第16話  石山本願寺の蜂起


本願寺は、鎌倉時代に親鸞が興した浄土真宗の本山である。

一時、その勢いは衰退しつつあったが、親鸞から数えて八世に当たる蓮如がこれを中興し、越前吉崎でその布教を拡大していた。


近江や丹波、摂津と布教は拡大し、京への入り口である山科に本拠を構えたのは文明10年のことであった。蓮如は延徳元年に本拠を地を山科本願寺に移し隠居する。


明応五年に、さらに拡大する教団の受け皿として、大坂に本坊を建築することを決め建築を開始した。これが石山本願寺である。


これに対抗するように、日蓮宗の法華一揆と結託していた細川晴元は、天文元年に山科本願寺を焼き討ちし本願寺は廃墟と化した。その結果、天文二年からは、石山本願寺が教団の本山となっていた。


石山本願寺は、淀川と大和川が合流する上町台地の北端に位置し、瀬戸内海を見下ろす畿内の玄関口にある。そこは瀬戸内水運の拠点であり、東西四方に向かう陸上・海上の交通の要衝であった。


地理的な優位に加え、応仁の乱による市中の荒廃と民の疲弊が他力本願による極楽浄土の信仰を一手に集めたことにより、石山本願寺はさらに急速に拡大していた。


10世証如になり、大阪本坊は、寺というよりは一つの大きな都市して成長していた。山科本願寺を攻めた細川晴元は、さらに追い打ちをかけるように石山本願寺も攻め立てたが、民衆を盾とした武力は大きなものとなっておりし、もはや細川ごときの勢力では抑え込めないくらい大きな力を有していた。


続く11世顕如は、僧侶として門跡に入り、それを足掛かりにして中央権力へも食指を伸ばし、禁裏に近づき政にも首を出しつつあった。


本願寺に集まる宗徒は、こぞって朝早くから御坊の門前に集まり、門が開くのを今か今かと待ち、開くと同時に寺になだれ込み、教祖の朝の講和をありがたく聞き、涙するという事が毎日のように繰り返され、その数は日増しに多くなっていった。


民衆を背景にした権威を使い禁裏や公家への接近を日増しに強めていったのである。禁裏や義昭と離反していた近衛前久をかくまったことにもわけがあったのである。


また、同時に周囲の戦国大名ともよしみを持とうとしており、義昭と同じように甲斐の武田、相模の北条、近江の六角などとも文により親交を持ち、さらに一時は信長とも親交をもっていた。


きしくもその行動は、義昭が将軍として近隣の戦国大名たちを味方につけようとして奔走していたことと時を同じにして合致していた。


信長の上洛時、本願寺は信長からの命で禁裏修理費用として矢銭五千貫が課した。

顕如は、禁裏修理が名目であるため逆らわずにこれを支払っている。


朝倉・浅井との情勢、義昭の行動などをにらみながら静観していた顕如であったが、日増しに大きくなる一向一揆を抑え込むために、信長が支持してきた本願寺の明け渡しについては、さすがに黙っているわけにはいかなかった。


行動するであろう信長の動向を見据え、顕如は全門徒に対し防衛に備えて大阪に集結するよう指示した。それにあわせて、同盟を結んでいた三好三人衆が呼応して動き出したのである。


岐阜で、三好の行動を聞いた信長は、家臣を集めて評定を開いていた。


「長政様を攻めなさりますか」と、丹羽が切り出した。

「長政はよい。当分捨て置け、やつらもあれた世家の痛手を受けておればそうたやすく動くこともできまい。ましてやこれから冬ともなれば雪となり朝倉もそう簡単には出てこれまい。それよりも、厄介なのは、本願寺ではないか。近頃、民を先導し入れ知恵をして私兵として扇動おるというではないか。民の不安を救うための神や仏が、権力者の欲望を果たすための手立てされておる。そのような似非信仰は世には不要である。排他すべきである」と信長の考えを述べた。


「それであれば、天台の叡山、法華の日蓮、すべて同じでありますな」と丹羽。


「これらが、すべて束になって政ごとに手を出してくるとなれば、天下静謐など遠い世界となっていくは。政は天に、信仰は神仏に、武は将、おのおのの職、わきまえて進めていくことが肝要であろう。いずれにしても天に逆らう者はこの信長がゆるさぬ」


「さすれば」と一同。


「さすれば、三好と結託している本願寺、叡山を抑えねばこの先厄介なことになる。出陣を整えよ」


「は、は」と一同。


七月二十五日、しばらくなりを潜めていた三好三人衆、三好長逸、三好政康、岩成友通が息を吹き返したかのように動き出し河内に進出してきた。


八月九日、淡路衆・安宅衆は船で摂津尼崎に上陸し、伊丹親興の伊丹城を攻める。


これらの報を聞いた信長は、

「みなのもの、出陣じゃ」と気勢をあげて、八月二十日に京へと出立した。


信長は三好を討つ決意を固めた。ここから十年間にもおよぶ石山本願寺との戦が始まった。


この日は、横山城まで出て一日そこで逗留。二十二日、柴田勝家がまもる長光寺山城に泊まる。


そして二十三日に、京に入り三条西洞院の本能寺に宿泊した。信長に悟られまいとする義昭は幕府の奉公衆を差し出し織田軍の先鋒とともに摂津に向かわせた。


それを聞いた、正親町天皇は、舞い戻った信長に手を打った。

「して、此度の用向きは何か」と取れ巻きに尋ね


「また三好が動いての様で、その裏には本願寺や延暦寺がついているとのこと。さらに義昭様が…」と、口ごもりながら帝に伝えた。


「そうか、そうか」と、うなずき。

「よく、見ておけ」と、さとした。


公家たちは、


「またまた、争いごとであらっしゃる。誰が勝とうが負けようが、さほどかわらぬことよのう」と笑いながら酒宴に興じていた。


信長は、京で一泊した後、翌二十五日の辰の刻に京を発ち、先鋒が福島で三人衆と立ち向かう福島に向うため、三千の兵を率いて淀川を越え枚方寺内招提寺に陣を張った。


こうして二十六日、野田・福島の戦いが始まった。


先陣はすでに天満宮の森、淀川河口の川口、渡辺、尼崎神崎、上難波・下難波、濱の手に陣取り、信長は天王寺に本陣を据えた。


この様子を見た、大坂表、堺、尼崎、西宮、兵庫の商人たちは、噂の高い信長の姿を一目見ようと、またこれからの商売を考えどちらに付くかを見据えるために、異国の珍宝を携えて信長の陣へと群れを成した。


三好三人衆は、淡路洲本の安宅信康、讃岐の十河存保、阿波の篠原長房、松山、讃岐の香西佳清、摂津江波の三好為三、元美濃守護斎藤竜興、斎藤道三の弟で美濃金山城主だった永井隼人らの武将従え、八千ばかりで野田・福島に籠城している。


その将に対して、まず信長は調略をもって対した。


「秀吉、誰でもよい。二、三の者を降ろしてこい」

「おまかせを」と、秀吉は得意の調略に向かった。


その行動は早々に効を発し、二十八日には三好政勝、香西家佳清が降りてきて天王寺にいる信長に面会した。信長はこれを許し味方につけた。


その日、帝は大納言山科言継を呼び、義昭のもとへ行き福島の動向と義昭の行動を探らせている。義昭が先鋒として派遣していた足利家臣大舘宗貞が福島から戻ってきていたからである。


義昭の兵の派遣はあくまでも信長に従っているように見せかけるものであり、そこそこで戻る様にと奉公衆には予てから伝えてあった。二十九日、幕府奉公衆はその言いつけ通り京へ帰るため陣を出て上洛した。


これを見た信長。


「如何いたしましょうか」という家臣の問いに。

「捨て置け」と吐き捨てた。


これらの様子から、正親町天皇は信長を助けるため、義昭も参陣するように即した。義昭は苦々しく思いながらも、帝の命に背くこともできず参陣することにした。


これで本願寺攻めは信長の私闘ではなく朝廷の意思となってしまった。


九月二日、義昭は仕方なしに、まず根来衆三万に摂津に向かうように通達。義昭自身も翌日に摂津中島まで兵を進める羽目になった。


四日、別所重宗、根来杉坊、畠山昭高らが天王寺に到着。義昭は中島城に入った。

五日、根来が信長方に付いたことを知った顕如は、石山本願最大の危機として、紀州門徒と、6日には近江の門徒に対して次のような檄を飛ばして、本願寺に集結するように指示した。


「織田信長は、永禄十一年の上洛以来、本山に数々の難題を押し付け、当山は迷惑を被ってきた。これは、親鸞上人以来の我が宗派に対する尊厳の念も無いずいぶんな扱いである。これまで、信長の要求にはしかるべく応じてきたが、その不遜な態はやむことが無い。この度は、この大坂の地を明け渡せとのこと許し難し。この顕如の時に本願寺が断絶するようなことがあっては、一族の名折れである。各々方の身命を顧みず、忠節を尽くされることを切に願っている。ひとえに諸氏の奔走を頼み入る次第である。この檄をないがしろにされるようなことがあれば、破門の処分となす」と。


八日、信長は、本願寺攻略を進めるため大坂町十丁ばかり西にある楼岸に砦を構えさせ、佐藤利次 稲葉良通 中川重政に守らせた。


また、川向の川口にも砦を構え、そこには平手監物、平手汎秀、長谷川与次、水野直盛、佐々成正、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤正秋、梶原景久、高宮右京亮を置いた。


九日、信長は本陣を天王寺から天ケ森へと移した。十日にうめ草を取り寄せ本願寺の外堀を埋め始めた。そして、十二日、福島海老江へと本陣を進めた。


この様子を見て、かなりの急地と見た本願寺顕如は、下間頼総を呼び寄せ浅井長政に宛て同盟を結ぶ書状を送らせた。証如は信長の背後を付かせるしかないと思っていた。


これを受け、朝倉はすぐに二万の軍を整えて一乗谷を発ち近江への南下を始めた。連動するように浅井も併せて出陣の用意を整えた。


本願寺攻めの戦いは遂に火ぶたは切って落とされた。

信長は二万の兵で力押しを始める。まず、夜中に土手を築き堀内の塀際に詰め寄せ井楼矢倉を揚げさせて大鉄砲を城中に打ち込ませた。


根来、雑賀、湯川、紀伊奥郡衆ら二万の兵は、遠里小野、住吉、天王寺に陣取り、鉄砲三千丁を構え、日夜かまいなく打ち放し、天地に轟くばかりの音と地響きで敵を威嚇した。これにおそれを成した野田・福島の三好三人衆は、すぐに信長に詫びを入れに来た。


しかし、信長は、「天意をもって石山本願寺を滅ぼしに来た。覚悟の事あっての歯向かいであろう。特とみるがよい」といって、それを許さなかった。


顕如は、これにこたえるように石山本願寺を出て戦うことを決意。

十三日の夜に手勢を出し、楼岸と川口に砦に鉄砲を打ち込みながら一揆をなだれ込ませた。


十四日、本願寺は、兵を天が森へと向け川を打越し、かすがい堤にて信長軍と激突する。これに一番手として佐々が立ち向かえが、佐々は疵を被り退かざるを得なかった。二番手に堤のとおり中筋を前田利家、右筋を中野重吉、左を元京極家臣で近江野村城主の野村越中、湯浅甚介、毛利河内守秀頼、兼松正吉などが我先に争いながてがらを立てようと前線で戦った。ここで野村は討死にしている。


劣勢と見た顕如は、無駄な戦いをすることを避け、兵を引き上げさせて再び籠城の構えを見せた。


本願寺が劣勢と見た義昭は、同行していた大納言烏丸光康を呼び、急遽京に戻し朝廷にこの様子を伝えさせ、信長には隠したまま、本願寺と信長とが和解することがよいとし、本願寺を助けるよう仕向ける勅書を要請した。


義昭と本願寺はすでに連携して次の手を打っていた。朝倉と浅井である。


その信長のもとへ西近江路を南下してきた朝倉・浅井の軍が三万で近江志賀に侵入してきた知らせが入ってくる。


「まずい。このまま志賀が落ちれば京になだれ込まれてしまう」と、信長は、一旦大坂から兵を引かざるを得ないとを考えていた。


志賀の陣始まる。

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