無気力社畜、異世界転職フェアに放り込まれてみた!(7)
夕方の新宿は、昼の鮮やかさをどこかに置き忘れたみたいに、くぐもった明るさになっていた。ビル風がアスファルトの熱を攫い、行き交う靴音を浅くする。フェアの退場ゲートを抜けた俺たちは、しばらく誰も口を開かず、同じ方向へ歩いた。腕に巻いた反射バンドが、信号の赤でわずかに火花を散らす。
「中村殿、足取りがいつもより軽いな」
「そう見えるか?」
「うむ。“低燃費高効率歩行”だ」
「褒め言葉なんだよな?」
「最上級だ」とヴァルが短く言って、就業規則の薄冊子をトートに戻した。「今日、我らは“退く勇気”と“手順に戻る”を手に入れた。軽さは、捨てた荷の分だけだ」
横断歩道の端で、ベビーカー連れの母親が段差に苦戦していた。ライナが迷いなくハンドルを持ち、俺と二人でタイミングを合わせて持ち上げる。「ありがとうございます」と頭を下げられ、俺たちはそれぞれ軽く手を振った。誰かの行き止まりを一段ぶんだけ低くする。大きなことじゃない。でも、その一段を越えた先で、きっと何かが続く。
甲州街道の高架の下をくぐると、湿った風が顔にまとわりついた。今にも降りそうだと思った瞬間、ぽつ、と額に冷たい感触。雨が落ちてくる。周囲が一斉に傘を探す中、ライナは得意げに紙袋から折り畳み傘を三本出した。「備えた!」「どこで覚えた」「就業規則の注釈に“雨天時の通勤安全”があった」「そんな注釈はない」とヴァルが即答して笑い、三人で狭い歩幅のまま、雨粒を分け合って歩く。
信号待ちで、スマホが震えた。画面にいくつかの通知。小田さんからは「テンプレの“再発率25%低減”、広報に回せそうです。名前は伏せますが、社内事例で出してもいいですか?」という丁寧な打診。ピリカからは退避カードを掲げる動画。橙色が三度点滅し、カメラの向こうで幼い声が「にげるサイン、わかった」と囁く。リオルは“二次面接日程確定”のスクショと、胸札の写真。「手順へ、リオル」。文字は雨の光で少し滲んで、それでもくっきり読めた。
「必要とされるって、うまいよな」
俺がつぶやくと、ヴァルが「甘味は砂糖ではなく、意味で味わえ」と返した。「砂糖は燃えて尽きるが、意味は噛むほど滋味が出る。今日のは後者だ」
地下道へ降りる階段の手前で、二人組の就活生らしき若者が立ち尽くしていた。片方がスーツの袖で目を拭っている。ライナが目線を合わせて「どうした」と問うと、彼はか細い声で「面接で、何も言えなかった。全部、頭から逃げた」と答えた。俺の胸がちくりとした。見覚えのある痛みだ。
「“言えなかった”のは、弱さじゃない。未翻訳だ」ヴァルが落ち着いて言い、鞄から小さなメモパッドを取り出して渡す。「“待つ力”“伴走”“判断停止”――今日、勇者が学んだ言葉だ。君の出来事に、似た言葉を貼るといい。言葉は盾になる」
「数もな」と俺は続けた。「名詞と数字。たとえば“面接の最初の質問に十秒沈黙→以後の回答は短く要点に”。失敗にも手順がある。手順に戻れ」
若者は両手でメモを受け取り、何度も頭を下げた。「……ありがとうございます」その瞳は濡れていたけれど、さっきよりも視線が定まっていた。地下へ降りていく背中に、反射バンドが一瞬だけ光った気がした。
雨足が強くなる。近くのアーケードに入った途端、向こうから小走りで人が来て、俺の肩にぶつかった。スーツの男性だ。片手には封筒、もう片手には小さな段ボール。封筒から書類が滑り出し、床にばら撒かれた。男性は「すみません」と言いながら膝をつくが、手が震えて紙がうまく拾えない。雨と焦りで指が言うことを聞かないのだろう。俺たちは無言でしゃがみ、用紙の端を重ねて揃えた。ライナが「落ち着け、呼吸三拍、吐く七拍」といつもの調子で言い、男性はぎこちなく呼吸を合わせる。数拍ののち、手の震えがわずかに引いた。
「助かりました……これ、今日中の提出で。落としたら終わりで」
「“終わり”は誇張だ。提出は今日だが、人生は明日も続く」とヴァルが薄く笑い、封筒の口をテープで補強した。「それに、失敗はラスクになる。焦げパンの話は知っているか?」
男性が目を瞬かせ、ふっと力が抜けたように笑った。「聞いたことがある気がします」肩の力が落ちると、足取りが整った。俺たちは見送る。大したことをしたわけじゃない。ただ、一枚の紙が雨に溶けないように手を添えただけだ。それでも、誰かの今日の終点が明日に延びるなら、十分だ。
小走りで駅に向かう途中、アーケードの隅に古びた喫茶店が見えた。雨に打たれたガラス越しに、窓際の丸テーブルが空いている。ライナが突然方向を変える。「寄る! 温かい飲み物と、今日の戦利品の分配会だ」「戦利品?」と首を傾げる俺に、ヴァルが指折り数えた。「“退く勇気”バッジ、“手順に戻る”札、“数字は盾”の付箋、そして“焦らない”の標語。全部、持ち帰りだ」
店内は薄暗く、コーヒーの匂いが雨音に溶けている。三人でテーブルに座り、蒸気の立つカップに手をかざした。ライナはミルク多めのカフェオレを啜り、ふう、と長い息を吐く。「なあ、中村殿。勇者、少しわかった。必要とされるって、剣で敵を倒すことじゃないんだな」「うん。剣より先に、椅子を引く、とか」「いざという時に、退避合図を点ける、とかな」と俺。「あるいは、就業規則で呪印をはじく」とヴァルが微笑んだ。
カップの縁に雨の残りが細い輪を作る。俺はポケットから、フェアで撮った履歴書写真のプリントを取り出して眺めた。シャツの襟が少し浮いている。髪に一本だけ跳ねがある。完璧からは遠い。それでも、画面の向こうの俺は前より少しだけ“こちら側”に立っていた。逃げ腰ではなく、逃げ道を知っている顔。無敵ではないが、敗北でもない。
「そういえば」とライナが思い出したように言う。「今日、ブラック企業の天幕で震えていた獣人の青年、どうしただろう」「ボランティアのテントで支援制度の説明を受けていた。連絡先を渡していたから、繋がるだろう」とヴァル。「“持ち帰る”を選んだ。あれはいい選択だ」
「俺も、持ち帰るだな」俺は名刺入れの中の“ゲート管理センター”のカードを軽く指で弾いた。「考える。歩幅を合わせて。焦らない」
店を出ると、雨は弱くなっていた。路面に反射したネオンが薄い川みたいに流れている。駅前の人波に飲み込まれる直前、ライナが急に立ち止まって振り返った。「なあ、中村殿。もし、明日がまた重かったら、どうする?」
「手順に戻る。まず寝る。起きたら一つだけ旗を立てる。ATS履歴書の空欄を一個埋めるとか、差分テンプレを一行整えるとか。やる気は結果、だろ?」
「うむ。旗を一本。勇者も旗を立てる。名付けて“今日の退避合図”」「名前の癖がすごい」
改札口で、俺たちは分かれた。ヴァルは反対方向の電車、ライナは買い忘れを思い出したと言って地上へ。俺はホームに降り、ベンチに腰かけ、肩の湿りをタオルで拭った。遠くでアナウンスが流れる。耳に入らない程度の情報と、さっきまでの濃度の高い一日が、身体の中で混ざりあい、薄まっていく。
ふと、ホームの端で中年の男性がスマホを見つめているのが目に入った。画面に「内定辞退」の文面。指が上空で止まっている。送信ボタンの手前で凍っているのだ。俺は見知らぬ他人のその瞬間が、なぜか自分の喉につかえるのを感じた。彼の肩に罰は背負わせたくない。だが、踏み込むべきではない距離もある。迷った末、俺は立ち上がって券売機の横のフリーラックから“就職・転職相談”のチラシを取り、彼の近くのベンチに置いた。目が合う。会釈だけ交わす。口を出さず、合図だけ置く。届かなくてもいい。届けばいい。選ぶのは彼だ。退く勇気は、押しつけるものではない。
電車がホームへ滑り込み、ドアが開いた。車内の冷気が雨の熱をさらっていく。吊り革の金具が小さく鳴る。俺はポケットの中で反射バンドに触れた。三度、指先で軽く叩く。退避の合図。今日はよく働いた。よく学んだ。よく退いた。だから、進む。たぶん、少しだけ。
揺れる車内で、窓の外に街の光が後ろへ流れる。駅ごとに人が降り、別の人が乗る。入れ替わる目線、袖のしわ、持ち物の重さ。誰もがそれぞれの“角”を支えて、今日を延長している。俺は思う。必要とされることは、命の長さではなく、今日の幅の話だ。少し広くなれば、それでいい。広くなった分、誰かが息をしやすくなる。
最寄り駅に着く頃には、雨は上がっていた。雲の切れ間から月が薄くのぞく。改札を抜けると、商店街のシャッターが半分ほど閉まりかけている。八百屋の店主が片付けをしていて、店先の段ボールに「ご自由にどうぞ」と書かれた見切りのレモンが乗っている。ひとつ手に取ろうとして、やめた。必要な人に残しておく。代わりに、店主に「お疲れさまです」と言った。店主は顔も上げずに「おう、お疲れ」と返し、その声がどこか柔らかかった。
アパートの前の小道に、雨上がりの匂いが残っている。鍵を回す前に、空を見上げた。ビルの狭い隙間に小さな星の欠片。大層な希望ってほどじゃない。だが、目印にはなる。旗を立てる場所を見失ったとき、上を向けば見える程度の光。
部屋に入り、靴を脱ぐ。カバンから名刺と小冊子を取り出し、机の上で重ねる。明日の朝に回すメールを三つ、下書きのまま保存する。アラームをいつもより十五分だけ早くセットする。冷蔵庫から水を一杯。電気を消す。布団の中で、呼吸三拍、吐く七拍。手順に戻る。
目を閉じる直前、耳の奥で、どこかの誰かの足音がスローモーションで響いた。ベビーカーの段差を越える音。展示ケースの前で反射が三度点滅する音。窯の前で吸って吐く音。面接ブースで言葉を探す沈黙の音。全部が同じ速度で歩いている。
俺も、歩く。速くなくていい。遠くなくていい。戻る道がある限り、行く道はいつでも始められる。
帰り道、それでも歩いていく。
旗は一本でいい。
明日の朝、もう一本立てられたら、今日は十分勝ちだ。
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