第20話

西暦2020年9月1日火曜日。

‥‥‥ではなかった事実に後ほど樋口ソフィアは打ちのめされる。

チュン,チュン,チュン‥‥‥

ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。

「うーん!」

体を起こしてベッドの上で手を挙げて思い切り背伸びをする。

何か久しぶりに清々しい気分の朝だ。

少し窓のカーテンを開けて外を眺めてみる。

清々しい気分ではあるものの,昨日ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂前で会ったシスターの話が気になっており,未だ喉の奥に何かが痞えている感じで仕方ない。

だからと言って情報が少ない現在の状況では分析できず,どんなに悩んでも仕様がないのも理解している。

今は気持ちを切り替えて置かれた状況を楽しむことにした。

(そういえば,あとは加地さんだけだよね。今日はどんな感じで加地さんと出会えるんだろう)

あとは,長尾智恵の幼馴染で残っているのは加地美鳥のみとなっている。

どんな風に接触してくるのだろうと思うと楽しみで仕方がない。

(最初のうちは学校に着いてからだったのが,一昨日はバスの中で,昨日は家の玄関前になった。だとしたら今日は‥‥‥いやいや,もう家の中にいるなんてのは幾ら何でもあり得ないか‥‥‥)

樋口ソフィアは家の中を捜索して回り彼女が居ないのを確認すると失笑を零し,学校に向かった。

(こんな妄想していて遅刻したなんて言ったら馬鹿馬鹿しいもんね)


『次は聖ウェヌス女学院前‥‥‥』

アナウンスが流れて樋口ソフィアが乗車していた停留所に滑り込む。

バスから電車,更にバスと乗り継いだが,学校に着くまで何も起こらなかった。

(真珠から晶良の6人まで色んな仕掛けをしてきてドッキリさせたんだから‥‥‥加地さんは何処で声を掛けてくる気なんだろう?)

それも愉しみのひとつと捉えるようになっていた。

「おはようございます!」

「はい,おはよう」

正門前まで来るといつものように女子生徒が先生に挨拶をしていた。

ここ8日間変わらない光景‥‥‥と思っていたのだが,次に聞こえたある女子生徒の言葉に樋口ソフィアは固まってしまう。

「今日から授業始まるのかぁ‥‥‥何か憂鬱だね。もう少し夏休み長かったらいいのにな。大学生はまだ休みなんでしょ」

「貴女はいつも休みみたいなものじゃない? あははは‥‥‥」

「もう! 酷い! そんなことないもん!」

昨日まで何度も聞いたはずの会話内容ではなかった。

(‥‥‥って,えっ? 今日から授業‥‥‥ってどういうこと?)

樋口ソフィアは頭の中をグルグルとネガティブな思考が巡り混乱してしまう。

「おはよう! ソフィアちゃん!」

後ろから駆けて来て声を掛けてきたのは長尾智恵で隣には加地美鳥も居た。

長尾智恵の声で我に返った樋口ソフィアは思わず自分の鞄を放り出し長尾智恵の両肩を掴んで揺する。

「ねぇ,長尾さん今日から授業って本当!?」

「いったいどうしたの? 落ち着いてよ」

長尾智恵は樋口ソフィアのいつもと違う態度と動揺ぶりに正直引くほど驚いたがフーッと一呼吸置いて喋りだす。

「とにかく,落ち着いてソフィアちゃん。確かに今日から授業よ。昨日が始業式だったんだから当然でしょ」

「えっ! えーっ!」

「そんなに驚くようなこと? ソフィアちゃんだって昨日ちゃんと始業式に出ていたじゃない。本当にもうどうしちゃったのよ‥‥‥」

樋口ソフィアは次の言葉が出てこない。

確かに昨日は始業式で確かに出席していた。

昨日までは8日間連続で始業式の日が繰り返されてたから疑うことなく今日も始業式の日だと思っていた。

それにまだ加地美鳥が友達になっていないし何か裏切られた気分だった。

(もしかして加地さんと仲良くなるチャンスはもうない? 1日1人ずつだったの? 私が1日ずる休みした日があったから終了なの?)

逆恨みのような感情を目に籠めて思わず加地美鳥の方を睨みつけていた。

「どうしたの? 私の顔に何かついているかしら?」

加地美鳥はそんな樋口ソフィアの逆恨みのような視線にも我関せずで何か樋口ソフィアの心の内を見透かしたように話しかけてくる。

「えっ,何? 2人ともどうしたの?」

それでもジーッと睨む樋口ソフィアとそれを軽く受け流す加地美鳥の表情を交互に見るように長尾智恵は左右に首を振って戸惑う。

「何でもないわ。さ,行きましょう! 智恵」

「う,うん」

加地美鳥は長尾智恵の手を引いて樋口ソフィアを無視して遊歩道を高等部校舎の方へと早歩きで連れ立って行ってしまった。

(何? どういうこと? 加地さんは私の仲間にはならないの? それより今日より授業って,何も準備してきていないし‥‥‥どうしよう‥‥‥)

他の女子生徒たちがそれぞれの校舎に向かう流れの中を樋口ソフィアは長尾智恵と加地水鳥の歩く姿を見送りながら呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。


キーン,コーン,カーン,コーン‥‥‥

始業のチャイムが鳴り,1年A組の教室には生徒たちが席に座り,ショートホームルームが始まるのを待っていた。

たった一人,樋口ソフィアを除いて。

(ソフィアちゃん本当にどうしたんだろう‥‥‥何故か今日から授業があるのを知らなかったようだし‥‥‥)

長尾智恵は先程の加地美鳥と樋口ソフィアのやり取りを引き摺り動揺していた。

ふと空席となっている樋口ソフィアの机を見た刹那,ガラッと教室の扉が開き,担任の山県朋未が入ってくる。

いつもならそのタイミングで起立の号令を発する長尾智恵だが,気が逸れていたためワンテンポ遅れてしまった。

「起立っ!」

長尾智恵の号令とともに席を立つ生徒たち。

「礼っ! ‥‥‥着席っ!」

教壇に立つ山県朋未に向けて生徒たちが一礼をして席に座る。

山県朋未は教室を見回して樋口ソフィアの席が空いているのを確認して話を始める。

「えー,出席を取ります。あと樋口さんは病欠で今日はお休みするそうです」

さっき校門前で逢った時は元気そうだったのにと長尾智恵は疑問に思い,不意に加地美鳥の方を見るとちらりと視線を長尾智恵とは逆の窓の方に向けているが横顔からでも口角を上げて不敵な笑みを浮かべているのが分かった。

その横顔は長尾智恵も今までに見たことないくらいに冷酷な表情で背筋に悪寒が走りゾクッと身震いをした。

ショートホームルームが終わり,山県朋未が退室しようと教室の扉に手を掛ける。

その時,背後から長尾智恵が声を掛けた。

「先生,樋口さんのことですが‥‥‥」

「どうかしました? 長尾さん」

山県朋未は扉に掛けた手を離して,長尾智恵の方へ振り返る。

「私,登校してきた時に樋口さんと正門前で逢ったんですが‥‥‥」

「ああ,何か正門前まで来て急に気分が悪くなり帰宅したようですよ」

「そうなんですか‥‥‥」

「それだけですか? では‥‥‥あっ,そうそう‥‥‥」

山県朋未は何かを思い出したように喋りだした。

「今日の放課後は生徒会の活動があるとは思いますが,そちらはいいので学長室に行ってください。馬場学長からお話があるそうです。必ず忘れずにお願いしますね」

「えっ!? あっ,はい‥‥‥分かりました」

念を押すと山県朋未は教室から出て行った。

思わぬ言葉に長尾智恵は気の抜けた返事をしていた。

(馬場学長が私に用事‥‥‥レポートの件? それとも生徒会の件?)


今日の授業が総て終了して,山県朋未は長尾智恵に改めて学長室への呼び出しを念押しして教室から出て行った。

長尾智恵は言われた通り学長室に向かい,扉を「コン,コン,コン」と叩く。

「どうぞ。お入りなさい」

馬場佐波の声がしたので長尾智恵は扉を開ける。

「失礼します」

長尾智恵は扉を開けて一礼する。

顔を上げて室内を見ると中央の重厚な応接テーブルの片側のソファに馬場佐波と内藤真琴が掛けていた。

手前の脇のサービスワゴン前には長尾智恵に背を向けているが学年主任の高坂愛実が立っていて紅茶を淹れる準備をしている。

馬場佐波はこの聖ウェヌス女学院の卒業生であり,長尾智恵にとっては大先輩にもあたる。

高等部学長をしているが,大学の方でも宗教社会学の教授も務めている。

馬場佐波の横に座る内藤真琴は馬場佐波の姪と云われているが,その中性的な容姿から美丈夫と持て囃され「本当に男性ではないのか?」と噂も立つほどの人物である。

唯一学長室に居る中では聖ウェヌス女学院の出身者ではないのが余計に「女性ではないのでは?」という噂を助長している。

大学の方では宗教心理学の准教授も務めている。

高坂愛実もこの聖ウェヌス女学院の卒業生で宗教心理学の博士号を持っている。

居並ぶ教師たちを見て,長尾智恵は若干引き攣った感じになりはしたが,馬場佐波が奥に来るように促し,向かいのソファの前に立つ。

「馬場学長,何か私に御用でしょうか?」

「長尾さん,まずはお座りになって」

「はい。では失礼します」

長尾智恵は馬場佐波に勧められたソファに腰を下ろした。

「長尾さんは次の生徒会長の選挙に出馬されるそうですね」

「ええ,そのつもりです」

内藤真実の問いに長尾智恵は答えた。

現時点は長尾智恵が生徒会長の椅子に一番近いと云われており,他に逸材もいないと評されており,それは高等部内の生徒の一致した見解でもある。

そんな話を訊くためにわざわざ呼び出されるのもおかしいなと長尾智恵は感じた。

高坂愛実が長尾智恵,馬場佐波,内藤真琴の前に紅茶を淹れたティーカップを置き,脇にある一人掛けのソファに座った。

「さあ,お召し上がりになって‥‥‥」

馬場佐波は彼女の前に置かれたティーカップを取り紅茶で口を潤す。

「高坂先生の淹れる紅茶は絶品ですよ」

「お褒め戴きありがとうございます」

長尾智恵も一口紅茶を飲んでみる。

「美味しい‥‥‥」

流石,馬場佐波に絶品と評されるだけはある。

専門店にも負けない味だった。

「さて,長尾さんにはどうしても片付けて頂きたい問題があります」

「片付ける問題ですか‥‥‥」

長尾智恵はレポートの件が頭に浮かび,まだ手を付け始めたばかりだと謝罪しようと口を開こうとする。

馬場佐波はそれを手で制して軽く頷くと徐に立ち上がり窓の方へ歩いて行く。

その姿を長尾智恵も眼で追い掛ける。

窓の外には正面のグラウンドと左手には正門へと繋がる遊歩道が見渡せる。

馬場佐波は窓の前まで進むと暫く外を眺めて振り返り長尾智恵を見ると話を進めた。

「長尾さん,あなたは今朝の登校時に何か違和感がありませんでしたか?」

「違和感‥‥‥ですか?」

長尾智恵は確かに今朝の登校時の正門での出来事に違和感があった。

あの加地美鳥の態度,それよりもショートホームルームの時の悪寒を呼ぶ冷徹さを感じる嘲笑‥‥‥そのことを馬場佐波にも話す。

「でも,加地さんは初等部からずっと一緒ですがあんな表情をするような娘ではないんです」

「それは私もずっと見てきましたからそんな娘ではないのは知っていますよ」

長尾智恵は陰口を言っているような嫌悪感を抱いてしまったが,高坂愛実がそれをフォローしてくれた。

「長尾さんは気づいていないとは思いますが,昨日の始業式という日が数回ほど繰り返されていたと観測されました。その証拠もあります。まあ,信じてという方が無理なのは理解しますが‥‥‥」

馬場佐波の唐突な発言に長尾智恵は猜疑心に苛まれ「学長の頭がおかしくなったのでは‥‥‥」と感じた。

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