Humoresque-外伝2-

香坂偲乃

葵、夏を捨てる

 キャンパスの午後は、湿気を含んだ風がそこかしこでうねっていた。梅雨が明けきらない七月の初旬。理工棟の前の芝生は焼け始めた陽射しにキラキラして、もうすぐ夏が来ると空が告げていた。

 工学部棟のラウンジで葵がいつもの様にアイスコーヒーのグラスを揺らしながら、ポツンと言った。

「今年の夏、無かったことにしようかなって思ってる」

 氷のぶつかる音が静かに響いた。

「ん?また唐突だな」

 そう返したのは蓮。レジュメを机に投げ出しながら笑い交じりに言う。蓮とは幼稚園の頃からの付き合いでウチの隣に住んでいる。気が付けばいつも三人でつるんでいた。

「いや、別に大した意味はないよ。ただなんか……面倒で」

 葵は肩を竦めた。その笑い方は軽いのに、なぜか遠くにいるような気がした。

「面倒ですか。夏くらいもう少し楽しんでみては?海とか花火とか……あ、でも葵は人混みが苦手でしたね」

 桜がストローを咥えながら小さく笑う。目だけがじっと葵を見ていた。

「……ま、まあね」

「うっすら元気無いの分かるよ。実験でやられた?」

 蓮がそう言って覗き込む。葵とは工学部同士だが研究室は違う。口数の少ない彼にしては、珍しく気にしているのが分かった。

「違うよ、ただの気分」

  人文学部の逹が、文庫本のページを閉じながら呟く。

「何も起こらない夏ってのも、案外いいかもしれないよ」

「賛成~」と璃音が眠そうに言った。理学部の璃音は今日も相変わらずスモーカーズルーム帰りの香りをまとっている。

 私はその葵の横顔を見ていた。葵のそういう、軽い言葉に本音を隠す癖は、高校の頃から知っている。でもそれは、幼馴染の誰とも違う、葵だけが持っている距離感だった。

 だからこそ、聞き流せなかった。

「じゃあさ、今年の夏は――何もしない夏にしようよ。誰かが無理しない夏」

「無かったことにする、じゃなくて?」

「うん。それなら、ちゃんとあったって言える気がするから」

 葵は少し驚いたように私を見て、それからふっと笑った。

「……それ、案外いいかもね」

 その笑顔に、ほんの少しだけ、昔の柔らかさが戻っていた気がした。

 その数日後、私はたまたま――いや、たぶん無意識に、工学部の棟を歩いていた。

 昼休み。自分の学部棟から離れたラウンジに向かう理由なんて普通はない。だけど、今日はなぜか「そっちに行こう」と思った。たぶん、誰かの表情が頭に残っていたから。

 案の定、葵はいた。自販機横のベンチに腰掛け、カフェラテの缶を両手で包んでいる。スマホの画面を見ているけれど、視線はどこにも定まっていなかった。

「……やっぱり、いた」

 思わず漏れた声に、葵が顔を上げた。

「え、那瑠?どしたの?」

「昼休み。近くまで来たから」

 それは半分嘘で、半分本当。葵は私の顔をじっと見て、すぐに軽く笑った。

「ふーん……嘘、じゃないけど本当でもない顔」

「否定はしない」

 そう言って私も隣に腰を下ろすと、葵が缶を掲げた。

「飲む?ぬるくなってるけど」

「いらない。自販機、目の前にあるし」

「だよね」

 ふたりで少し笑ったけれど、そのあと沈黙がやってきて、私はそれを埋めるように口を開いた。

「なあ、ほんとはどうしたんだ?」

 葵は少し、目を細めた。

「なんの話?」

「今年の夏、無かったことにしたいって」

「……あー、それ」

 葵は缶を揺らして、小さく缶の底を打ち鳴らした。中の残り少ないラテがかすかに音を立てる。

「別に、深い意味はないよ。なんとなく、そんな気がしただけ」

「嘘」

 思ったよりも、すぐにそう言っていた。言った自分にも驚いたくらい。

 でも、止まらなかった。

「葵って、ああいうこと言うとき、必ず目が泳ぐんだよ。昔から、そう」

 葵が目を見開いて、少しだけ笑った。

「……観察されてたんだ、私」

「まあ、ずっと一緒にいるからね」

「那瑠、ずるいな」

 そう言った葵の笑顔は、ちょっと寂しそうだった。

「でも、今は言わないよ」

 ゆっくりとした声だった。

「言葉にすると、余計に消えなくなるから」

 私は何も言えず、ただ風に揺れる葵の髪を見ていた。

「……じゃあ、消えなくてもいいって思えるまで、隣にいていい?」

 その言葉が出たとき、葵が少しだけ、目を伏せた。

「……うん。ありがと」

 それは、たぶん、心のどこかが少し溶けた音だった。


「でさ、問題はそこじゃなくて、璃音が夏の合宿って言い出したことなんだよ」

 数日後、土曜の午後。駅前のカフェのテラス席で、逹が嘆息まじりに話し出した。席には那瑠、桜、逹、蓮、璃音の五人。葵は「研究室の調整があるから」と来ていない。

「合宿って、サークルのじゃなくて?」

「違う。人間関係合宿とか訳の分からん名目で、全員でどっか泊まりに行こうって話」

 逹がカフェラテを啜りながら、退屈そうに言う。

「ほら、みんな忙しいし、会えないとどんどん距離って空くじゃん。そうなる前にリセットしとこーっていう、まあ軽い気持ち」

「私たち、そんなに距離空いてますか?」

 桜が首を傾げながら言う。涼しげな顔だが、さりげなくスマホをいじっていて、画面には葵とのトーク画面がちらりと見えた。

「うーん……距離っていうか、テンポ?誰かがズレると全体も変わるっていうかさ」

 璃音の目が、わずかに遠くを見る。蓮が珍しく口を挟む。

「……葵のこと?」

「んー、どうだろ。そうかもね」

 正面に座っていた私は、蓮の視線を受けた。

 たぶん、みんな分かってる。葵が少し前とは違うと。けれど、それを言葉にするのは、難しい。

「那瑠、最近あいつと話してる?」

「……少しだけね」

 嘘ではない。あの日、缶コーヒーの音をきっかけに少しだけ葵の中の何かが動いたように思えた。

 でも、それ以上は聞けていない。

「まあ、無理に詰めることでもないけどさ」

 逹がそう言って、カップを置いた。

「俺ら六人、なんかこう、まっすぐ一緒ってタイプじゃないし。歩幅合わなくなったら、一回立ち止まるくらいでいい」

 そう言ったあと、彼は少し照れくさそうに笑う。

「ま、俺が言っても説得力ないけどな」

「あるよ」

 と、私は言った。

 本当にそう思ったから。逹は、誰よりも人との距離感を自然に保てる人だ。小さい頃から、蓮と三人で一緒に育ってきた中で、一番空気の読める、でも一番不器用なやつ。

「……とりあえず、旅行の話は保留な」

 璃音がそう締めくくったあと、ふっと風が吹いた。

 梅雨の終わり、ひどく強い光を含んだ夏の風。

 私は、葵に連絡を取ろうと思った。

 週が明けた火曜日の夕方。講義を終えてキャンパスを出ようとしたとき、那瑠のスマホが震えた。画面には「葵」の名前。

 珍しい。最近は返信すらまばらだったのに。

《今、空いてる?》

《うん。そっちは?》

《工学棟の裏にいる。話せる?》

 すぐに「行く」とだけ返して、小走りで向かった。

 工学部棟の裏は、キャンパスの端に近くて人通りも少ない。夕陽が傾き始めたその場所で、葵は金属の手すりにもたれて空を見ていた。

「来てくれて、ありがと」

「ああ……どうした?」

 葵はゆっくりと私の方を向いた。その顔はどこか少し、覚悟をしたような顔だった。

「言おうと思って」

「うん」

 缶を持つ手が少しだけ震えている。今日はコーヒーじゃなくて、ただの水だった。

「ねえ、那瑠……あたしさ、春にちょっとした事故に遭ってたんだ」

「……え?」

「って言っても、自分が悪いの。バイクじゃなくて、チャリだけど、車に接触して、倒れて、頭をちょっと打った」

 葵は静かに言う。どこか、自分のことを語っている感じがしなかった。

「病院には行った。大きな怪我もなかったし、記憶もちゃんとあった。でも、それから……なんか、調子が狂った」

「体の?」

「体も。あと、気持ちも……怖くなったんだと思う。普通っていつ崩れるか分かんないんだって、思っちゃって」

 私の胸の奥がきゅっと縮む。

「誰かと話してるときも、笑ってるときも、この時間、いつまで続くんだろうって思うようになって。それが、なんか――疲れちゃって」

「……葵」

「だから、今年の夏はもう要らないって。なんとなく、そう思った」

 葵は夕陽を背にしていた。だから表情は影になって、よく見えなかった。

 でも私は、彼女の言葉の重さだけをしっかりと受け止めていた。

「それでも、今日話そうと思ってくれたのは?」

「那瑠がさ、あの時言ってくれたよね。無かったことにするんじゃなくて、何もしない夏にしようって」

 私はこくりと頷いた。

「……それ、今でもいいかな」

「もちろん」

 気づけば私は、葵の手をそっと取っていた。震えていた指が、すこしだけ力を抜いた。

「それなら、私はちゃんと一緒にいるから。何もしない夏でも、何かする夏でも、どっちでもいい……ただ、ひとりにしないから」

 夕陽の光が差し込み、葵の睫毛がわずかに濡れて見えた。

「ありがと」

 小さく漏れたその声は、夏のはじまりよりも静かだった。

 七月の終わり、キャンパスは夏季休暇の静けさに包まれていた。


 講義がなくても、誰かがどこかにいる。誰かがベンチにいて、誰かが屋上の影にいた。そんなふうに、六人の距離は思ったよりも崩れていなかった。

 いや、むしろ――少しだけ、再構築されていた。

「ていうか、結局この人数で花火見るの、何年連続?」

 と、逹が笑いながら言ったのは、大学近くの土手沿い。

 夏の花火大会が近くて、人が増える前に場所を取ろうと早めに集合した。敷いたレジャーシートには、おのおのが持ち寄った飲み物やお菓子が雑に置かれている。

「四年目です。私たち、ちゃんと続いていますね」

 桜がそう言って笑う。葵の隣に腰を下ろして、ひそかにそっと手を重ねた。

「ってことは、そろそろ俺らも伝統とか言い始めていい頃?」

 逹が寝転びながら、アイスの棒を振っている。

「伝統っていうには、あまりにもゆるすぎるけどな」

 蓮がそう言って、葵にペットボトルの水を手渡した。彼は最近、葵に向ける目線が少し柔らかくなった気がする。

「……ありがと」

 葵が小さく笑う。心の距離がゼロになったわけじゃない。でも、少しずつ、確実に何かが解けていた。

 打ち上げ花火が最初の音を立てたのは、それからまもなくのことだった。

 空に広がる音と色に、みんなが視線を向ける。言葉はない。でも、それぞれの胸の中に、なにか形のない感情が染みていくような気がした。

「ねえ」

 葵が不意に、那瑠の肩に頭を預けた。

「何もしない夏って、意外と好きかも」

「ああ……私も」

 今年の夏は、思い出になるような大きなイベントはないかもしれない。

 でも、それでもいい。

 何もしない夏のなかで、誰かの隣にいること。理由もなく一緒に過ごす時間があること。たぶんそれは、思っている以上に、強くて、温かい。

 来年の夏は、また違う風景かもしれない。もっと楽しくて、もっと騒がしくて、あるいは誰かが隣にいない夏かもしれない。

 それでも、今年のこの夏だけは――たしかにここにあった。

 八月の終わり、夏の匂いが少しずつ薄れてきた頃。


 ベランダの手すりに寄りかかって、私は空を見ていた。少しだけ赤みがかった雲が、ゆっくりと形を変えていく。

 隣では葵が、缶を両手で包み込むようにして持っていた。いつものコーヒーじゃなく、微炭酸のジュース。少し甘くて、でもどこか乾いた後味が残るやつ。

「今年の夏、なんか、ちょっと不思議だった」

 そうつぶやくように葵が言った。

「最初は、本当に、全部から距離を置きたかったの。那瑠にも、みんなにも……このまま、全部フェードアウトしてもいいって、そう思ってた」

「うん」

 私はそれを否定しない。きっと、そういう気持ちも本当だったのだと思うから。

「でも、それってやっぱり捨てたってことになるのかなって、最近考えてる」

「……どうかな」

 私は少し笑って答えた。

「私には、捨てたんじゃなくて、置いただけに見えたよ」

「置いた?」

「うん。重すぎて持てなくなったものを、一度地面に置いただけ。だから、それをまた持つかどうかは、葵が決めればいい」

 葵は黙っていた。でも、その目は、雲の向こうをちゃんと見ていた。

「たぶん、来年の夏も、再来年の夏も、いろんなことがあると思う。置きたいもの、手放したいもの、忘れたふりしたいこと、また出てくる」

「ああ」

「でも、そういうのもぜんぶ抱えたまま、なんとなくここにいてくれたら、私はうれしい」

 葵はジュースの缶を口元に運んだ。炭酸のはじける音が、小さく鳴る。

「……やっぱり、なんかさ、那瑠って、昔から逃げ道を作るのがうまいよね」

「それ、褒めてる?」

「たぶん、ちょっとだけ」

 そう言って笑った葵の顔は、たしかに春よりも少し色が戻っていた。

 風が吹いた。ベランダの隅で揺れる洗濯物の音が、やけに軽やかだった。

 私は知っている。この夏が、特別だったことを。

 葵が夏を捨てたのではなく、自分の中のあの夏を、そっと降ろした夏だったことを。

 きっとまた、いろんな季節が来る。楽しいことも、苦しいことも、全部まぜこぜにして。

 でも私たちは、それをちゃんと迎えることができる。

 ――何もしない夏の、その先へ。

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