夜伽話

冬場蚕〈とうば かいこ〉

第一幕 憂うための世界じゃない

第一章 石愛づる姫君

第1話 我がいとしき妹よ

 殺しは、初めてではなかった。


 朝から、同居人は留守にしていた。友人から招待されたと言って、ばたつくように出かけて行ったのだ。行き先は、新潟県佐渡市。妙見山のふもとのコテージだった。

 私は日本に来てからというもの、東京からほとんど出ないで過ごした。東京にいれば大抵のものは揃う。佐渡市がどのような街なのか、妙見山がどのような名山なのかは知らなかった。

 ただ、またとないチャンスだった。彼女は四六時中、私と――より正確にいうなら、私たち姉妹と――くっついていたがったから。このタイミングしかなかったのだ。

 計画は完遂された。これでまた〈厄災〉を払うのに一歩近づいた。

 日本での暮らしは悪くなかった。安全で、便利で、不幸な国。その場しのぎでも〈厄災〉は抑えられていたし、同居人にはずいぶんと世話になった。世話をすることも多かったが、何も告げず消えることに、申し訳なさはあった。

 でも、これが最善という気もしていた。

 それなのに――

 まさか見られるとは思っていなかった。

 二人きりでは持て余すリビングで、二人きりでは持て余す問題を私たちは共有していた。部屋の空気は重たく、私とコクヒの口も同様に重たかった。

 天井にはさっき私が吊した男の死体があった。コクヒの、恋人の男だった。

 コクヒはずっと黙っていた。もう向き合ってから三十分になる。最初のうちこそ、私の言葉を聞いてくれていたが、今ではどんな言葉も跳ね返すような充血した目で、じっと私を見つめていた。


 ――お姉ちゃんは、どうしてこわいことばかりするの?


 日本に来てすぐ暴力沙汰を起こした私に、コクヒはそう言った。

 そのときも目に涙を溜めていた。怒っているわけではなく、ただ悲しんでいた。内臓や皮膚の爛れた身体を罵られたことではなく、私が人を傷つけたことに。

 それ以前からずっと、コクヒは私が何かを傷つけることを嫌っていた。コクヒの目には私の手が潔白に映っていたのだ。


 ――もうこんなことしないで


 これまでの世界で私は何かしら殺害している。暴力沙汰なんて、コクヒに隠していただけでその何倍もあった。

 対象は人であったり、人外であったりした。日本風にいうなら、妖怪やクリーチャーに類するものも、犬や猫に類するものも、たくさん殺した。

 それが条件だったから。


 ――わかった。もう誰も傷つけないよ。やくそくする


 だが、私はそう言って、同居人から教えてもらった〝ゆびきりげんまん〟をした。

 今まで上手くやれていた。だから、日本でもきっと大丈夫だと思ったのだ。コクヒが見ていないところで、こっそりと殺して、次の世界へ移動する。簡単だ。移動する、情報を集める、殺す、移動する。

 そして、最後には〈厄災〉が解ける。

 そのはずだった。どこで誤ったのだろう。

「おねえちゃん」

 コクヒのちいさな唇がふるえながら開いた。

 バレるだなんて思っていなかった。今日この時間、コクヒは外出しているはずだった。少なくとも同居人に買ってもらったスマホに入った、共有の予定表ではそうなっていた。自分の両足を地に着けて、笑顔を振りまいて、スイーツを食べに行っているはずだった。

「どうして……こ、こんなの……」

 その嫋やかな身体を折るようにして、コクヒは決壊した。

 コクヒのためだったんだよ、と諭すべきだろうか。それとも、この男が悪いことにしようか。でもこの男は潔癖症で、善人だった。少なくとも日本においてはそうだった。

「ひどい、ひどいよ」

 つぶらな瞳から大粒の涙が散る。泣き虫だと言われることを嫌うコクヒが、ここまで憚らないのは久しぶりだった。

「やくそく、したのに……」

 今度は私が黙る番だった。

 この男を殺したら、別の世界のあとひとりを殺すだけだった。身体ダメージとその後の処理を考えても、最後の転移だ。そうして私たちは晴れて解放され、ふたりきりの世界で幸福をむつむ。

 そのはずだった。

「信じてたのに……」

 コクヒは悲しんでいた。そして、怒っていた。涙を流す以上に珍しいことだった。

「お姉ちゃんなんか……」

 その先は言葉にならなかったが、胸を突かれるような声だった。私はとにかく何か言おうと口を開いた。

 そのとき、目の奥で光が散った。転移が始まったのだ。コクヒも気づいたようだった。 これまでだったらすぐに手をつないだ。

 でも、今回はそうならなかった。

 私が手を伸ばしても、コクヒはじっと赤い目で睨み付けてくるだけだった。

「コクヒ、私は……!」

 言い切るより前に、目の前が真っ白になった。薄れていく意識のなか、男を殺してから転移まで時間がかかったわけを考えていた。


     *


 目を覚ました。

 身体を起こしてまず、自分に異変がないかを確かめた。

 世界ごとにルールが変わる。基本的には人型で転移をするが、何度かは爬虫類のような見た目になったり、触手だらけの生物になったり、植物になったり、一度は天候として転移をしたこともある。

 腕は二本、足も二本。胴はひとつで、顔もひとつ。触ってみると顔のパーツもすべて揃っていた。胸の膨らみや股間部のなめらかさを確認して、性別が女であることも把握する。服はパーカーにスキニーパンツ。スニーカー。日本で好んで着ていたものだった。その他にも異常がないことを確認し、胸をなで下ろした。

 結局のところ、人型がなにかと便利だ。

「〝父よ、吾もひとの子なり〟かな」

 同居人が読んでいた小説に、そんな一節があった気がする。私もコクヒも、人の子ではないのだけど。

 と、そのとき、コクヒがいないことに気がついた。

 あたりには草原のカーペットが広がり、涼やかな風がさざなみを立てている。薄雲を透かした太陽が、あちこちに光の筋を落としていた。

 蝶々がふいと横を通り過ぎ、黄色い花にとまる。草のにおい、湿った土のかおり、さわさわと揺れる葉擦れの音、清涼な空気を胸いっぱいに吸い込むと、わずかに味覚も刺激される。お日さまの味だ。

 幸運にも、環境は日本とそこまでの差はないようだった。

「コクヒ……」

 改めて声を出し、声音も日本のときと変わらないことに気づく。重ねて幸運だ。恐らく、日本とほぼ同じ環境の世界に、日本とほぼ同じ姿でやってこれたのだろう。

 違うのは、コクヒがいないことだけ。

 転移の瞬間、手をつないでいなかったからだ。

 転移時はぐれてしまうことは、これまでにもあった。百年ちかくコクヒと離ればなれになった経験もある。ロボットが有機生物を虐げている世界に、私とコクヒはロボットと有機生物としてべつべつに転移したのだ。日本でアシモフの『われはロボット』を読んで、ゾッとしたことを覚えている。

 はぐれるのはそのとき以来だった。

 対処法はあらかじめ決めてあった。コクヒは動けるうちに、人に見られない未開拓地に行くこと。私はとにかくコクヒを探して合流すること。もしそれ以前に、転移に必要なものを殺せる状況だったとしても合流を最優先する、というのは自分の中だけで決めたことだ。

 と、そこで日本では忘れていたことに気がついた。世界が変わったということはおそらく、また〈厄災〉が起こっている。

 これまでもそうだった。人が病気だけでは死なない世界では、治療を受け、〈厄災〉を抑え、コクヒは誰よりも健康体に恵まれた。それでも転移してしまえば、たちどころに〈厄災〉が妹の心身を蝕んだ。

 日本では発達した医学と黒魔術のおかげで抑えられていたが、もうその加護には期待できない。

〈厄災〉とは妹にかけられた呪いだ。皮が剥がれ、肉が抉られ、骨が砕かれ、内臓が灼かれ、激痛と苦悶にのたうちながら、それでも異常な回復力によって死ぬことはおろか、気を失うことすらできない。

 自壊と再生を絶えず繰り返す呪い。それが〈厄災〉だ。

 症状の顕現時間に波はあれど、一日の大半を苦しむことになる。

 日本では発症しても、私が近くにいてやれた。しかし今はひとりだ。そして〈厄災〉はまた猛威を振るう。きっと泣いているだろう。いつ収まるのかも分からない、死にたくなるほどの痛みに蝕まれ、されど死ねず――

「探しに、行かなくちゃ」

 のんびりしている暇はない。この世界の医学がどの程度発達しているのかは知らないが、一分一秒でも早くコクヒを見つけてあげないと。

『お姉ちゃんなんか……』

 そして、謝らないといけない。日本でのふるまいも、これまでのことも。

 問題は山積みだ。未開拓地を探すためには、まず、この世界を知る必要がある。

 そのために、言語の壁がある。それから種族の壁、文化の壁、常識の壁。そして、この世界で私は余所者というもっとも大きな壁。

 ひとまず環境の壁を取り払えていることは大きなアドバンテージだが、それもいつまで続くか分からない。

 あれこれ考えていると、

「大丈夫ですか?」

 おさない声が私に向けられた。

 小さく驚嘆の声がもれた。それは、これまでずっと聞き馴染んできた、日本語だったのだ。

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