貴族的な生活に憧れるも子育てによる将来の不安により心を病む母

張ヶ谷 俊一

あなたはあなた

 ミソカが産道から出されたとき、疲れた私に君は重すぎた。助産師に渡されて、遠慮なく私の胸に居座る君は、抉りだされても鼓動する大きな生の心臓の形で、先生は可愛い男の子と言うと、喉の奥から絞りだされたように、君は金切り声をあげた。彼らが君をプラスチック製の保育器に入れた時、私が君を取り違えるかもしれないと思った。君は他の子と同じ顔していて、ただ少しだけ良く動く子だった。オルゴールのメロディーが流れていて、ほんのりとベビーパウダーの匂いがした。プラスチックで包装されたものを見周りながら、時折まだ生きている子がいる。私は君のために、スーパーから生きの良い鮮魚を選んで、君が帰宅後にすぐ楽しめるように、君が帰ってくる直前に調理をする。そのせいで君を出迎える時、私の両手はいつも冷たく、君がいつも付けるリリーの匂いと違って生臭かった。


 台所に立っている私は、濡れた袖を巻いて、包丁を置いてから、君の寝室に入った。布団で寝る君の青白い頸動脈を見て、今日も生きているのが分かる。君の上に跨って、暑いからか、君が蹴ったシーツを、君の顔に掛ける。赤ちゃんを抱き上げる時は頭を持つようにと助産師に教わった。その時に浮き上がった君の斑点模様の青白い細い首を、私は目一杯に、両手で抱きしめた。絞られている雑巾に見える君のしわくちゃな首に、でもすぐに死んだら怖くて、ほんの少しだけ、捻ってみる。ぎゅっと。君の頭が右にわずかに傾いた。私が君を初めて抱っこした時も、君は真っ赤な皮膚をして、頭をくねくねと動かして、居心地の良い置き方を探っていただろう。でも私の両手は君とは違って、大きくもなく、肉付きも良くない。初めて出会ったときの君は、新商品が三箱詰まった段ボールを軽々と会議室に持ち込んだ。そして箱を開けて、私たちに新商品を一個ずつ渡して、爽やかにプレゼンを始めた。よどみのないせりふ回しで、私の心を絡めとるようにして、全員にも目線を配った。発売すると直ちに売上が右肩上がりになって、あっという間に祝賀会になった。私と君は隣になって、君の趣味もレストラン巡りだったなんて、今思うと運命かなと思う。カフェの話でも弾んだよね。行き先を決めずに目的もなく、偶然の奇跡を求めるかのように、君は両手を左右に動かす。手のひらをパクパクさせながら、純白なシーツを掴んだり離したりする。


 君はようやく息苦しさではっきりと目覚めたのか、目の前で二人の愛してやまない子供が、車道で幾度となく肉塊を轢かれる場に遭遇して、錯乱の余り髪留めで自分の首を刺す母親の平常な行動、その間隔で、君は嗚咽を漏らしている。産まれたての無味な酸素を求めている君に私は泣いていた。痛さのあまり、口角を上げても、歪に曲がっていた。その君の口元からは水が垂れて、私の両手がそれを受け取る。わななくと私の両腕が震える。疲れて、私の体重を支え切れないせいか、涙が溢れてきているせいか、私は君の首を真上から抑える。煌びやかなホテルを映した映画で、突然に倒れた客に、心臓圧迫して、主人公の屈強な男性が力いっぱいに、興奮した人間の脈よりも速く、胸が凹むくらいに、押し込み、その押された頭は衝撃で上下に揺れていたが、スタッフが敷いたタオルのおかげで、頭蓋骨を砕かずに済んだ場面がある。二十代の私はその男性の無骨な両腕を見つめながら、コーヒーをすする。カメラがその患者の顔を映すと、何滴もの水滴がその顔に落ちていく。酷くやつれた婦人で、その高級なホテルに似合わない日常風の服装をしていた。私の耳には、錯乱した何人もの女性の叫び声と、母を心配するもう一人の男性の台詞が聞こえる。お母さん。起きてよ。と彼は泣いていた。その顔に残る馴染みのある石鹸の香りを感じて、今ある不安を拭いたいためか、二つの顔はだんだん近づいていき、がらんとした一室で。仰向けになって向かい合う。私は四つんばえになって、見たことを思い出しながら、君の喉が脊髄にゆっくりと触れるまで、君の首元に体重が上手く乗るようにして、私は雌牛的娼婦を演じてみた。揺りかごが動く間隔で押し付けていく。少しだけ平べったくなったのかな、哺乳瓶の直径ほどもなかった、君の首が広くなった。


 被せたシーツに、粘液がようやく染み付いた状態でも、君はまだ生き生きとしている。母音を発して、両足で私の膝を蹴った。一度にとどまらず、二度目、三度目と蹴り上げてくる。私は頭を左右に回して、両目に溜まった涙を、袖とシーツに何滴も落として、はやく、はやく、と心中で叫び続けた。待ちきれない。君と一緒に行きたくて仕方なかった。私はスマホで君に連絡して、次に有給を取る時期を聞いていた。だって、出張先のホテルで君が「もっと上に」と言った時の情景を、私はまだ思い出せる。君と一緒に東京の外資系企業に営業をかけた後に、近くの高級ホテルに宿泊する許可を上司からもらった。君はベルスタッフの荷台に私のスーツケースを載せて、受け取った鍵をポケットに入れた。


「こんな豪華なホテルに泊まれるなんて、いつぶりだろうな。全部が会社の負担だから、思い切って思い切って贅沢しても怒られませんよね。高美先輩。」

「そうだね。ここは特にシャンデリアが奇麗だね。さっきの取引先の傘下だから、中東の来賓向けに様式を拵えているようだね。」

「あっ。だからジャケットをベージュに選んだのですか。マジでしゃれていますね。」

「ありがと。君こそ何突っ立っているの。エレベーターに乗るよ。本命はここではないからね。」

「ああ。相変わらず早いですね。ここの本命って何ですか。」

「客室。幾何学模様の内装よ。あの空間で寝られるなんて、本当に楽しみ。」

「あー。タクシーに乗るときに見ていた画像って、ここの内装か。確かに、ゴージャスっていうか、高美さんの雰囲気にお似合いですか。」

「笑わせないでよ。」


 無言のまま、私たちはエレベーターに乗り込んだ。階層のボタンは金色に彩られており、床には私たちの輪郭が黄金色に映っていた。君は天井を見つめて、しばらく沈黙していた。


「明日、君はどこか行きたい場所はあるの。」

「なんだろうな。もっと上に、ですかね。」

「じゃあ美術館ね。あと浅草も行きたいわね。」

「無視ですか。」

「まぁね。虫唾が走るおじさんのボケは無視。飲み会の鉄則よ。」


 君は黙り込んだ。でも、またすぐに声を出し始めた。手ぶり身ぶりで感情を伝える君は可愛くて、なぜ私に懐いたのかが分からなかった。無口な私は君の前では明るく振り舞うことができたが、それも君がいたからで、君と最初に逢ったのは仕方ないからで、だって嫌でも、私の将来のために、拒否したくなかったの。刺激的で、腐敗した魚を思わせる酸味が、私の鼻腔に漂い、君のむせび泣く声が私の鼓膜で反響し合う中、本当に仕方なく、シーツをその口に詰め込む。君は無力な顎を動かしても、私は君の首を抑えたり、握ったりして、上から押し詰めて固くなり、染み出した体液が見えなくなるまで入れる。君の顔の輪郭は、婦人服店のショーケースに置かれたマヌキンのように、美形でシャープで無個性だった。


 週末は中部地方を中心に雨になる予想です。冬の寒さはまだまだ続きますので、暖かくしてお過ごしください。すっ。すっ。マンション外の自動車の駆動音が、はっきりと聞こえる。徐行運転の車が何台も通過していき、私は君がマンションに到着するのを待っていて、時計を見ると五分過ぎてから、君はレンタカーの外車で、また私を東京に連れて行ってくれた。二人で相談して取った有給で、私たちはまた、もさっと、もさっと、いつもの銀座のカフェでケーキを味わってから、ドライブをして、その街並みを堪能して、有名なホテルに宿泊をしてみた。寝室から掛け時計の秒針の音が聞こえる。私は両目を瞑って、別の未来を考えてみる。でも思いつかなかった。ミソカ。君を産んだ時のことしか思い出せないよ。包丁で料理しないと。

 子供部屋を出て、台所で包丁を握った。捌かれた切り身があり、これでは君と私のごはんなんて、足りない。握ったまま、二人用の食卓の椅子に座る。両足の震えを感じながら、君が帰った甘い時のことを考える。君はドアを開けて、いつものようにして、私を労わってくれるだろうか。


「お帰り。今日もお疲れさま。」


 君の鼻筋が通った顔を思い浮かべる。今日もありがとうね。いつも家事任せてごめんね。プロジェクトは上手く進行しているよ。


「ううん。大丈夫よ。今日はカレーで、冷蔵庫にはケーキもあるのよ。」


 ケーキ買ってくれたの。ありがとう。すごい楽しみ。手を放して、私は椅子から立ち上がり、洗面台へと向かう。自分の顔を見つめて、前髪を整えた。熱くなった眼頭に濡れたタオルを当てる。置かれた包丁を見つけると、休日にいつもお得意の洋食を作ってくれる君を思い出す。ソファーでミソカを抱っこしながら、私は『グレート・ギャツビービ』を見ていて、君は台所で君はハンバーグを作っていた。結婚を機にして、東京の近くに引っ越せば、もっと君と夜の街を遊覧できると思い、その翌週に、君と乗った観覧車のゴンドラ内で、夜光を反射して煌めいた二カラットとリングは、私が小さい頃に憧れていた恋愛ドラマの終盤で登場した。


「ミソカを連れてさぁ。家族で箱根でも行きたいな。」

「でも、途中でミソカが泣いたら困るよ。ミソカが大きくなるまでは我慢だね。」

「近くに親戚とかいるの。預かってもらおうよ。上司の鈴木とか。」


 ベランダから春風が連れてきた排気ガスの匂いが鼻に刺す。


「この子は私がいないと、不安になってすぐに泣くって、この前に言ったじゃん。君が抱いた瞬間に泣き始めてさぁ。この子は手間がかかるから駄目よ。」


 気が付けば、この日の君のように、私は台所で下を向いたまま、考え込んで、すねたように可愛くぷっくらと頬を膨らませ、両足をジタバタと鳴らしながら、流しの端に両手を置いて、小刻みに揺れていた。でも私はいつも通りに、排水口の漏斗を外して、とろみが付いた栄養食を流しだした。もう。ごめんなさい。


 玄関が開いた音。いつもの様子で君を迎えてみる。あ。お疲れさま。あっ、ごめんね。まだ夜ご飯はね、先にお風呂入ってね。と私は言った。子育てを任せてごめんね。顔色悪いけど、大丈夫なの。元気。うん。ね。いつも本当にありがとう。と彼は革靴を脱ぎながら、私を労った。本当ね。ありがとうね。ごめんね。今日は頑張ったのにね。私に。


 部屋からまた、まだまだ、またまた聞こえた。あああ。ああ。いつ見ても、君の顔は変わらずに若く瑞々しい肌をしている。パーマをかけた君の髪は、ワックスで整えられている。両目で私を見つめて、他の女に幾度なく口づけをした、そうに違いない、その不倫じみた唇は、小刻みに震えて。自然と荷物を受け取った。


 ミソカちゃんが泣いているよ。そうなの。せっかく寝かしたのにね。まただね。起きちゃった。ちょっと、ごめんね、行ってくるね。小走りで子供部屋に向かうと、じゃあ俺がご飯の続きを作るよ。なんて素敵なの。ありがとうね。ごめんね。吊り上がった口角を感じて、戸が開いた君の部屋に入った。


 真ん中に布団が敷かれた真っ暗な子供部屋に、君は仰向けになっている。何カ所もしわができた染みの付いたシーツの上に、眼を閉じながら、君は四肢を、私が昨日見た木から落ちた、味噌を吹き出していたセミのように、抜け殻かな、痙攣して動かして、やはり、私が見てあげないと駄目だなって、思わせて。


 君の体は六カ月だから、まだまだね。面白くて、車道に置いたら、バカで鈍感なママは、きっと、パパと一緒に買った赤いアメ車で、君を轢いてしまうのだろうって、それで気づかずにママとパパは行き先に向かって、でも這いつくばった君はぺちゃんこのまま、また誰かの車に轢かれてね。


 ママのお腹の水で喉に詰まらせて、看護師もいないのに、私の腹を裂いて、外に出してと叫ぶのね。シーツの傍に赤いものを反吐しながら、不規則におっきいな頭をぱきぱきと、出産中に背骨が折れて不随を患いそうなほど曲がって、枕に激しく頭を打ち付けた私のように振って、この部屋の空気を吸おうとしているのね。


 あぁ。ママだよ。寂しかったよね。私がママだよ。もうすぐだからね。ママだよ。君を抱き上げるね。すぐにね。今からね。

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