第24話 春が近付く

 黒い仔犬は、その毛色と同じ意味を持つ「ハル」と呼ばれるようになった。もともといた番犬たちに混じって羊を追って走り回り、余計な動きをしては熟練の番犬に怒られ吠えられ、逆に追いかけられ、そのたびに耳をしゅんと下げている。それでもめげないのが強いところで、一日のうちに何度も同じことを繰り返し、へとへとになってご飯を食べると夜はくうくう眠っていた。

 元気があって面白い、昔の弟みたいだとスレンはかわいがり、犬扱いされた義弟は怒っていた。

 トーヤにとっても、仔犬はかわいかった。そして同時に悩みの種だった。

 はじめて見た夜は賢そうに見えたが、なかなかどうして、元気さがそれを上回っていた。馬具を噛んだと思えば洗濯物に突っ込んで汚し、水桶をひっくり返し、家畜小屋の地面を掘り返して怒られてはまた跳ねるように走り回る。


「――もう。せっかくできたのに、やり直しになったわ」


 夜、トーヤがハルに噛まれて縫い直すことになった衣を解いていると、スレンは笑って、自分はあぶみの具合を調整しながら言った。


「ごめん。もう少し大きくなったら、きっと落ち着くから」

「スレンが謝ることじゃないでしょう。しつけるときは、そのときに怒らなきゃ分からないわ」


 スレンもトーヤもいたずらを現行犯で捕まえることができず、あとから怒っても仔犬は分かっていないようだった。それを含めての謝罪だったのかもしれない。スレンは、わずかに首をかしげて言った。


「トーヤは犬を飼ってたことあるの?」

「ないわ。うちは鶏を飼ってたから、猫や犬は入れなかった。――でも、こどもをしつけるのと似たようなものじゃないかしら。甥や姪を怒るのと同じ」

「あー……なるほど」

「まあ、そういう怒り方は、人間より犬同士の方が上手そうね」


 ぼんやりした人間とちがって、大人の番犬は周りをよく見て、規律を乱す仔犬に容赦なかった。あの中で揉まれれば、確かに立派な番犬になるだろう。

 できた、とトーヤがはさみを置いて布地を広げると、あれ、とスレンは片眉を上げた。


「おれの服だ」

「そう。丈を伸ばそうと思って。春や夏には膝を出さずに着られるように」


 スレンは目を丸くした。そんなにおどろかなくてもいいのに、おかしくて笑うと少し考えこむようにあぐらの膝に肘をついた。スレンは草原の男らしく余計なことは言わないし時に言葉足らずだが、決して心にないことやうそを言ったりしない。言葉探しに時間がかかるのは、本当に伝えたいことを伝える言葉を探しているからだ。

 やがてスレンはゆっくり顔をあげた。


「春は家畜の出産で忙しいけど、そのあと――夏になったら、おれたちふたりで、家畜を放牧して暮らしてみないか。結婚して一年経つんだし。もちろん行ける土地は限られているし、あんまり離れても人手が足りない時不便だから、せいぜい丘ひとつ分くらい離れるだけだけど」


 今度はトーヤが目を丸くする番だった。それをどう受け取ったか、スレンは慌てたように顔の前で手を振る。


「いや、もちろんハルも一緒だし、トーヤが母さんと近い方がいいならそれでもいいんだけど……」

「ううん、そうしたい」


 ほとんど反射的にトーヤは答えた。すっかりふたりで寝起きすることにも慣れたけど、どういうわけか手が震える。繕っていたスレンの春物をぎゅっと握りしめて、トーヤは続けた。


「お義母さんとだけじゃなくて、家族みんなと離れるのは寂しいけど――でも、わたしはスレンと結婚して、ふたりで新しい家を持ったんだもの。そうしてみたい」

「――そう、思ってくれる?」

「もちろん」


 しっかり頷いて、スレンの目を見て答えると、スレンはぱっと笑った。それは一番最初の日に見た、心から安心して、気が抜けたときの笑顔だった。

 ――そう。この顔が好きになったんだった。思い出して、トーヤも笑った。

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