第29話 ルシアン・ミーリス

 

 八ノ月、大陸統一を果たしたセグナクト王国は、未来永劫の平和と発展を誓い、大陸全土の元号をセグナクト暦とすることを宣言した。

 時はセグナクト暦元年、九ノ月、ミーリス男爵領都ラクシャクの農耕地域では、収穫を終えた麦穂と入れ替わるように米の稲穂が黄金の絨毯を広げていた。


 物心ついた時から王都の貧民街で獣のように生き抜き、保護されてからは騎士となり、人生の経験値を蓄え続けてきたルシアンは、生まれて初めて怠惰たいだな日常を過ごしていた。

 アーシェ、ベル、ウルスラの三人と結ばれた日の週末に、王都へとつ予定だったルシアンは、いまだにラクシャクに滞在している。

 狂愛の底なし沼に沈んだルシアンは、三人の愛する女と離れることができず、四人で過ごす日常の心地よさに溺れて愛を育みまくっていた。そんな生活を続けて二月ふたつきの時が経過していた。


「も"ぉ"お"……うぅ……るしあん?」

「ベル、起きて」

 

 ルシアンの寝室で同衾どうきんしていたベルの尻尾を強く握り込むと、牛のような鳴き声が響き渡る。

 アーシェ、ベル、ウルスラの三人はルシアンの婚約者となり、ミーリス家の敷地内に別館を建てて暮らすようになった。

 妻ではなく婚約者となっているのは、三人の家族をミーリス領に呼んでから、結婚式を挙げたいというルシアンのわがままの所為である。

 そのうちアーシェとベルはその申し出を拒否したが、ウルスラだけは喜んでいたので、彼女の家族をラクシャクに招き入れてから、三人と結婚することとなった。


「るしあん……すきだぁ」

「……朝から蹂躙されたいの?」


 寝起きでふにゃふにゃのベルの美しい肉体には、ルシアンの歯形や手形があちこちにつけられている。

 一度、首元につけた痕跡を見たエドワードとマリーダにボコボコにされそうになったことから、ちゃんと衣服で隠れる位置につけるようにしてある。


「あたしより力弱いくせに……こわーい」

「へぇ……ちょっとすごまれただけでふにゃふにゃになるくせにそんなこと言うんだ」


 今日ラクシャクを離れ、王都へと発つ予定のルシアンにダラダラしている時間がなどなかったが、愛しい女が煽ってきた以上、黙っておくことはできなかった。


「あぁ……それ……こわぃ……おなかぁ……」

「なに? いやなの?」

「ぃやじゃない……して?」


 ルシアンがベルの腹筋を撫でながら、見せびらかすように拳を目の前に出した瞬間、勢いよく寝室の扉が開かれた。


「朝ですよー? ルシアン様? その拳はなんですか? まさか朝から盛ろうなどと思っていませんよね?」

「ベルも早く起きてねぇ? 使用人さん達に噂されるよぉ? 朝から牛みたいな汚い声がするって」


 ルシアンとベルのむせかえるほどに甘い雰囲気をぶち壊したのは、アーシェとウルスラの容赦のない冷たい言葉達だった。


「はぁ……最終日をベルちゃんに譲ったことを後悔してます。うわぁ……あざの数がすごい」

「どうせ後先考えずに、先生のこと煽りまくってぐちゃぐちゃにされたんでしょぉ? いつものことだよぉ」


 二人はベルのことを好き勝手に言いたい放題だったが、ウルスラが言っていることはその通りだった。

 ルシアンはアーシェに身支度をかされながらも、婚約者達が作り出す心地の良い空間に幸福の笑顔を浮かべていた。


「あたしは長姉ちょうしだぞ! 姉を敬え!」

「はいはぁい。メス牛ねぇさまも早く準備してくださいねぇ」


 聞き慣れたベルとウルスラのやりとりを聞きながら、三人の婚約者の姿を見つめる。


 ——美しくなった。


 真に愛する者とはこんなに輝いて見えるものなのかと、この二ヶ月間で幾度となくいだいてきた感想が湧き上がってくる。


 青い瞳から聡明さが滲み出ているやわらかな青髪のアーシェは、ひとたび笑顔を振りまけば、人の心を明るく照らして癒してくれる。彼女はミーリス領にとっても、ルシアンにとっても、太陽のような存在だ。

 戦士の苛烈さと騎士の高潔な精神を持ち、豊満な肉体の妖艶さを共存させている赤髪のベルは、黒刃狼を討伐した事で、ラクシャク市民からも頼られている。そんな彼女を汚い声で鳴かせる瞬間はたまらない。

 花のような可憐さと小悪魔のような生意気さという相反あいはんする二つの姿を内包している黒髪のウルスラは、簡単にルシアンの心に入り込み奪っていく。ラクシャクに最も多くの笑顔を届けたのは彼女だ。


 この三人に愛をそそがれて溺れない男など存在しない。しかしルシアンは今日こんにち、心地の良い狂愛の沼から抜け出さなければならない。そのことに少し心細くなっていた。


 弱くなった……そう感じる者もいるかもしれないが、それは違う。逆だ。ルシアンはさらに強くなったのだ。大切なもの、守るべきもの、愛するものが増えることは強者の証だ。

 愛するものを守るためならば、天国の果てだろうが、地獄の底だろうが駆け抜ける。神や悪魔すらも殺し尽くしてみせると言いきれる。できるかできないかの話ではない。自身の全てを賭けることができるということが強者の心構えなのだ。


「……三人ともそろそろ行こうか」


 長いことダラダラ過ごしていたルシアンは、久しぶりに『賢人』の顔つきで三人を呼んだ。その瞳には強い決意の炎が宿っていた。

 当の三人は、ルシアンの顔を見て恋焦がれる乙女のように恍惚こうこつとしていた。


「……ルシアン様? こっそり私の寝室に行きませんか? 王都に行くのは来週にしましょう」

「ルシアンかっこい……もっと跡をつけてくれぇ」

「私の旦那さまぁ……まだここにいてよぉ」


 ルシアンは絡みついてくる三人の甘い匂いに誘惑されて、心地の良い沼に引きずり込まれそうになったが、騎士時代に鍛えられた鋼の決断力で耐え凌いだ。


(く、くっそぉ……三人とも帰ってきたら覚えてろぉ。特にアーシェは絶対ぐちゃぐちゃにしてやる! しばらく部屋から出てこれなくなるくらい可愛がってやるッ!)


 何ともない顔でかっこつけていたルシアンの理性は、本当にギリギリだった。

 絡みついてきた時に、誘うように耳を舐めてきたアーシェを、蹂躙すると誓ったルシアンは、三人と共に寝室を後にした。





 ラクシャク南部の農耕地域の田舎道では、王都へと発つルシアンを見送るミーリス家の面々が集っていた。


「……息災でな。何かあればすぐに連絡をよこすといい。そうでなくても連絡は取り合うだろうが」

「ルシアン。母を抱きしめてちょうだい? せっかく騎士のお役目を終えたというのに、あなたは全く!」


 ルシアンはマリーダと抱擁を交わしながら、騎士として旅立った日のことを思い出していた。

 当時はルシアンの方が大泣きしていたが、今では父と母になったエドワードとマリーダの方が、泣き出しそうで思わず笑ってしまった。


「ルシアン様! ラクシャクは私たちに任せてください! あなたの意志は私たちの意志です!」

「ルシアン! あなたが帰る場所は、あたしが責任を持って守ってみせるぞ!」

「旦那さまぁ? 帰ってきたらつよぉい私たちが何でもしてあげるから……はやく帰ってきてねぇ」


 もはや彼女達が奴隷だったことなど誰も信じない。それほどに強く美しくなった婚約者達を抱きしめて、愛の言葉を交わした。


「みんな大袈裟だよ……たった二月ほど王都に出張するだけだよ? でもありがとう。さらにやる気が出たよ! 僕はみんなを愛している。ラクシャクを——ミーリス領とそこに生きる人達のことごとくを愛しているよ。行ってくるね! みんな」


 そう告げて馬車に乗り込んだルシアンは、後ろを振り返ることはしなかった。

「行ってらっしゃい」という愛するもの達の声を聞いて、胸に広がる心地良い痛みを噛み締めていた。


 馬車の窓から流れ込む空気がおいしかった。

 米の稲穂が幻想的に輝いて見えた。

 瞳を閉じれば、幾人もの愛しい顔が浮かんだ。


 吸い込んだ空気が澄んでいるように感じ、見慣れた風景が輝いて見えて、浮かんでくる愛しい者の顔が増えたことを改めて認識したその時。


 ——ひとつの真理に触れた。


 人間は、何度でも生まれ変わるのだと理解した。これは輪廻転生や再誕のたぐいではない。

 人間は生きている間に成長することで、何度でも生まれ変わることができるのだ。

 孤児時代にエドワードに保護をされてラクシャクを訪れた時に、世界はこんなにも美しいのかと知った。初めて生まれ変わったのはこの時だ。今まで汚く見えていた世界が綺麗に見えたのだ。

 二度目は騎士から解放された時だ。ミーリス領に帰還する時は、歩き慣れた王都の道が色づいて見えた。

 そして真愛という感情を手に入れたことで、世界はさらに輝きを増している。これが三度目だ。

 

(あぁ……孤児だった時に諦めて死なないでよかった。騎士だった時に死に物狂いで生き残ってよかった。だって……だってッ!)


 ——人生とはこんなにも素晴らしいのだから。


 三度の生まれ変わりを果たしたルシアンは、再び新たな人生を歩み始めた。





 

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