第37話 蛇男を探せ③
スナック『歌姫』への階段を降りる前に、石黒は傘を払いながら低く言った。
「俺たちは表向き、田所の捜査だけをする。例の蛇祭りビデオや『チュウザイ』の話は、まだどこにも漏らすなよ」
「九我さんには報告しますよ」
宇佐美もレインコートを脱ぎ、水しぶきを払った。
「九我さんは面倒を嫌う人だ。もし『チュウザイ』が県警の上層部にでもいたら、手を出すなって言ってくるぞ」
「……そうかもしれませんが……」
「俺は浪人して入ったから年は上だが、あの人は大学の先輩で、長い付き合いだ。よく分かってる。ストップがかかる前に、追うだけ追って、そいつの面を拝んでやる!」
憎々しげにそう言い捨て、石黒は階段を下りていった。
後を追いながら、宇佐美は考える。
自分が殺されかけた以上、九我も犯人を突き止めたいだろう。
だが、それは
『省吾さんが、困った状況にいるなら、助けたい』
九我はそう言っていたが、自分たちは今、その「困った状況」に省吾を追い込もうとしているのだろうか……。
薄暗い店内に入ると、カウンターには一人の男が座り、石黒と軽く会釈を交わした。
男の隣では、髪の長い女がマイク片手に、宇佐美の知らない曲を歌っている。
女は歌いながら、宇佐美と石黒に会釈し、微笑んだ。
失踪中の田所が最後に目撃された『歌姫』は、カウンターに五、六席。奥にソファー席が三卓ほどの小さなスナックだった。
髪を金色に脱色した若い女が、宇佐美たちを奥のソファー席に案内する。
「ママ、お客さんのリクエストで歌ってるの。すぐに来るから待っててね」
そう言い、カウンターに入った女は、すぐにおしぼりを手に戻ってきた。
「この歌、なんていうんですか?」
『ニューオリンズの女郎屋』という歌詞に違和感を覚え、宇佐美が尋ねた。
「『朝日のあたる家』。ママのお得意の歌なの」
女が笑顔で答える。
「へーっ、オハコをリクエストするってことは、あの客、常連なんだな」
石黒が尋ねると、女は急に顔を引き締めた。曖昧に笑い、カウンターへ戻っていった。
「カウンターにいる人と、お知り合いなんですか?」
宇佐美はスマホを操作しながら石黒に尋ねた。
曲を検索して分かった。
元歌は、身を持ち崩した女がニューオリンズの売春宿に流れ着くという歌詞だった。リズムに乗せるために「女郎屋」という言葉を使ったのだろう。
「大林だ」
石黒の言葉に宇佐美は驚いて顔を上げた。
「あの人が、警視庁の大林警部ですか?」
石黒は忌々しげにうなずく。
警視庁きっての凄腕チームのリーダーと聞いて、勝手に初老のベテラン刑事を想像していた宇佐美は、思わずつぶやいた。
「……まだ若いんですね」
宇佐美の視線に気づいたのか、大林が爽やかな笑みで会釈をしてきた。その余裕のある仕草は、どこかのエリート会社員といった風情だ。
宇佐美はすぐに立ち上がった。
「どこ行くんだ」
「挨拶してきます」
言い終わらないうちに、石黒に腕を掴まれ、椅子に戻された。
「座ってろ!」
石黒が小声で怒鳴った。
「俺たちは警察庁だ! 挨拶は向こうからさせろ! そんなんだから簗取に舐められるんだ!」
「……すいません(俺たちって、言いましたね? この件が片付いたら戻ってくるんですか?)」
「あいつら、田所の失踪を嗅ぎつけて、こっちにも一枚噛ませろって言ってきやがった。あの村に踏み込んで、槐省吾をあぶり出す気だ」
「ちょうどいいじゃないですか。延寿署も県警本部も信用できないんですから、大林さんにお願いしましょうよ」
「バカ野郎! あの村は俺たち、神奈川の縄張りだ! 東京の奴らに荒らされてたまるか!」
「……そうですか(神奈川の人に戻りましたね……)」
歌い終わったママが、柔らかな笑みを浮かべながら、烏龍茶を持ってやってきた。
「せっかく雨の中、お越しいただいたんですけど、他の刑事さんにお話しした以上のことは、何もないんですよ」
深く落ち着いた、よく通る声だ。
カウンターの大林にも聞かせているのではと、宇佐美は邪推した。
「そちらも警察の方?」
ママは優しく宇佐美を見る。
艶と翳りを同時に感じさせるような笑みだった。
「宇佐美です。今、蛇神村の駐在所で研修をしています」
「ああ、あなたが……」
ママは目を細め、微笑むと立ち上がった。
まるで舞台女優のような佇まいだ。
仕草の一つ一つに気品がある。
だがすべて、計算された美しさのように宇佐美には感じられた。
「一昨日の夜は、他のみなさんは早くに帰っていきました。田所さんだけ一人で飲んでいましたが、電話が来て、すぐにお店を出ていきました」
ママはペンと自分の名刺を持ってきて、再び宇佐美と石黒の前に座った。
「飲んでる間に、もめている様子はありませんでしたか?」
石黒が黙っているので、宇佐美が尋ねた。
「いいえ。みなさん、いつも通り楽しそうに飲んで帰っていかれましたよ」
言いながらママは名刺の裏に何やら書き、宇佐美に渡した。
「宇佐美さん、よかったら今度はプライベートで来てください」
『スナック歌姫 なおみ』と書かれた名刺の裏を、宇佐美は見た。
——乙女座クラブ——
宇佐美がその文字を見つめていると、石黒が横から名刺を奪い取り、すっと自分のポケットに入れた。
「田所さんがこの店を出た後、どこに行ったのか分かればいいんですが……お役に立てず、すみません」
ママが頭を下げると、石黒も軽く頭を下げた。
「こちらこそ、お時間をとらせてすみませんでした。何か思い出したことがあったら、どんなことでもいいのでお知らせください」
石黒が立ち上がり、宇佐美もそれに従った。
店を出る際、石黒は軽く大林に目礼しただけだったが、宇佐美は丁寧に頭を下げた。そして、さりげなくその姿を観察した。
ロックグラスを持つ、指の長い大きな手。広い肩幅。
間近で見ると、大林はさらに風格のある男に見えた。
機会があれば、いつかゆっくり話してみたい——そんなことを思いながら、宇佐美は『歌姫』を後にした。
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