第33話 全然怪しくない水

「そういえば、ちい君」

 弁当を食べ終え、千色と龍郎のおかずも盗み食いして満腹になった乙盗が、座席の背に寄り掛かったまま、眼鏡のレンズの脇から千色を見る。


「ちい君、もうお水ないの?」

「うん、ない」

 体育祭は午後からが本番とはいえ、午前の競技もなかなかにハードで、乙盗の言う通り、千色は持参した水筒の中身を飲み干してしまった。こうなれば、スタジアムの自販機か、保護者会の出店でみせで何か買うほかないが――。


「んじゃさ、ぼくのパパとママんとこおいで。水筒ってね」

 そう言う乙盗はもう立ち上がって、千色の腕を引っ張っている。――よく分からないが、普段からこれくらいてきぱきと動いてほしいものだ。


「なんでおとちんの親に?」

 千色は言われた通りからの水筒を掴んで乙盗についていきつつ、いてみる。

「あん、それはねぇ」

 乙盗は、昼休みの賑やかな客席をずんずん進みながら、前に向かって喋る。


「ぼくのパパとママ、今日はボランティアで、おいしい飲み物くばってるの」

「ボランティア⁉」

 このコソどろ乙盗の親が?

「そうだよ?」

 乙盗は千色の腕を引きながら振り返り、何がおかしいのかと首をかしげる。

 心当たりはねえのかよ。


 ――しかし、乙盗は確かに保護者席の方ではなく、スタジアム外の出店しゅってんスペースの方へと向かっている。

「ほら、ぼくのおうち、水屋みずやさんだから」

「水屋⁉」

 水――。

 飲めば健康になるとか、知り合いにも購入させれば配当はいとうがもらえるとか、そういうやつか――。


「なんなのよぅ、その顔は。別に怪しいものじゃないよぅ」

 乙盗はあからさまに不審ふしんがる千色に、ぷにぷにの唇をとがらせる。

「怪しいかどうか決めるのはこっちだろ」

 自分で「怪しいものではない」などと言う人間ほど怪しいものはない。


 しかし乙盗は、「ちい君はばかだねえ」などとシンプルな悪口を垂れてから、面倒臭めんどうくさそうに説明する。

「だからぁ、水は水でも、おいしいコーヒーをれるのに向いてるお水とか、煮物がおいしくできるお水とか、入手しにくい海外のお水とかを売ってるの。味にこだわりのあるカフェとかレストランとか、海外からお引っ越ししてきた人とかに、とっても人気なんだから」

 ――ガチの水屋だった。


「それにねぇ、ちい君」

 乙盗は特大の溜息を吐いて、丸い顎をきゅっと上げ、低いところから千色を見下ろす。

「普段から脱水気味の人なら、『健康水』でも水道水でも、しっかり飲めば健康になるんだよ。人間は水を飲まないと、ほんの何日かで死んじゃうんだからさ、水は命のみなもとと言っても過言ではないの。まったく、ちい君はそんなことも知らないの?」


 乙盗の言うことは正論ではあるが、だからといって馬鹿ばかにされる筋合すじあいはない。しかし、小遣こづかいを節約するためであるし、ここまで来て引き返すわけにもいかない。

 千色は、乙盗の首の後ろに変な形の日焼けを作れないかと一心不乱ににらみながら、腕を掴まれたまま、彼の両親がいるという出店スペースへ向かう――。

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