不測の事態 ③

 石榴宮の丁淑妃は、一度垣間見たことがある。

 豊満な身体に、しっとりとした色気を持つ方だと思った。

 女狂いと言われる皇帝が、長くお気に入りとしている方だと伝え聞く。


(他の妃を気に入って通っていても定期的に丁淑妃の元を訪れるらしいから、気が変わった相手としては納得だけれど……)


 寸前になって慣れた女の方が良いとなったのだろうか?

 明凜自身は女のため、男である皇帝の心など分からなかった。


 石榴宮に着くと、警備の目を掻い潜り丁淑妃の臥房と思われる房の側へと近付く。

 窓は閉じられていたが、少し細工をすれば中の音が僅かに聞こえてる程度の隙間は出来た。

 そこに丁度皇帝が訪れたようで、丁淑妃のものと思われる艶やかな声が聞こえてくる。


「お待ちしておりました。陛下」

「淑妃よ、そなたが我が儘を申すなど珍しいこともあるのだな」


 同時に皇帝・雲嵐の声も聞こえる。

 酒に焼かれた様なしゃがれ声は、その声音だけで不快感を湧き上がらせた。


「申し訳ございません。陛下がそのような女を好まないと存じてはおりましたが、今宵予定外に蘭の公主ひめを訪れると聞き嫉妬心が抑えられなかったのです」

「そなたでも嫉妬することがあるのだな?」

「いつもしております。ですが陛下に嫌われたくなくて抑えているだけなのです……お嫌いに、なってしまわれましたか?」


 最後には震える声で懇願するように問い掛けていた。

 丁淑妃の姿を思い浮かべながら今の声を聞くと、女の身であっても胸に来るものがある。

 雲嵐にとっては胸を射貫かれたような心持ちだったのかもしれない。

 証拠に。


「おお……淑妃よ。そのようなそなたは可愛らしいのお。普段の艶やかなそなたも美しいが、可愛らしいそなたもまたい」

「ああ、陛下……愛しております」


 衣擦れの音と、臥床がしょうが軋む音が聞こえ、囁きの合間に口づけを交わす音が聞こえた。


「っ!」


 明凜は思わず顔に熱を集め、静かにその場を去る。

 元より他人の閨事を盗み聞くつもりは無かったし、何より口づけの音は別のことを思い起こさせた。


 柔らかな唇。

 自分を逃がさぬようにと抱いてくる腕。

 吐息と共に明凜の唇をついばむ彼の、薄藍の瞳。


 令劉からされた口づけを思い出し、顔だけで無く全身が熱くなってゆく。


(もう、駄目よ。今は隠密中なのだから)


 言い聞かせ、なんとか早まる鼓動を抑える。

 心を乱す記憶を振り払うように、思考を別のことへと移した。


(とりあえず、皇帝は確かに丁淑妃様の元へ行ったわね。丁淑妃様は……)


 考え、丁淑妃の声を思い出す。

 哀れみを誘う声。

 皇帝から嫌われていないと知り安堵した喜びの声。

 声だけでは確かなことは言えないが、あれが演技だとしたら丁淑妃はかなりの演者だ。


(それか、本当に皇帝を愛しているのかしら? あの肉達磨にくだるまを?)


 雲嵐の姿も、明凜は数えるほどしか見ていない。

 だが、一度見ただけでも分かるあの肉付き。

 若い頃は美丈夫だったと聞くが、今はその面影は欠片も無い。

 正直、美しい丁淑妃に『愛している』などと言われる様な相手とは思えなかった。


(いえ、でも人の好みは千ほどもあると言うし、無くは無い……のかしら?)


 思わずうーんと唸ってしまう。

 だが、とりあえず少しは丁淑妃のことが分かった気がした。

 皇帝の寵を得るために、彼女は雲嵐の気を引き留めるという行動を取った。

 元昭儀である西白銖のように翠玉を害するという方法では無く。


 翠玉のことを一番恨んでいる人物かと思ったが、思っていたより冷静な方なのかもしれない。

 そう認識を改めた。


(とはいえ、警戒はしておくべきだけれど)


 一つ息を吐きつつ結論づけた明凜は、紫水宮へ戻るためにまた動き出した。

 警護の者が近くを離れるのを待ち、石榴宮の外へと進む。

 だが、走廊を一つ越えれば外だというとき何者かに腕をつかまれた。


「っ!?」

(誰!? 何の気配もしなかったのに!)


 驚くと同時にここまで気配を消せるということは令劉なのでは無いかとも思う。

 だが、明凜の腕を掴む手には容赦が無い。

 どんなに強く掴まれようと、あくまで優しく扱ってくれる令劉の手では無かった。


 令劉ではないと判断すると同時に抗うが、力強い男の手は明凜の抵抗も押さえつけ引きずる。

 ついには近くの房へ押し込まれ、馬乗りになった相手に押さえつけられてしまった。


(まずい!)


 とっさに目を瞑り、翡翠色の目を見られないようにする。

 顔も隠したかったが、その前に両腕を頭の上でひとまとめにされてしまった。

 口元を隠していた布も外され、顔が晒される。


 目の色は隠せても、顔は見られてしまった。


「やはり明凜殿でしたか」

「っ!?」


 聞き覚えのある声に、思わず目を見開いてしまう。

 知った声。顔を見ただけで何者なのか知られてしまう相手。


「晋以、殿?」


 見上げて見えた顔は、いつもの穏やかさなど欠片も無いが、確かに宦官の晋以だった。

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