第2話 無遠慮なメイド②

 所々に埃を被ったキッチンで、僕は伸び切った麺を見下ろしていた。まあなんとも不味そうな醤油ラーメンだ。掃除しきれずに埃っぽいキッチンと伸びたラーメン。これで美味い飯を食べろというのは無理な話だ。

 食欲を削ぐ原因はそれだけじゃない。


「お食べにならないのですか?」


 対面に座る謎のメイドの存在だ。


「少し冷まそうかなって」

「ヒイラギ様は冷たいものがお好きなんですか?」

「いやあ……そういうわけでもないんだけど」


 要領を得ないとメイドは小首を傾げる。


「お名前、もう一度教えてもらっていいですか?」

「イチです」

「苗字は?」

「ありません」

「ない?」

「はい、ありませ。イチです」

「そう……そうですか」


 苗字がないなんてことがあるのだろうか。それともあれか、メイドとしてのコードネーム的な。


「僕の父からの申し付けって、どういうこと?」

「そのまま再現いたしますと、ですね」


 メイドは喉仏の位置を調整でもするように、喉をグリグリと弄り、口を開いた。


「俺のガキの面倒見てやってくれよ。その方がお前も都合が良いだろ?ちなみに、手を出しちゃってもいいぜ……です」


 父親の声を最後に聞いたのは小学校の卒業式だが、それでも自分の父親の声だと錯覚するほどの再現度だった。

 しかし、声真似だけでこのメイドが本当に父親の知り合いなのかという疑問については、すでにそれなりの回答が出ている。

 メイドは知っていたから。この国からほとんど全ての情報を抹消し、抹消されたはずの父親の本名を、知っていた。 

 メイド――イチさんの思わぬ特技に驚きながらも、話を続ける。


「それで……父とはどのようなご関係で」


「嫁です」が最悪の答え。僕の新しい母親の登場だ。

「愛人」がその次。とても気不味い。

「隠し子」がさらにその次だ。一人っ子から弟へのジョブチェンジは悪くはないけど。

 そんな予想を立ててしまう辺り、お察しだとは思うが、父親はロクな人間ではない。

 だけど、イチさんの答えは予想外だった。 


「そうですね。恩人でしょうか」


 恩人。それは父の仕事とは遠いようで近い存在だろう。表裏とも言える。


「父になんらかの借りがあって、そんなメイドの格好をしてるってことですか?」

「似合ってないでしょうか……?」


 意外にもイチさんは肩を落とした。鉄仮面に一瞬だけ乙女が浮かんだことに驚きつつも、慌てて取り繕う。


「いえいえ! 似合ってますよ、とても!」

「そうですか。 それは良かった」


 イチさんはほっと胸を撫で下ろす仕草を見せるけど、やはりそれに表情は伴っていない。


「ところでご主人様。私はどの部屋を使えばよろしいでしょうか?」

「そうだね。見ての通りの有り様だからね……。部屋はたくさん空いてるから、どこを使ってくれてもいいけど……」

「それで構いません。メイドの仕事です、ご主人様」

「それやめませんか?」

「それとは?」

「ご主人様ってやつ」


 少し……いや、かなり気恥ずかしい。僕はつい数時間前までただの男子高校生だったし、この家でもそのはずだ。メイドが来ました。これからこの家ではご主人様です、なんて……無理な話だ。


「ですが、ご主人様ですし。ご主人様をご主人様意外でお呼びするとなると……少々難しいのでは?」

「そうかな?」

「ええ、そうでしょうとも」


 どうやら意志は固い様子で、しばらく押し問答をした末に、僕はご主人様の地位を押し付けられた。


「わかりました。とりあえず、いまはそれでいいことにしましょう」

「ありがとうございます、ご主人様」


「それで、イチさんは」と、彼女の晩ごはんについて尋ねようとして、彼女は僕をピシリと指差した。ご主人様にメイドが人差し指を向けていた。


「敬語はやめていただけませんか?」


 あーナルホドと思う。


「でも、いまさっき出会ったばかりの関係でさっそくタメ口っていうのは……流石に僕がアナタの主人だとしても」

「いけません。タメ口がよろしいかと」

「でもさ、僕的にはメイドさんにも簡単な敬語を使う方が、良好な関係を持つと思うんですけど……。イチさんが今までに使えてきた人は、どうでしたか?」

「いません」


 メイドは言う。


「ご主人様が初めてです」


 台詞に隠れた官能的表現と冷たい表情の差で、どんな反応をすればいいのか困る。咳払いで誤魔化した。


「じゃあ、お互い主従関係は初めてってことだし、ラフな感じでどうですか?」

「拒否します」


 強めに拒否された。メイドに。


「えっと……理由は?」

「それっぽいからです」

「え?」

「主人がメイドに荒っぽい方が、それっぽくはありませんか?」

「そうなんですか?」

「そうでございます」


 なんだが頭が痛くなってきた。イチさんの中身が掴めない。  


「ところでご主人様」


「なんで――」と口に出した所で、イチさんの訴えかけるような視線が突き刺さった。自身の心の弱さに嘆息しながら言い直す。


「なに?」

「いつもお夕飯はそのようなもので?」


 イチさんの視線がカップラーメンに映る。伸び切った麺が容器にパンパンになっていて、なんだか……すいした……それはいけないと振り払う。


「簡単だからね。本当は外食でもいいんだけど、最近は戦争の影響で物価が高いから」

「なるほど」


 イチさんは立ち上がると、中身が空っぽの冷蔵庫を覗き、こちらを振り返った。心なしか気合に満ちたような顔をしている。


「私にお任せください。リクエストはありますか?」


 少し戸惑うが、メイドなら料理をするものなのだと飲み込んだ。


「じゃあ、シチューとか。出来ま……出来る?」

「もちろんでございます」


 イチさんはあっという間にキッチンを去ると、玄関の扉を閉める音だけを残して商店街へと出掛けていった。

 まるで水を得た魚。いや、仕事を与えられたメイド。そして呆然として座ったままの主人が僕だ。

 

 最初の――扉を開けた瞬間に感じたイチさんの印象は『氷』や『刃物』だった。その後、家に招き入れて少し話して印象は少し変わった。揺らいだと言ってもいい。もしかして意外とドジっ娘なのかなと。ご主人様呼びに拘る理由が「それっぽいから」だし、言葉遣いも所々で怪しい気がするし……だから、イチさんが料理を作ると言ったとき、僕は邪推してしまった。

 イチさんって料理が下手なんじゃないか、と。

 予想は大外れだった。美味しかった。安物レトルトでは表現できない奥深い味に、思わずおかわりをしてしまったほどだ。他人の家に押しかけてくるだけのことはあった。


 シャンプーを洗い流し、最近伸びてきてウザったい髪の毛にリンスを塗りたくる。

 夕食後、僕はシャワーを浴びていた。久しぶりの美味で高ぶった心を鎮めるためでもあるし、上機嫌な所をあのメイドに見せたくなかったからだ。「私は浴室前で待機しておりますので」という、これもよくわからない申し出は全力で断った。ご主人様命令まで使った。

 なんだか、イチさんには隙を見せてはいけない気がしてならない。


 それにもう一つ、僕には見せたくないものがある。


 リンスを洗い流し、その勢いのままシャワーヘッドを曇った鏡に向けると、痛々しい鏡像が露わになった。


 僕の胸には大きな傷がある。


 まるで心臓を取り出したかのような傷。だけど実際にその表現は正しくて、僕は幼い頃に心臓を悪くしていたらしい。どんな病気かも、どうやって治したのかも、いまじゃ定かではないけれど、漠然と覚えているのは外国に行ったことだ。記憶にもない。ただそれが父親とのたった一度の旅行であり、彼の父親らしい行動でもある。

 風呂から上がるとイチさんの姿はなかった。キッチンにもリビングにも、二階にあてがった部屋にもいない。


「イチさん?」


 呼んでも反応はない。さっき見せてくれた謎の忠義力なら飛んできてもおかしくはないのに。まあ、家の周りを散策したり、もしくは伽藍洞な冷蔵庫を満たすために買い物に出掛けたか……。確かに住宅街も近いことからか24時間スーパーはあるけれど……こんな時間に? だけど、イチさんならやりそうな気もする。


 イチさんの行方を大して気にも留めず、僕は自室のベッドに寝転がった。やけに体は疲れている。原因は明白で、少し薄情な気もするけれど、その原因が留守にしている間に眠りについてしまえと、イヤホンを耳にはめた。

 目を瞑りながら眠気の到着を待っていると、ふと何かが香った。ラベンダーに近い花の香りに混じって、若干だけど確かに存在する……焦げた臭い。


「うわぁっ!」


 目を開けて叫んだ。メイドだった。イチさんだった。


「な、なにしてるんですか!」

「お休みのようなので番をと、思いまして」

「番?」

「見張りで御座います」

「いらないよ!」

「そうですか?」

「そうだよ!」

「では、せめて窓をお閉めください。秋とはいえ悪い虫が入って来るかもしれませんから」


 そう不器用に笑われながら言われてしまえば、逆らうのも悪い気がしてしまう。僕が大人しく窓を閉めると「それでは」と、イチさんは部屋を出て行った。

 それから暫くしても、なんとなく寝付けずボーっとしていると、暗い部屋の床に細い光が差し込んだ。

 部屋のドアの下に少しだけ空いた隙間から、廊下の明かりが入り込んでいるらしい。明かりをつけるとしたら、いまはイチさんしかいないと思い、隙間に目を凝らしてみると、足が見えた。


 誰かが部屋の前に立っている。


 おそらくメイドが立っている。



 その足はまったく動くことがなく、まるで人形を置かれていたかのように、一晩中、部屋の前に立っていた。

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