第28話 パンを焼く

 春真っ盛り、みどりの草が萌え出るのにあわせて、家畜も元気を取り戻していく。山の頂を真っ白に染めていた雪が溶け、平原の大地を潤し水量を増した川に獣たちが集う。冬の間そっと耐え忍んで生きてきた小鳥たちが空を自由に飛び回り音色を奏でて、冬の間凍えるようだった風も穏やかで柔らかな緑の匂いを運んでいた。

 人間同士の交流もにわかに活気づき、草原の端から端まで旅しながら商いをしている行商人たちがよく訪れるようになった。彼らは草原ではなかなか手に入らない麦や芋類をもたらしてくれる。乳や毛皮とそれらを交換して、ようやく、冬の終わりから春にかけて続いていた、飢えへの不安から解放された。


 トーヤは粉に塩と水を混ぜ、大きな鉢の中でぐるぐるとかき回した。手にべとべとついてくるのを気にせず、両手ですりつぶすように混ぜる。少しずつまとまりが出てきたらバターを加えるが、するとせっかくのまとまりが失われてまたべとつくようになる。

 あー、と残念そうな声を出した義妹に笑ってみせて、トーヤはひたすら生地をこねた。

 いやなこととか、きらいなやつのことを考えながらこねるのがコツよ、とパン作りが上手だった叔母は言っていた。トーヤはどちらかというと、無心でこねる方が好きだった。べとべとの生地を鉢にこすりつけるように伸ばして、集めて、また伸ばして。時に手についたそれを全部持ち上げてたたき付け、また集めて、伸ばして……だんだん余計なことは頭から消えてしまって、川から水をくみ上げる水車のように、水車小屋の中で麦を挽く機械のように、その目的のためだけに存在する何かになっていく。


「すごい、つやつや。きれい」


 バターを含んだ生地はしっとりしていて、丸くまとめると内側から張るように元気だった。きれいでしょう、と義妹に答えて、それに濡れ布巾を被せて暖かい炉端に置いておく。


「パン作るのって難しそう。うちじゃ、だいたい麺にしちゃうから」

「難しくはないよ。パン焼き竈がないから、うまく焼けるかは分からないけどね。わたしの実家は、人数が多いから大きなパンを焼く方が簡単だったの」


 ここらで粉が手に入ったときは、練って伸ばして細く切り、肉と一緒に炒める方が主流らしい。途中までは作り方も同じだし、トーヤも好きだったが、久しぶりにパンをこねたくなって義母に許可を求めると、いいよと言ってくれた。


『もうあんたたちだけで暮らす日も近いんだから、好きなようにやったらいいよ。トーヤにはトーヤの得意なこともあるだろう』


 遊牧民らしくこだわらない性格の義母はこざっぱりと言った。はじめのうちは、あまりにも率直にものごとを言うので少し怖かったが、それにも慣れ、トーヤ自身も細かいことを気にしないようになっていた。


 そろそろかな、と布巾をめくると、生地は大きく膨らんでいた。義妹が物珍しそうにしているので触らせてやる。ぐにゅ、と発酵した生地に指が入り込む感覚に、にんまり笑ってトーヤを振り返った。

 トーヤはそれをまとめて軽くガスを抜き、くるりと丸めたそれを再度広げていった。町のパン焼き竈とちがってこの家のかまどで焼くので、少し薄くのばした方がよさそうだ。

 伸ばした生地に模様をつけて、熱くなったかまどの上に置く。熱が逃げないように、上から大きな鍋を被せてみた。これでうまくいくかは分からないが、まあやってみるしかない。


 それでも待っていると、パンが焼けるいい匂いがただよってきた。それに惹かれて、人間や犬が集まってくる。スレンと義父までどこからか戻ってきて、トーヤは笑った。

 一度裏返して、しばらく待ち――さて、とトーヤは鍋を持ち上げた。ふわりと湯気がただよって、小麦の匂いが小さなゲルに満ちる。色は薄いが、裏側を叩けば乾いた音がした。薄くした甲斐があって焼けているようだ。


「おいしいかは分からないけど、食べてみて」


 トーヤが皿を出すと、あちこちから手が伸びてちぎって行った。まだあつあつのそれを口に含んで、うん、と破顔する。


「おいしい! ふかふかしてる」

「うん、しっかり焼けてる。うまいよ」

「そうですか? 良かった」


 義父も相好を崩してトーヤに頷いてくれたので、心底ほっとした。スレンを見れば、彼もまたごくりと飲み込んで頷いている。


「うまいよ。トーヤならでは、だな」


 そう言って笑うので、トーヤもひといきに、パンをこねる無心の機械から感情ある人間に戻って笑った。

 ここに来て覚えたことと、ここに来る前から知っていたこと。全部認めてくれてうれしかった。

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