神子にふりかかる暗い影
急に声を荒げた
直前の場面を思い起こしながら何をどう聞こうかと思案を巡らせていると、
「お、いい顔してるじゃねえか。銭湯に来るっていうスズのアイデア、ショウにはよかったみたいだな」
言って大悟が翔の頭をワシャワシャと撫でる。銭湯へ来てから嬉しそうにはしゃいでいる翔の顔には、昼間に
話がはぐらかされた感は否めないが、銭湯に来てよかったと言ってくれた大悟の言葉に硯徳も頬を綻ばせ、翔の小さな背中を見つめる。
と、翔の腰辺りに黒い影のようなものが見え、硯徳は目を凝らした。ゆらゆらと波立つ湯は湯の花で濁っていて見えにくくはあったが、確かに翔の腰回りが黒ずんで見える。はっきり見ようと翔の脇を抱えて立ち上がらせると、翔は振り返って硯徳に怪訝な眼差しを向けた。ここは不用意なことを言うべきでない、そんな思いが咄嗟に浮かび、硯徳は取り繕うようににっこりとした笑みを返す。
「あ、いや、この二ヶ月でちょっと背が伸びたんじゃないかって思ってさ」
言って翔に前を向かせ、背を測るように頭に手のひらを乗せる。そして腰に顔を近づけると、尻の上部から腰にかけて焦げ跡のような染みが広がっていた。何かよくないことが翔の身に起こっているのではないか、そんな不穏な考えが過り、咄嗟に隣りの大悟の肩を叩いて翔の腰を指差す。
「ん?何だ、これ?」
よく見ると黒い部分の中に赤みを帯びたところもあり、大悟はそこに手を伸ばす。指で触れると、翔はくすぐったそうに身をよじり、大悟の手を払い除けて彼を睨んだ。そこへ、子どもたちがキャハハと笑う声が飛び込んでくる。どうやら電気風呂に出たり入ったりしながらビリビリを体感しながら遊んでいるようだ。翔はそちらに目をやり、自分も加わろうと薬草風呂を出ようとした。
「あ、ちょっと!」
慌てて硯徳が声をかけるも、一目散に目当ての場所に向かった翔を止められなかった。
「今の、どう思う?」
硯徳は眉根を寄せ、大悟に聞く。
「どうってあれ…火傷のあとじゃないか?」
その言葉に、硯徳は神妙に頷く。
「うん、俺もそう思った。一瞬蒙古斑が残ってるのかとも思ったけど、結構新しいのもあったよね?」
自分の見立てを確かめるようにそう聞くと、大悟も神妙な顔で頷いて返す。そんな二人のやり取りが聞こえたのか、住職がこんなことを言ってきた。
「
三行半…つまり離縁状ということだ。沙織が実家から帰って来ないのは、そういう状態だからなのか…?住職の話を聞き、大悟が眉を上げた。
「そんなバカな!あそこは商店街の中でも一番のおしどり夫婦なんだぜ?」
硯徳も同じことを言いたかったが、大悟が先に声を上げた。
「はたからは仲良さそうに見えてもな、いざ中に入ってみれば、いろいろ人には言えんことの一つや二つあるもんじゃて」
名波の爺さん、というのは先代のレストラン・ナナミの店主、すなわち道久の父親のことで、店を息子に任せてからは趣味の囲碁に明け暮れていると聞く。
そんな住職だからこそ、老人たちの口さがない噂話や、彼らからの相談などからリバーウエスト商店街の店々の状態もよく把握していた。なので住職の話は相当程度の信憑性がある。翔の家の状態を聞き、最近の翔の元気のなさは無理もないことに思えた。だがその話と、翔の腰の火傷の跡のことはまた話が別だ。虐待……硯徳の頭にそんなワードが過った。おそらく大悟も同じことを考えただろう。彼はザブンと湯船から出ると、子どもたちを呼び寄せて洗い場に誘導し、互いに洗いっこすることを提案した。
「よーしお前ら~!一列に並んで前のやつの背中を洗ってやれー!」
これも楽しいイベントの一環と受け取った子どもたちはキャッキャと互いの体を洗い出す。そんな場面に遭遇して戸惑っている翔を、大悟はうまい具合に列の一番後ろに付け、自分は翔の後ろに回った。翔が戸惑っていたのはきっとまだ浅い傷が痛むからなのだろう、翔が肩肘を張ってこわごわと向ける背中に、大悟は大丈夫だからと優しく撫でるように洗ってやっていた。やがて洗いっ子が終わって子どもたちに入口すぐにある水だけ出るシャワーに向かわせると、子どもたちはそれも楽しい遊びのように水の冷たさに嬌声を上げる。男湯の方からその賑やかな声が聞こえたからか、女湯から、
「こっちはそろそろ出るぞー!」
と、冬星の張り上げた声が聞こえた。続いて、
「わあ~まるで夫婦みたーい」
と、はしゃいだ声が聞こえる。きっと声の主は
「トーセとスズ~ラブラブ!」
と、一人の女の子が祭囃子の節で唄うと、他の子どもらも声を合わせ、男湯でも嬉しそうにそれに乗っかって風呂場を旋回し出す。
「やーめーろー!」
という冬星の声がまた合いの手となり、女湯ではキャッキャと逃げ回りながらも、男湯の声と合わさって声は反響し合い、風呂場は大合唱の渦と化した。
トーセとスズ~ラブラブ!
トーセとスズ〜ラブラブ!
他の客に迷惑だろうと硯徳も子どもたちを追い回す。ふと、澄んだ子どもらの声の中に、低く渋い声が混じっているのに気づく。どこからその声がするのかと風呂場を見回すと、一緒になって嬉しそうにガラ声を上げている住職と目が合ったのだった──。
「確かに、普通にできた痣じゃないな」
涼やかな風が境内の木々の葉を揺らす。本殿に上がる階段横の縁側に腰掛けながら、大悟が声を潜めて言った。銭湯から出た後、一度水醐堂の境内に戻り、途中の駄菓子屋で買ったアイスを子どもらに配って食べさせていた。夕日がオレンジに染め上げる中を、アイスを食べ終わった子どもらは赤とんぼを追いかけて走り回っている。少子化と相まって、子どもに学校以外の塾や習い事にかける金は年々増え続けている。必然、子どもたちが大勢で集まって遊ぶことも難しい環境になっている。昨今のそんな子どもらを取り巻く情勢に反し、昔ながらの休日の子どもの姿がこの水醐堂の境内で展開されていた。
「それってさあ、翔が虐待に遭っているってことか?」
縁側には大悟、硯徳、そして冬星が並んで座っている。冬星が避けていた言葉を、オブラートに包むことなく使ってきた。
「虐待…ったまだ決まったわけじゃないけど、もしそうだとすると、一緒に住んでいる道久さんがまず怪しいってなるよね?でも道久さんがそんなことするわけないしなあ」
硯徳の言葉に、他の二人もうんうんと頷く。
「銭湯出る時に翔にさり気なく聞いたんだけどさ、そんな怪我をした覚えはないって言うんだよ。嘘をついているようにも見えなかったし、本人がそう言うのをそれ以上しつこく聞けないしな」
翔の姿を目で捉えながら、大悟が眉間にシワを寄せて言う。翔は上級生の男の子が指に止まらせた赤とんぼを興味深そうに眺めている。そのあどけない顔に、虐待という暗い言葉の響きは似合わない。
「翔ってまだ10歳だろ?蒙古斑が残ってるだけじゃないのか?」
まだ半信半疑な冬星の言葉に、大悟も硯徳も首を振る。
「そういう感じの痣じゃないんだ。古いのはすでに紫がかってるんだけど、その上にまだ赤々とした跡があって、触ると痛そうなんだよ」
「痛いって言ったのか?」
「いや、逃げ出しただけだけど…」
硯徳と冬星のやり取りを聞き、大悟は何かを思い当たったようにパッと二人に向く。
「おい、あの痣の位置ってさ、日焼けしてない白いところに集中してたろ?あれって海パンで隠れる場所だよな?」
深刻な顔で言う大悟の言葉に、二人はゴクリと息を飲む。
「それってつまり……」
硯徳が言いかけた言葉に、大悟が頷く。イジメ……おそらく三人の頭にそのワードが浮かんでいるだろう。大悟が自分の手元を見つめ、おい!と声を上げた。二人の肩がビクンと上がる。大悟が二人の顔を交互に見、手に持った棒をゆっくりと差し出した。棒には「当たり」と書いてある。
「て!だから何だよ!急に大声出してビックリすんじゃねーか!」
冬星は食べ終わったアイスの棒をパシッと大悟に投げて当てた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。
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