哀別のテロル






『おーい、開けてくれ。俺だ、セヴラン・ヴァロールだ』


「おじさん?」


 それは何年も前の昼下がり。まだ大陸間戦争が始まっていなくて、世界がエルフリーデ・イルーシャの名を知らなかった時代。

 ありったけの悪逆と不平等が世界のどこかに横たわっていながら、大国の民衆がそれを見なかったことにしていられたあの頃。

 併合されたバナヴィアの地は、決して楽ではない暮らしだったけれど――それでもまだ、平和と呼ぶことができた子供時代。

 懐かしい昔の夢だった。


 ちょうどお昼寝にぴったりのぽかぽかとした日差しが差し込む時分、家の玄関で鳴った呼び鈴――エルフリーデがドアを開けると、そこに立っていたのは父の友人だった。

 作業服姿のやや軽薄そうな中年男性は、例によってそり残しの無精髭が残っているような有様である。セヴラン・ヴァロールは顔の造形こそいいのだが、そういうところでだらしがない。

 エルフリーデそういうのを気にする年頃だったので、容赦なくダメ出しした。


「セヴランおじさん、髭。清潔感がない男の人はダメだと思うよ」


「…………ふ、不意打ちで言うなぁエルフリーデ。おじさん、ちょっと傷ついたぞ」


「それで今日はどうしたの? 母さんはお昼寝中なんだけど……起こしてくる?」


 エルフリーデがそう尋ねると、セヴランは困ったように眉を下げた。


「ああいや、それには及ばない。ヘルミーナも大変だろ、内職とか家事とか……これな、みんなで食べてくれ」


 彼は両手に抱えていた大きな段ボール箱をエルフリーデに手渡した。

 重いから気をつけろよ、と言われながら受け取る――本当に重かった。箱の中を覗き込むと、瑞々しい野菜のにおいがした。

 赤く熟したトマトが無造作に並べられているのを見て、エルフリーデは「わぁ!」と弾んだ声をあげる。


 バナヴィアの中でも北方にあり、年間平均気温が低いロシュバレアは、決してトマトの栽培に適した土地ではない。

 そして旧バナヴィア王国の領土は帝国によって切り取られ、管区ごとに税金をかけられるようになったから、余所の土地から食料を輸入すると高くつくのだ。

 勉強ができる子であるエルフリーデは、そういうわけで今、ロシュバレアで食料品が値上がりしているという現実を知っている。

 新鮮な野菜なんて当然、市場でも値が張るメニューだ。


「こんなにいいの!?」


「ああ、どうせでな……形が悪くて市場には出しづらいし、どうせならお前やティアナちゃんに喰ってもらった方がいいだろ」


「いつもありがとう、セヴランおじさん! この前のお肉も美味しかった!」


 満面の笑みだった。

 エルフリーデは素直なお礼を口にしつつ、この前、セヴランが来たときに持ってきたベーコンの美味しさを思い出した。

 じゅわっと染み出る豚の脂の美味しさときたら素晴らしい。母と一緒にタマネギやにんじんといっしょに煮込んでスープにしたけれど――あれは本当に素晴らしいうま味の塊だ。

 このトマトだってきっと美味しい。新鮮なサラダ、焼き目をつけた焼きトマト、形が崩れるまで煮込んだシチュー。

 どんな食べ方をしても毎食、素晴らしい食事になることだろう。

 エルフリーデはニコニコと機嫌良く笑って、そういえばセヴランおじさんはちゃんとご飯を食べているんだろうか、と心配になった。


「でも、おじさんは大丈夫? ちゃんとご飯食べてるよね?」


「気にするなよ。これでもおじさん、結構、溜め込んでた方なんだぜ? 今は独り身でそんな金も使わないしな。いっぱい食べて元気に育てよ、エルフリーデ」


 セヴランおじさんはそう言って優しく笑う。

 それがエルフリーデの気を遣わせまいとした彼の嘘なのか、本当に貯金がいっぱいあったのか――どちらが真実だったのか、少女は知らない。

 常識的に考えれば、戦争に負けて占領された国の元軍人、しかも身体的障害を負った男にとって、戦後が生きやすいわけがないのに。

 不思議とそういうことを考えさせない、柔らかな雰囲気の人だった。

 そういう優しい人だから、エルフリーデはセヴランおじさんのことを好ましい人物だと思っていた。


「それじゃ、このトマトは――なあ、マジで重くないのか?」


 エルフリーデが段ボール箱を軽々と抱えているのを見て、セヴランはぎょっとしていた。


「うーん、そりゃ重いけど……持てなくはないよ?」


「エルフリーデは力持ちだよなあ……お前、運動神経もいいし、案外、陸上選手とか目指してみたらいいんじゃないか?」


「そうかな? わたし、そんな特技ある方じゃないけど」


 そんな軽口を叩くセヴランおじさんは、本当に優しい瞳でエルフリーデをのことを見ていた。くせっ毛の焦げ茶色の頭髪を眺めたあと、その背の高さを確認するように目を閉じて――彼はきびすを返そうとした。

 優しいおじさんの背中に例えようもない悲しみを感じて。思わずエルフリーデは呼び止めるように声をかけていた。


「おじさん? 待っててよ、お茶ぐらいは出せるし」


「いいよ。お母さんを起こしちゃ悪いだろ? あ、そういえばティアナちゃんは――」


「父さんと一緒に買い物に行ったよ、あの子、どうしても甘いお菓子を自分で選ぶんだーって」


 可愛い妹のことを話すとき、エルフリーデの顔は本当に幸せそうだった。振り返ってそれを目にして、セヴランはやれやれと肩をすくめた。


「ああ、そりゃあクリストフのやつ災難だったなあ。カミソリのクリストフも泣く子には勝てないってわけだ」


「カミソリ?」


 聞き慣れない異名に少女が首を傾げると、セヴランは愉快そうに笑った。

 過去を懐かしむように目を細めて、とっておきのネタを披露ひろうするように声を潜めた。


「カミソリのクリストフって言ってな、若い頃はそりゃもう尖りまくりのヤバいやつだったぜ――今はすっかり丸くなって良識派の教師だって言うんだから世の中、わからんよな」


「へー、父さんが……」


 想像も付かない過去の話であった――エルフリーデとティアナの父、クリストフ・イルーシャは落ち着きのある知識人という感じの父親である。

 とてもセヴランの語るカミソリなにがしとは結びつかない、穏やかな印象の人だった。

 人の歴史ありということだろうか。

 少女が目を輝かせているのを見て取って、セヴランは優しく微笑んだ。とっておきのお呪いをかけるみたいに、彼は優しく微笑んだ。




「だから、まあな。エルフリーデ、お前はきっと将来、。俺が保障する」




 何の根拠もない物言いだったけれど――大好きな父と同じだと言われたのが本当に嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。

 エルフリーデ・イルーシャは、はにかむように笑うのだった。







 記憶が人を形作る。それがどんな痛みを伴うとしても、過去をなかったことにすることなどできない。

 ベガニシュ人とバナヴィア人が、その根底にある思想からして別の存在であるように。

 人々はこう語るだろう。



――もう一五年もの時間が経ってしまったのだ、と。



 それは生まれたばかりの赤子が、年頃の少年少女となって恋を育むほどに成長する時間だった。

 ゆえに大人たちは、諦め混じりにこう話すのだ。



――バナヴィアは滅んだ、と。



 その諦念こそが過ちである。

 男は記録装置に吹き込まれた音声を再生した。

 それは彼自身が収録し、複製となって各地の同志に届けられた檄文げきぶんだった。



『あの敗戦から一五年が経った。ベガニシュ帝国はバナヴィアを併合した……では、民衆は戦う意思を忘れ去ったのか? 彼らはベガニシュに心からの忠誠を誓ったのか?』



 バナヴィア王国は滅ぼされた。その領土は貴族どもと総督府によって分割され、多額の税金と引き換えに、豊かな土地だけが自治区を名乗っている有様だ。

 しかしながら、民衆が何もかも諦めたから、こうなっているのではない。

 そのことを彼はよく知っていた。


『否、そうではない! 彼らはただ、今を生きるために自らの本心から目を逸らしている。では民衆は意志薄弱なのか? そうではないことを、我々はよく知っているはずだ。バナヴィア独立派の闘士とは元来、誰もが一市民に過ぎなかったのだから』


 抵抗運動組織レジスタンス――ベガニシュ帝国に言わせればテロリストである彼らは、しかしながら生まれながらの不穏分子などではない。

 誰もがバナヴィアの市民だった。そして帝国の軍事侵攻と苛烈な弾圧によって何かを失い、戦う道を選んだのである。

 特別な誰かなどいなかった。

 であれば本来、すべてのバナヴィア人は戦えるはずなのだ――そうなっていない理由を、録音された音声は歌いあげる。



『――恐怖テロル。それこそがベガニシュ帝国が駆使する最も強力な武器なのだ。彼らが振るう棍棒、彼らが落とす爆弾、冷酷で残忍な暴力こそが、人民を家畜のように怯えさせている』



 声が一端、そこで止まる。

 この演説を聴く誰もが、各々の記憶の中にある理不尽――家族や友人や知人、誰かしらがベガニシュ帝国のせいで失われたという事実――を思い出す時間だ。

 そうして呼び起こされた激情に火を点けるように、声が張り上げられた。



『だが、バナヴィアは豚ではないッ! 我々が下す裁きの鉄槌は、必ずや民衆の眠れる怒りを呼び覚ますだろうッ!』



 怒り。

 大切なものを奪われてきた人々の報われざるすべて。

 降り積もった感情を燃料にして、自らが何をこれから奪うのかという現実を忘れさせて――闘士たちを死へと駆り立てる声だった。



『諸君! 何者も我らを止めることはできないッ! バナヴィアの敵を殺すのだ、殺されることを恐れるなッ! 我々は来たるべき日に――のだッ!』



 さて、これからどれほど多くの同胞が死んでいくだろうか。

 男は悲しかった。燃えたぎるような怒りが胸の内に充満しているのに、やるせない哀別の情は消えてくれなかった。

 深い悲しみの中で、〈守護の短剣マンゴーシュ〉は目を開けた。

 ローターブレードの回転音が集音センサーを叩き続ける。超低空で地面を掠めるような高度を飛ぶティルトローター輸送機の中で、深緑色の巨人のカメラアイが輝いた。

 まるで鴉のくちばしのような仮面、殺戮機構たる巨人と融合して、光り輝く脊髄――電脳棺コフィンに溶け込んだ意識がこう呟いた。







「――さあ、俺たちの戦争を始めよう」








 それが後に、ヴガレムル同時多発テロと呼ばれる事件の狼煙のろしだった。












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