第5話 学校に泊まる


 夏休みが嬉しいのは七月いっぱいで、八月に入ると早、過ぎ去ってゆく日が一日一日と惜しくなる。そんなことを感じるのは、きっと、どの小学生にとっても、同じことだろう。

 夏休み。ヤスノリはミツアキたち三人のいとこと、ほぼ毎日のように遊んで過ごしていたが、八月二十日の登校日がついに来た。

毎年この日が来ると、胸に重しを載せられたような気持ちになってくる。それでも

たったひとつの救いと言えば、学校で久しぶりに河上先生や毎日会っているミツアキ以外の友だちに会えることだった。


「さて、この二学期は結構忙しいですよ。十月には修学旅行、そして十二月には運動会があります」

 登校日の教室で先生が言うとクラス中に、ああ、という期待に満ちた声が漏れた。止めることのできない、ただ過ぎ去って行くだけの夏の日々。もう戻って来ることはない小学校最後の夏の日々。けれど、代わりに、もうすぐ来る二学期には、初めての修学旅行という新しい楽しみが待っていてくれる。

 河上先生は言葉を続けた。

「それで、十月の修学旅行についてなんですが、おそらく、皆さんにとっては初めての外泊、つまり自分の家以外の所で泊まることになります。そこで今月の末、これはまあ、前から決まっていたことなんですが、この教室で宿泊訓練を行うことになりました。八月二十九日の夕方六時。学校にトレパン、トレシャツ姿で、一日分の下着の着がえとタオルを持って来てください。着がえは水泳の水着入れに入れるといいですよ。ああ、それから二十九日の夕食はおうちで早めに済ませ、お風呂に入ってから来るようにね。今、言ったことを忘れないよう、メモをしておきましょう」

 学校に泊まるなんて初めてだ。なんだか胸がむずむずする……。

「先生、夜中に『赤シャグマ』が出てくれるといいね。きっと朝、目覚ましの代わりに足の裏をくすぐって起こしてくれるだろうから……」

 ゾッピがふざけてみせる。

「もう、あんた、またそんなこと言って……」

 隣の席のワックがゾッピを叩く真似をすると、クラスに笑い声が漏れる。

 コンクリートと街灯に囲まれた都会と違って、自然に包まれた田舎の夜というのはもの寂しい。物音ひとつしない夜に眠る時、風にゆれる木々の枝が障子に映ると、何か潜んでいるのではないか、というような錯覚が起きることもありえないわけではない。ちょうど、昔、ミツアキの末の弟、マサルが闇に悪者がいる、と怖がったように……。


学校での宿泊訓練が決まった日の夜。一階の居間で、母は、もう亡くなった祖父セイチがまだ若かった頃、肝試しに、先祖の墓の前で一夜を過ごした時のことを話してくれた。祖父セイチはヤスノリが三年生の時の春に老衰で静かに息を引き取ったのだった。

「おじいちゃん、言ってたわ。怖いと思うのは最初のうちだけで、墓の前で一晩過ごしたら、幽霊なんかもう信じなくなる、って……」

 ふーん、と言おうとした時、ミシッ、ミシッ、という音がした。居間の壁の向こうで、昼間、熱で膨張していた木の階段が、夜になって気温が下がり、収縮して鳴っているのだ。

「ああ、まただわね」

 母は言う。ヤスノリも笑う。

ほんと、まるで誰もいないのに人が階段を上って行っているみたいだ……。


 八月二十九日の夕方六時。水床島小学校六年生十一名全員が教室にそろった。教室の窓を開け、机といすを後ろに片づけて、床を掃除する。いよいよ学校で宿泊だ。東北地方でもないのに「座敷わらし」のような伝説(?)のある水床島小学校の六年生の教室の床の上でザコ寝である。

二階にある教室の窓からは灌頂ヶ浜が見える。夕方の海風で、窓の開けられた教室の中は思ったほど暑くはない。

「さあ、今夜は学校が旅館ですよ」

 河上先生が冗談を言う。

「あのね、先生。父さんがこれを持ってけ、って」

 ハナはそう言うと、蚊取り線香とホルダー、それにマッチをさし出した。

「ああ、ハナちゃん。気が利くね。でも、多分、蚊取り線香無しでも、今夜は大丈夫だと思いますよ。だって、ほら、この前の登校日も教室の窓を開けたけど、あの時も蚊はいなかったでしょう?」

先生の言うとおりだった。校舎の周りには木や植物が無く、溝や用水路のような水も流れていなかったので、窓を開けても教室には蚊や小さな虫さえも入って来なかった。

「でも、せっかく持って来てくれたんだし、もしかしたら君たちがここへ来る時に、

後をついて来たかもしれないから、念のため蚊取り線香を焚いておきましょうか」

 ハナは、うん、とうなずいて、マッチをすって、うず巻きをした草色の蚊取り線香のとがった先に火を点けた。丸く平たいホルダーに蚊取り線香を置くと、白く細い煙がひとすじ上り、辺りには独特のにおいが立ち込めた。蚊取り線香の白く細い煙は、まるでこれから何かが起きることを告げる狼煙(のろし)のように立ち上っている。

 ヤスノリは窓の外に目を移した。

 日が暮れて、早や外は暗い。

「さあ、もう寝ましょうか」

 先生は皆に床の上でザコ寝をするよう促すと教室の電気を消した。

「うわぁ、早く『赤シャグマ』、出ないかな」

 ゾッピの声がする。皆、くすくす笑う。

「子供は早寝早起き」

 先生の声を最後に、辺りは無言となり、夜は更けて行った。


 ヤスノリは、辺りの明るさで目が覚めた。まだ眠気が残っている。

 あれ、なんか違う。僕の部屋じゃない……。

 体を少し起こすと、古くて堅い木の床の上で寝ているのに気が付いた。

 そうか、宿泊訓練で学校に泊まってたんだ……。

 ヤスノリは床の上で目を覚ましたまま横になる。

 今、何時だろう。六時くらいかな。

 背中が少し痛かった。

 あれ、ミツアキは……?

 ふと気づくと、隣で寝ていたはずの同じ年のいとこがいない。

 しばらくして、教室に足音を立てないように注意しながら入ってくる者の気配がした。

「赤シャグマ」ではなく、ミツアキだった。

「ちょっと、はばかりに……」

 そばに近づいてきて、ささやいたミツアキに気を取られ、ヤスノリはもう一人、後から遅れて教室に入ってきた者がいたのには気づかなかった。 

 ミツアキは仰向けになって、また、もう一眠りしようとしていた。


 昨夜、河上先生が言ったように、もともとこの校舎には蚊がいなかったからか、それともハナが持ってきた蚊取り線香のおかげか、ヤスノリたちは蚊に悩まされずに眠ることができ、朝をゆっくりと迎えられるはずだった……。


 とつぜん、辺りの空気を切り裂くような声がした。

 ゾッピだ……。

 一人また一人と、眠気を払うようにして上半身を起こし始める。

「どうしたの?」

 少し眠そうな声で、様子を確かめるために近づいて来た河上先生が尋ねる。

「か、顔の上をゴキブリがぁ……!」

 ゾッピの指さした方向を見ると、一匹のゴキブリが逃げ去って行くところだった。

 朝の光が差し込み始めた教室は笑い声で満たされたが、やがてハナのこう言う声が聞こえた。

「あたし、妖怪よりゴキブリの方が怖いわ」

ゾッピは昨夜、「赤シャグマ」が起こしてくれるといいね、と言ったが、妖怪の代わりにゴキブリに顔をくすぐられて起こされたようだった。

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