44場 浮気なんて許しません②

 イヴの襲来から一週間が経った。結局、伝言もイヤリングのこともレイに言えずにいるままだ。


 極力仕事を早く切り上げて家に戻るようにしているからか、それともメルディのことを敵だと見做していないのか、幸いにも、あれからイヴが店に来た形跡はない。


 けれど、メルディとレイの間にはどことなくギクシャクした雰囲気が漂っていた。いや、レイはいつも通りなのだが、メルディが平静でいられないのだ。


 笑いかけられても、うまく笑顔を作れない。そばに来られると無意識に避けてしまう。レイに求められても、この手でイヴにも触れたのかと思うと、どうしてもその気になれなかった。


「ごめん、今日は疲れてて……」

「そっか。こっちこそごめんね。ゆっくりお休み」


 優しく頭を撫でてくれるレイに背を向ける自分が情けなかった。十三年間、振り向いてもらうために頑張ってきたのに。


 レイを手放すという選択肢は絶対にない。それでも、「浮気相手なんて目じゃないわよ!」と真っ向から勝負を挑むには、あまりにもイヴが強すぎた。


 そもそも同じ長命種だという時点でハンデがありすぎる。外見も。


 レイもイヴの方がいいのかもしれない。ずっと、そんなことばかり考えている。


 そのせいで気がそぞろになっていたのか、振り下ろした金槌で鋼板を持つ指を叩いてしまった。


「いたっ……!」

「何をやっとんじゃ。素人でもあるまいし」


 金槌を振るう手を止めたクリフが呆れた顔をする。その隣では、同じく金槌を振るう手を止めたアルティが訝しげに眉を寄せていた。


「ごめんなさい。気をつけるね。救急箱どこだったっけ」


 作業台に駆け寄り、分厚い手袋を外す。骨に影響はなさそうだが、爪が少し割れていた。


 無言で近寄ってきたアルティが、救急箱を探すメルディの手を取る。心配して……というには強すぎる力に、思わず顔をしかめる。


「パパ、ちょっと痛いんだけど。放してよ」

「メルディ、今日は帰りなさい」

「え? なんで? 大丈夫だよ。ちょっと手が滑っただけ。爪は割れちゃったけど、血も出てないし、絆創膏を貼れば」

「ダメだ。仕事が上の空の人間に金槌は握らせない。出来上がりを楽しみに待ってくれているお客さまに失礼だろ。何があったか知らないけど、ちょっと頭を冷やしなさい」


 食い下がったが、アルティは頑として譲らなかった。






「うう……。家庭だけじゃなく、仕事までうまくいかなくなるなんて……」


 とぼとぼと道を歩く。残した仕事はアルティとクリフに任せてきた。


 情けなくて涙が出そうだ。工房に入って八年。一日たりとも金槌を置いた日はなかったのに。


 目の前には『アグニス魔法紋専門店』と書かれた看板。こういうとき、近所だとあっという間に着いてしまうから嫌だ。一週間前まではうっきうきで開けたドアも、今は地獄の入り口のように思えてならない。


 焦茶色のドアに嵌ったステンドグラスから中を覗き込む。レイは仕事中なので当然いる。そして、その傍らにはイヴもいた。


 カウンターを挟んで何やら話し込んでいるが、ただの知り合いにしては距離が近すぎる。今にもキスしそうな――それを見た瞬間、頭が真っ白になった。


「やめて!」


 店の中に飛び込み、目を丸くするレイたちの間に体を割り込ませる。掴んだイヴの両肩は、思ったよりもしっかりとしていた。


「レイさんは私の旦那さまよ! お願いだから取らないで! あなたエルフでしょ? 時間ならたくさんあるじゃない。レイさんに近づくのは私が死んだあとにしてよ!」


 後半は言葉にならなかった。涙を流してしゃくりあげるメルディに、イヴが怯む気配がする。


 背後からは「メルディ?」とレイの戸惑った声。


 続いて、椅子を引く音と共にインクの染み込んだ指がメルディの肩を包み、イヴから引き離した。


「急にどうしたの。何か勘違いしてない? このエルフは男だよ」

「嘘よ! イヴって、女の人の名前でしょ? このイヤリングもあなたのじゃないの?」


 カッとなってレイの手を振り払い、ズボンのポケットに入れていたイヤリングをイヴに突きつける。イヴは何度か瞬きしたあと、あっけらかんと笑った。


「あ、君が持ってたんだ。どこで無くしたんだろって思ってた。お気に入りだからペンダントにしたんだけど、早まったかなあ」


 イヴがタートルネックの中から取り出したチェーンの先にあるのは、間違いなくイヤリングの片割れだった。


「どこにあったの? ベッド? ああ、あのときに落としたのか。もっと早く言ってよー」

「ちょっと、君は口を挟まないで。ややこしくなる」


 イヴに釘を刺し、レイは再びメルディの両肩を掴むと、涙で濡れた顔を覗き込んだ。真剣な表情だった。


「メルディ、よく聞いて。イヴは愛称で、本名はエイヴリー。こう見えて、三百歳越えのジジイなんだよ。声が高いのは、お姉さん受けを狙って風魔法で変えてるからさ。今はこんなのだけど、昔は職人街の職人たちも真っ青な荒くれものだったんだよ」

「えっ」

「ジジイなんてひどーい。黒歴史には触れないでよー。イメチェンするのにどれだけ苦労したと思ってるのさ」


 魔法を解いたのか、急に声が低くなった。ダンディなおじさまボイスだ。見た目とのギャップがえぐい。


「ほ、本当に男の人なの? 声はそうだけど……こんなに可愛くて綺麗なのに?」

「僕ってヒト種には中性的に見えるんだよね。でも、れっきとした男だよ。信じられないなら、確かめてみる? 君みたいな可愛い子なら大歓迎」

「ふざけんじゃないよ、この女好き。僕の奥さんに粉かけないで」


 イヴ、いや、エイヴリーを張り倒すレイを前に、メルディは頭を抱えた。


「じゃあ、素敵な夜だったっていうのは? もしかして、レイさんって本当は男の人が……?」

「エイヴリー!」


 顔を真っ赤にして怒鳴るレイに、エイヴリーは舌を出すと店のドアに駆けて行った。


「ごめーん。こんな若くて可愛い子を嫁にもらったなんて、ムカついちゃってさ。ちょっと意地悪しちゃった。お邪魔虫は退散するよ。またねー」

「あと百年は来るんじゃないよ!」


 店の中がしんと静まり返る。ものすごく気まずい。しかし、まだ知りたいことは残っている。ごくりと唾を飲み込み、レイの目をまっすぐに見つめる。


「あの人が男だっていうのはよくわかった。でも、私がいないときに寝室に通したんだよね。どうして?」

「結婚式で君に渡したいものがあって、相談に乗ってもらったんだよ。お礼にお酒飲ませたら、あいつ、酔っ払って勝手にベッドで寝ちゃったんだ。すぐに叩き起こしたんだけど」


 はあ、とため息をつき、レイはカウンターの内側に回ると、普段は開けない一番下の引き出しから小箱を取り出した。


 中には白い絹糸で編まれたベール。繊細な葡萄と蔓の意匠の間に魔法紋らしき文字も見える。四隅に取り付けられた、きらきらと光る涙型の石はパールだ。


 機械で編んだものじゃなく、明らかに手作りである。完成するまでに一体どれだけの手間と時間がかかったのだろう。


「これって……?」

「僕が作った。グリムバルドではあまり被らないけど、ウルカナでは結婚式でみんな被るんだ。でも、僕は早々に森を出ちゃったから、あんまり詳しく覚えてなくてさ。たまたま店に顔を出したエイヴリーに聞いてみたんだ」


 大きな間違いだったよ、と呟いて、レイはメルディにベールを被せてくれた。


「ちょっと早いけど……。綺麗だよ、僕の花嫁。僕の全ては君のものだって、ウィンストンで約束したでしょ。浮気なんて絶対にしないよ」

「うん……! レイさん、ごめんなさい」


 涙を拭い、レイの胸の中に飛び込む。一週間もこのぬくもりを避けていたなんて、本当に馬鹿だった。


「僕こそ、誤解させてごめんね。でも、夫婦なんだから君もなんだよ? 浮気なんて絶対に許さないからね」

「するわけないでしょ。物心ついたときから、私はレイさん一筋なんだから」


 満面の笑みを浮かべるメルディを、レイがじろりと睨む。


「そう? マルクスとかドレイクの例があるからなあ」

「もー! しないったら! レイさんって、結構独占欲強い?」

「エルフは長生きな分、好きなものへの愛着が強いんだ。だから何百年も魔法を研究してられるんだよ。僕の執念深さを甘くみないでよね」


 本気の目だ。思わず「ひえ……」と情けない声が出た。


「それよりさあ。話を蒸し返して悪いけど、死んだあとって何。そんなこと考えてたの?」

「それは……。やっぱり考えちゃうよ。レイさんには幸せになってほしいもの。思い出いっぱい作るし、死んだあともレイさんの記憶には残り続けるつもりだけど、足枷にはなりたくないの」


 レイは一瞬だけ息を詰まらせると、メルディの体をぎゅっと抱きしめた。


「僕の人生は長い。君が寿命を全うしたあと、二度と恋しないとは言えない。だけど、ドレイクにも宣言した通り、僕は寿命が尽きるまで君のことを想い続けるよ。足枷になるわけないじゃないか。君は僕の太陽なんだから」


 その言葉は、スポンジに水が染み込むようにメルディの心に届いた。レイを疑った自分が恥ずかしい。背に回す腕に力を込めるメルディに、レイがふっと笑った。


「じゃあ、話もまとまったし……。二度と疑わないように、思い知ってもらおうかな」

「えっ」


 レイは店を出ると、『オープン』の札を『クローズ』に裏返した。今まさに入ろうとしていた近所の職人に「ごめんね。臨時休業。また明日来てよ」と謝る声が聞こえる。


 職人の方も急ぎではなかったらしい。愛想よく返事をし、来た道を引き返して行った。


「こういうとき、自営業って融通がきいていいね」

「レ、レイさん? なんで店閉めるの?」

「なんでだと思う?」


 質問を質問で返されて言い淀む。レイは答えを出すよりも早く距離を詰め、メルディの両頬を手のひらで包んだ。


「明日は筋肉痛かもね」


 その微笑みは砂糖菓子のように甘く、魅力的で――そして、ほんの少しだけ怖かった。

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