第18話 あなたを知ったから ①
柔らかい風が吹く。
撫でるように草花を揺らし、色とりどりの花が各々の香りを振りまいては、青々とした葉の匂いと混ざり合っていく。
そんな、良く晴れた春空の下で。
「よく見ておけ……あれが司書だ」
心を豊かにする光景。
それとは似つかわしくない厳格な指先が、ある一点を示していた。
「人とは理の違う化け物。知識の怪物。王国の書庫。色々と呼び名はあるが、総じて意味はない。ただの道具と思えばいい」
「……はい」
とても……とても感情の籠っていない声色だった。
王城の中に設けられた庭園——ここは、王族が情報収集のためにお茶会を開く場である。
なるほど、納得の光景だ。
希少性の高い草花が乱立し、それでもなお秩序を保っている。この場を整えている庭師は余程腕が良いのだろう。
だが、現状は本来の用途として使われてはいないようだった。
「この術式は——」
「これは——」
「へぇ……それじゃあ」
「そうですね」
王が見つめる先の、広大な庭園の中心に一つだけ設けられたテーブルには先客がいた。
一人は黒髪の少女だ。
年齢は十代半ばといったところだろう。魔法部隊の制服を身に付けていることから、少女と違って魔法の才能に恵まれているのが分かる。
もう一人は、灰色の髪をした少年だった。
歳は向かい合っていた少女と同じくらいだろうか。好奇心のままに訊ねている少女とは違って、どこかやる気の無さを感じさせている。
「まだもう少し先にはなるが、あれがお前の婚約者になる」
「え——?」
「お前のこれからの仕事はアレの手綱となり、アレの子を産むことだけだ」
一切少女には目もくれず、淡々と王は告げた。
分かっていた。魔力をほとんど持たず生まれた少女が、この国の役に立つことが難しいことは。
それでも、実の父親にそう断言されてしまうのは……分かっていたとしても辛いものだ。
「返事は?」
「…………わ、分かりました」
心がひび割れる音を背景に、少女はどうにか頷いた。
期待が侮蔑に変わっていたのは分かっていた。
それでもどうにか役に立とうと、必死に勉強を重ねてきたのに。
……やっぱり、ダメなのね。
意外と涙は出なかった。
代わりに胸に広がっていったのは、ストンと胸に落ちた納得と……諦念だ。
出来の良い姉がいた。完璧ともいえる兄がいた。
王位なんて望めないし、望んでもいない中で、唯一役に立てる要素すら持たずに生まれてきた少女には何も残されていなかった。
そう、何も残っていないのだ。
……なら、私はどうすればいいんだろう?
道は示されている。
あの少年の妻となり、子を成す。六歳とはいえ必死に勉強をしてきたのだから、その意味は理解している。
……あの人は、王国に必要な人なのね。
——少女とは違って。
だから、少女は宛がわれた。彼を繋ぎ止める道具として。
そういえば、彼も父から道具だと言われていた。なら納得だ。道具と道具……数少ない使い道を考えれば、これが最善なのかもしれない。
「この術式は——」
でも、なんで?
なんで、あの少年の瞳はあれほど何も映していないのだろう?
役割があるはずなのに。役目があるはずなのに。
美しい花も、手入れの行き届いた木々も、目の前に座る綺麗な少女すらも、少年の眼には映されていなかった。
「……なんで?」
呟いた疑問は、誰にも届かない。
それに安堵したのは、他ならない自分だった。
答えを聞いてしまったら、喚いてしまいそうだったから。
……あの人は私とは違う。道具かもしれないけど私とは違うのに。
期待が侮蔑に変わる前——世界は美しかった。
連れていってもらった街並みは綺麗で、人の笑顔は素晴らしくて、吹く風は心地よくて、花の香りには安らいで。
そんな当たり前を、少女はもう感じることは出来ないだろう。
でも、彼は違う。
道具かもしれないけど、期待されていた。なら、彼の世界は素晴らしいもので、美しいものであるはずなのに。
なのに——
「嫌だ……」
この感情はなんだろう?
ふつふつと腹の奥から湧き上がってくる感情に、少女は動揺を隠せなくなっていった。
なぜかは分からない。でも、見たくないと思ってしまった。
「なにか、言いたいことはあるか?」
王の言葉に、返事を紡げない。
なんでもないと……そう答えなければいけないのに、そんな簡単なことが出来なかった。
「まあいい……今日は見るだけだ。彼女は王国の次世代を担う貴重な人間だからな。研究の邪魔をするわけにはいかない」
王は少女の視線だけを落として。
「あとは好きにするといい。ただ、邪魔だけはしないように」
無感情に言い残して、父は少女の元から去っていく。
淀みの無い足音。
実の子供に対しては不釣り合いの、完全に見切りをつけた足音に、少女は自身の顎を下げた。
「……なんで?」
なんで、こんなに世界は残酷なんだろう?
足りないのは……魔力だけだった。
教養も、知識も、最低限の武術も修めている。だが、魔法で成り上がった『王国』では、王族としての役目を得るには、最も必要なものが欠けてしまっていた。
だからって、なんでこんなことになってしまうのか。
最初は父だった。次は母。そして、兄と姉が。
最終的には使用人すらも変わってしまった。侮蔑と嘲笑……己よりも下と分かってしまった相手には容赦が無かった。
その有様は、世界が反転でもしてしまったかのようだ。
「ああ、そういうこと」
少女は人知れず空を見上げた。
世界は道具で回っている。王という人間のために存在するのが
「そんなの——」
ばかげている。
人は人だ。青く広がった空が空でしかないように、人も変わらない。
なら、人は道具なんかではない。ただ、自分から道具だと貶めてしまっているだけだ。
王に頭を下げる貴族たちも、王位を狙って足掻く兄と姉も、他ならない自分も、庭園で空虚な瞳で話すあの少年も。
おかしいのはこの国で、この国の在り方だ。
だから——
「諦めた私は、もう終わり」
今に見ていろと。
私は道具には成り下がらないと。
少女は湧き上がっていた感情を自覚して、決意する。
「だから、あなたにもそうなって欲しくないわ」
少女に現状を変える力はない。だから、少年と婚約者になるのも変えられない。
なら、自分が彼を変えるのだ。
人は一人では世界を変えられない。でも、一人が二人に、二人が三人に増えていけば、いずれ世界は変わる。
「私は魔法がほとんど使えないけど、やれることはある。まずはそれを頑張りましょうか」
彼が何に囚われているのかは分からない。けれど、やれることはあるはずだ。
そして、自分自身が人間として在るために必要なことも。
「仲間が欲しいわね。でも、先に武術を修める方が先かしら? 勉強も頑張らないと。ふふふ、やることが多くて大変」
不思議と笑みがこぼれた。
それがまたおかしくて、少女は人知れず笑いながら少年たちに背を向ける。
……もう、自分を貶めることはしないわ。
その決意を胸に、少女は王城への帰路に就いた。
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