第27話 知っていること、知らないこと ④




「シ、シエル様……です、か?」


 息も絶え絶えに、オウルが言葉を漏らす。

 その眼差しは意思を感じるのに、彷徨っていてどこか捉えどころがない。


「まさか、目が?」

「よ、かった。そ、こに、いるのです、ね?」

「どうして……?」

「シエ、ル様に会いに……で……、空間に揺ら……感じで、少し……しました」

「もう喋るな!」


 律儀に答えようとするオウルを慌てて止める。

 疑問は色々あるが、現実彼はここにいる。結果があり、そして彼が瀕死である以上、これ以上の問いかけに価値はないだろう。


「くそっ、ここじゃ……」


 この空間はシエルが許可した者しか入れない。そういう概念を持った空間だ。

 許可を出していない彼が入ってきたことは驚きだが、この消耗はおそらく無理やりにこの空間に侵入した代償だろう。そうであるならば、このまま彼を外に出してしまった場合、それこそ彼を死に追いやってしまう可能性がある。

 かといって、この空間には本しかない。彼を治療するためには——


「聖法第六章 主は人に健全を願うマネレサーノス・ヴィロ!」


 出し惜しみなんてしていられない。

 秘密を知られてしまうが、彼を喪うよりもマシだ。

 空中から温かい光が差し込み、倒れるオウルを照らす。


「い、いんです」

「いいわけないだろ! お前を死なせるわけには」

「いや、もう、む……です」

「何をして……いいから大人しく——!」


 ぐらりとオウルの体が揺れ、仰向けに転がった。

 自分の命を縮める行為に、シエルは思わず声を荒げて。


「ぁ——」


 察してしまった。


「内臓が……」


 全身から力が抜ける。

 王族用に拵えられた騎士服を身にまとった彼の腹部は、異様な凹み方をしていた。

 失ったのではない。だが、傷つき、ぐちゃぐちゃとなったために凹んでいる——そんな感じだ。

 現状、肉体の欠損を回復させる魔法は存在しない。繋げる魔法すらも。少なくとも、シエルの知識には存在していなかった。


「自分の……ことくら、い、分かっていま、す。だ、から、その前に……!」


 床に落ちていた腕が持ち上がる。

 ゆっくりと、震えながらも一直線に、そしてシエルの腕を握り締めて。

 その驚くほどの力強さに、シエルは思わず目を剥いた。


「ティア様を、頼みます。明日、ティア様は処刑……る。だか、ら…………」

「明日? なんでそんな急に……」


 ……いや、ありえるかもしれない。


 否定しようとして、すぐに思い直す。

 現王は帝国に習うほどの実力主義だ。そして、司書によって組み上げられた平和を維持することに並々ならぬ情熱を注いでいる。

 王城の爆破——その失態をそそぐために、実力の無いティアを使う可能性は十分にありえる選択肢だ。


 ……だからオウルは、ここに侵入を試みたのか。


 自分の身を捧げても、主であるティアを救うために。

 彼はこの空間に無理やり侵入する代償を知らなかった。

 当たり前だ。シエルですら知らないことだったのだから。

 しかし関係ないのだ。この男はティアを救うためなら何でもする。それが自分の命を捨てることになろうとも。


 シエルは反射的に握られた腕を引こうとしてしまう。けれど、腕を動くことはなく、むしろ引き寄せられて。


「私が出来れば……でも、もう無理ですから。なら、もうあなたしかいません……だから‼」


 震える手を痛いほどに握り締めて。

 その表情に、鬼気迫る形相を浮かび上がらせて。


「ティア様を! 私を救ってくれた彼女を! なによりも、彼女が想っていたあなたが、救ってくれ……! お願いします! お願いだ‼」

「わかったからもう喋るな! 少しでも生き延びられるように——」


 彼の圧に気圧され、半ば無意識にこぼした言葉だった。

 逃げるための口実……意図なんて無い。文字通り必死に懇願してきた彼の圧に屈しただけの意味のない言葉だ。

 だが、彼にとってはこの上ない言葉だったのだろう。彼の表情には、救われたような光が差して。


「よか、た……」


 急に握られる力が弱まった。


「おい⁉」

「…………」


 返事はなかった。

 それどころか、握られていたはずの手すらも地面に落ちていて、身じろぎ一つしない。

 血に塗れた褐色の顔は安らかに微笑んでいて、全てを吐き出したかのような真っ白な髪は力なく地に伏せていた。


 死んだのだ。

 死んでしまった。シエルの目の前で。


 知識の権化と呼ばれながら、婚約者の家族一人すら救えなかったのだ。


「なんで……?」


 返事はない。


「なんでだよ……」


 返事はない。


「なんで、こんなに必死になれるんだよ……⁉」


 やはり、返事はなかった。

 ぐちゃぐちゃな意識がさらにかき混ぜられて。しかし、意識だけははっきりと冴えている。


 鼻を貫く血の匂いと光景に嗚咽することもなく、いっそ吐き出せてしまえれば楽になるのに、シエルの体はそれを許してはくれない。

 涙も出ない。声も出ない。

 ただひたすらに、意味不明の光景を網膜に焼き付けて。


「そうだ……誰かに……」


 幽鬼のような足取りで、シエルは本と書架だけだった空間を後にした。

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