仔狼と星の形をしたしるし

「おてあせ? ショウ兄ちゃま、おてあせってなあに?」

 きょとんとした顔になっているよう祈りながら、俺が口にした一言目は、どうやら悪くない反応だったらしい。

 廊下からこちらを見上げてくる先生ししょーや知恵さんの表情から確信した俺は、笑いを噛み殺しきれていない大師匠様にさらに視線を投げかけた。

 お願いだから、早くあっちへ行ってください!

 視線の内側に込めた俺の心を正しく「読み」取ってくれたのだろう。いくつかのお土産の包みを弟子の手から受け取った知恵さんは、踵を返すと、居間の方へと姿を消した。

 ロウ家と宮代家の得意分野を踏まえれば、リニア姉さまは、たぶん「読み」間違えているはず。

 その証拠に、階段を登りかけていたリニア姉さまは鼻に皺を寄せながら俺を見た。

「ねえ、笙真。東京の連中から聞いてたのと、違うんですけど? コレってホントに例の《狐の鋏》の子なのよね?」

「何言ってるのさ。本当も何も、彼女がレベッカ嬢だよ? 嘘だと思うなら、少しだけ待っててご覧よ。そろそろ化ける頃合いだからさ」

 後ろを振り向いたリニア姉さまに向かって、廊下に残った先生がこともなげに返事をした。両手から残りの荷物を下ろすと、穏やかな笑みを浮かべながら進み出る。

 先生の笑みが何を意図しているか分からない俺ではない。頷く代わりに、俺はレベッカの琥珀色の瞳で、彼を見つめ返した。

 先生が中身を取り除いた星を握りしめたまま、俺がいなければ、踊り場で船を漕ぎかねないレベッカのための黒衣くろごらしく、彼女が起きているように振る舞いながら、俺はリンクで繋がったEAPにオーダーを送る。

 二〇五〇年式のあなまほ回避アプリ――今より少し未来の宮代笙真が開発した、本当に魔法を隠し通すように改良されたアプリケーション――をフル適用して、昨夜は発動しないように抑制していた《二つ身デュプレックス》を自由フリーにした俺は、まもなくやって来るであろうタイミングを待つ。

 レベッカが全くと言っていいくらい、ものにしきっていない、狼への変身魔法デュプレックスが、夜の訪れとともに、五歳児の人間の身体を一瞬で銀灰色の仔狼へと置き換えた。

「ね、言ったでしょ? さ、ポーリャちゃん、元に戻る練習をしようか?」

「うん!」

 一昨日と同じく、レベッカの意識がほとんど眠っているせいで、狼の身体は俺の予想通り、とてつもなく動かしにくかった。

 充電中で、熱を帯びやすくなっているEAPに無理を言って生成した代替魔力素子チルで、身体を頷かせながら、俺はどうにか無邪気そうな声を上げる。

「ポーリャ? レベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワが名前でしょう?」

「そうだけど、今はポーリャ・カントリー・ロードって名乗ってもらってるんだ。リン姉さんは、耳がいいんだから理由は聞かなくても、わかるでしょ?」

 握る機能のない白い前足とぎくしゃくとしか動かせない身体が相俟って、押さえつけることさえできなかった星は、階段を何段か転がり落ちたまま、身の丈に余ってしまったリネンのワンピースの裾の先で、鈍い輝きを放っていた。

 俺の目線のかなり下で、星のかたちをしたしるしを、極々自然に拾い上げながら、先生がリニア姉さまに問い返す。

「よければ、見てみる?」

「当然! ふう……ん、見てくれは意外と普通ね。アクセサリーって言われたら、信じちゃいそう。ねえ、笙真。コレ、あなまほで見てもいい?」

「いいよ。でも壊さないでよね? ボクにも立ち場ってのがあるんだから」

「私を誰だと思ってるのよ。ロウ家のリーリヤ様がそんなことするはずないでしょ。ほら」

 先生の手のひらから遠慮なく摘み上げた星を、踊り場に上がりながら翳したリニア姉さまは、もう片方の手のひらを後ろ手に差し出してきた。

「?」

「見るならあんたの試作機の方が正確でしょ? さっさと寄越しなさいよね」

 うわあ、昔から強引だったんだな。

 滑らかに動かせない口で思わず呟きそうになり、おっと、聞かれたら大変。そう思い直す。

 今疑われたら、のことまで、リニア姉さまなら察しかねない。少しでも不自然にならないよう、おとなしくしとかなくっちゃ。

「言うほど性能は変わらないはずなんだから、自分のスマホで見ればいいのに」

 そう言いながらも、先生はスマホを取り出し、ロックを解除する。

「はい、どうぞ」

 ワンピースの生地にうずもれたまま、驚愕のあまり息を呑んだ俺の目の前で、先生は世界最初使い古しののEAP赤いスマホを、リニア姉さまの掌に何の躊躇いもなく、あっさりと預けたのだった。

「ん、聞こえたわよ。今、妙に驚いたわよね、ちまっこいの?」

「驚いてるんじゃなくて、怯えてるんじゃない? リン姉の顔、おっかないもん」

「おっかないって、あんたあーた……」

「そういうところがおっかないんだよ。ポーリャちゃん、悪いけど練習の前に、やっぱりお茶にしよう。朝からバタバタし通しだったから、ボクもお腹すいちゃった」

 そう言いながら、先生は狼姿のポーリャ俺たちの身体を生成色の麻地ごと、軽々と抱き上げてくれた。

 

  ◇


「で、なんでリン姉さんがわざわざ甲南湖まで来たわけ」

ふち仕事ひごとまってるでしょ。……日本に来たらやっぱり小豆あずきよね。もう一つ貰うわよ。知恵から聞かなかったの? 宮代が面白いことをやり始めたから、視察に来てやったんだけど。それより、あんたたちと違って、私はそのちんまいのとは初対面なんだからきちんと自己紹介させなさいよ」

 赤福によく似たおいしそうなあんころ餅を、口の中で再びもぐもぐしながら、リニア姉さまが、手にした竹楊枝の先で、先生の背中に半ば隠れた俺を指し示してきた。

 ちびっこいに、ちまっこい、そしてちんまい。レベッカはともかく、俺を表すのには全く当てはまらない言い草だよな。

 彼女の発言を、肯定も否定もせず、先生が黙って聞いているのは、俺にも事情を知らせたいからかもしれない。

 そんな風に思いながら、俺は先生の背中に前足をかけた姿勢で、リニア姉さまが手にした星から目を離せないでいるレベッカのフリをし続けていた。

「だいたい、その子、東京から来てまだ三日四日くらいでしょ? 随分あんたに懐いてるじゃない? どんな手品マジックを使ったの?」

 ヤバい。俺の内心は、一瞬で冷や汗でいっぱいになった。心臓も、バクバク。この心拍もさっき呑んじゃった息みたいに、リニア姉さまの「読み」で聞かれているんだろうなと思いつつ、二階うえで充電中の俺のスマホにオーダーを送る。

 心を読まれないための防壁であるEAP専用アプリ《基板上のバリア》をこっそりと構築し、その内側で俺は深々と息を吐いた。

 ――俺が表にいるのも潮時だな。ベッカちゃんを起こして、そろそろ彼女にこの場へ参加してもらわなきゃ、絶対にまずい。

 けど、あの子が昼間みたいな星への拘りを引きずってたら……。

「ショウ兄ちゃま、ポーリャ、つまんない。はやく、でゅぷれっくすのれんしゅうしたい」

 壁の内側で、必死に考えながら、先生に向かってレベッカみたいな少しだけ舌足らずな口調で主張する。

 それとほとんど前後するように、俺の心に寄りかかるように寝入っているこの身体の持ち主へ、代替魔力素子チルでできた冷たい塊を押し当てることを、EAPとのリンク上に置いた仮想の頭の中でイメージすべきか、俺は躊躇った。

 決断できぬまま、彼女に無断で身体を動かしている俺を、本能的にいとってか、強張っていたレベッカの口許が、ほんの僅かにわななき、瞼にも俺のものではない意思が戻ってきた。

 ベッカちゃんの、お目覚めだった。

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