生きると叫ぶ。

小南葡萄

自販機と城。

 朝、ほぼ全員が醸し出す、出勤前のどんよりとした空気のプラットホーム。

 だが、その光景を一変させる出来事が起きた。

 いつどうやって登ったのだろう。自販機の上に堂々と立っており、小さい体にまとうひまわり柄のワンピースと茶髪のボブカットが、風で国旗のようにひらひらとはためいている。前髪が短くて隠れない太い眉毛が、なんともたくましい。

 現れてしまった異様な光景は、彼女の一言で、首を曲げてスマホを見つめていた労働者達の顔を一斉に上げさせた。 

「僕は!生きるんだあああ!」

 そう誰に訴えているのかもわからない勢いよく凄まじい声が、プラットホームに反響し全体を震わせる。

 手を腰に当て、胸を張りふんぞりかえったその自信に満ちた表情は、まるで太陽が彼女にスポットライトを当てているかのように、おでこがてらてらと輝いていた。

「先輩、そんなことしてないで大学行きましょうよ」

「やだ!あんなところ、大人を満喫したい子供の集まりじゃないか!」

「何言ってるんですか、降りてください」

「やーだ!」

 恥ずかしい。私は彼女の奇行にいつまで付き合わなければならないのだろう。

 こう知人として話しかけてしまった以上、周りの目は「お前がなんとかしろ」と、非難するように私を攻撃していた。

 私は麦わら帽子を深く被り、見えないフリに徹する。

 見えない見えない。ここは私と先輩だけしかいない……。やっぱり恥ずかしい。なんで私がこんな目に……。

 こんな事態に見舞われたのは、実は初めてじゃない。

 私がこの変人を大学に戻す依頼を頼まれてからというものの、彼女は滑り台に立って子供たちの渋滞を作ったり、知らないマンションの屋上に不法侵入したり、ハチ公に跨ろうとして頭から落っこちたこともある。こんな痴態を晒すことをいとわず、同じ大学の私の一個上の先輩である山本燈子(やまもととうこ)は今日も大学に行かず、高いところに立っていた。

 そして彼女は大きく息を吸い、決まってこう叫んだ。

「僕はああ!生きるんだああ!」

 ここからはヤケクソで、声が枯れようが、誰かに怒鳴られようが、駅員に連れ去られるまで、ただただ、心の叫びを吐き出し続ける。

 それでも彼女は、申請をしていない一人デモを、アナウンスに負けじと響かせていた。

 私の手は届かないので、自分のトートバッグのショルダー部分を強く握り締め、早く止められることを祈りながら、歯を食いしばることしかできなかった。

 数分後、予定調和のように駅員に担ぎ上げられ、暴れる魚のようにホームから消えていった。私は渋々、毎回これに着いていくのだ。

 切符売り場の隣にある、鉄っぽい扉に運び込まれ、その後すぐに聞こえた駅員の怒鳴り声は、関係ない私でも少しビビるくらいの声量だった。しかしもっと怖いのは、それに対抗してキンキンした声を張る燈子先輩だ。

 お互いの怒号は、私しかやっていないであろうパズルゲームの、自己新記録を達成しても、全く鳴り止まなかった。

「二度と利用してやらないからな!」

「二度とくるな!」

 やっと、やっと扉が開かれ、タコのように口を尖らせて頬を膨らましている小さい先輩が、膝を上げ、床を強く踏みながら帰ってきた。

「何分経った?」

「三〇分くらいですかね」

「まったく、時間の無駄だ」

「無駄にしているのはあなたですよ」と駅員に続き私も怒りたくなったが、先輩がわずかに視線を逸らし、寂しげな表情を見せる。それを見て、さっきまで膨らんでいた腹立たしさが不意に揺らいだ。

 この人、本当にこれを本気でやってるんだろうか。

 理解できないという憤りと、真面目な顔に対して共感したい気持ちが、水と油のように胸の内で混ざり合わずに弾けて、それを整理できない私は結局、困り眉を向けるしかなかった。

 そして私は地面を鳴らしながらぶつぶつ文句を垂れている橙子先輩をいつものように、「アイス食べに行きましょ」と言いつつ周りの視線から避難するために、近くの喫茶店かなんかに連れて行く。

 席につき、私は麦わら帽子を外してパタパタと仰いだ。あー恥ずかしかった。

「アイスとドリンクバー頼んで」

「アイスフロートじゃダメなんですか?」

「アイスクリームを単品で頼んだ方が大きいのがでてくるし、ドリンクバーは何杯でも飲めるからお得」

 私はあのお行儀の悪さが嫌なんだけど。

 パットで注文を確定させた瞬間、先輩は弾かれたように走ってドリンクバーへと向かった。

「子供みたい」

 ポツリと出た独り言には、少しの苛立ちと蔑み、そして少しのいじらしさと羨ましさがあった。

 この感情を排出できたことで、ようやく私は背もたれに倒れることができた。

 私も行くか。

 橙子先輩によってなみなみ注がれたメロンソーダは歩くたびにこぼれそうになっており、その度に少しだけ啜っている。

 私は席についてから、適量に入れたジンジャーエールを、ちびちび飲みながらアイスを待つ。これが先輩が奇行に走った後の、大体のルーティン。

「どうすれば大学来てくれるんですか?みんな待ってますよ」

「みんなって誰だよ。十人くらい挙げてみろ」

「私と、先生と、あとー、んと」

「結局科学の変態とその使用人だけじゃないか」

「使用人って言わないでくださいよ」

「間違えてはないだろ」

 彼女はそう言いながら、先輩は氷を指先に触れて、器用にグラスをくるくる回している。

 私は彼女が見ていないこといいことにムッと頬を膨らませた。腹がたつ。この先輩、レスバだけは謎に強い。

「さすが、私が死に物狂いで入った大学の先輩ですね」と心の中で大人な対応をでしてみせた。

「アイスジェラートお待たせいたしました」

 と店員さんがテーブルに置いた瞬間、先輩はアイスの器をひょいと持ち上げると、メロンソーダが入ったコップにアイスを流し込んだ。泡がぶくぶくと立ち上り、緑の液体がテーブルにこぼれていく。

 店員さんは唖然とした表情で対面の席にいた私を見る。私も申し訳なさそうに目をそらして、肩をすくめるしかない。

 そんな気の使いあいをしていることを橙子先輩はつゆ知らず、スプーンでアイスを押し込みながら、メロンソーダをこぼしながらそこにストローをブッ刺した。

 再度店員さんが私の顔を見る。

 私も他人事のふりをして、何やってるんでしょうねと店員さんに向かって肩を上げた。

 どうすることもできない橙子先輩を見て、店員さんは目を細めながらその場を後にした。

 「ごゆっくりどうぞ」と言わなかったのは、店員さんなりの抵抗だったのだろう。

 疲れた。やっと場を納められた。と、ジンジャーエールを一口飲んで、喉に溜めていたため息を吐いた。

 ズゾゾゾゾゾ。

 アイスをストローで啜るな音に目を向けると、先輩のオン眉がきゅっと寄り、甘さを噛みしめるように、彼女はうっとりした表情になっていた。

 その細い肩が音符でも刻むかのように左右に揺れ、逆にボブカットは反対方向にふわりと振れる。

 そうして彼女は過去を捨て去るように満面の笑みになり機嫌を取り戻すので、私も面倒臭い感情を過去に置き去りにして、まあいっかと私は心の中で呟く。

 そうでもしないと、この奇人にはついていけないのだ。

「なあなあ、見ろ琴葉、あそこにでっかい貝に乗った女の裸体があるだろう?昔の絵に裸の絵が多いのは、金持ちがみんなそれをコレクションしたがるからなんだ。今でいうエロ漫画だな」

 と横目で絵を見ながら、注文した二個目のアイスを、ドリンクバーで入れたメロンソーダに押し込んでいた。

 私の中ではこれがいつもの先輩だと、なぜか安心できるような体になってしまった。これに対して何にも思わなくなる日が来るのだろうか。慣れというのは恐ろしい。

 メロンソーダがまたみるみるうちに増水して、アイスを押し込むたびに緑の液体がじわりと溢れだす。

 そしてだんだんとテーブルにコップの円をかたどっていく。

「やめてください、まだ昼間ですよ」

「ヴィーナスの誕生が描かれたのは十五世紀頃とされているから、もっと女神的な、神秘的な絵として描かれているはずだけど、食いついているマセガキが見える限り、そうとは限らない気がするよね」

 と言いながら、自分で作ったアイスフロートにノールックでストローを刺してまたこぼした。

 私は育児をしている気持ちで、「もー」と言いながらコップを一瞬持ち上げ、地面に張り付いたメロンソーダを紙ナプキンで拭き、そのままコップの裏側も拭いた。

 基本的に彼女がガキ臭い行動をとった時は、相手を三歳児の赤ちゃんだと思えば、怒るのが馬鹿馬鹿しくなるので最近はそう考えるようにしている。

「ありがと。さすが私の後輩。そういえば、単位は大丈夫なのか?」

 しかしこのデメリットは、先輩が急に年相応の話をした時、脳みそが一瞬止まってしまうことだ。

「私は特別に、出席しないといけないのを課題提出で許してもらってるんです。先輩のせいですからね」

「そうか、なんだか悪いな」

「悪いと思うなら大学来てくださいよ」

「やだねあんな性の巣窟。たまったもんじゃない」

 どうして先輩は大学に対して偏見をつらつらと言えるのだろう。何か被害に遭っていたのなら地雷を踏みそうで口を出せないし、ただの行かず嫌いなら相当腹がたつ。

「んで、今日はどこにいくんですか?」

「文月駅は今日はもう使えないな……。一駅歩こう。多古まで」

「そっちですかあ?丸巣から都心行きましょうよ。なんでわざわざ田舎のほうに」

「いつも言ってるだろ。都心に行けば行くほど魂が無くなっていく気がして嫌なんだよ。あと臭いし」

 お、きたきた。この言葉を聞くのは今日で四度目。私は余裕そうに手に顎を乗せながら、用意しておいたセリフを流暢に吐いた。

「そのアイスだって、都心の人たちが頑張って先輩が買える値段まで抑えて、先輩の肥えた舌を唸らす上質な味を提供できてるんですからね。感謝してください」

「ふん、少しは僕の肩を持ったって良いじゃないか……」

 そう言いながら目を背け、メロンソーダにぶくぶくと気泡を作っていた。

 弱々しくされたせいでまた私の脳みそが子供を相手にしていると勘違いし、私は戦意を失ってしまった。

 これで彼女が大人っぽい女性ならこのまま下品だと一喝できたのだが、小学六年生だとしても低い身長をした先輩に向かって怒るのもやっぱり大人気ない気がしてならないので大体耐えている。あと反抗的な態度は、先輩と駅員の喧嘩を見て、時間の無駄だと再確認した。

 店を出ると、さっきよりも強い日差しが私たちをお出迎えした。

 暑い。毎年毎年嫌になる。しかし、ここ最近はずっと橙子先輩について行っているせいか、だんだん夏の暑さにも慣れてきた。

 燈子先輩はどうやら夏が大好きらしい。私の麦わら帽子をかぶり、フェンス越しの川が見える木陰の道をスタスタと進んでいく。

「かっこいい枝を見つけた!」

 そう言って木の棒を振り回している姿は、いよいよ本当に小学生に見えてしまう。そんな無邪気な後ろ姿を見て、私は子供が生まれたらこんな感じなのだろうか。と、不確定な幸せな未来を妄想しながら、彼女の麦わら帽子のてっぺんを見ながら見守っていた。

 青信号を手を挙げて渡り、空き缶を見つけては、どこから出したかわからない大きなビニール袋を広げて回収していく。この程度の奇行では、私はもう何も言わない。

 そして、袋に七、八缶だけ入れたものを、橋の下にあるスケボーが出来そうな広い敷地にいた、全身グレーに染まったホームレスに渡し、しばらくそのおじいさんと、何かを熱弁していた。

 私はその間、柱に寄りかかり、スマホのゲーム画面を開いて、半永久的に続けられるパズルをこなした。

 今日はなんだかうまくいく。あっ、このパターン知ってる。こうすれば、ほらっ。

 二人の声が聞こえなくなってしまうほど集中してしまい、また記録を更新しようとした瞬間に、私は燈子先輩からタックルをくらってしまった。

 痛った!

 しかもちょうど脇腹に肘が入り、私は食い込んだ痛みに手を添えた。

「なんの話してたんですかって聞け!」

「痛いなあもお。なんの話してたんですか?」

「そろそろこの街を離れるらしい。缶をプレゼントしてお別れを言いに行った」

「そうですか」

 あのホームレスとは知り合いだったのか。

 彼女のストーカーを初めて二週間はたつが、いまだに知らない情報が出てくる。興味があるわけではないが、その行動力には脱帽だ。こんなこといつからやっているのだろう。

 単位がもらえると言う理由でこの依頼を受けたものの、こんなにめんどくさいとは思っていなかった。もうさっさと大学行ってくれればいいのに。

「ホームレスの生き方って、すごく面白いんだよ。保護してもらえるはずなのに、プライドがあそこまで突き動かすなんてって、ダイナミックな生き方にいつもびっくりする」

 先輩はそう言いながら、さっきまで話していたおじいさんの背中をじっと見つめていた。

 そして急に、首をぐるっと回して私に視線を向けた。

「琴葉は、ああやって一人で生きていけると思う?」

 なんだ急に。

「いやホームレスなんて無理ですよ。たとえ出来たとしても、孤独で死んじゃいます」

「そっか」

 その時、ほんの一瞬だけ先輩の表情が沈んだような気がした。

「なんで急にそんな質問……」

「水が飲みたい!」

 え。

 先輩はそう唐突に呟くと、次は

「水が!飲みたーい!」

 という大きな声でエンジンがかかり、急に歩道へと走って行った。私は持っていたトートバッグを肩に掛け直し、必死に先輩についていく。

 目の前の信号は、赤。

「先輩、危ないですよ!」

 思わず叫ぶけれど、彼女はおかまいなしに横断歩道に突進し、ぎりぎりのところで信号が青に変わった。私は安堵のため息をつくと同時に、歩道を全力で駆け抜けてようやく彼女を追いかける。

 もう!なんなのよ急に!

 追いついた。と思ったら、自販機の前で急停止した。

 もう、なんなのよ急に。

 私は少し行き過ぎたので、歩いて自販機に戻った。

 彼女は一番上の段の水を指差し、どうにか押そうと腕を伸ばしていたが、ギリギリ届いていない。

「喉が乾いた」

「買ってあげましょうか」

「自分で買うから自分で押す。さぁ、僕を持ち上げなさい」

「嫌です」

「持ち上げなさい!」

「嫌です」

「持ち上げなさい!」

 そう言いながら彼女は身体全体で十字を作る。

 その手には乗らないぞ。

 私は根気を振り絞り、人型のCGのような形を保つ先輩の背後で何度も「嫌です」と「持ち上げなさい」の堂々巡りな会話を繰り返した。

「なんでだよ!なんでなんでなんで!」

 地面をバシバシと踏みしめて怒りを表す先輩に、私は大きく息を吸ってトドメを刺した。

 スゥー。

「また登ろうとするからでしょう!」

「ぎ」

 彼女は、イの口をしながら、目を細めた。ダラーンと効果音が出そうな顔だ。

「さっきの駅でも同じことしてたじゃないですか!私も加害者みたいな顔を周りの人にされて、すっごく恥ずかしかったんですから!」

「ヤダヤダヤダヤダ!」

 お次は、地面に寝っ転がって両手両足をぶん回し、駄々をこね始めた。麦わら帽子も見兼ねたのかパサりと外れて、墜落したUFOのようになってしまった。

 ざわつく気配を感じて視線を向けると、ママ友らしき二人組がこちらを見てはボソボソと何か言っている。

 瞬間、カーッと血が上った。顔が熱い。恥ずかしいのか腹立たしいのか、自分でもよくわからないまま、胸の鼓動だけがどんどん早くなっていく。

 このガキ。もう我慢の限界だ。

「もう!ほんっと子供みたい!何歳なんですか!」

「十九歳!」

 と言いながら、彼女は勢いよく拳を合わせた。

 もういい、無視しよう。こういうメンヘラにはそれがいい。

 私は先輩が横で死にかけのセミのように暴れている間に、私は自販機から水を買って自分で先に一口飲んでやった。ぐいっと冷たい水が喉を通る。

 ああ美味しい。疲れて大の字になっている先輩を見ながら飲む天然水は格別だ。

 彼女はいつの間にか膝をたたんで、私を見ながら目を潤ませていた。

 そんな顔しないでよ……。

 罪悪感が、先輩を立たせるお手伝いをして、根気勝負に負けた私は、そのまま彼女にペットボトルを渡した。これは、いわゆる母性と言うやつなのだろうか。

「もっと早く渡せ」

 母性ではないな。

「今度アイス奢ってくださいね」

 等価交換を求める私を無視して、水を飲みながら先輩は先に行ってしまった。

 本当に子供なんだから。

 私は落ちていた麦わら帽子を拾い、軽く砂をはたいて私が代わりに被ることにした。

 どこに行くつもりなんだろう。

 二駅、三駅と歩いても、日は一向に落ちようとしない。

 こう橙子先輩と一緒にいると、時間の長さと、私がいかにそれを今まで無駄にしてきているのかがよくわかる。

 彼女は自分の携帯を見ない。時間はほとんど太陽で把握してるのだそう。

 田舎のほうとはいえ、東京住まいな人とは思えない。

 毎日大学と実家の往復だった私は、大学内では明日の休日は早起きをしてあれをしようこれをしようと考えていても、家に帰るとすっかり疲れてスマホ見ながら夜更かしをする。

 けれどしょうがない。休日というのは、スマホを見ながらぐうたらして、一日を無駄にした自分に後悔するループものなのだ。

 そう理解してから、無駄に対する罪悪感なんてものはとうに無くなってしまっていた。

 私たちは一本道の途中にある、後ろが緑の濃い木で囲われたお城のような公園を見つけた。 先輩はお城に一目散に走って中へと潜入し、私は一目散にベンチに向かった。

 ぽつねんとあったベンチに座り、ふうと一息つく。

 日差しは相変わらず強い。ちょっと汗ばんだ額をハンカチで拭きつつ、細い丸太が連なる壁に三原色が塗られたかなり大きなお城をぼんやりと眺める。

 ああ疲れた。水、水、あ、先輩が持ってる。じゃあいいや。

 先輩は、ひょこっと顔を出し、目が合うと手を振ってくる。よっぽど高いところが大好きなのだろう。

 私もなんとなく振り返した。

 やっぱり子供みたい。でもこれは愛らしい。

「僕は!生きるんだあああ!」

 げっ、また叫んでる。

 周囲に人影がないのを確認して、私は心の中でホッとする。正直、もう止める気力もなかった。

 それにしても、どうしてこんなにも“生きる”に固執しているんだろう。

 そんな疑問が一瞬浮かんだが、深く考える前に、先輩の声がまた木陰に響き渡った。

 高いところに登ると叫びたくなる気持ちは分かるが、毎回叫ぶ言葉は「生きたい」だ。思想が少し強い気がする。

 まあ、ダラダラと仕事をして老化していく社会人よりかはいくらかマシだろう。

 私がその当事者である可能性が比較的高いことは、自己都合で無視することにした。考えたくもない。

 すると、カラカラカラと車輪が転がる音と共に、キラキラした可愛らしい声が近づいてくるのが聞こえた。

 黄色い声の方を振り向くと、六、七人くらいの子供たちが大きなカートに乗っており、保育士の先生がそれを押して、先輩のいる公園へと近づいてきた。

 可愛い小さい集団。橙子先輩がいっぱいいる。

 その奥には老いた先生と手を繋いでいる子が、私のいるベンチのある方向へ歩いてくる。

 こっちに来るのかな。ベンチは確かにここが一番近い。譲るべきだろうか。しかし、子供嫌いで離れたとも思われたくない。

 「こんにちは〜」と柔らかい声に会釈し、目線には数人の子どもたちと目があって、可愛いと思う反面、少し無垢な目に恥ずかしさを持ってしまい、それを口の中でもごもごとさせてしまう。

 カートが開くと、皆一斉に走り出し、お城の方へと向かっていった。

 私の方向へと歩いていた年をとっているおばあちゃん先生と、自分の指をしゃぶっている気弱そうな男の子は、公園より少し遠くで立ち止まった。

 おばあちゃん先生は子どもの目線になって、もじもじしている子どもを遊びに促している様子が見える。

 きっと彼女は休みたいのだろう。指をしゃぶりながら首を横に振る男の子の前に、少しだけ背の高いワンピースを着た女の子が近づいてきた。

 優しい子供が近づいてきてあげたのかなと思ったら、相手はあの十九才の燈子先輩だった。

 嫌な予感がする。でも止めない。だって関係者と思われたくないから。

 すると燈子先輩は見知らぬ男の子の、しゃぶっていた方のよだれのついた手を繋ぎ、そのままお城の中へと連れ込んでしまった。

 安心して和かになったおばあちゃん先生が私とベンチを見つけ、そのまま隣に座り込んでしまった。

「良い子ねえ、お子さん?」

「ちっ違います!」

 と反射で声を漏らしてしまった。そんな焦り散らかしている私に向かって、

「こーとはー!」

 城にかけられた橋の真ん中で、橙子先輩に手を振られてしまった。

「あーじゃあ姪っ子さんかしら。助かったわ。将来立派な子になるわね」

 どうしよう、知らない人なんて嘘は無理。でも事実を言うのが恥ずかしくてしょうがない。

「あれ返してくれない。こーとはー!」

「あのーえっと……」

 私のそぞろとした声に、お婆様先生は首を傾げてしまった。もう、言うしかないか。

「えっと、その、先輩なんです、大学の」

「え?あらあ、えー。ん?あー、へー、そうなのね……」

 苦笑いをさせてしまった。

 私は小さく何度も「すいません、すいません」と顔を合わせずに、何を謝っているのかわからないが、頭を下げ続けた。

「こーとはー!」

 お願い!今はやめて!

「お姉ちゃん、ことはって、だあれ?」

 無垢な声が聞こえる。ここからもしかして相乗効果が、いや、負の連鎖が。

「あそこで髪を垂らして恥ずかしそうにしている成人女性だ。みんな!あいつに追い打ちをかけるんだ!こーとはー!」

「ことはー!」

「ことーはー!」

 無数の子供に、ランダムに連呼される琴葉コールに私は耐えられず、大人が隣にいる前で膝をかがめ、顔を思いっきり麦わら帽子で隠しながら左手で小さく手を振った。

 わかったから!わかったから!と手のひらを見せてやんわり止めようとするが、まったく効かない。

 悶々としている私に先生たちは気づいたのか、

「ちょっとちょっと!お姉さん困ってるでしょ!」

 やっと止められ始めた。

 遅い遅い遅い!と周りの大人たちに少し苛立ちを感じたが、よくよく考えれば子供たちは何も悪いことをしていない。そんなことに、先生たちは注意するのを戸惑ってしまったのだろう。

「ことはー!」「こーとーはー!」「こーとはー!」

 も、もう……耐えられない……

 私はうずくまりながら、顔を両手で覆った。全身がじわじわ熱くなる。

「おい、起き上がり小法師みたいになっているぞ。ここを立ち去ろう。楽しくて一生いてしまう」

 と急に目の前に現れた先輩の言葉に小刻みに頷き、先輩に手を引っ張られながら、破裂しそうな頬を麦わら帽子で隠して、お城を離れていった。

「あ、その帽子私のだから返せ」

 お前のじゃない!今はすごく大事なアイテムだったのに!

 しかしなぜか喉が詰まって声が出せなかった。

 その間も「ことはー!」「ことはー!バイバーイ!」と後ろから響き渡り、私も去り際に少しだけ手を振っていった。

 先輩の手は、ちょっとベタついていた。

 最寄りの駅に入り、私はホームの中でようやく正常を取り戻した。

 燈子先輩の様子を見ると、今朝のような衝動性はなく、ぼーっと、今さっきホームの自販機で買ったミルクオレを飲んでいた。

 先輩の顔を見ているとさっきの光景のせいで熱が喉から上がってきて、つい思い出し笑いをしてしまう。

 周りにはバレぬように、とにかく手で口を押さえて、小さく小さく笑った。

 先輩に何か言われると思ったが、彼女はそれにつっかかることもなく、ただ電車を待っていた。

 電車に入り、座席に座っても、いつもみたいに膝立ちになって景色を眺めるでもなく、おとなしく座っていた。違和感を覚えた私は、

「どうしたんですか?そんなに静かになって」

 と素直な質問をすると、

「いや、琴葉に悪いことしたなーって思って」

 と予想外な答えが返ってきた。

「え?今更ですか?どれですか?」

「どれって、さっきの琴葉コールしかないだろ」

 その言葉にまた私は思い出し笑いをしてしまう。電車内で漏れ出る笑い声を押さえ、ハンカチで涙を拭いた。

 案外人間らしいところあるじゃん。

「良いんですよアレは。面白かったし」

「嫌がらせのつもりだったから」

「結果オーライです」

 と擁護しても、申し訳なさそうな顔は戻らないままで、私もだんだん笑う気が失せ、ガタン、ゴトン、と私たちを連れて行く電車に耳を傾け、静かに家の最寄りに近づくのを待つことにした。

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