第4章 ワンユニの侵食
火事のトラウマ
巻き上がる炎をバックに、少女が微笑んでいる。その歪んだ口元だけがはっきり見えるが、顔全体はぼやけている。
「鬼を…鬼を燃やさないといけないの」
乾いた声で言うその少女の言葉に、
「スズ!しっかりしろ!俺は
「あんた!無茶だ!消防が到着するまで待つんだ!」
後ろから近隣の者が声をかけてくるも、もし家の中に父母がいるなら、急がないと間に合わない。扉の取っ手はかなりの熱を持っていたが、硯徳は上着を脱いで取っ手に巻き付け、扉を開けて中に踏み込んだ。
「父さん!母さん!いるなら返事して!」
モウモウと煙が立ち込める中を、袖口で口を押さえて廊下を進む。何とか居間の前まで辿り着き、開き戸を引いた時、中から吹き出した炎に焼かれてそこで意識を消失させた──。
目を開けた時、妹の心配そうに見つめる顔があった。
「大丈夫?ずっとうなされてた」
言って、杏夏はほっと息をつく。表情には安堵の色が漂っていた。硯徳は最初、その顔を見て夢の延長線上の時間軸に自分がいるのだと錯覚したのだったが、やがて意識がはっきりしてきて、部屋を見回すと、そこは見慣れた硯徳の部屋の中だった。目の前の妹も少女ではなく、成人した姿だ。朦朧とした頭を押して起き上がろうとすると、低い男の声がそれを制した。
「もうしばらく寝ていた方がいい。急に頭を持ち上げないで下さい」
杏夏の後ろから覗き込んだその姿は、銀髪長髪の見覚えのある顔だった。
「あの…今って、いつですか?」
起こしかけた頭をもう一度枕に戻し、そんな質問がまず口をついた。男はその質問にどう答えていいか分からないというように首を傾げ、代わりに杏夏が、
「お祭りの後、倒れたからここに運んだの。今は夜の9時」
と答えた。祭りの後の夜9時……再び目を瞑り、その言葉をゆっくり頭に巡らす。と、炎が巻き上がる映像が浮かび、今度はガバっと身を起こした。
「そうだ!
今度ははっきりと思い出した。秋祭りの締めで子どもたちが最後の演奏をしている最中、突然暴走族がやって来たと思ったら、広場に置かれた
「二人とも大丈夫。命に別状はない」
杏夏は彼女らしく感情を出さずにそう言ったが、その言い方だと無事なのかどうか分からない。
「大悟くんの判断が早かったので、春海さんは無事救出されました。少し煙を吸ってしまったようで、今は念の為に病院で一泊して検査を受けています。大悟くんの方はピンピンしていますよ。それと、火の手が上がった時に書店にいた方々は皆店から逃げるのが早く、全員無事でした」
諸月の説明にほっと息をつきながら、さっきの夢の内容を反芻する。硯徳と大悟は、5年前に家の前にいた杏夏を火事から遠ざけることで、彼女が火事に関与しているかもしれないことを隠した。その後、事後のバタバタが一段落ついてから、杏夏にあの時家で何をしていたのかを聞いたのだったが、彼女はその日の記憶をすっかり失っていた。警察の捜査で火事は間違いなく家の中から起こっており、それが不慮の事故だったのか、それとも意図的に起こされた火事だったのか、最後まで判断つかずに当事者が亡くなったことで捜査は打ち切られた。硯徳の父母には自分の家を燃やす理由も、自殺する要因も見つけられず、事件とするには証拠不十分で、書類上は事故と結論づけられたのだった。
「夢を…見たよ。5年前の…」
硯徳は心配そうに自分の顔を見ている杏夏にそう言いかけ、そこに諸月もいることに思い当たって口を嗣んだ。諸月は当時の事情を全く知らないのだ。
「夢を…?」
杏夏が続きを促すように聞いたのを、首を振って打ち消す。
「いや、ごめん、何でもない」
そして頭を押さえた硯徳を見て、諸月が、
「もう少し、寝ていた方がいいですよ」
とさっきと同じ気遣いの言葉をかける。
「いや、もう大丈夫です。水を飲みたいんで、下に移りましょう」
一階のダイニングに三人で移り、杏夏が冷蔵庫のペットボトルからグラスに入れた水を硯徳の前に置く。そして、硯徳の向いに座る諸月にも水を出し、自分は諸月の隣りに座った。そこで、硯徳は水を飲んでから、ずっと疑問に思っていた質問を投げる。
「あの…何でここに諸月さんが?」
諸月が人差し指を立てて口を緩ませた。
「私、一応大学の医科を出てましてね、硯徳くんに何かあった時のために付き添ってたんですよ」
それが本当なら諸月が心理学に聡いことも頷けるが、本当かどうかは判断材料がない。祭りの時から妹が一見胡散臭いこの男とずっと一緒にいることに若干の不安と苛立ちが募るが、善意で付いていてくれると聞いた以上、形の上では礼を述べた。そして、次に気になっていることを聞く。
「火事はどうなりました?犯人は捕まったんでしょうか?」
諸月が一つ、ゆっくり頷き、まず、と口を開く。
「火事のことなんですが、川端書店さんの間口は完全に消失しました。店の中の書物も、半分以上はダメになってしまったそうです」
あの時、春海の父親が店番をしていたはずで、彼が無事だったのは不幸中の幸いだったが、営業ができなくなった心中は察して余りあるものがある。春海の沈んだ顔が浮かび、硯徳は眉間のシワを深くした。
「祭りの日は待機している隊員の数も普段より多くしていたようでしてね、消防隊が現場に着くのは早かったんですが、どうも店頭に置かれた書物に灯油が撒かれていたようで、燃え上がるスピードも速かったんです」
諸月のその言葉を聞き、硯徳は大きく眉を上げる。
「え、灯油が撒かれてたって、ナナミの時と一緒なんじゃ…」
硯徳の言わんとすることを肯定するようにまた諸月が深く頷き、さらに補足する。
「あの時、まず広場に置かれた山車から火が上がったんですが、一瞬で火柱が上がったのを覚えていますか?警察の調べでは、あの山車にも灯油が撒かれていたそうです」
「そんな!?てことは、計画的に火事を起こされたってことですよね?火を点けた犯人は捕まったんですか?」
「残念ながら、そこまでの情報を私は持っていません。ただ、大悟くんが、あの時に走っていた暴走族は
諸月は気を失った自分に付き添ってくれたのだから、その後のことは知らないのは当然だ。誰に聞いたのか、灯油のことなどよく知っている方だと思える。硯徳は思い出す。あの時湧き出した暴走族の連中は皆、マスクや布などで顔を覆っていた。おそらくバイクのナンバーも隠していただろう。一体なぜあんなことをしたのか、今すぐにでも捕まえて理由を問い質したい憤りに駆られるが、警察の捜査を待つしかないのだろう。だがリストランテ・ナナミの時と違い、今回はあからさまに放火なのだ。折角の祭りを最後に台無しにした償いは、必ず取らせなければならないという思いで拳を握った。
大悟は犬川町の暴走族だったと言ったらしい。硯徳は婚活パーティーの日、
硯徳はそこまで考え、腰を浮かせた。
「あの…俺、もう大丈夫なんで…みんなまだ現場にいますよね?俺も戻ります」
もう一度現場を見たい、そんな思いに駆られたのだ。それを、諸月が手を振って制する。
「いや、それには及びません。さっき、後は警察に任せて商店街や祭りの責任者の方々は解散したと連絡がありました。そして、
立て続けに商店街で起こった火事に、住職たちも思うところがあるのだろう。硯徳が分かりましたと椅子に腰を戻すと、
「夕食、作ったから食べて行って?」
と、今度は杏夏が諸月に言いながら腰を浮かす。
「いや、私はここでおいとまさせていただきます」
そう言って玄関に向かった諸月のスピードは、残像が残るくらい素早いものだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。
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