7場 出発……できませんでした
朝起きると、
子供を連れた親たちが「渡り」の練習をさせているらしい。ぎゃあぎゃあ、ぴいぎゃあ、と耳をつんざく鳴き声がする。
彼らにとっては普通なのかもしれないが、人間にとっては騒音以外の何ものでもない。おかげで、この暑いのに窓は閉め切りだ。氷の魔石で動く冷風機があるからいいけど。
「うーん、圧巻……。野生の飛竜がこのあたりを飛ぶなんて珍しいわよね。いつもはもっと東の方にいるのに」
「今年はイルギス火山が活発みたいだからね。火竜が元気満々で動き回ってるんじゃない? いくら見た目がドラゴンに似てて名前に竜が入ってても、所詮は鳥の魔物だしさ。本物のドラゴンには勝てないよ」
グレイグの言葉に肩をすくめる。盗賊の次は飛竜まで縄張りを奪われたのか。魔物の世界もなかなか世知辛い。
「……ダメだ。さすがのグリフィンでも、飛竜の隙間は飛んで来られないって。マルグリテ領で足止め食ってるみたい。群れの下も通らない方がいいね。攻撃されたらことだし」
通信機を切ったレイが気だるげな息をつく。その顔は暗い。この状況を憂いているのではなく、ただ眠いのだ。筋金入りの低血圧なので、いつも店は十一時以降じゃないと開かない。
「じゃあ、群れがいなくなるまでウィンストンには行けないの? 私たちもここで足止め?」
「群れからギリギリ外れた森の中にマルグリテ領に抜ける洞窟がある。中は広いけど、入り口が人間一人分の幅しかないから、魔物便は通れない。こっちから行くしかないね」
「そんなのあった? ママからも、大叔父さまからも聞いたことないけど」
「君が行かないように黙ってたんだよ。目を離すとすぐいなくなるんだから。リリアナさんたち、すごく苦労してたんだからね。グレイグは聞き分けのいい子だったのに」
心当たりがありすぎて何も言い返せない。今もこうしてここに来ているし。
「まあ、今となってはそんな心配いらなかったけどね」
「そ、そうでしょ? 私だって、いつもママたちを困らせてたわけじゃ……」
「洞窟にはスライムがうじゃうじゃいるんだってさ」
体が固まる。スライムは人の頭ぐらいの大きさのゼリー状の魔物だ。取り込んだもので核を作り、怒ると酸を吐いたり、体を硬化させてぶつかってきたりする。一匹一匹の強さは大したことはないが、群れで暮らしているので油断はできない。
中には繊維を餌にして服だけ溶かすスライムもいるというが――絶対に遭遇したくない。
「お姉ちゃん、スライムだけはダメだもんね。なんだったっけ? 葉っぱをめくったら幼体のスライムが……」
「いやーっ! やめて! 思い出させないで!」
あれは六歳の暑い夏の日だった。公園に遊びに行ったときに、生えていたひまわりの葉を何気なくめくったら、親指の先ほどの大きさのスライムがびっしりとくっついていたのだ。
あまつさえ、そのうちの一匹がするんと服の中に入り込んだから大変だ。子守りに駆り出されていたレイが魔法で取ってくれなかったら、酸で火傷の一つはしていたかもしれない。
そういえば、そのとき上半身裸にさせられた気がするが……深く考えないようにしておこう。
「どうする? 嫌ならここで引き返すのもアリだけど」
「行く! スライムなんかに負けてられない!」
ここぞとばかりに家に帰そうとするレイに即答する。スライムは大嫌いだが、それで引くという選択肢はメルディにない。
「本っ当に君は頑固だね。怪我をしないうちに帰したいっていう、僕の気持ちがわからない? グレイグだって夏休みを満喫したいよね?」
「僕ノーコメント。お姉ちゃんに恨まれたくない」
そっぽを向くグレイグにレイが眉を寄せる。昨日、何かあったのだろうか。弟は朝からご機嫌斜めの様子だ。こちらには好都合だが。
「グレイグを懐柔しようったってダメだよ。行くったら行くからね! ……で、でも、スライムが出たら退治してくれるよね?」
恐る恐る見上げるメルディに、レイは声を上げて笑った。思わずといった感じだった。
リヒトシュタイン領フィオネス市は突然現れた飛竜の群れにもめげず、観光客で賑わっていた。美しい湖と森を有し、首都よりも北に位置するここは、夏になると避暑に訪れる人間が増えるのだ。
夏の日差しを浴びて輝くテラコッタの瓦屋根が、石灰岩を積み上げた真白い壁によく映えている。
懐かしい光景に目を細めながら、メルディは整備された石畳の上をてくてくと歩いていた。前を進むレイと二人で。
「ねえ、レイさん。なんで私たち街に来てるの? 洞窟に行くんじゃないの?」
「洞窟に行くから準備が必要なんでしょ。さすがにスライムだらけのダンジョンに突撃する用意はしてこなかったからね」
こういうとき、荷物持ちに役立つグレイグはお留守番だ。「僕は夏休み中なの! こき使わないで!」とヘソを曲げてしまったから。まだ旅に出て二日しか経っていないのに、先が思いやられる。
「何を買うんだっけ?」
「魔法屋で魔石と魔法紋を書く用のスクロール……巻物だね。それと、防具屋で酸よけのシールド。道具屋で乾燥剤。食料はガラハドさまが用意してくれるみたいだから」
「乾燥剤って、お菓子の袋とかに入ってるやつ?」
「そう。スライムの体は大部分が水で構成されているからね。撒くと嫌がるんだ。洞窟で火魔法は危険だし、ダンジョンに潜るときはよく持っていくよ」
「へえー。ためになるなあ。覚えとこ」
前を向いたまま話すレイに相槌を打っていると、いい匂いが鼻をくすぐった。脇道に牛串の屋台がある。
考えてみれば、朝ごはんもそこそこに屋敷を出てきた。成長期の身には空腹は辛い。ふらふらと誘われるように屋台に近づくと、見事なスキンヘッドの親父が愛想のいい笑みを浮かべた。
「らっしゃい! ちょうど焼きたてだよ! 三本買ったら一本おまけしてあげる。どう?」
「やった! ください! レイさんも食べるよね?」
振り返ったが、レイの姿はない。どれだけ見渡しても見つからない。
まさか置いて行かれてしまったのか。自領なので店の場所も大体わかるし、最悪は自力でも帰れるとは思うが、いつも頼りにしている人間がいなくなると急に心細くなる。
「どうした、お嬢ちゃん? 牛串いらないの?」
「私……」
我ながら情けない声を上げたとき、横から伸びてきた手に腕を取られた。二日前も同じことがあった気がする。
「ああ、もう。すぐ何かに気を取られるんだから。なんで大人しくついて来れないの。――ごめん、おじさん。僕たち行くところがあるから、またあとで来てもいい?」
「おう! 焼きたて用意して待ってるぜ!」
そのまま腕を引かれて元の道に戻る。さっきよりも歩く速度はゆっくりだ。通行人の邪魔にならないよう端に寄り、レイは腰に手を当てた。お説教の時間である。
「あのねえ。いくら自分のとこの領地だからって、危機感なさすぎだよ。子供の頃、リリアナさんに言われたでしょ? 人の多いところでふらふらしちゃダメだぞって。覚えてないの?」
「も、もう子供じゃないし……」
「迷子になりかけててよく言うよ。……仕方ないなあ。ほら、おいで。メルディ」
差し出された手をまじまじと見つめる。
ひょっとして、手を繋いでくれるのか。メルディが思春期を過ぎたあたりから、どれだけねだっても繋いでくれなかったのに。
「言っとくけど、邪な気持ちは抱かないでよね。これは保護者の義務。また迷子になられちゃ困るからだよ」
「邪ってひどい! 私がレイさんを想う気持ちは純粋な……」
「はいはい。行くよ。日が暮れる前に屋敷に戻りたいからね」
温かな感触がメルディの右手を包む。
父親とも弟とも違う、大きな手のひら。インクの染み込んだ筋張った指。最後に手を繋いだときのことを思い出そうとしたが、頭が真っ白になって何も出てこなかった。
頬が焼けるように熱い。記憶の中の手は、こんなに男らしい手だっただろうか。
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