第4話 姿を消す証拠
月影澪は目を覚ました。朝日が差し込む窓辺に立ち、混乱した表情で部屋を見回す。床には取材資料が散らばっているが、いくつかのファイルは中身が空っぽだ。
(また消えている……昨日確かにあったはずなのに)
窓の外には不自然に濃い霧が立ち込めている。澪は不安げに眉をひそめた。この霧、いつからこんなに濃くなったのだろう。まるで、町全体を飲み込もうとしているかのようだ。
パソコンの電源を入れる澪の手が、わずかに震えている。画面が点灯し、デスクトップが表示される。しかし、そこにあるはずのフォルダの多くが消失していた。
「まさか……」
残されたファイルを開くが、中身は意味不明な文字列に変わっていた。パニックが澪を襲う。
「どうして……これじゃ証拠が何もない!」
必死にデータ復元ソフトを起動する澪。しかし、効果はない。消えたデータは、まるで最初から存在しなかったかのようだ。
澪は立ち上がり、部屋を歩き回った。壁に貼られた写真や地図を見つめる。それらも、少しずつ色褪せているように見える。現実が、少しずつ溶けていくような感覚。
そのとき、目に留まったのは古い録音テープだった。大切な証言が記録されているはずのそれを、澪は急いで再生機にセットした。
テープが回り始める。しかし、流れてきた音声に、澪は愕然とした。
『はい、こちらタウンニュースです。本日の天気は……』
「嘘だ……こんなの録音した覚えはない」
混乱した澪は、テープを床に投げ捨てた。その瞬間、テープから異様な音が鳴り始めた。低く、うねるような音。それは次第に大きくなり、部屋全体を振動させるほどになる。
「なっ……!」
澪は耳を押さえ、部屋を飛び出した。廊下に出ても、あの音が頭の中で鳴り続けている。心臓が激しく鼓動を打つ。
(警察だ。警察なら……きっと信じてくれるはず。この異常事態を……)
*
車を運転する澪の表情には、焦りと不安が混ざっていた。霧の立ち込める道路を、慎重に進む。見慣れたはずの街並みが、どこか違って見える。建物の輪郭が霧の中でぼやけ、まるで現実と非現実の境界線が曖昧になっているかのようだ。
そのとき、フロントガラスに奇妙な影が映った。人の形をしているが、どこか違和感がある。輪郭が揺らぎ、まるで霧の一部のようにも見える。
「ッ!」
澪は反射的にブレーキを踏んだ。車が急停止する。心臓が激しく鼓動を打つ中、澪はゆっくりと後部座席を振り返った。しかし、そこには誰もいない。
深呼吸をして落ち着きを取り戻した澪は、再び車を発進させた。警察署までの道のりが、妙に長く感じられた。時間の感覚まで狂い始めているのだろうか。
警察署に到着した澪を出迎えたのは、疲れた様子の警官だった。その顔には、深い皺が刻まれている。まるで、長年の重圧に押しつぶされそうな表情だ。
「何かお困りですか?」
「信じられないかもしれませんが、私の証拠が次々と……」
「はぁ……証拠がないのに、何を信じろと?」
諦めない澪は、さらに詳細を語り始めた。かげみ町で起きている奇妙な出来事、消えゆく証拠、そして自分の記憶の混乱について。言葉を重ねるほどに、自分の話が荒唐無稽に聞こえてくる。しかし、これが現実なのだ。信じてもらわなければ。
「でも、本当なんです! 町で奇妙なことが……」
「落ち着いてください。精神的に疲れているんじゃないですか?」
警官の言葉に、澪は言葉を失った。誰も信じてくれない。この現実に、絶望感が押し寄せる。自分は正気なのか、それとも本当に錯乱しているのか。その境界線さえ、曖昧になってきている。
澪は小部屋に呼ばれ、警官は調書を作成し始めた。澪はその内容を目にして、さらに落胆した。
日時:2024年7月X日
概要:「女性(32歳)が、幻覚または妄想の疑いで来署」
詳細:「取材中の資料や証拠が消失したと主張。しかし、具体的な被害は確認できず」
結論:「精神的ストレスによる一時的な錯乱の可能性。署内にて経過観察の必要あり」
調書を読み終えた澪の表情は、絶望的だった。この文字の羅列が、自分の体験を否定している。現実が、紙の上で歪められていく。
(誰も信じてくれない……私は一人なの?)
*
強引に警察署を後にした澪は、車の中で深いため息をついた。フロントガラスに映る自分の顔が、どこか他人のように感じられる。目の下にはクマができ、頬はこけている。この数日間の出来事が、確実に自分を蝕んでいた。
そのとき、スマートフォンが振動した。画面に表示された名前に、澪は驚く。
――――
あの謎の情報提供者からの連絡だった。澪は躊躇なく電話に出た。
「もしもし、影河さん?」
「月影さん、聞こえますか?」
影河の声には、落ち着きがない。背後で何かが砕ける音がする。まるで、何かから逃げながら電話をしているかのようだ。
「はい、聞こえます。どうして――」
「危険です。今すぐそこを離れてください」
「え? どういうことですか?」
「説明している時間はありません。とにかく、かげみ町から出てください。そして……」
その瞬間、電話が切れた。澪は慌てて画面を確認するが、圏外を示すアイコンが表示されている。
(どういうこと……? 私はいま東京にいるのに)
混乱する澪の目に、一台の車が飛び込んできた。見覚えのある顔。さきほどの警察官、野崎巧だった。
野崎が車から降り、澪に近づいてくる。その表情には、さきほどの懐疑的な雰囲気がない。代わりに、真剣な、そして少し恐れているような表情だった。まるで、何かに追われているかのようだ。
「月影さん、話があります」
野崎の声に、澪は身を固くした。
「野崎さん……私の話を信じてくれたんですか?」
「いいえ、最初は信じていませんでした。しかし……」
野崎は周囲を警戒するように見回してから、小声で続けた。
「私も、おかしなことに気づき始めたんです。記録が消える。人々の記憶が変わる。そして、この不自然な霧……」
澪は息を呑んだ。ついに、自分の味方になってくれる人が現れたのだ。孤独感が少し和らぐ。
「で、でも……どうして急に?」
「昨日の夜、古い事件ファイルを確認していたんです。そしたら、目の前でデータが書き換わっていく。あなたの話でそれを思い出したんです。ここはかげみ町です。東京ではありませんよ?」
野崎の言葉に、澪は唖然となり、同時に希望を感じた。そして新たな恐怖も芽生えた。
――ここは東京ではない。
ここはかげみ町だ。
澪は、かげみ町での取材は終わり、帰ってきたつもりだった。
彼の話が本当なら、かげみ町で起きていることは、単なる超常現象ではない。もっと大きな、そして恐ろしい何かが進行しているのだ。
「私たちは今、とてつもなく危険な状況にいるんじゃないでしょうか」
野崎が言葉を続けようとしたそのとき、突然、周囲の霧が濃くなり始めた。二人の視界が狭まっていく。まるで、世界そのものが消滅するかのようだ。
「なっ……!」
澪と野崎は、互いに顔を見合わせた。そして、二人は同時に理解した。
時間はあまり残されていない。
かげみ町の秘密。消える証拠。そして、彼らの存在そのものが危機に瀕している。
霧の中での結末が、彼らの想像を超えるものであることを、二人は薄々感じ始めていた。
澪は深呼吸をし、決意を固めた。
「野崎さん、一緒に真相を追いましょう。たとえ、それが私たちの想像を超えるものだとしても」
野崎は無言で頷いた。二人は車に乗り込み、濃霧の中へと進んでいった。かげみ町の秘密を解き明かすため、そして自分たちの存在を守るため。
街灯の明かりが、霧の中でぼんやりと揺らめいている。その光は、希望なのか、それとも絶望の前触れなのか。答えは、まだ霧の向こうに隠されていた。
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