわけにはいかないからと自室で寝ようとするユリアを止め、その身体を抱き締めてベッドに潜り込んだ。大丈夫、と繰り返しながら、その額に、頬に、唇に、触れるだけのキスをした。そうしていると、やがて安心したように眠るので、それを見届けてから俺も目を閉じた。そんな夜を、いくつも重ねた。

 兄上のことも心配だった。その心境を思うと胸が痛い。兄上は、目覚めないフレジアさんの病室に毎日通っていた。ベッド横の椅子に座り、ただ静かにフレジアさんを見つめる兄上の姿に、息苦しくなるほどの切なさを覚えた。

 そんなふうに、皆が不安と翳りを抱えて過ごし、あの戦いの日から一ヶ月が経った頃だった。

「ランゼル殿下! ユリア様!」

 呼び声に、ユリアとともに振り返る。使用人がパタパタと足音を立てて小走りでやってきて、それを口にした。

「フレジア様が、お目覚めになりました…!」

「えっ!!」

 二人で顔を見合わせる。

 使用人に礼を言って、すぐに病室へ向かった。

 よかった。安堵と喜びで、胸がいっぱいになる。早く、フレジアさんの顔が見たいと、医務室の扉をくぐって、その部屋まで行って————。

「…あ…」

 そこには、先客が居た。

 そらそうだ。誰よりも側で、ずっとこの時を待っていたのだから。

「…また、後で来ようか」

「うん」

 二人の空気はとても穏やかで、優しかった。

 フレジアさんを見つめる兄上の愛おしげな笑顔を一瞥して、ユリアとともにその場を去る。

 やっと、本当の意味で戦いが終わったような気がした。回復にはまだしばらくかかるだろうが、もう、大丈夫だ。

「…よかった」

 ぽつりとユリアが溢す。

 そのたった一言に、どれだけの安堵が込められているか、痛いほどに伝わってきて。

「うん。本当によかった」

 胸に広がる深い安堵。ユリアと目を合わせて、安心を共有するように笑い合った。



 それからさらに数週間経つと、俺の足の怪我はほぼ全快し、ユリアとともに書類仕事だけ行うようになった。ユリアの方は、まだ肋骨も腹部の傷も完全に治ったわけではないので、安静にしながら生活するように言われてはいたが、本人曰く、もう違和感はほとんどないらしい。

 まだ病室からは出られないようだったけれど、フレジアさんの容態も安定していてすっかり元気になったので、ユリアと三人でよくお茶をしながら話をした。

 少しずつ、全てが良い方向に向かっている…はずだったのだが。

「フレジア先輩が、最近元気ない」

「え?」

 寝支度を済ませ、そろそろ寝ようというところで、急にユリアがそんなことを言い出した。

「ランゼル、一人で行って話聞いてきて」

「えっ、俺?!」

 うん、と頷くユリア。

 急にどうしてと困惑する俺に構わず、ユリアは話し続ける。

「絶対何か悩んでるのに、僕が聞いても、そんなことないって言われるんだ」

「ユリアでダメなら俺なんてもっとダメじゃない…?」

 しかし、ユリアはがんとして首を横に振った。

「ランゼルになら、話せることかもしれないだろ」

 珍しく、押しが強い。もしかしたら、ユリアはフレジアさんの曇りの正体が何となく分かっていて、俺を行かせようとしているのかもしれない。

 力になれるのなら嬉しいし、協力はしよう。少なくとも、俺は元気がなさそうと感じたことはないし、本当に聞き出せるかは分からないけれど、断る理由は無いので、ユリアからのお願いを了承した。

 そして翌日、早速一人でフレジアさんの病室を訪れた。

「失礼しまーす」

 ドアを開けると、いつも通りフレジアさんは上体を起こして本を読んでいた。

 顔を上げ、本をサイドデスクに置き、俺を見て首を傾げる。

「ランゼル様お一人ですか?」

「時間があったんで…はは」

 お邪魔じゃないですか、と尋ねると、フレジアさんは笑顔で肩をすくめた。

「することがなくて、毎日とても暇しています。身体の痛みももうほとんどないので、そろそろ病室を出られるといいのですけれど」

 フレジアさんの回復スピードは凄まじく、医者も驚くほどだった。もうあと数日で行動の制限もなくなるらしい。

「兄上は相変わらず入り浸ってるんじゃないですか?」

 軽い気持ちで吐いた言葉だった。

 不自然な間が空く。

「…いえ、カゼル様も、最近はお忙しそうなので」

 明らかに曇った表情に、どうやら元気がない理由をついてしまったらしいと察する。

 原因は、兄上か。考えてみればそれしかないけれど。しかし、最近あまり来ていないというのはなぜだろう。公務もまだ再開していないし、忙しい理由など何も無いように思える。

「えっと…兄上、最近何かしてるんですか?」

 ここは俺が情報を持っているべきところなのではと思いながら尋ねる。

 しかし、フレジアさんはすらすらと答えを口にした。

「直接伺っているわけではないですが、この先のことをお考えになられているのかなと思っています」

「この先のこと…?」

 はい、と静かに頷くと、フレジアさんは左手で負傷した箇所をそっと撫でた。

「…わたしは、右手に麻痺が残るそうです。左目も、失明してしまいました」

 包帯に、眼帯。どちらも、後遺症として今後ずっと残る傷だ。そうなるだろうことは、話には、聞いていた。

 でも、こうして本人から聞くと、やるせなさに胸が苦しくなる。

 あの戦いで、フレジアさんだけが身体障害を患った。それはなぜか————考えられる理由の一つは、俺の魔法が至らなかったことだ。

 俺がもし、フレジアさんにもユリアと同じだけの守護を与えることが出来ていたら、きっとこんなことにはならなかった。

「っ…」

 拳を握る。不甲斐なさを噛み締めていると、優しく声をかけられた。

「ランゼル様のせいではありませんよ。これは、わたしの力不足が原因です」

「そんな、こと…俺がもっと魔法の扱いに長けていたら…」

 何を言っても、フレジアさんは俺のせいだとは絶対に言わないだろう。

 慰めてほしいわけじゃない。俺は俺の反省として、至らなかった事実を受け止め、この先に繋げなければならない。

「…すみませんでした。精進します」

 はい、とフレジアさんはただ頷いた。きっとフレジアさん自身も数えきれないほどの後悔があるのだろう。俺も、あの日の判断の一つ一つに後悔が付き纏う。もっと上手く皆を守る方法があったんじゃないかって、考え始めるとそんな反省点は無限に出てくる。これは、あの場に居た全員が同じだろう。フレジアさんだけではなく、ユリアも、兄上も————。

 はたと思い出す。そうだ、兄上の話だ。

「それで、兄上が考えてるこの先のことって…」

 話を戻す。和らいでいた表情が強張った。

 フレジアさんは、妙に淡々とした口調でそれを口にした。

「わたしはもう、花騎士として前線に立って戦うことは出来ません。だから————」

 一つ、息を吐いて。

「————カゼル様の願いを叶えるには、新しい花騎士が必要になります」

 兄上の願い。それは、王になること。

 確かに、前線で戦えないフレジアさんが花騎士のままでは、王座を獲れる可能性は低い。しかし、だからと言って、兄上がフレジアさんを花騎士の座から下ろして別の花騎士を選ぶなんてことはあり得ない気がした。

 ルール上は、複数の花騎士を抱えても問題はなかったはずだから、もしかしたら、フレジアさんを花騎士にしたまま、戦える花騎士をもう一人選ぶとか————いや、しかしそんなことをしたら、戦えないフレジアさんは肩身の狭い思いをするだろう。フレジアさんをそんなふうに思い悩ませることを兄上がするとは思えないし————ダメだ、兄上の考えが分からない。

「わたしも…この先どうするか、身の振り方を考えなくてはなりませんね」

 フレジアさんはぽつりと呟く。

 その全部諦めたような言い方に、胸が締め付けられて、思っていることを、そのまま口に出してしまった。

「どうするにしても————兄上は、あなたを絶対に手放さないと思います」

「…!」

 フレジアさんの目が丸くなる。

 なぜ驚くのか。俺からしたら、こんなのは当たり前すぎる事実だった。この人は、兄上がどれだけの感情を自分に向けているか、気付いていないのだろうか。

 フレジアさんはしばし沈黙して、それから落ち着いた声で言った。

「…確かに、わたしを路頭に迷わせるようなことはされないでしょうね。慈悲深い方ですから」

「え…」

 そういう意味じゃない。

 もしや、本当に分かっていないのか?

「このまま側には置いてくださるかもしれない。護衛くらいなら務まりますし、下働きとしてもお役には立てるでしょう」

 思わず、絶句してしまった。

 伝わっていない。兄上がフレジアさんに向ける感情の一片も。

 兄上とフレジアさんの間では、こういう話は全くしていないのだろうか。あれだけ長い時間を共に過ごしていてそれは考えにくいけれど、そうとしか思えないほどに、俺から見た兄上とはフレジアさんの認識がずれている。

「…俺も、兄上と話したわけじゃないので…これは、俺の意見でしかないんですけど…」

 気付いて欲しい。どれだけ、兄上がフレジアさんを愛しているか。

「兄上は、花騎士としてではなく、ひとりの人間として、フレジアさんのことを特別大切に思っていると思います」

 フレジアさんは、一瞬虚をつかれたような顔をした後に、ふわりと笑った。

「…はい、それはもちろん、分かっていますよ」

 胸に手を当て、そっと言葉を紡ぐ。窓の外から入って来た風が、ミルクティー色の長い髪をさらり揺らした。

「とても大切にしていただいています。勿体無いくらいに」

 勿体無い、という表現に、また少しだけ違和感を抱いたけれど、特別思われていることはさすがに分かっているようでほっとする。

 兄上が言葉足らずなのかもしれない。あまり直接的な言い方をしない人だから。

 フレジアさんは、でも、と言葉を続けた。その表情から、笑みが消える。

「だからこそ…あの方のお役に立てない身体で、そのご慈悲に縋ってお側に居続けるのは…苦しい」

 か細く吐き出されたそれは、きっとフレジアさんの本音だ。その心を蝕んでいるものが、ようやく見えた気がした。

 側に置いてもらえたとしても役に立てない。同情で居場所を与えられるのは苦しい。

 気持ちは痛いほどに分かる。フレジアさんが兄上に向けている敬愛と忠誠を思うと、力になれない状態で兄上の側に居る方が辛いのだろう。

 でも————兄上からしたら、きっと、フレジアさんが側に居ること自体に大きな意味がある。

 今までのように戦えなくとも、夢を一緒に追えなくても、ただ側で同じ時間を過ごしてくれるだけでいいと、兄上ならば思うんじゃないだろうか。

 でも、それは俺が言うべきことじゃない。兄上の口から、ちゃんとフレジアさんに伝えるべきだ。

 考え込んでいると、不意に、すみません、とフレジアさんは困ったように笑った。

「お恥ずかしいことをお聞かせしてしまいました。怪我のせいで、少しナイーブになっているのかもしれません」

「…元の生活に戻れないほどの怪我なんですから、気も参って当然です」

 ありがとうございます、とフレジアさんは丁寧に礼を述べた。そして、どこか吹っ切れたような顔で笑う。

「色々と申し上げましたが…何にせよ、わたしはカゼル様のご意思に従うのみ。なので、カゼル様からのお言葉を待ちます」

 兄上は、これからどうするつもりなのか————それは、俺にとっても気がかりなことだった。

 どういう結論であれ、フレジアさんが恐れているようなことには絶対にならない。早く、フレジアさんを安心させてあげてほしいと思いながら、俺は何も言えずにただ息を吐いた。


     * * *


 兄上から呼び出されたのは、その翌日だった。

 ユリアを置いて一人で部屋に来るよう言った時の兄上は、いつになく真剣な顔をしていて————何か重要な話をされるだろうことは、明らかで、少し緊張しながら兄上の元へ向かった。

「来てくれてありがとう、ランゼル」

 出迎えてくれた兄上はいつも通り穏やかではあったけれど、そこはかとなく威圧感のようなものがあって背筋が伸びる。

 失礼します、と部屋に足を踏み入れると、背後でドアが閉まって。

「————!」

 兄上の魔法陣が部屋に広がった。驚いて振り返れば、兄上は涼しい顔で魔法を使っていて、俺と目が合うとにこりと笑った。

 魔法陣が消える。部屋が、何かに包まれていた。

「なんですか、これ…」

「この間私たちを閉じ込めたものと、同じ魔法だよ」

 この間と同じ————結界のことを言っているのだろうか。

 あれは人を襲う時の手段として悪魔が使うものだという認識だったのだけれど、そうではなかったらしい。

「魔法で結界なんて張れるんですね」

「…」

 兄上は何も言わず、ただ小さく微笑んだ。

 ソファに座るよう促され、兄上はその向かい側に腰掛ける。

「さて…これで、外からの干渉はなくなった。私たちの声も、外には漏れない」

 確かに結界の性質を考えると、内密な話をするのには便利ではあるが、ここまで徹底されるとやはり緊張してしまう。

「では、さっそく始めようか。————ランゼル」

 はい、と返事をする。

 兄上は俺をじっと見つめて、問いを投げた。

「この国の王とは、何だと思う?」

「え?」

 全く予想していなかった角度からの質問に、思考が止まってしまう。

 この国の王とは、何か。兄上は何も言わず、俺の答えを待っている。

「え、っと…国民を守り、国を繁栄へ導く存在で…」

「では、王はどうやって国民を守っていると思う?」

「どうやって、って…」

 何を聞かれているかは分かる。

 でも、どんな答えを求められているのかが分からない。

 王は、その力で国民を守っている。そこに、どうやってなんてものは、ないはずで。

「ランゼル」

 兄上は静かな声で俺の名前を読んだ。

 目が合う。何かを見透かそうとするような、深い色をした美しい瞳。

 薄く開いた唇から、その言葉が囁かれた。

「————目を覚まして」

 パチン、と。

 頭の中で、何かが弾けるような音がした気がした。

「え…あれ」

 何の話だっけ。

 そうだ。王だ。

 王が、何をしているのかって話で————。

「…え」

 おかしい。

 王って、なんだ?

 認識が、ぐにゃりと歪むような感覚。

「もう一度聞こう。————ランゼル、王とは、何だと思う?」

 そこには、明らかな異常がむき出しで転がっていた。

 花騎士だけを側に置き、家族にすらまともに顔を合わせない。国民の前に姿を現すのも、数年に一度だけ。魔法の使い手として最も優れた者が王になるのに、王は悪魔を狩ることもなければ、魔法を使っているところすらも見たことがない。

 一体、王は部屋に籠って何をしている?

 何より————こんなにおかしなところだらけなのに、今まで何も疑問に思わなかった自分が、恐ろしかった。

「…私たちは皆、王に目を眩まされている」

 兄上は静かに語り出した。

「この異様な王という存在に、違和感を抱かないように。そういうものだと受け入れるように、呪いをかけられている」

「な…」

 衝撃に、言葉を失った。

 しかし、自分の思考が曇っていたことは認めざるを得ない。王の実態も知らないのに、王座争いに参加するなんていうのも、今思うとあまりにおかしな話だ。

「どうして、王はそんなこと…」

「そこまでは、私にも分からない。ただ、この国の王には、何か歪んだ真実が隠されているのだろうと思っている」

 俺の中でも、すでに王は不気味な存在へと変わっていた。あまりにも得体が知れない。

「兄上が王座を狙っているのは、これが理由なんですか…?」

 ずっと話してくれなかった訳も、それならば分かると思ったのだが。

「そうと言えば、そうだね…でも、もう少し本意は別のところにあるんだ。今日は、その話をしようと思って」

 兄上は一つ息を吐いて、話を始めた。

「六年ほど前、街が一つ悪魔によって壊滅させられてしまったのを覚えているかい」

 忘れるはずがない。およそ三千人の命が奪われた、凄惨な事件。あれも、結界が原因で助けに行くことが叶わなかった例の一つだ。

 追悼の儀にも参加した。まだ十二やそこらだった俺にとって、真っ黒な服を着た人たちが啜り泣きながら列を成していた光景は、とても衝撃的だった。

 覚えています、と頷けば、兄上はあまりにも残酷な真実を口にした。

「あの時————フレジアの家族も、全員殺されてしまったんだ」

「…え」

 フレジアさんが天涯孤独なのは知っていたが、まさかそんな最近の話だとは知らなかった。

 兄上はその時のことを、淡々と語った。

 遺体の処理が終わるまでは立ち入り禁止とされていたその街に忍び込んでみると、追悼の儀の時に感じた王の魔力と同じものがあたりに充満していたと言う。

 何の魔法が使われたのか、痕跡を確認して————そこで、恐るべき真実を知ってしまった。

 その結界が、王の魔法により作られたものであるという真実を。

「…それに気付いた瞬間、私にかけられていた呪いが解けた」

 自分の認識が歪められていることに気付き、いよいよ王への不信感が確かなものになった。

 国民全体にかけているようなものだから、この呪いは決して強いものではないらしい。俺にやったように、解こうと思えば簡単に解けるものではあるのだが————王の実態が分からない以上、不用意なことをするのは避けた方がいいという判断で、今まで誰にもこの事実を伝えていなかったと言う。

 真実を暴こうと、一人でこの国の王について調べた。その中で、一番怪しいのは研究院だった。魔法や悪魔について研究をしていると公表しているのに、一切その内容が公開されていないのも不自然で、ここにも何か秘密が隠されていると兄上は踏んでいるようだった。

 また、一番王に近い知人であるロゼヴィアさんにも尋ねたが、実の父親のはずなのに、その姿を見た回数は他の皆と変わず、特に知っていることもなかったため、認知の歪みは家族であろうが例外なく国に住まう人間全員に適応されてしまっていることを知った。

「全てを明らかにしたら、ランゼルにも話をしようと思っていたんだ。遅くなって、すまなかったね」

「いえ…それは…」

 あまりに情報が多くて、正直まだ飲み込めていない。けれど、一つだけ、恐ろしいことに気付いてしまって。

「じゃあ…もしかして、この間の結界も…王が…?」

「…」

 兄上は、ただ一つ頷いた。

 その瞬間、怒りに視界がぐらりと揺らいだ。

 俺たちをあんな目に遭わせたのも、王だったというのか。もしかしたら、誰かが死んでいたかもしれないのに。

「おそらく、狙いは私だったのだと思う。色々と調べていることに、勘づかれてしまったのだろう」

 巻き込んでしまってすまなかった————そう謝罪を口にした兄上に、強く首を振る。

「もしそうだったとして、兄上が謝ることなんてありません。悪いのは…悪いのは、全部」

 声が震えて、言葉が途切れた。

 どうしてこんなことをするんだ。国民を皆殺しにすることが目的なのか?

 何が王だ。今すぐにでも、その部屋に行って引き摺り出したい。けれど、そんなことで解決するのなら、兄上がとっくにそうしているはずだ。

 怒りに拳を握る。

 不意に、兄上は静かな声で言った。

「…私は、フレジアの大切な人を奪った現王のことを絶対に許さない」

 あまりにも平坦で、温度のない声だった。聞いているだけで背筋が凍りつくようなその声色に、思わず生唾を飲む。

 兄上は鋭い眼差しを窓の外に向けて言葉を続けた。

「いつか王座につき、その実態を暴いて全ての悪行を白日の下に晒すとともに、相応の罰を受けさせようと思っていた」

 ああ、そういうことか。

 兄上があんなにも王座に固執していたのは、フレジアさんのためだったのか。

 家族を失ったフレジアさんが、どんな思いをしたのか————想像するだけで苦しくなる。騎士学校に居る自分だけが生き残り、親戚含め家族が全員一夜にして居なくなって。その絶望は、計り知れない。

 きっと、その時のフレジアさんの姿も兄上は見ているはずだ。どれだけやるせなかっただろう。

「…けれど、私はその願いを叶えることは出来なくなってしまった」

 囁くように言うと、兄上は俺の方へ向き直った。

「知っての通り、もうフレジアは戦えない。そしてそんなフレジアを花騎士にしている以上、王座を手にすることはほぼ不可能だろう」

 それは、フレジアさんも言っていたことだ。

 兄上はどうするつもりなのだろうと思いながら、続く言葉を待って。

「だから————私は、王座争いから降りる」

「…!」

 そうするのかもしれないとは、思っていた。

 フレジアさんを一番傷つけない道はそれだろうから。いち王族として生きるのであれば、今の状態のフレジアさんを花騎士としていても何の問題もない。前線で戦えないというだけで、その剣の腕は騎士団員たちに比べれば随一だろうから。

「その上で、ランゼルに頼みがあるんだ」

 その言葉の時点で、何を言われるのか半ば予想はついたけれど、それでも衝撃は隠せなかった。

「この願いを、託させてはくれないだろうか」

「っ…」

 俺に、託す。それは、つまり。

「王となり、この国を正して欲しい」

 兄上の視線が、俺を貫く。

 王になる————そんなのは、考えたこともなかった未来だった。

 でも、こんなことを知ってのうのうと生きてなんか居られない。俺が王になることで、救える命が、報われる感情があるのなら、生涯を捧げるだけの価値は十分すぎるほどにある。

「分かりました」

 きっと、ユリアがこの手を握ってくれる。

 そう思えば、怖いことはなかった。

「俺が、王になります」

 自分の言葉だとは思えない。

 まさか、こんなことを言う日が来るとは。何だか非現実的で、他人事みたいに思えてしまう。

 兄上は、ありがとう、と言って笑った。その表情は、安心と心配を混ぜたようなもので。もっと精進して、いつかこの笑顔から心配を取り除きたいと、そう強く思った。

「こんなことを押し付けてしまって、本当にすまない。でも、どうしても…フレジアをひとりには出来なかった」

「分かってます。俺ももし兄上の立場なら、ユリアを選んでいたと思うので」

 この前フレジアさんと話した時は、どうするのだろうと思ったけれど————この兄上の選択は、一番納得のいくものだ。

「早く、フレジアさんにもこの話をしてあげてくださいね」

 今この瞬間も、見えない未来のことを思って心を曇らせているだろうフレジアさんを思う。一刻も早く、安心させてあげて欲しかった。

「…もしかして、フレジアと話をしたのかい?」

 頷いて、フレジアさんが今後のことを不安に思っていたということを伝えた。ついでに、兄上の思いがいまいち理解出来ていなさそうだったことについても。

「俺が話しても、あんまり上手く伝わらなかったというか…ちょっとズレた感じでしか分かってもらえなくて」

 すると、兄上は小首を傾げた。

「おや、ランゼルからも伝えてくれたのかい?」

 何を、と問う前に、兄上はにこりと笑ってそれを口にした。

「私がフレジアのことを愛していると」

「…!」

 あまりにもストレートな言葉に、固まってしまった。

 いや、分かってはいたけれど。ここまで明白なのに、なんでフレジアさんはあんな感じなんだ。

「それ、ちゃんとフレジアさんに伝えてるんですか…? 全っ然通じてなさそうなんですけど…」

「もちろん、幾度となく伝えているよ。でも、全く分かってくれなくてね」

 ランゼルから言ってもらっても駄目か、と兄上は溜め息を吐いた。

「まぁ、気長に伝え続けるしかないね」

 肩をすくめる兄上。もっと焦るとかないんだろうか、と思いながら苦笑していると、兄上は薄く笑って言った。

「私の気持ちをどう受け取ろうが————フレジアは、一生私の側を離れることはないからね」

「…」

 こういう時、兄上には一生敵わないのだろうなと思ってしまう。

 この執着を見せたら、さすがのフレジアさんも理解出来るんじゃないだろうか。顔が引き攣るのを感じながら、そんなことを思った。

「…さて、話はこれくらいかな」

 今の話は誰にも言わないよう念を押される。いつかはユリアにも話せる時が来るだろうが、今はまだ黙っていて欲しいとも。

 この話をせずに王になりたいという意思を伝えるのはどうなのだろうとは思ったが、致し方がない。これはユリアの身を守るためでもあるから、兄上の言うことに頷いた。

「ああそうだ————この後、ロゼヴィアのところへ行ってもらってもいいかい?」

 言いながら、兄上は軽く手を振って魔法を解いた。結界が消え、外の世界の空気が入ってくる。

「え? ロゼヴィアさん?」

 そう、と頷く。

「彼からランゼルへ話があるそうだから」

 一体何の話が。全く検討がつかないけれど、とりあえず了承した。

 部屋を出る時に、もう一度「ありがとう」と兄上は感謝を口にした。

 この結論を出すのにも、きっとたくさんの葛藤があっただろう。兄上が弟の俺のことをどれだけ大切に思ってくれているかは、誰よりも分かっているつもりだ。この残酷な現実とむき合わせること、厳しい未来に進ませること————きっとたくさん迷って、それでも。

「頼っていただけたこと、誇りに思います」

 他の誰でもなく、その願いを俺に託してくれたことは、嬉しかった。

 兄上は目を細めると、ぽんと俺の頭を撫でた。懐かしい手に、自然と頬が緩んだ。



 兄上に言われた通り、ロゼヴィアさんの部屋へ向かった。

 ノックすると、どうぞ、と返される。ドアを開けると、ロゼヴィアさんはテーブルの向こう側に座っていた。

「いらっしゃい、ランゼル」

 にこりと笑って、俺を優雅に手招く。

「…失礼します」

 穏やかで、優しい人だけれど、やはり底知れない雰囲気を感じるのはなぜなのだろう。兄上とはまた異なる威厳を感じる。

 失礼します、と言って向かい側に座った。すると、ロゼヴィアさんは開口一番に驚くことを口にした。

「カゼルの夢を、ランゼルが引き継ぐのだと聞いてね。話をしておこうと思って」

「え…」

 兄上の、夢。

「王を、目指すんでしょう?」

 一瞬、返事に詰まった。

 この人の前で胸を張って頷くには、まだ俺はあまりにも未熟で。

 でも、それは確かに、俺が人生を賭して叶えると決めた夢だから————意を決して、頷いた。

「…はい」

 そっか、とロゼヴィアさんは優しく笑ってくれた。そして、その柔らかな表情のまま、それを告げた。

「単刀直入に言おう。僕は、王にはなりたくないんだ」

「…!」

 そうか。だから、兄上とロゼヴィアさんは敵対する様子が全くなかったのか。

 王になりたいこと、王になりたくないことは、互いに共有認識として持っていた。だから、王座争いの主軸に居るはずなのに、あれほど穏やかな関係を保つことが出来ていたのにも納得がいく。

「なぜ、王になりたくないんですか…?」

 答えてもらえるかは分からないが、聞いておきたいことではあった。兄上の話では、ロゼヴィアさんも王に対しての認識は歪まされたままのはずだ。それなのに王を目指さないなんて、それなりの理由があるのだろうと思ったのだが。

「僕は————ガーバラを、僕から解放したいんだ」

 ロゼヴィアさんは、静かに言った。

 ガーバラさんを解放————解放というのは、一体どういう意味なのだろう。

「それは、どういう…」

「…そうだね。では、僕とガーバラの話をしようかな。これは、カゼルにも話していることだから」

 ガーバラさんの家は、代々王家に支えてきた由緒正しい血筋らしい。一人息子だったガーバラさんは、生まれたその時から、花騎士の道に進むことが決められていたと言う。

「僕とガーバラが出会ったのは、僕が十で、ガーバラが五つの時。その日から…ガーバラの人生は、ガーバラのものではなくなった」

 ロゼヴィアさんの花騎士になるためだけに、全ての時間を費やしてきた。まだ幼かったガーバラさんは、そのことに反発することも、疑問を抱くこともなく、敷かれたレールの上を歩いて行った。

「あの子にとって、ずっと僕が全てなんだ。だからもう…解放してあげたい」

 言いたいことも、その気持ちも分かる。けれど、そこには一つの視点が抜けているような気がして。

「…ガーバラさんは、それを望んでいるんですか」

 ロゼヴィアさんに向けるその忠誠がどれだけ強固なものかは、ガーバラさんのことを大して知らない俺ですら分かる。確かに、もともとは抗えない力によって決められた道なのかもしれないけれど、あの騎士学校でもその忠誠が揺らぐことはなく、こうして今も花騎士として側に居るのなら、そこにはもう、ガーバラさんの意思があるのではと思えてならなくて。

「望んでは、いないだろうね」

 ロゼヴィアさんは、一つ息を吐き出した。

 そして、視線を横————ガーバラさんの部屋に続いているであろう扉に向け、微笑みを浮かべた。

「…ガーバラはね、花が好きなんだ」

 何の話だろう。ロゼヴィアさんは、物語を語り聞かせるように話を続けた。

「ドライフラワーにしたり、押し花にしたり、樹脂で固めて雑貨を作ったり。そういう、花を使った物作りが趣味なようでね」

 この部屋にあるものも、全部ガーバラからもらったんだ、と手で壁を指し示す。

 確かに、見てみると至る所に花飾りが置いてあった。あの大きな人が作ったと思うと、少しギャップを感じる。

「料理も上手なんだ。手の込んだ繊細な料理を作るのが得意で、僕にもよく作ってくれて…」

 花のように鮮やかな黄色い瞳は、優しい色をしていた。

 ガーバラさんのことをとても大事に思っていることが伝わってくる。その幸せを切に願っていて、それゆえに、別れを選びたいのだろう。

「でも…やりたいことはないかと尋ねても、答えは返ってこない」

 何をしたいか聞いても、ロゼヴィア様のしたいことを、と返される。自由な時間を与えても、不自由ないお金を与えても、必ず自分の意見を仰がれる————ロゼヴィアさんは、そう寂しそうに語った。

「ガーバラには、自分の意思に従うという選択肢が、もう無いんだ」

 幼い頃から、そう躾けられてきたから。全てを主人に捧げろと言われ続けてきたから。

「でも、だからこそ、ガーバラが今の状態をどう思っているかは関係ない」

 ロゼヴィアさんは、はっきりとそう言い切った。

「これは僕のエゴだから」

「…」

 そんなのはエゴだって、言おうと思っていた。ガーバラさんの気持ちを無視したエゴだって。

 でも、そうだと分かって言っているのなら、もう俺から言えることは何も無い。

 きっと、ガーバラさんは別れなんて望んでいなくて、ロゼヴィアさんもそれは分かっていて————それでも、その選択をするというのが、ロゼヴィアさんの答えなのだろう。

「王でなければ、花騎士は居なくても問題はないから、ガーバラを自由にしてやれる。だから、僕は次期王にはなりたくないんだ」

 頷くしか、なかった。

 それが正しい愛かどうかなんて、他人が口を出せることじゃない。この愛を正すことが出来るとするなら、それはその愛を向けられているガーバラさんだけだ。

 ロゼヴィアさんは、憂うように笑う。

「僕は君の敵ではないけれど、君が超えなければいけない相手ではある」

 次期王を決めるのはあくまで王だ。ロゼヴィアさんに、王座を譲る権利はない。

 だから、俺はこの人に実力で勝たなくてはならない。

「僕を超えてね、ランゼル」

 にこりと笑ったロゼヴィアさんは、やはり底知れない圧があって。

「う…がんばります…」

 現状、俺がロゼヴィアさんに敵うところなんて一つもない。魔法も、知識量も、品格も、判断力も————何もかもが及ばない自覚がある。情けないことに。

 応援してるよ、と言ったロゼヴィアさんに、今はまだ力なく笑い返すことしか出来なかった。


     * * *


「はぁ…」

 ようやく自室に戻り、ベッドに倒れ込む。

 今日は、あまりにいろんなことがあった。正直情報過多でまだ整理が出来ていない部分も多い。

「王、か…」

 本当に、微塵も考えたことのなかった未来だった。

 自分がその称号を背負っているところなんて、今は全く想像がつかない。それは、王というものが本来どうあるべきなのか、正解の形が分からないからというのもあるけれど。

 それにしても————現王の目的は、何なのだろう。いや、正確には、現王というより歴代の王だ。この異様な王の風習は、何も現王から始まったことではないはずだから。代々、王とは外界との接触を断ち、その身一つで国を守るものとされていた。今思うと、そんな実態の分からない王となった兄上を、一体俺はどう支えるつもりだったのだろうと呆れてしまう。魔法にかけられていたとは言え、あまりにも現実的な図が見えてなさすぎる。

 この異様な王の実態を知るには、歴史を遡って色々と調べる必要があるだろう。俺が調べられることなんて、すでに兄上が調査済みのような気はするが。

「…は……」

 考えるべきことが多くて、パンクしそうだ。

 目を閉じる。

 視界が暗くなると、純粋な不安が襲ってきた。

 これから、どうなるのだろう。

 この前の戦いが王によって仕組まれたものなのなら、次は俺がターゲットにされる可能性だってある。

 そうなった時————俺は、ユリアを守り切れるのだろうか。

「…ユリア」

 一つ息を吐いて起き上がる。

 ひとまず、ユリアに決意の話をしなければ。

 王になるには、花騎士の助力が必須だ。花騎士となったユリアへの申し訳なさがあって、そもそも王座に興味がないという話すら出来ていなかった。でも、今回の意思決定についてはちゃんと伝えて、同じ未来に向かって進んで欲しいとお願いしなければならないだろう。

 ユリアはもう隣の部屋に居る。

 早いに越したことはない。意を決して、そのドアを叩いた。

「大事な話をしてもいいかな」

 開口一番にそう言った俺を、ユリアはじっと見て、うん、と一つ頷いた。

 息を吸って、吐いて————それを、言葉にする。

「王に、なりたいんだ」

 その瞳が、少しだけ大きくなった。

 けれど、すぐにいつも通りの表情に戻って。

「分かった」

 そう、ただ一言了承を口にした。

「え」

 そんな、あっさり。拍子抜けしてしまって、思わず尋ねてしまう。

「理由、聞かないの」

「聞いたら答えてくれるなら聞くけど」

 即座に返され、言葉に詰まった。

 聞いておいて答えられないというのはどうなんだ。でも、さすがに今ユリアに打ち明けることは出来ない。不誠実だけれど、今は何も言えないのだと、正直に話すしかない。

 悩みながら言葉を探していると、ふっとユリアは息を吐いた。

「…いいよ、理由は」

 そして、揺らぎない瞳を俺に向ける。

「僕は、ランゼルのその意思のために尽くしたいと思った————だから、今は理由はいい」

 いつか話してくれたら嬉しいけど、と言うユリアの表情は柔らかかった。

 そこには、淀みない純粋な信頼だけがあって。胸が、熱くなる。

「ありがとう、ユリア」

 何だか泣きそうで、声が少し震えた。

 絶対にユリアを守る。この先何があっても、必ず。

 その決心を試すようなことが、すぐそこまで迫っているとはこの時は思いもしなかった。


     * * *


「…え」

 それを聞いた瞬間、頭が真っ白になった。

「詳しい出現日は分からないらしい。だから、いつでも立ち向かえるよう、体制を整えておかなければならない」

 花騎士含め、八人全員が集められていた。

 部屋の空気は重い。皆、深刻な顔でロゼヴィアさんの話を聞いている。

 どくどくと不穏に音を鳴らす心臓。ここに来て最初に告げられた言葉が、何度も脳内で再生された。

 ————『半年以内に、上級の悪魔が現れる。この前四人が倒したものと同等か、それ以上のものが』

 あんなのと、また戦わなくてはならないのか。

 あの恐怖が、絶望が、ありありと蘇る。トドメを刺した後、遠くでユリアが倒れた瞬間の、思考が凍りつくような恐怖が。

「中級以下の悪魔の気配も複数検知されていて、かなり厳しい戦いになることが見込まれている。今回は騎士団も共に戦場へ向かうことになるだろう。各々、準備のために役割を振らせてもらったから、順に説明を————」

 上手く頭が回らなくて、話についていくので精一杯だった。

 騎士団の指導や、想定訓練、戦略相談など、適材適所に役割が発表される。一通り説明を終えると、ロゼヴィアさんは一つ息を吐いて————その顔を、曇らせた。

「…さっきも言ったように、半年以内ということしか分かっていない。だから、一ヶ月後かもしれないし、最悪明日かもしれない」

 一番恐れている部分について言及されて固まっていると、ロゼヴィアさんはその二人の名を呼んだ。

「フレジア、ユリア」

 はい、と声が揃った。

「君たち二人の怪我は、タイミングによっては完治していないかもしれない。だから、参加するかどうかは、カゼルとランゼルと相談して決めて欲しい」

「っ…」

 拳を握った。

 ユリアの怪我が治る前に事が起きてしまったら————俺は、どうするだろう。

 はい、と返事をしたユリアの声を聞きながら、唇を噛んだ。



 そして、その日の夜。

「明日から、訓練再開しようと思う」

 そろそろ寝ようと、二人でベッドに潜った時だった。

「えっ…でも、まだ怪我が」

「そんなこと言ってられないだろ。塞がってはいるから、もう動ける。身体はだいぶ鈍ってるだろうから、まずは体力を戻すところから————」

 早く勘を取り戻さなければ、と話すユリアに、俺は何も言えなかった。

 ユリアは、当然のように戦いに参加するつもりでいる。動けないのならまだしも、この状態で戦線から退くなど考えもしないのだろう。

「…」

 灯りを消す。

 ユリアの方へ寄って、その身体を抱き締めた。

 温かい。この温もりを、失いたくない。

「ランゼル?」

 俺の様子がおかしいことに気付いたらしいユリアの気を逸らすため、その唇にキスをした。

 触れるだけ。その柔らかさを堪能するように、何度も唇を押し付ける。

「ん…」

 ユリアの喉から小さな声が漏れた。抱き締めた身体から力が抜けていく。

 唇を離す。眠そうな瞳を向けられて、おやすみ、と囁いて額にキスをした。

 ユリアは安心したように目を閉じる。その寝顔を、そっと胸に抱いた。

 半年後ならまだいい。でも、一ヶ月後だったら? 明日だったら?

 俺は、ユリアを連れていくことを、選べるのだろうか。

 蘇るあの戦いの記憶。またあんなふうにユリアが傷つくかもしれない。怪我を負ったままあんな凶悪な敵を相手にしたら、今度こそ最悪の事態に陥る可能性も————。

「…っ」

 絶対に失いたくない。

 でも、置いていくことを、きっとユリアは容認しないだろう。

 腕の中の温かい身体を強く抱き寄せる。愛おしさに、胸が切なく疼いた。

 気持ちの整理がつかない。今はその日が少しでも遠いことを祈るしかなかった。

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