第22話  再び反信長勢力の結束

大坂本願寺より、信長に贈り物が届いた。ひとつは玉潤仲石が描いた山水画「万里江山」の軸である。いまひとつは、美濃志野焼の白天目である。


「ちかごろ、茶器ひとつで一国であると噂されておるが。真の様である」と手にした信長が評した。


「このようなもので、この信長を懐柔していできるとは思うってはおらぬであろうが、それ

 はそれとして、名物はいただいておく。令状は送っておけと」、祐筆武井夕庵に申し付けた。


大坂の事より、信長のなかでの気がかりは、松永久秀の動向であった。

(近頃、妙な動きをしておる。この信長に謀反か。久秀ほどの男であれば、さもありなかとは思うが、あやつを失いたくはない)と信長は考えていた。


四月十七日、三好義継と松永久秀は、畠山昭高の家臣安見新七郎が守る河内交野城を攻めるという非儀にでた。これに対して信長は、柴田勝家、佐久間信盛、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、斎藤利次、稲葉良通、氏家直通、伊賀伊賀守定治、不破光治、丸毛長照、多賀常則、畿内の奉公衆等を派遣し、城をの周囲にしし垣をまわし、風雨の隙をついて、新七郎を救い出し三好軍を退けた。三好は若江に引き帰り、松永は信貴山城、息は多聞山城に逃げ帰った。


五月十九日、河内の状況を見届けて信長は岐阜へと帰り、夏を岐阜で過ごした。


七月十九日、十五歳となった嫡男奇妙丸の具足はじめとして、信長が同道して近江江北に出陣。その日に岐阜の赤坂に入った。翌日、横山城に陣を敷き、二十一日から浅井の小谷城を攻め、ひばり山、虎後前山に兵を入れ佐久間盛信、柴田勝家、秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆らに命じて城下清水谷を破らせ、先手として柴田、稲葉、氏家、伊賀らを差し向け水の手曲輪まで追撃した。


二十日、阿閉阿波守貞征が守る山本山城には秀吉を遣わされ城に放火。すると城中の足軽が百人ばかり城から打ち出てきて、切りあいになった。秀吉はそれを見計らってそれを切り崩し、討ち取った。これを聞いた信長は秀吉に褒美を遣わした。


七月二十三日、さらに兵を出して、近江と越前の国境の余呉、木之本にある地蔵坊をはじめ堂、伽藍、名所旧跡すべてを一屋も残さず悉く焼き払わせた。


二十四日、東草野の谷に放火したが、高山にある要塞化された大吉寺の五十坊に麓の百姓どもが登り籠城している姿を見た信長は、正面は厳しい山道が続き上るに険しいとして、まずは、麓の村を焼き払い、夜中に丹羽、秀吉に命じて、背後の山から山伝いに攻めさせることとした。僧や一揆勢が背後から襲われて切り捨てられた。


琵琶湖では、打ちおろし城に、林員清、明智光秀、堅田の猪飼野正勝、山岡景猶、馬場孫次郎、居初又次郎に仰せつけ、矢板で囲った「囲舟」をこしらえさせ、海津浦、塩津浦、余呉入海から江北の拠点を焼き払わせた。竹生島では、舟を島に寄せ、火矢、大筒、鉄砲をもって海戦を挑んだ。


これらの戦いにより、江北の一揆を中心とした村々の反信長勢力は風に木の葉の散るがごとく散り失せ壊滅した。浅井方の勢力は次第次第に手薄となっていった。


二十七日から虎後前山に取出を築くことを命じる。

これに対して浅井方は朝倉に急報を告げた。


長嶋でまた一揆勢が蜂起したので、織田方は尾張と美濃の路次を止めて対応した。朝倉は、浅井からの報を聞き、義景は一万五千の兵を持って一乗谷を発った。


二十九日、小谷城に朝倉の兵が到着するといえども、その兵の装備は拙く、度重ななる出兵からその士気も上がっていなかった。


小谷城の大嶽砦に兵を入れた朝倉は、これからの戦略を指示し、すぐに数人の組として若武者を野や山に忍び入り潜伏させ、登旗をあちらこちらに立てさせ、軍団規模を大きく見せるとともに小競り合いを仕掛けた。


八月八日、越前の前波長俊親子三人は、朝倉軍団の疲弊した様子を見て、信長に降りてきた。信長はすぐに彼らを受け入れ、帷子、小袖、馬具を与えこれに応じた。


九日、それらを見ていた富田、戸田与次、毛屋猪介らもこれに続き、信長は彼らも受け入れた。この様子を見た信長は、近々、最終決戦の日が来ることを予感していた。


虎後前山の普請は大方出来上がった。突然、小谷城の眼前に現れた織田方の山城に累々と築かれた構えは、見た者の耳目を驚かすものであった。


それはとても戦略拠点としての陣城とはとてもおもえないような出で立ちである。

小谷城の山頂の尾根に並び立つ浅井の御殿と対峙し、それをも凌ぐような立派な建物があっという間に立てられた。見方も敵も目を見張ったのは言うまでもない。


山頂の座敷からは、北に小谷城を望み、西に満々と水を湛え湖面が光輝く琵琶湖、その向かいには、信長により攻め落とされ没落して見る影もない叡山や八王寺山、南には志賀、唐崎などの風光、またその昔、紫式部が源氏物語を著し石山寺、東は、麓の草野焼け果てている伊吹山、不破の関、いずれも眼前の景色をめでるための普請かと見まがうばかりの城であった。


虎後前山城から横山城までが三里。それに連結する八相山と宮部村には宮部継潤を置き要害を築かせた。

虎後前山から宮部村までは水が多く路次がぬかるむ、軍馬を進めやすくするため、三間の広さの道を盛り土で築かせた。


そして敵側に高さ一丈で五十町の長さの築地を築づかせ、さらにその周りには関を造り水を入れさせた。


そうしておいて、信長はこの様子をとくと浅井・朝倉方に見せたうえで、浅井に堀久太郎を使者として立てて、「日限を決め一戦を以て雌雄を決する」ことを申し出た。


しかし、それに対する答えが返ってくることはなかった。

それを見て信長は、虎後前山城には秀吉を入れ置き、十六日に奇妙丸とともに横山城へと帰っていった。


信長が横山に帰っていったあと、秀吉はあらためて城をみまわしていた。


「すげえぇのう、この城は。これまでの籠城攻めに俄かに作る取出とはまったく違うではないか。これは岐阜の様でもあり、京のお屋敷のようでもある。信長様の考えることにはついていけんが、この秀吉もいずれ、ひとかどの城持ちになれた時には、こげな城をつくってみせたるに」と、柱を叩きながらつぶやいていた。


「それにしても、小谷にはどうなされおつもりかの。ああ。お市様にお逢いしてえーものよの。この秀吉がなんとしてでもお救い申し上げるで、まっちょてよ」と、小谷の方に向って叫んでいた。


まわりの者どもは、また始まったというように失笑しながら見ていた。

そして、このまま二つ月の日が経つ。


十一月三日の事である。


先にしびれを切らせたのは浅井方であった。浅井七郎を対象として兵を出し虎後前山から宮部村に向けて築かれている築地を引き崩し始めた。


秀吉はすぐにこれに対応して梶原勝兵衛、毛屋猪介、富田長繁、中野重吉、滝川彦右衛門を先駆けとして出した。


さて、同じころ、遠江では武田信玄が改めて南下して天竜の二俣城を取り巻いていた。


これには、家康の与力として浜松城に参陣していた信長の家老佐久間信盛、平手汎秀、水野下野守信之らを大将らが出向いた。


しかし、信玄は、早々に二俣城を落とし、競い合わせさせるうように堀江城へと向かった。


これに対して徳川軍も浜松城より出陣して、三方ヶ原で佐久間、平手らと合流して、一戦に及んだ。


信玄軍の先鋒には、石礫を投げる兵が三百ほどあり、太鼓を打つ合図とともに、突撃してくる。一番手には平手と家康方の成瀬が応戦したが、戦いはそののまま対峙した。


十二月二十日、三方ヶ原で大きな野戦が始まり、徳川方はそこで大きな敗退を喫した。家康は先陣の真ん中に取り残される形となり、一騎掛けをしながら退却することを余儀なくされた。


自ら弓を射ながら、騎馬でその真ん中を駆け抜けるしかなかった。生きた心地のしないまま、泥まみれになった家康がようやく浜松城にたどり着ついたのは夜遅くの事であった。


鎧を解いた家康は、人生初めての敗北に心が折れそうになっていた。その姿は家臣も見るに堪えない惨憺たる状況であった。


武田軍は勝利を得て息洋々であった。この分では、徳川を倒すのはたやすいこと。次は信長であると、臣たちは祝杯を挙げていた。


そして、年は変わり元亀四年となった。


この年も、畿内各方面では反信長勢力がくすぶり、各将兵は出払っていたため正月の出仕はなかった。


前年、三月に起こした松永が起こした謀反に対して、信長は仕置きを行った。松永からは多聞城を取り上げ、山岡隆景を城番として入れた。


一月八日、松永は、岐阜の信長の元を訪ね、さらに天下無双の名物、山城の刀鍛冶「不動国行」を進上し、命を保証されたことに対して礼を述べた。


 

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