第19話 卒業式
三月十七日。
とうとう卒業式の日が来た。生徒数が極めて少ないため、全校生および卒業生の父兄用のパイプ椅子を並べても、体育館の中は、がらんどうだった。
この前、入学したと思ったら、もう卒業か……。
席に着いたヤスノリの思いを残して、卒業証書の授与が始まる。まずは出席番号が一番のゾッピからだ。クラスの道化師も、この時ばかりは神妙な顔つきで、名前を呼ばれたら、はい、と答えて、予行演習通り壇上に上がり、卒業証書を受け取っている。
ヤスノリは、壇上の脇の引幕に目が留まった。
ゾッピのやつ、あの幕を渡し板から伝って演壇まで下りたんだよなあ……。
この前の、体育館清掃を思い出しながら、左端に手繰り寄せられている引幕を見たが、その視線の向きは、偶然にも、あの時の河上先生とほぼ同じだった。
ヤスノリは、はっとなった。
先生は待っていてくれたんだ……。
河上先生はゾッピが引幕を伝って下りるのを目撃したが、すぐに叱るとゾッピが驚いて手を離して落ちてしまってはいけないと思い、ちゃんと演壇に足が着くまで叱るのを待っていてくれたことを、ヤスノリは悟った。
気が付くと、順番に卒業生の名前が呼ばれ、ミツアキが壇上に上がり、証書を受け取っている。
次は僕だ……。
そう思って身が引き締まった時、自分の名前がフルネームで呼ばれるのが聞こえた。
「中田康範」
はい、とできるだけ通る声で返事をする。
自分の名前がフルネームで呼ばれたのは、思い出せる限りではこれまでで三度しかない。入学式の時。去年、初めて河上先生がクラス担任になって、顔と名前を覚えるからと、一人一人確かめるように連呼していった時。そして、今、この時。
ヤスノリは、少し緊張しながらも、足元に気を配りながら壇上に上がり、証書を受け取る。
パイプ椅子の自分の席に戻ると、頭を動かさないように注意しながら、やたらと広い講堂のあちらこちらに目をやってみた。
やがてヤスノリの視線は足元の床にも落ちた。そうだった。今、この水床島小学校を巣立とうとしている第六学年の男子全六名は、先日、この床の下を、掃除を放り出して探検していたのだった。
あの時は楽しかったなあ。いい思い出になった……。来月からは中学生だ。もうこの講堂ともお別れか。もう二度と体育館でほうき蹴りや床下探険が出来ないのか……。
そう思うと不覚にも目に涙がにじんでしまった。
僕の自由の日々よ、さようなら。ああ、さようなら……。
卒業式が始まる前に、途中で女子の誰かが泣くかな、と思ったが、他に誰も泣いて
いなかった。
ヤスノリは周りに悟られないように懸命になった。去年の卒業式では、涙ぐんでいた六年生の女の子を、わざとらしい、と冷めた目で見ていたのに、今年は、まさか自分が涙ぐむなんて考えられないような展開だった。
ちくしょう、涙なんかさっさと引っ込め。こんなところ誰かに見られたら最悪だ……。
式が済むと父兄も含めて全員が教室に戻ったが、そのころにはヤスノリの涙も乾いていた。
河上先生とも一応、今日でお別れだけど、るびすやに下宿してるから、会いたければいつでも会える……
ヤスノリだけでなくクラスの皆がそう思っていたのだろうか。先生が、じゃあ、これでおしまいです。皆さん、元気でね、と言っても、誰も泣かなかった。
そうだった。河上先生はもう水床島の島民になっていたのだった。
さあ、解散、という前に、思い出したように先生が言った。
「ああ、そうそう。ハナちゃんのことなんですが、今月中には神戸の親戚のおうちに移って、四月からは向こうの中学校に通うことになりました。僕は前から知っていたんですが、本人の希望で他の皆には、今日になるまでは言わないで、ってことだったので……」
クラス中がしんとなる。
去年、ハナに変顔を見られて、お互いに気まずい思いになってしまっていたが、本土のS町の中学校に入ったら、たとえ同じクラスになっても一教室に四十名以上はいる、と聞いていたので、そこそこの距離が保てるかな、と思い、少し気を取り直していたヤスノリにとって、思いもよらない知らせだった。
ハナは先生に呼ばれて前に出ると、別れの言葉を告げた。
「今まで皆と一緒で楽しかったです。私も向こうで頑張るので、皆も頑張ってください」
ヤスノリはハナのことを懸命に考えないようにしたが、頭の中で考えないようにしようとすればするほど、ハナへの思いが湧き上がって来た。
だめだ。気持ちの整理がつかなくなってしまう……。
ヤスノリは、ハナの顔を見ないようにして、ミツアキを誘い、クラスの後ろで立っている自分の母親とミツアキの母親であるミチおばさんのところへ行った。
ハナがいなくなる、という想定外の展開に、母の所へ行けば、持て余し気味の気持ちも少しは晴れるだろう、との思いからだった。
教室を出ると、前を卒業生とその親がペアになり、校門まで列を作って歩いた。列の一番最後にミツアキ親子とヤスノリ親子の組が並んだ。
校門の所まで来ると、列の一番最後を歩いていたヤスノリは、名残惜しさで後ろに
なってしまった教室を振り返ってみた。もう誰も残っていないはずだ、と思われた教室の方からハナが駆けて来た。
「あら、ハナちゃん」
少し息を切らしながら走って来たハナに、ヤスノリの母が声をかける。
「あなた、神戸に引っ越してしまうのね」
ハナは、ええ、と小さくうなずいた。
「今まで、うちのヤスノリと仲良くしてくれてありがとうね……。ほら、ヤスノリ。ハナちゃんに、さよならは?」
うつむきかげんで、コンパスのように左足を軸にして、もう片方の足で宙を払っていたヤスノリは、ぶっきらぼうに言葉を返した。
「じゃあな」
「もう、この子ったら……」
「いいんです、おばさん」
少しとがめ気味だった母にハナは柔らかく言うと、ミツアキをちらりと見て、さよなら、と小さな声で別れを告げて、返事も待たずに駆けて行った。
「じゃあ、私たちはもう帰るわね」
母とミチおばさんは、ヤスノリたちを残して家路に就いた。
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