プロローグ⑤
家を出る直前になって、俺は職場に用事があったことを思い出した。明日の仕事で使う制服を職場に置いてきてしまっていたのだ。洗濯物を怠けていたから、替えの制服が家に無い。スーパーに行く前に、事業所に寄ろう。
「コタロウくん、準備できたよ」
玄関先で待っていた俺の背中に、ばあちゃんの言葉がぶつかってくる。あれこれ考えていたから、ほんの少しだけ反応が鈍った。
振り返ると、ばあちゃんが立っていた。いつも被っている白い帽子を被り、花柄の薄いカーディガンを羽織っている。藍色の綿のズボンは裾がきゅっと萎んでいる。ばあちゃんは昔から身なりにはとても気を遣う性格をしている。認知症になっても、その習性は残っているようだ。
俺たちは、いそいそと靴を履き、家を出た。
「ああ、コタロウくん、ガスはしめたかしらねえ」
「大丈夫だよ、ばあちゃん」
ちょっと出かけるだけだから、本当は何もしていないけれど、ばあちゃんが安心できるように方便を言う。
ばあちゃんは、昔から体を動かすことが好きだったようで、脳は萎縮しても、足腰は丈夫だ。杖も、シルバーカーも無しで歩ける。ちなみに、この状態のことを独歩という。昔の小説家にそんな名前の人がいた。教科書に載っていたその人は、自分が孤独でも強く歩んでいこう、という決意を込めて、ペンネームにしたらしい。
孤独。人間は一人では生きられないと、そんなような言葉は世界に溢れかえっているけれど、果たして本当にひとりぼっちの人は、この世に存在するのだろうか。
「ばあちゃん、スーパーに行く前に、ちょっと俺の職場に寄ってもいいかな」
「いいよぉ、コタロウくんも大変だねえ、こんな老いぼれの相手をしながら、お仕事をしなきゃいけないなんてねえ、ごめんねえ」
ゆっくりと言葉を紡ぐばあちゃんは、謝罪の言葉はあれど、全然申し訳ないと思っているようには感じられなかった。これはばあちゃんに限らず、俺が関わるじいちゃんばあちゃんは、会話の端々に詫びの言葉を挟んでくるのだが、その実、全く何も思っていないだろうと突っ込みたくなる場面が多い。日本人は、礼節を大事にする民族だから、とりあえず相手を敬う習性が染み付いているのかもしれない。
ばあちゃんの歩幅に合わせると、俺一人で歩く道も時間がかかる。だがこれは、時間の限られている業務ではない。あと何分しかないと焦らなくてもいいのだ。
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