第30話 夢と希望

 夕食を片付け、寝る前の風呂に入り、いよいよ夜がやってきた。


 時刻は23時


 まだシャロは来ない。


 俺は寝る訳にはいかないので待つしかないのだが、それにしても遅い。


 いつもなら俺が風呂から上がる頃には部屋にいるのだが、今日は違う。


「うーん」と悩んでいると、パッと急に部屋の電気が消えた。


「え、あれっ?」


 今日は生憎の曇りで部屋に光が差してこないから、周囲は真っ暗で全くもって見えない。


「急に電気が……うわッ!」


 急に冷たい何かに触られて思わず大声で叫ぶ。


「驚かせちゃいましたかぁ」


「なんだ、シャロか、、よ、、お?」


 声の出処を見ると薄らと人影が見える。輪郭しか分からなかったそれが、だんだんと目が慣れていって分かり始める。


「なぁッ!?」


 俺の目に映ったのは、いつものパジャマではなく、ネグリジェ姿のシャロだった。この前にも一度見たが、あれより露出が多い。所々透けていて、あまりに目に毒だ。


「ふふ、今夜は寝かせませんよぉ」


 俺は少々、シャロという存在を甘く見ていたらしい。今までと同じような誘惑なら、ギリギリ耐えれると踏んでいたのだが、情けないことに早くも俺自身の限界が来る。


シャロは暗闇で俺の体を押し倒し、そのまま頬に優しく触れてくる。


「添い寝……だけだろぉ」


 吐息が耳にあてられ、触れる肌からはひんやりとした体温が伝わってくる。


「つれないじゃないですかぁ。こっちは準備万端、らしいですよぉ?」


「あひッ!」


 ノーガードの所を触られて、自分で聞いても情けないと思うほどの声が自然と出る。


 初めての衝撃。脳天に電撃が走り、体がゾワッとする。それが未知の経験で、なのに気持ちが良い。


「だ、、めだ!」


「きゃッ」


 俺は無理やりシャロを引き離し、距離をとった。


「俺はシャロも……ここにいる誰も抱かない。これは絶対だ」


「ご主人様……」


 ああ、心が苦しい。それでもはっきりと言わなければならない。今後のためにも、一線をきちんと引くのは重要だ。


「シャロからの気持ちは素直に嬉しい。だけど、無理にこんなことをしなくてもいいんだよ。こんな事をしなくても、俺はシャロが大事だし、シャロを捨てたりしないから」


 シャロはもうすぐ奴隷という身分に落ちる。その主人が俺ということになるのだが、それは言い換えればシャロの主導権を俺が握るということだ。そのせいでこんな行動を取り続けていると踏んでいたのだが、


「……違いますよ」


「え?」


 その考えは真っ向から否定された。


「無理にとか、使用人だからだとか、そんなこと抜きにしてシャロが望んでいるんです」


「しゃ……ろ?」


「……正直、出会った頃は何とも思っていませんでした。これは仕事だ、やらなければ大切な物が奪われるって。そんな義務感に駆り立てられていました」


「……ならっ」


「ですが、今は違います。シャロはご主人様を愛しています。あの絶望からシャロを救ってくれたご主人様に尽くしたい、シャロを見てほしい、そう思ったんです」


「シャロ……」


 いつにも増して真剣なその表情を見れば、いくら俺でもそれが嘘じゃないことは分かる。純真な100%の愛の告白だ理解できる。

 分かるのだが、


「でも、ほら俺らってまだ会って数ヶ月くらいじゃん。そんなんでさ……」


 思いを募らせるにはとても短い期間だ。そんな中でどれほど思えるかなんて、たかが知れてる。

 実際、俺自身がそんな少ない時間で他人を盲目的に信頼するという経験をしたことが無い。

 恋に落ちる、というのが1番近い例として挙げられると思うが、俺にはその経験もない。

 だから、その告白が俺には浅はかに感じられた。


 だが、俺のそんな考えとは裏腹にシャロは続ける。


「好きに時間は関係ないと思います。積み重ねが大事……ということは否定しませんが、そんなものはこれから増やしていけばいいんです」


「いや……でも……」


 あくまで積み重ねは後回しでよくて、最初を重視しているシャロ。その考えが俺と正反対でやはり口篭ってしまう。


「シャロのこの気持ちは紛れもない本物です。ご主人様は……シャロのことが嫌い、ですか?」


 その言い方は、聞き方はあまりにも卑怯だ。好きか嫌いかの二択。そんなもの、こう答える以外にない。


「き、らいじゃない……むしろ、好きだ」


 好きという気持ちはある。自覚している。シャロの事は大切で、傍にいて欲しいとも思う。たとえ、そうだとしても俺は、


「でも、俺のこの感情はきっと――」


 俺は自分自身で分かってしまっている。


 これが恋愛感情なんかではないと。


 そもそも恋愛感情が何かさえよく分かっていない。分からないのだが、きっと俺が考えるよりもっと高尚なものだろう。誠実で真摯、そんな正しい感情の塊が恋愛感情なのだと勝手に想像をしている。妄想している。


 一方の自分は、不誠実な気持ちばかりが先行して、純粋な気持ちが湧かない。それが正しくないと分かりながら、どうしても溢れ出てしまう。

 そんな自分が情けなくて腹が立つ。


「シャロのこと……愛せませんか?」


「それは……」


 ‪”‬愛する‪”‬


 その単語に引っかかって、思わず言葉が出てこない。


 俺にとってその領域は未知で、曖昧で、理解の及ばないところだ。‪”‬好き‪”‬すら分からない俺が、どうして‪”‬愛‪”‬を語ることができるだろうか。

 ‪”‬好き‪”‬の延長線上に‪”‬愛‪”‬があると俺は思っている。まだ俺自身が、そのスタートラインにすら立てていない。

 黙る俺を見ると、悟ったような顔をして、


「いいんです。何となく分かっていましたから。ご主人様はきっとシャロを選ばないって」


 そう平坦にシャロは言ってのける。その一つの諦めともとれる言い方がずっしりと俺の肩に乗り、心を沈めてくる。


「いつも、まるでわたくし達といつか決別するような表情をしていましたから、決して深く踏み込まなかったんですよね?」


「え?」


 自分の心を見透かされたかのような発言に思わず戸惑いが隠せない。

 だってそれは、自分が、自分だけが思い描いていた一つの未来で、結末で、目的で、誰かが知る由もないことだ。


 それをなぜ、シャロが知っている?


「なんでって顔してますね。毎日傍にいたからシャロには分かりますよ。ご主人様は自覚していなかったと思いますけど」


「俺が……いつ……?」


「シャロがお風呂に突撃したり、ティアが料理を振舞ったりする時も、ずっと何か別のことが引っかかっているような顔をしてるんです」


「………」


「前までは、ご主人様から話してくれるのを待とうと思っていたんです。でも、あの事件以降もっと顔が強ばっていて、最近は特に変わりました。まるで、覚悟が決まったかのような……」


「俺は……別に……」


 俺はここにいる人たちと、フリードと深く関わりすぎてしまった。この前の風呂だって、本当はフリードにあんな誘いをするべきじゃなかった。

 誰にだってそうだ。身のうちをさらけ出せば、いずれそのツケが自分に回ってくる。

 いつか憎まないといけなくなるかもしれない相手と、心を通わせてはいけない。そうすれば傷つくのは自分自身だ。


 俺は目的のために心を、命を捧げなければならないのだ。


「悩みがあるならシャロに聞かせてください。抱え込んでいる思いがあるならシャロに吐き出してください。シャロは……役に立ちたいんです」


 話せるわけがない。俺がここの人達といつか敵対するかもしれないなんて。


 その復讐を自分の目的、生きがい……夢に据えているだなんて。


「言え……ない……」


 シャロは元々、フリードに雇われていたに過ぎない。俺とフリードが敵対することがあれば、きっとあちらへつくだろう。


 そんな‪”‬敵‪”‬に俺は自分の全てをさらけ出してはいけないんだ。

それは後々に響いてくるはずで、それを俺は分かっている。


 ‪”‬敵‪”‬になったら一体どうなる?

 その問の答えは明白で、あまりにも残酷だ。


「言える……わけがない……」


 俯いたまま、真っ直ぐ前が向けない。

 これまでの考えが、全て重荷になって俺の肩にのしかかる。


 あの夢が俺に全てを教えてくれた。やるべき事、やらなければいけない事、俺が背負うべき罪。


 俺が逃げることを、この世界は許さない。


「……わからず屋、ですね」


 俺の手に華奢な手が重なり、優しく握ってくる。


「今、苦しいんですよね? どうしようもないって悩んでいるんですよね? そんな不安とかを全部シャロに教えてください」


シャロは必死に訴えかけてくるが、俺にはそれが上手く飲み込めなかった。



 俺が苦しんでいる?

 俺が悩んでいる?



 俺の事をまるで全て分かっているかのような言い方に、ふつふつと腹の奥から怒りが湧いて出てくる。


「……だから」


 その怒りが、憎しみが、ドス黒い形になって次々に吐き出される。


「言えないんだよ! 何も話す事なんかない! 俺は悩んでなんかないし、止まっちゃいけないんだよ!」


 俺は逃げない。そう決めたんだ。


 逃げないし、止まらない。投げ出す事が出来ない。


 ロナンが、シリアが、ヘルドが、そしてこの世界が俺の停滞を許さない。


「誰にも話すつもりもない! それが正しいんだ! 俺の気持ちを勝手に決めるな、決めつけるな! 悩みも毒も、罪も責任も全部が俺のものなんだよ!」


怒声が響き、シャロがそれに驚いて少し震えているのが分かる。


 一度決めたことを投げ出さないと、そう心に刻んだんだ。


 それを今更ねじ曲げられるわけがない。


 その俺の覚悟が、出会って少しの奴に何がわかる?

 あの日、あの夜からどれだけ俺が後悔したと思ってる?


 もう覚悟は決めたのだ。


 俺には恨み続ける道しかない。それが俺の生きる理由で、それが居場所になるのだから。


 そんなのが分かるはずがない。

 言ったところで意味がないんだ。


「俺は逃げない……立ち向かわなきゃならないんだ……」


「立ち向かうって、何にですか?」


「…………」


 言えない。

 それを言ったら全てが敵に回る。


「それさえも……教えて下さらないのですか?」


 声が震えていて、どんな表情をしているのか見なくてもわかる。心が苦しくて、呼吸が荒くなっているのが自分でも聞こえる。

 だが、それでも―――


「……俺は逃げちゃだめなんだ。ここで逃げたら弱いままだから。そんな俺に価値なんてないんだよ」


 俺の弱さは俺が一番分かっている。そんな自分が必要とされていないことも分かっている。この弱さは俺のもので、誰にも譲れない。弱い俺が逃げないから意味がある。そこに生きる理由が生まれる。俺の存在がそうして初めて、この世界で認められるのだ。



「この世界の俺は無力だ、どうしようもないくらいに弱い。今まで生きてきた世界とは違う、強くなきゃ生き残れないんだ。俺には特別な力なんかなくて、だから心だけでも折れちゃいけない、曲がったら駄目なんだよ!」


 言葉が混ぜられて、思っていたこと、いなかったことが口から発せられる。


 この世界に来て、特殊な能力も、知識も、言語さえ与えられなかった。正真正銘、弱さを擬人化したのが俺だ。


「どうせ誰に言ったって分かりやしないんだよ! お前らには居場所がある! この世界にいていいんだって認められている! この世界に祝福されている! でも、俺は違う! 何とか自分の価値を見せなくちゃいけなくて、何とか生きていていい理由を掲げなくちゃいけなくて、そこまでしてようやく俺は認められるんだ!」


 自分がこの世界の異物であることは知っている。だから俺はこの世界に適応できなかったのだ。


「逃げて、逃げて、逃げ続けて、この前やっと向き合ったんだ。弱かった過去の、あの時の自分自身に……。そして決めたんだ、もう逃げないって。このまま再スタートをするって」


 自分と向き合って覚悟を決めたのだ。手は抜かないと心に刻んだのだ。過去の自分を、弱かった自分を肯定して、それでいて新しく生まれ変わろうと決意をしたのだ。

 だが、


「それでも俺は変わらなかった! ずっとずっと弱いまんまだった! 最初は頑張るポーズだけとって、いざどうにもならなくなったらすぐに投げ出す。皆が生きているこの今だって、たまたま上手くいっただけだ! 俺は夢の中で何度、お前らを殺した? 俺は何度、お前らを見捨てた? 俺は非力で運命を変える力がなくて、他人に頼らなきゃ何も出来ない……そんな弱い人間なんだよ」


 夢であろうと、俺がしたことは消えない。消せない。消してはいけない。見ないふりをする訳にはいかない。


 あの日の、あの業火の夜だってそうだ。あの時も逃げた。逃げ出したんだ。前の世界でも、この世界でも、夢の中でさえ俺は逃げ続けた。

 重要なのは過程じゃない。逃げた、という結果の部分なのだ。


 自分の身だけがかわいくて、その他を全て捨てることができて、そんな利己的で打算的で自己中心的な存在が自分なのだ。


「俺は俺が嫌いだ。大嫌いだ。この世界に来てからもっと嫌いになった。啖呵を切る時だけ一丁前で、その癖死ぬのは怖くていつも保身に走る。そんな自分が堪らなく嫌いだ」


 内側に溜め込んでいた毒を全て吐いた。出し尽くした。みっともなく喚き散らして、どうしようもなく恥を晒した。


 それでも、目の前の少女は俺を見て、真っ直ぐに言葉をぶつけてくる。


「……シャロはご主人様のことが好きです」


 この期に及んでも、まだそう言う少女に心がざわつく。


「……違う。それはまやかしだ。俺が無数に取り繕った偽りの俺だ」


 場面に応じていくつも演じて、本音より外面を優先した俺だ。


「シャロはご主人様のことが大好きなんです」


 再度、別の形で愛を伝えてきて、心が締められたように苦しくなる。


「本当の俺は弱い。みんなが見てるのは仮面を被った俺なんだ」


 何重にも壁を張り、自分の内側をひた隠しにした俺自身なのだ。


「シャロはご主人様のことを大切に思っています」


 何度も何度も似たような言葉をかけてきて、不快感と憎悪が胸の奥を、脳髄を支配する。


「嘘だ。お前らが見ている俺は俺じゃない。自分の小さな尺度で、自分の為にしか生きれないのが俺なんだ」


 そんな軽薄な言葉が伝わるもんか。

 仮初だ、嘘だ、俺は信じない。

 口先だけなら俺でも言える。

 結局、人の気持ちなんか永遠に分かることなどないのだ。


「シャロはご主人様のことを、心の底から愛しています」


 だから俺には伝わらない。

 伝わるものか。


「だからその気持ちもッ――――ぇ?」


 ふと視線をあげると、シャロはその紺色の目で俺を真っ直ぐ見ていた。ただただ真っ直ぐ、その真摯な瞳で見つめていた。

 その目は真心がこもっていて、まるで等身大の、そのままの俺を見てくれているように思えて――


「ご主人様が自分自身のことが、弱い所が嫌いでも、シャロは好きです。大好きです。弱い所を含めて愛しています」


 その純粋無垢な眼差しが眩しくて、痛くて、思わず目を逸らしてしまう。


 好き、大好き、愛している。そのどれもが俺には分からない。だから伝わらない。


「そんなの……信じられるわけが――」


 下を向いた俺の頭に腕が回され、そっと抱きしめられる。

 世界の時が止まり、一瞬の静寂が訪れる。


「こんな事で……伝わるとは思っていません。それくらい有り余ってるんですよ、シャロの気持ちは」


 俺の耳にシャロの心音が聞こえてくる。弱々しく、儚くて、それなのに早い軽快なリズムを刻んでいる。

 その拍動が、音がどこか心地良くて、今の俺には耳障りだ。耳障り……なのに……


「ご主人様が弱いことなんて知っています。分かりきっています。情けないところも、結構寂しがり屋なことも、不意に見せるかっこいいところも、全部知っています」


「…………」


 目の前の少女は俺の全て知っていると、言っている。弱さも本性も、全て理解していると語りかけている。


「数ヶ月程度で何を知ってるんだって、そう思うかもしれません。でも、違うんです。たったの数ヶ月でシャロはこんなにも、ご主人様のことを見ていたんです」


「…………」


 ひとつひとつの言葉が、まるで憑き物を払うかの如く染み込んでくる。それが不快で、なのにどうしようもないくらいに安らかで、


「ご主人様が自分の事が嫌いで、愛せないのなら、2人分シャロが愛します。……いえ、2人分でも少ない……倍、それ以上愛します」


 俺を包む少女は、俺を愛すると言っている。言葉をいくつも重ねて、俺に愛の言葉を囁いてくる。

 惑わされてはいけない。なのにそれが本当のように感じられて。


「おれ、は……」


「だから……悩みを他でもないシャロに聞かせてくれませんか」


 その言葉が光の粒になって降り注ぎ、心を縛る鎖を一つずつ壊していくように伝わってくる。


「言え……ない……これは、俺の……」


 呪縛なのだ。責任なのだ。俺が一生をかけて背負わなきゃいけない業なのだ。

 言えばその目的を、なさなければいけない事を放棄するのも同然だ。

 そうすれば俺は生きる理由を失う。この世界にいていい資格がなくなってしまう。


「シャロはご主人様のことを愛しているんです。だから全てが知りたい。好みも、悩みも、怒りの理由だって知りたいんです」


 だめだ、これ以上はいけない。


「お……れは……」


 それでも、そう分かっていても―――


「おれは……話して……いいのか?」


「はい、聞きたいんです」


意思に反して不意に零れ落ちた言葉を、その少女は壊れないようにそっと拾い上げる。


「話して……許されるのか?」


「許します。シャロはいつだってご主人様の味方です」


 優しくて甘い言葉だ。

 これは幻惑だ。

  ただの罠だ。

 とても信用に足るようには思えない。


 それでも、


「俺は……」


 思いが溢れて、零れて、止まらない。


「俺は……許したかった」


 制御出来ない程に込み上げてくる。



「俺は……許したかったんだ。村のみんなが殺されたとしても……あの温かさが本当だったとしても……ここにいるやつらを、フリードを許したかったんだ。許して、恨まなくていいって思いたかった」


 今まで言語化されていなかったモヤモヤが、次々に形になって口から零れる。


 いけないと分かっている。

 話したら俺はシャロのことを……


「でも、それが俺にとっては逃げに思えて、ずっと恨んでなきゃならないって……」


 逃げないと決めたあの日から、その想いが枷になってずっと俺に付きまとってきていた。


「村の皆に、俺は恩返しが何も出来てないから……俺は皆の思いを背負わなくちゃいけなくて……」


 毎朝誰かと顔を合わしても、誰かと言葉を交わしても、脳裏にこびり付いて離れなかった。


「ここにいる生活が、みんなが好きなのに……俺は自分の気持ちに蓋をして、それで……」


 己の気持ちを差し置いて、全てを擲つ覚悟をしていた。それが、自分にとって正しいと信じて。居場所のない俺はそう信じるしかなくて。


「今は真実を知るのが怖い。それでも俺は……」


 許したくても、知らない訳にはいかない。目を逸らしてはいけない。

 それは俺の罪なのだから。


「どうしたら、いい……ここで、今逃げたら俺はっ、ロナンとシリア、ヘルドに合わせる顔が、ない」


 俺はみんなを置いていった。

 その罪は永久に消えない。


 あの業火の中の2人の顔が、優しかった男の死が、俺の心を掴んで、縛って、決して離してくれない。


 夢で何度も語りかけてきた。


 恨め、憎め、憎悪に身を焦がせ。そんな言葉が染み付いて、それが正しく思えて、だから俺はその為に生きなきゃいけなくて。


俺はあの日から、時間が止まったままだ。


 止まったまま、ただ無常に生きている。


 死んだように生き続けている。


「ご主人様はどうしたいんですか?」


「俺は……」



 俺はいったいどうしたい?



『決めたんだろ?もう逃げないって』



『恩人を見殺しにした挙句、その恨みすら忘れて生きていくのか?』



『村のやつらが、のうのうと生きている今のお前を許すと思うのか?』



『ロナンとシリアにどれだけ貰ったんだ? この世界で右も左も分からなかったお前は、あそこに居場所を感じていたはずだ』



『ヘルドだって殺された。あんなに優しい男が死んでいいはずがないんだ』



『結局お前は自分本位でしか考えられないんだよ。許したいだなんてただのワガママだ。お前自身が許したくても、この世界がお前を許さない』



『恩を仇で返すような存在が誰に認められる? 誰が必要とする? そもそも――』



『――



 俺は――



「それでも俺は…………許したい」


 俺の心からの、本当の気持ち。


 それが初めて、世界に形を持って伝わる。


「許したい、許したいんだよ。許してそれで……またいつもみたいに過ごしたいんだ」


 俺自身が許されないかもしれない。恨まれるかもしれない。それでも、今の日常が、これからの未来が俺は欲しい。


「シャロがいて、ティアがいて、メアにロイド達に……フリードがいる、今の毎日が俺は好きだ。大好きなんだ。だから俺は……」


 これが、俺の本当の思いだ。


 偽りのない、心の底からの願いなのだ。


 誰も恨みたくない。恨まないでいたい。そんな怠惰で自分本位な俺を誰かに許してほしい。


「許していいんです。そんなご主人様をシャロが許します」


「シャロ……」


 頬に一滴の雫が伝う。

そして、それが言葉と共に流れ落ちる。


「俺は……恨まなくて、いいのかな? この世界で、過ごしていいのかな?」


 俺には夢も、目標も、何もかもがなかった。


 この世界に来る前も、漠然とした未来像しか描けなくて、ただただ殻に籠って燻っていた。そんな自分がコンプレックスで、本心をひた隠しにするしかなかった。


「夢も何もない俺が……この世界で生きていていいのかな?」


そんな俺が異世界に来て、何かが変わるわけが無かった。真の意味で、夢と希望を見出せていなかった。生きていく理由を持てていなかった。生きていていいんだと、居場所を見つけられなかった。


 だけど……


「……いいんですよ、だって――」



「――この世界には、夢と希望が溢れているんですから」


 真っ暗だった心の底に光が灯される。

 穢れて荒んだ心が浄化され、さっきまであれだけ真っ暗だった部屋が、月に照らされている事に初めて気づいた。


「……」


 少女が俺の手を取り、改めて見つめ直す。その目は俺の心の輪郭を正しくかたどっているように思えて、目の奥が熱くなる。


「ご主人様がこの世界に夢を見出せないのなら、その手伝いをさせてください」


 少女が生きる理由を与えてくれている。


「ご主人様がこの世界に希望を見つけられないのなら、一緒に探させてください」


 少女が生きる意味を与えてくれている。


「だって言ったじゃないですか。傍にいて欲しいって」


 少女が俺を必要としてくれている。


「シャロはずっと傍にいます。だからいつもみたいに虚勢を張って、奮闘する姿を見せてください」


 少女が、他でもない俺を見てくれている。


「もし、不安になったらシャロを頼ってください。シャロに弱音を吐き出してください」


「シャロ……」


「シャロはいつだってあなたの味方です」


 胸に手を置き、揺れないその瞳が真っ直ぐに

 俺を見つめている。

 そんな姿を見て、熱にも似た湧き上がる感情が俺の体を駆け巡る。


「……弱くて、どうしようもない俺でいいのか?」


「いいんです。シャロはご主人様を信じています」


「情けなくて、かっこ悪い俺でもいいのか?」


「そんな部分も含めて好きです。それに、ご主人様が知らない、ご主人様の姿をシャロは知っています。だからいいんです」


 ありのままの俺を知って、理解して、それでも好きだと言ってくれている。

 俺の知らない俺を見ていて、俺を大切に思ってくれている。

 俺がこの世界にいていいんだと、そう認めてくれている。

 俺の存在を、愛してくれている。


 俺が……この世界で夢と希望を持っていいんだと、教えてくれている。


「シャロ」


「はい」


「今の俺は……色んなことでいっぱいいっぱいなんだ。余裕がなくて、どうしようもなくて……」


 シャロは優しく、暖かい表情で俺に微笑みながら真摯に聞いてくれている。


「まだ、答えが出せない。だけど……それでも、俺の傍にいてくれるか?」


 未だに正解が分からない。この判断が正しいとは思えない。それでも、俺は自分の気持ちを抑えたくない。

今はただ、他でもないシャロに隣にいて欲しい。それが俺の純粋な望みで希望なのだ。


「はい! いさせてください。いさせて欲しいんです」


 瞳に大粒の涙を溜めて、シャロはその輝きと共に返事をする。


 俺は応えてくれた少女がたまらなく愛おしくて、 細いその手を引っ張って、優しく抱き寄せた。


「あっ」と不意に声が零れるが、そんな様子でさえ愛らしい。


体温が、心が届く距離にシャロがいる。


お互いの心音が重なるその感覚は、じんわりと心が熱くなるもので、どこか新鮮だ。新しいのだが、心地が良い。


 この世界に……異世界に夢と希望があるかはまだ分からない。


 実際、俺が何をしたいか、何を求めているのかさえ曖昧だ。


 でも、だとしても


 俺はこの世界で、生きていていいんだ


 俺を必要としてくれる存在がいるんだ


俺は今、初めてこの世界で生を与えられたんだ



 窓の外の月は一つ

 それが、抱き合う二人の間の距離を表しているかのように淡く、それでいて優しく輝いていた。

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