第2話

 なぜかはわからなかったが、少年はふわふわと浮かんでいるような感じがした。意識ははっきりとはしなかった。ただ、遠くのほうから少年のことを呼ぶ声がかすかに聞こえてきた。少年がその声のする方角を目指して意識を集中すると、淡い光が見えた。その光に向けて腕を伸ばした。

 突然、視界が開かれた。目の前に見たことのある天井があった。肩を軽く叩かれているので、視界の片隅に見えていた看護師が少年を起こしに来たのかもしれない。

 気分はどうですか、そう聞かれたので少年は、体中に痛みがあることを告げた。我慢できない痛みですか、そう聞かれたので少年は、大丈夫ですと答えた。看護師は優しく微笑むと、少年の側を離れて窓際に歩いて行き、カーテンを開け放った。少年はその様子を目で追っていた。陽射しが目にしみた。少年が眩しそうに窓の外を眺めると、幾つかの高いビルが見えた。

 ここが病院だと告げられた少年は、その言葉をすんなりと受け入れて尋ねた。おれだけですか、と。察した看護師は戸惑いつつ小さく頷いた。なにも答えずに天井に目を向けた少年は、両の瞼を閉じた。涙が溢れてくるのを堪えることができなかった。

 看護師が少年のベッドの近くに寄ってきて、屋上に行ってみない、と尋ねてきた。気分をまぎらわせるか、落ち着かせるための申し出なのだろうが、とてもそんな気分にはなれなかったものの、機械的に冷やされた空気ではなく、今の外気を感じたくなったので少年は、言葉に従うことにした。

 移動には車椅子を使わざるを得なかった。少年の左脚は骨折しているのかギプスで固められており、右脚は膝から下が失われていたからだった。それに、右腕の肩から先もなかった。少年は少しも動じることもなく、すべてを淡々と受け入れた。

 右腕を失くした少年には自力で移動することができなかったため、看護師が車椅子を押してくれた。エレベーターで移動して屋上に到着すると、むせ返るような熱気が少年の身体にまとわりついたが、不思議と不快には感じられなかった。

 転落防止用に設けられている柵近くまで移動した少年は、伊那市街地に目をやった。市街地をあらった生暖かい風が少年の前方から吹き寄せてきた。不意に少年の視界が滲んで、街並みがぼやけた。肩を震わせて、頬を伝う涙がとめどなくこぼれ落ち、少年が着用している患者衣を濡らした。

 どうしようもなく嗚咽が溢れ出した。右脚の膝から下がない。右腕もなかった。父や母、そして妹。失ったモノは数え切れないほど多く、生命の代償としては余りにも大きかった。看護師がなにも声をかけてこなかったのがありがたかった。今声をかけられると、依存してしまいそうだった。

 ここは木曽路に近い伊那中央病院だと先程聞かされていた。屋上から見晴るかす景色は三六〇度のパノラマで、伊那市街地を一望でき、その先には緑に被われた山並が迫っていた。大阪の市街地に比べれば物足りなさを感じるが、地方の都市部といえばこのくらいの規模なのだろう。看護師がそこにあるものを指差しながら説明してくれるのだが、少年はあまり興味を抱かなかった。看護師の気遣いはとてもありがたく感じていた。しかし、少年の暗く沈んだ心は簡単には晴れそうになかった。

 しばらくその場所で美しい風景を見ることで、なんとか気持ちの整理をつけ終えると、少年は病室に戻してもらった。トレイに載せられた朝食が用意されていたが、あまり食欲がなかったので、デザートのヨーグルトを冷蔵庫にしまってもらい、あとは看護師に下げてもらった。なにか言いたそうにしていたが、少年は窓の外を眺めることで、一切の言葉を拒絶した。

 また様子を見に来るからねと言って看護師は、病室から立ち去った。一人になった少年は、ベッドに横になり、見慣れてしまった天井を見つめた。

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