第2話
『道の駅・木曽川源流の里きそむら』の側には清らかな水をたたえた川が流れていたので、少年は遊歩道を通って川岸に向かった。同じようなことを考える人がいるもので、観光目的の数家族が川岸に居り、地元の人と思しき数名の太公望が川釣りをしていた。近辺には岩魚の塩焼きが売っていたので、あるいはこの川で捕れたものなのかもしれない。母と妹の体調が戻り食欲があるのであれば、買って食べるのも良いかもしれない。そんなことを考えながら少年は、川に近づいて屈んで水に手を入れた。驚くほど冷たかったのは、この川の源流が山々に挟まれた谷にあり、冬場に降り積もった雪が解け出したからだろうと思われた。
少年は透き通った水でほてった顔を洗った。八月の日差しは刺すように厳しく、暖められた空気は淀んだように生温かったため、顔にかけた水はすぐにも蒸発してしまいそうだった。少年は立ち上がると、陽射しを遮るように手をかざして空を見上げた。
体調を崩している二人はどうしているだろうか、少年はぼんやりと考えながら来た道を戻って行った。その途中で思わず出くわした。父だけではなく、顔色が悪かった母と妹も一緒だった。とりあえず二人とも歩けるくらいには回復した様子だったので、少年はほっと胸をなでおろした。
話を聞いてみると、少しは落ち着いたので川辺りの木陰で休憩しようと思ったそうだ。母と妹に岩魚の塩焼きについて話したあとで、食欲があるかどうかを少年が尋ねると、二人は顔を向けあって目笑した。どうやら二人で分けるとのことだったので、少年は急いで売っている店へ向かった。
岩魚の塩焼きを三尾購入した少年は、ふたたび遊歩道を下りて行った。川岸に戻ってみると、妹が兄の名前を呼んで大きく手を振っていた。若さ故なのかはわからなかったが、妹は母よりも元気そうだった。
家族の元へ行くと少年は、父と妹に岩魚の塩焼きを手渡した。
川面を洗う風が心地よかった。妹は裸足になり、ゆっくりと川に入って行った。足先から伝わってくる冷たさを感じたのだろう、妹は気持ちよさそうにはしゃいでいる。母と父はそんな娘を優しげな目差しで見つめていた。
誰もが羨むような仲の良い家族だと、恥ずかしながら少年は思ったものだった。それが、あと一時間も経たないうちに、見るも無残な状況に遭遇することなど、この時は知る由もなかった。
充分とはいえないものの体調がかなり良くなったようだったので、少年たちはふたたび車中の人となった。父は急ハンドルや急ブレーキ、急加速をしないようにして、母と妹を気遣いながら運転していた。それに、まだ陽が高いこともあったので、できるだけ休憩できる場所を見つけては小休止をとり、美しい風景をカメラに収めていた。
父が写真を撮る際に使うのは、スマートフォンではなく一眼レフカメラだった。それは、父のこだわりだったようだ。今日だけで写真の枚数はどれほどになるだろうか。どれもこれも大切な思い出になるだろう。
少年はスマートフォンを使って、できるだけ自然な状態にある家族の写真をこっそりと撮りためていた。困ったように頭をかく父、口元に手を当てて優しげな笑みをたたえる母、屈託のない笑顔を見せる無邪気な妹。一枚一枚の写真には、その瞬間だけをただ切り取っただけの冷たさはなかった。どれもが温かい血の通った生活の一光景なのだ。今日の記憶は、おそらく長く少年の心に残るだろう。いつか忙しさにかまけて胸の奥底に深く沈んでいたとしても、写真を見れば、心の深淵から浮かび上がってきて少年の心を温かい思いで満たすに違いなかった。
少年の眉がなにかを思いついたように跳ね上がった。家族に集まるように声をかけると、笑いを誘うような言葉を口にして自分を含めた写真を撮った。妹は口をとがらせてやり直しを要求したが、少年はやんわりと断った。思い出というものは、こういう何気ない情景を紡ぎ合わせたものなのではないだろうかと、そう心の底から思っていた。
休息を終えた一行はふたたび車に乗り、一路北を目指した。渋滞に巻き込まれることもなく、人波でおぼれることもなく、ただ、母と妹が一時的にとはいえ体調不良に陥ったものの、それ以外はこれといった問題もなく順調な旅だった。怖いくらいに、などとは考えられないくらいに。
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