天才は孤独で、と言っても彼女は人間で。
小南葡萄
天才は孤独で、と言っても彼女は人間で。
彼女は自販機の上に立っていた。
小さい体にまとうひまわり柄のワンピースが、風ではためいている。手を腰に当て、自信に満ちた顔は、太陽を照明にてらてらと輝いていた。
朝、ほぼ全員が醸し出す、出勤前のどんよりとした空気のプラットホームに現れてしまった異様な光景は、首を曲げてスマホを見つめていた労働者の顔を上げさせていた。
「先輩、そんなことしてないで大学行きましょうよ」
「やだ!あんなところ、大人を満喫したい子供の集まりじゃないか!」
「何言ってるんですか、降りてください」
「やーだ!」
私がこんな事態に私が見舞われたのは、実は初めてじゃない。滑り台に立って子供たちの渋滞を作ったり、知らないマンションの屋上に不法侵入したり、ハチ公に跨ろうとして頭から落っこちたこともある。こんな痴態を晒しながらも、同じ大学の先輩である山本燈子(やまもととうこ)は今日も大学に行かず、高いところに立っていた。
そして彼女は大きく息を吸い、決まってこうを叫んでいた。
「僕はああ!生きるんだああ!」
その後は、いつも帽子を被った偉い人に連れ去られるまで、ただただ、心の叫びを吐き出し続ける。
私は手が届かず、自分のトートバッグのショルダー部分を握り締め、早く止められることを祈りながら、歯を食いしばることしかできなかった。
それでも、彼女は、申請をしていない一人デモを、アナウンスに負けじと響かせていた。
数分後、今日も駅員に持ち上げられ、魚のように暴れながら彼女はホームを去っていった。私は渋々、毎回これに着いていくのだ。
切符売り場の隣にある、鉄っぽい扉に運び込まれ、その後すぐに聞こえた駅員の怒鳴り声は、関係ない私でも少しビビるくらいの声量だった。
もっと怖いのは、それに対抗してキンキンした声を張る燈子先輩だ。
お互いの怒号は、私がスマホの半永久的にできるパズルゲームの自己新記録を達成しても、鳴り止まなかった。
やっと、扉が開かれ、タコのように口を尖らせて頬を膨らましている小さい先輩が、膝を上げ、床を強く踏みながら帰ってきた。
「何分経った?」
「三〇分くらいですかね」
「まったく、時間の無駄だ」
無駄にしているのはあなたなのですよ。と駅員に続き私も怒りたくなるが、瞳孔を私から離してみせるどこか寂しい表情に、私は困り眉を見せるしかなかった。
大概、近くのサイゼかなんかに行って、スイーツを食べさせれば、彼女は機嫌を取り戻す。
アイスを一口咥えた時に、オン眉を絞って甘みを噛み締めるような喜びと、音符を出すように横に揺れる小さい肩、そしてその揺れと反対側に揺れる茶色いボブカットを見て、私は少し安堵を取り戻すことができる。
「なあなあ、見ろ琴葉、あそこにでっかい貝に乗った女の裸体があるだろう?昔の絵に裸の絵が多いのは、金持ちがみんなそれをコレクションしたがるからなんだ。今でいうエロ漫画だな」
と横目で絵を見ながら、注文した二個目のアイスを、ドリンクバーで入れたメロンソーダに押し込んでいた。
水位が上がって、アイスをスプーンで奥に押すごとに、緑の液体が漏れてコップにつたい、だんだんとテーブルにコップの円をかたどっていく。
「やめてください、まだ昼間ですよ」
「ヴィーナスの誕生が描かれたのは十五世紀頃とされているから、もっと女神的な、神秘的な絵として描かれているはずだけど、食いついているマセガキが見える限り、そうとは限らない気がするよね」
と言いながら、自分で作ったアイスフロートにストローを刺してまたこぼす。先輩いわく、アイスを通過した先にあるメロンソーダは何にも変え難いらしい。私は育児をしている気持ちで、コップを一瞬持ち上げ、地面に張り付いたメロンソーダを紙ナプキンで拭き、そのままコップの裏側も拭いた。
「ありがと。さすが私の後輩。そういえば、単位は大丈夫なのか?」
「私は特別に、出席しないといけないのを課題提出で許してもらってるんです。先輩のせいですからね」
「そうか、なんだか悪いな」
「悪いと思うなら大学来てくださいよ」
「やだねあんな性の巣窟。たまったもんじゃない」
どうして先輩は大学に対して偏見をつらつらと言えるのだろう。何か被害に遭っていたのなら口を出せないし、ただの行かず嫌いなら相当腹がたつ。
「んで、今日はどこにいくんですか?」
「文月駅は今日はもう使えないな……。一駅歩こう。多古まで」
「そっちですかあ?丸巣から都心行きましょうよ。なんでわざわざ田舎のほうに」
「いつも言ってるだろ。都心に行けば行くほど魂が無くなっていく気がして嫌なんだよ。あと臭いし」
「そのアイスだって、都心の人たちが頑張って先輩が買える値段まで抑えて、先輩の肥えた舌を唸らす上質な味を提供できてるんですからね。感謝してください」
「少しは僕の肩を持ったって良いじゃないか……」
そう言ってまた目を横にずらし、メロンソーダにぶくぶくと気泡を作っていた。
これで彼女が大人っぽい女性なら、下品だと一喝できるのだが、小学六年生だとしても低い身長をした先輩に向かって怒るのも、なんだか大人気ない気がして言えなくなってしまう。あと反抗的な態度は、先輩が言ってた通り時間の無駄だと私も思う。
店を出ると、さっきよりも強い日差しがお出迎えしてきた。今年は例年よりも暑いらしい。とニュースでは言っているが、大学内では「まだ暑いね」という言葉が乱用されていて、今ではもう「元気?」レベルの会話になってきている。
しかし、燈子先輩は夏が好きらしく、麦わら帽子をかぶって、私が選んだ厚底の靴を履いて、フェンス越しに川が見える少し段差を上げた木陰の道を歩いていた。
「かっこいい枝を見つけた!」
そう言って木の棒を振り回している姿は、いよいよ小学生に見えてしまう。そんな無邪気な後ろ姿を、私は彼女の麦わら帽子のてっぺんを見ながら見守っていた。
赤信号を手を挙げて渡り、空き缶を見つけては、ビニール袋を広げて回収していく。この程度の奇行では、私はもう何も言わない。
そして、袋に七、八缶だけ入れたものを、橋の下にあるスケボーとかが出来そうな広い敷地にいた、全身グレーに染まったホームレスに渡し、しばらく、そのおじいさんと、何かを熱弁していた。
その間、私は柱に寄りかかり、スマホのゲーム画面を開いて、半永久的に続けられるパズルをこなした。
二人の声が聞こえなくなってしまうほど集中してしまい、また記録を更新しようとした瞬間に、私は燈子先輩からタックルをくらってしまった。
しかもちょうど脇腹に肘が入り、私は食い込んだ痛みに手を添えた。
「痛いなあもお。なんの話してたんですか?」
「そろそろこの街を離れるらしい。だからお別れをな」
「そうですか」
あのホームレスとは知り合いだったのか。
彼女のストーカーを初めて二週間はたつが、いまだに知らない情報が出てくる。
「水が飲みたい」
先輩はそう唐突に呟くと、次は
「水が!飲みたーい!」
という大きな声でエンジンがかかり、急に歩道へと走って行った。私は持っていたトートバッグを肩に掛け直し、必死に先輩についていく。自販機の前で急停止した。
彼女は一番上の段の水を指差し、どうにか押そうと腕を伸ばしていたが、ギリギリ届いていなかった。
「喉が乾いた」
「買ってあげましょうか」
「自分で買うから自分で押す。さぁ、僕を持ち上げなさい」
「嫌です」
「持ち上げなさい!」
そう言いながら身体全体で十字を作る。人型のCGのような形を保つ先輩の背後で何度も「嫌です」と「持ち上げなさい」の堂々巡りな会話を繰り返した。
「なんでだよ!なんでなんでなんで!」
「また登ろうとするからでしょう!」
「ぎ」
彼女は、イの口をしながら、目を細めた。ダラーンと効果音が出そうな顔だ。
「さっきの駅でも同じことしたじゃないですか!私も加害者みたいな顔を周りの人にされて、すっごく恥ずかしかったんですから!」
「ヤダヤダヤダヤダ!」
お次は、地面に寝っ転がって両手両足をぶん回し、駄々をこね始めた。麦わら帽子も見兼ねたのかパサりと外れて、墜落したUFOのようになってしまった。
「もう!ほんっと子供みたい!何歳なんですか!」
「二十一歳!」
と言いながら、拳を合わせる。私は先輩が死にかけのセミのように暴れている間に、私は自販機から水を買って自分で飲み始めた。疲れて大の字になっている先輩を見ながら飲む天然水は格別だ。その後に来た罪悪感が、先輩を立たせるお手伝いをして、そのまま彼女にペットボトルを渡した。
「もっと早く渡せ」
「今度アイス奢ってくださいね」
等価交換を求める私を無視して、水を飲みながら先輩は先に行ってしまった。忘れていった麦わら帽子は、私が代わりに被ることにした。
二駅、三駅と歩いても、日は一向に落ちようとしない。時間の長さと、私がいかにそれを今まで無駄にしてきているのかがよくわかる。けれどしょうがない。休日というのは、スマホを見ながらぐうたらして一日の自分に後悔するループものなのだ。
燈子先輩は、一本道の途中にある、後ろが緑の濃い木で囲われたお城のような公園を見つけると、走って中へと潜入しに行った。
私はぽつねんとあったベンチに座り、ふうと一息ついて、細い丸太が連なる壁に三原色が盛り込まれたかなり大きなお城を眺める。
先輩は、ひょこっと顔を出し、目が合うと手を振ってくる。よっぽど高いところが大好きなのだろう。と少し母性のような関心が私の胸を温めた。
「僕はー!生きるんだー!」
高いところに登ると叫びたくなる気持ちは分かるが、いつも思想が少し強い気がする。まあ、ダラダラと老化していく社会人よりかはいくらかマシだろう。
すると、カラカラカラと車輪が転がる音と共に、キラキラした可愛らしい声が近づいてくるのが聞こえた。黄色い声の方を振り向くと、六、七人くらいの子供たちが大きなワゴンに乗っており、保育士の先生がそれを押して、先輩のいる公園へと近づいてきた。その奥には老いた先生と手を繋いでいる子が、私のいるベンチのある方向へ歩いてくる。
「こんにちは〜」と柔らかい声に会釈し、目線には数人の子どもたちと目があって、可愛いと思う反面、少し無垢な目に恥ずかしさを持ってしまい、それを口の中でもごもごとさせてしまう。
カートが開くと、皆一斉に走り出し、お城の方へと向かっていった。
私の方向へと歩いていた年をとっているおばあちゃん先生と、自分の指をしゃぶっている気弱そうな男の子は公園より少し遠くで立ち止まった。おばあちゃん先生は子どもの目線になって、もじもじしている子どもを遊びに促している様子が見える。きっと彼女も休みたいのだ。指をしゃぶりながら首を横に振る男の子の前に、少しだけ背の高いワンピースを着た女の子が近づいてきた。優しい子供が近づいてきたのかなと思ったら、相手はあの二十一才の燈子先輩だった。
燈子先輩が見知らぬ男の子の、よだれのついた手を繋ぎ、そのままお城の中へと連れ込んでしまった。和かになったおばあちゃん先生が私とベンチを見つけ、そのまま隣に座り込んでしまった。
「良い子ねえ、お子さん?」
「ちっ違います!」
と反射で声を漏らしてしまった。そんな焦り散らかしている私に向かって、
「こーとはー!」
と城にかけられた橋の真ん中で、今では子ども同然のような先輩に手を振られてしまった。
「あーじゃあ姪っ子さんかしら。助かったわ。将来立派な子になるわね」
「あのーえっとー」
私のそぞろとした声に、お婆様先生は首を傾げてしまった。もう、言うしかないか。
「先輩なんです、大学の」
「え?あらあ、えー。そうなのね……」
苦笑いをさせてしまった。私は小さく何度も「すいません、すいません」と顔を合わせずに、何を謝っているのかわからないが、頭を下げ続けた。
「こーとはー!」
お願い!今はやめて!
「お姉ちゃん、ことはって、だあれ?」
「あそこで髪を垂らして恥ずかしそうにしている成人女性だ。みんな!あいつに追い打ちをかけるんだ!こーとはー!」
「ことはー!」
「ことーはー!」
無数の子供に、ランダムに連呼される琴葉コールに私は耐えられず、大人が隣にいる前で膝をかがめ、顔を思いっきり隠しながら左手で小さく手を振った。その後止めるように手のひらを見せ合図したが、鳴り止むことはなく、
「ちょっとちょっと!お姉さん困ってるでしょ!」
と先生たちによって制された。
遅い遅い遅い!と大人たちに少し苛立ちさえ感じたが、よくよく考えれば子供達は何も悪いことをしていない。そんなことに、先生は注意するのを戸惑ってしまったのだろう。
「おい、起き上がり小法師みたいになっているぞ。ここを立ち去ろう。楽しくて一生いてしまう」
という先輩の言葉に小刻みに頷き、先輩に手を引っ張られながら、破裂しそうな頬を麦わら帽子で隠して、お城を離れていった。その間も「ことはー!」「ことはー!バイバーイ!」と後ろから響き渡り、私も去り際に少しだけ手を振っていった。先輩の手は、やはりベタついていた。
駅に入り、私はホームの中でようやく正常を取り戻した。燈子先輩の様子を見ると、今朝のような衝動性はなく、ぼーっと、今さっきホームの自販機で買ったミルクオレを飲んでいた。ただ先輩の顔を見るとさっきの光景で熱が喉から上がってきて、つい思い出し笑いをしてしまう。周りにはバレぬように、とにかく手で口を押さえて、小さく小さく笑った。何か言われると思ったが、先輩はそれにつっかかることもなく、ただ電車を待っていた。
電車に入り座席に座っても、いつもみたいに膝立ちになって景色を眺めるでもなく、おとなしく座っていた。違和感を覚えた私は、
「どうしたんですか?そんなに静かになって」
と素直な質問をすると、
「いや、琴葉に悪いことしたなーって思って」
と、予想外な答えが返ってきた。
「え?今更ですか?どれですか?」
「どれって、さっきの琴葉コールしかないだろ」
その言葉にまた私は思い出し笑いをしてしまう。電車内で漏れ出る笑い声を押さえ、ハンカチで涙を拭いた。
「良いんですよアレは。面白かったし」
「嫌がらせのつもりだったから」
「結果オーライです」
と擁護しても、不満そうな顔は戻らないままで、見ていると、だんだん笑う気が失せ、私も、静かに最寄りに近づくのを待つことにした。
私が大学に着いたときは、まず研究室に足を運ぶ。山本燈子の登校に対する意欲、その進捗について報告しなければならないからだ。うちの大学は研究室と教室が妙に遠いので、少しめんどくさいが、単位がもらえるならしょうがない。
昔からある有名大学だから、あらゆるところに年季が入っており、少しホラーじみた景色が少し怖い感じがする。
研究室の中は、四人用の木製でできた分厚い長方形のテーブルが四つ
今週も、これといった成果はあげられなかったのでいつも通り、「行く気がないみたいですね」と理工学部の桑原先生に、前回も言った言葉を口にした。
「そーだよねーどーしたら来てくれるかなー」
「なんでそんなに、彼女に来て欲しいんですか?」
単純な質問のつもりだった。単位をくれると言う理由でただなんとなく引き受けていた仕事だったが、別に彼女がいなくたってこの大学は回るし、痛くも痒くもないだろうと思った。その質問に、先生は白衣の襟を正し、メガネをクイっと直して、両手を組み、肘を机に置いてエヴァのゲンドウのポーズを決め込んだ。
あっこいつ、言葉詰まらしてるんだ。
私が受けている彼の授業は、二限目からだということは分かっていたので、九十分。時間がある。根比べといこうじゃないか。
「あーもしかして、あの小さい体で先生は」
「そういうデタラメはやめてよお!」
「先生もやっぱり男の子だから」
「違う!違うから!」
先生は、冗談やめてよと言わんばかりのふざけた表情をして、両手を重ねて上下に降っていた。私は当然、桑原に軽蔑した目を見せた。
早期決着だったな。
「じゃあなんなんですか。あの子がなんでそんなに重要なんですか」
「はああ」
と大きなため息をした後、デスクの引き出しから一番上のファイルに入った書類を取り出して、渡してきた。
「冗談でも広めるんじゃないぞ。僕はこの大学なんててんで興味が無い。ただ、研究する場所として使っているだけだ」
それは山本燈子の、一年生の頃の提出課題だった。綺麗な字で書かれているが、どこをとっても、何を言っているのかさっぱりわからない。専門用語のオンパレードだ。
「それ、お前らに次出す課題と全くおんなじやつ。まるで論文だ。実力は多分僕レベルかそれ以上。つまり天才だよ」
これが私と同じ課題?まだ一年生の単元だから、難しいとは言えどある程度基礎の内容のはずだが、一センチはあるであろう分厚い書類には綿密に内容が書かれており、最後には三ページに渡って参考文献が記されていた。舌の渇きで、自分がずっと口を開けていたのに気づいて、口を閉じると同時に、喉を鳴らした。
「えっこんな子が、なんで急に大学に来なくなったんですか?」
「わかんないよ。大学はクソだとか二千人規模の合コンだとか言い始めて急に来なくなった。あんまり他の奴らとつるんでるイメージ無かったんだけど。なんか一緒に見つけられると思ったんだけどなあ」
そう言いながら、腕を後ろに組んで足も組み、椅子に思いっきり体重をかけて半回転していた。
「僕は彼女に教えたいことが山ほどあるの。それで出世してこんな大学すぐに抜け出してやる」
とぶつぶつ言っている先生を尻目に、燈子先輩の提出物を利用しようと、こっそりリュックに閉まってすぐに研究室から抜け出した。
学校が終わると、私は自転車で、いつものように彼女を迎えに行く。個人経営しているらしい古びた和食屋に入ると、前掛けをしてハキハキした顔で料理を運んでいる先輩と目が合った。手を振ると、彼女は少し顔を曇らせた後、すぐに目を逸らし、料理を客に運んでいた。
私は席につき、「すいませーん」と私はわざと先輩に向かって声をかける。さっきまで元気ハツラツ!と言わんばかりの声と顔だったのに、私の前でだけめんどくさそうな顔をして、「ご注文は?」と気怠けな声を飛ばしてきた。
「お蕎麦ください」
「かけ?ざる?」
「ざるで」
「はいよ」
と忙しい店主のようなスピードで、すぐに厨房に入ってしまった。カウンターを見ると、物腰柔らかい本物の店主が、一所懸命に働いており、その後ろでは、踏み台に乗っている燈子先輩が、テンポよくお皿を洗っていた。
「よぉ姉ちゃん!またお迎えかい?」
「そうですよー。なんか私にだけ冷たいんですよね」
「おおなんだ反抗期か。はっはっはっ」
と料理を作りながら豪快に笑っていた。私も笑いながら、食品に唾が飛んでいるなあと思ったが、私の料理ではないからどうでも良かった。
「とーこちゃん!今日早めに上がっていいよ!定時で上がったことにしとくからさ」
「大丈夫です。その一瞬の快楽が長期的な怠慢を招くんですよ」
「いつも通りだな」
と私に向かってお決まりのフレーズを言って、私も店主の笑い声に合わせて高らかに笑った。
燈子先輩が、気怠そうな顔のまま、私の料理を持って厨房から出てきた。
「ざる、お待ちどうでーす」
「ありがとうございまーす」
伸ばす音を真似してニカっと笑うと、彼女は細い目を向けながら、厨房に入る前に、人差し指と中指で作ったVサインで自分の目を指した後に私の目の方を指すアメリカンなジェスチャーを見せてから、小さな体は厨房の中に戻っていった。
割り箸を割り、宣材写真のようなざるそばをつゆにつけ、口に運ぶ。自分で作る蕎麦と、なんら変わりないはずだが、見える景色と和風テイストの綺麗な食器のおかげで、一段と美味しく感じられる。それでもやっぱり、ざるそば一杯七百円は、少し高いと感じてしまう。
食べ終わった後、三十分ほど席でスマホを見ながら燈子先輩を待ち、時間になると、トートバックを持って白レースのワンピースに着替えていた先輩が、ダウナーな顔をして、厨房から出てきた。
「ほら行くぞ」
「大学ですか?」
「家に帰るの」
そう言いながら、私を置いてすぐに店を出ていった。
「とーこちゃんのこと、よろしくね。頑張って」
と言いながらボロボロの歯を見せる店主に向かって、手を振ってから先輩を追いかけた。
先輩はヘルメットを被ると、子供用の自転車に跨り、シャカシャカと音を立てながら歩道を走り始めた。私も、親のママチャリで追いかける。先輩の自転車は音が早いわりに車輪が小さく、私の一漕ぎですぐに追いついてしまう。これもなんだか、ちいさな娘を見守っているような、母性が働くような気持ちになってしまう。
こんな小さな体にはたくさんの知識が詰まっているのか。全くと言って良いほど考えられない。
きつい上り坂をお互い腰を上げながら登り、下り坂はブレーキをかけずにものすごいスピードで落ちていく。そのスピードを使って少し上り坂を登ったあと、また立ち漕ぎが続いた。
そんな傾斜のある道路の周りは草木で覆われていて、平坦になると、昭和で時が止まったような焦茶の木造りの家が並び始める。その奥の景色は、天を突き刺す山々だった。
先輩曰く、山のほとんどは人工で生やされた木で、自然はもう壊された後なのだと、帰りに熱弁されたことがある。
どこか懐かしい気がする住宅街にある、その並びの一つの家が、彼女の、おばあちゃんの家だった。
自転車を塀のそばに平行に止めて、先輩の背中を追った。四つしかない飛び石の周りは、雑草が腕毛のように生えていて、私のふくらはぎをくすぐってくる。
先輩がノックすると、ガラガラガラと玄関が開き、そこにはパーマをかけた、燈子先輩より少し身長の高い、しわくちゃのおばあちゃんが立っていた。頬も垂れていて、いかにもおばあちゃんらしい顔をしている。
エプロンには雲が描かれており、青いはずの空の背景は酷使した結果なのか、薄暗くまるで曇りのような雰囲気があった。
「よっ」
「あら、琴葉ちゃん。またいらしてくれたのね。さっ、上がって。お菓子あるから」
おばあちゃんは先輩の軽い挨拶を無視して、そのまま奥へと消えてしまった。
先輩は厚底の靴をすぐに脱ぎ、玄関で靴下も一緒に脱いで、ドタドタと木の床を踏み締めて走っていった。
私が先輩の分の靴も揃えて、「お邪魔しまーす」と中に入っていくと、畳の上にはちゃぶ台が置かれていて、その上には菓子盆が真ん中を牛耳っていた。
いわゆる、お茶の間だ。今では珍しいブラウン管テレビが置かれていて、ここまで風情のある家が残っているのはなかなか珍しい気がするので、来るたびに少しわくわくする。
窓からは、物干し竿を覆うように、草木が青々と生い茂っていた。盆栽や、小さい木もちらほら見える。自分で育てているであろうグリーンと雑草が混ざっていて、どこまでがおばあちゃんものなのか分からない。
菓子盆の中には、チョコリエール、バームロール、ルマンド、エリーゼ。実にブルボンなラインナップだ。先輩はもう床に着いており、バームロールだけを食い荒らしていた。
「こら、琴葉ちゃんも食べるの」
と最後の一個を取ろうとする小さな手が、しわしわな手に叩かれ、先輩はわざとらしく手をさすりながら、
「最後の一個食べても良いですか?」
と私にキラキラした目を見せつけてきた。私は正座をしながら、「どーぞ」と大人な対応を見せつけた。ちょっと私も食べたかったけど。
「やった」
「琴葉ちゃん優しすぎるわ。男に騙されないようにね」
「騙してくる男もいませんよ」
とおばあちゃんになんとなく冗談を言ったが、どうやら冗談には聞こえなかったらしい。少し寂しいような悲しいような顔をしてから「これから嫌になるほど寄ってくるわよ」となぜか励ましの言葉をもらった。
「どうだかね」
「こらっ、なんてこというの」
と茶々を入れた先輩に向かって、おばあちゃんは少しムッとした表情を見せた。
「先輩なんてこの前、保育園の先生に小学生と間違われてましたからね。大人の女性だと思う人の方が少なそう」
とチョコリエールを開けながら仕返しをしてやった。先輩はただ「ふん」と言って席を立ち、戻ってきたかと思うと、麦茶のピッチャーとコップを人数分持ってきた。
「あ、ありがとうございます」
と私は口に含んだまま先輩に向かってお礼を言った。
失礼な言葉は止まらないが、こういうところはしっかりしている。彼女の不思議でならないところの一つだ。
「そういえば、大学はどうなの?」
「行ってない」
「まだ行ってないの?立派な大人になれないわよ」
「行ってなれるなら行っとるわい」
と、先輩もモゴモゴと手で口を覆いながら喋っていた。
たしかに、なれるなら誰でも行っているだろう。燈子先輩は、高卒社長か、インフルエンサーにでもなりたいのだろうか。そうやって皆の常識から離れていくのは、自らみにくいアヒルの子になっていくような、不可解な現象だと私は思ってしまい、なんだか、少し怖いと思ってしまう。別に大成功なんかしなくっていいとも思う。失敗ばかりの人生じゃなければ。この曖昧な考え方を、彼女は否定したいのだろうか。
「おばあちゃんの方は?今日は体調はどう?」
と言って先輩もおばあちゃんの心配を始めた。普段の燈子先輩では感じられない、なんとも家族らしい光景だ。
「ぜんぜん元気よー、自分で立てるし、トイレだって行けるわ」
「この前行けなかったじゃん」
「すぐ近くにいたから頼ったのよ」
外では大胆な行動をしているが、燈子先輩は基本良い子なのだ。おばあちゃんの家に帰るたびに、それを感じる。
そういえば、あの黒かったアヒルも、心まで黒かったわけではない。やはり彼女に何かあったのだ。彼女自体の問題も少し絡んでいる気はするが、それらを対処できれば、私と同じスクールライフを送れるはず。
そこには孤独もないし、みんなは優しいし、まあ燈子先輩の言うとおり鬱陶しい男はいるけれども、女はそういうクズに打ち勝つために集まるのだから、大丈夫だろう。
セミの声が大きくなり始めた。
この前、桑原先生がゲームをしながら言っていた、実家のような安心感とは、多分このようなことを言うのだろう。
先輩のおばあちゃんが私の祖母で、先輩がいとこか姪っ子。テレビにぼんやりと映る私たちの景色を見ると、昔の古き良き家族をみているようで、この家の実家感が加速している気がした。
ゲームをしていた先生の言い方は、少し孤独を感じたが。
「そういえば、燈子先輩はどんな子供だったんですか?」
「何急に」
「先輩は世間話もできなくなっちゃったんですか」
嫌味を言うと、おばあちゃんが会話に入ってきた。
「学校を嫌がらない珍しい子だったのよ。毎朝ちゃんと起きて、宿題も自分でやってね、勝手に育っていったわ」
「そうだ、僕は勝手に育ったんだ」
先輩は少し、寂しさを隠すような硬い表情を見せていた。思い出してみれば、木の枝を振り回したり、公園に飛び込んだり、自分で遊びを見つけて遊んでいる時以外は、ずっと顔を曇らせていたのかもしれない。
やっぱり何かあったんだ。大学の中のクソ男が、彼女を貶めたんだ。私は得体の知れない架空の相手に、少し憤りを感じてしまった。
「休みの日はおじいちゃんと薪割りをしたり、釣りをしたり、いろんなところに行ってたわね」
「うん」
「最近は行ってないの?」
「バイトが忙しい」
「そうね、いつもお疲れさま」
もしかして、バイト代をおばあちゃんに生活費として分けているのだろうか。たとえそうだったとしても、大学生相手に、いくらなんでもそんな残酷なことをする必要も無い気がする。
いや、そういう家庭もあるか、私は心の中で勝手に思ったことを、勝手に反省した。
蝉の声が、だんだんうるさく感じ始めた。
「おじいさんは?」
と、話の続きをするつもりで、私は今ここにいない先輩の祖父について聞き出した。
「今は病院と併設された老人ホーム。すぐ体悪くなっちゃうのよ、歳の差が少し離れてるからね。肩の荷が降りたような気もするけど、やっぱり騒がしいのが居なくなると、寂しくなるものね」
「そうなんですね」
私もいつか行くことになるのだろうか。考えもしないし、これから数十年は考えないだろう。
おばあちゃんを、上下にまじまじと見て、私の体が、ボロボロになっていってしまう想像をしてみるが、具体的には思いつかなかった。
柔らかい畳に手を添えて、体重を支えながら思わず上を向いた。蛍光灯の紐がわずかに揺れている。すると、まるでそれが鳴ったかのように、りん。と鈴蘭が音を奏でた。
誘われるように、ガラス越しの庭を見る。平和を象徴するような暖かい日差し、部屋の中でも酸素を感じられるような、植物を眺めていると、花々が急に、左の方向に煽られた。
強い風が吹いたのだ。
扉はガタガタと揺れ、りんりりんと鈴蘭が暴れ出した。
先輩は音を聞くやいなや窓に顔をつけ、何度も畳をジャンプして踏みつけた。
「風だ!風だ風だ!琴葉!外に出るぞ!」
風情のあった綺麗な音色は先輩の騒ぐ声と足音に負け、風の切る音は彼女のギャハハという笑い声にとても良く似合っていた。
私は、先輩が飛ばされるかもしれないといらぬ心配をして、おばあちゃんを置いて外に出た。
「今日は強いぞ!空気で窒息しそう!」
置いていた自転車のスタンドが、ガガ、ガガガと、少し引きずられている。倒れないといいけど。
両手両足を広げて全身で風を感じながら笑っている彼女を見て、少し羨ましくなった私は、一緒に子供に戻ろうと、ゆっくりと両手を広げてみた。
強風が私をかたどる。
ギリギリ前に進めないこのもどかしさは、なかなか悪い気はしなかった。
「なあ、彼氏ってどんなんだっけ?」
淹れたコーヒーに角砂糖を三つ入れて、口に運ぼうとした瞬間だった。私はその言葉で、全身に電撃が走った。女の子特有のこのピンク色の電気信号は、すぐに口を動かした。
「えー!先輩恋愛とかするんですかー!意外すぎますー!」
「うるさいなあもお。だからこういう話は苦手なんだ」
「なんで!なんで恋人欲しくなったんですか?寂しくなっちゃいました?」
先輩どんな人が好きなんだろう。今まで彼女の好みの男など、一度も聞いたことがなかったので楽しみでたまらない。
「いや、コンビニ人間読んだんだ。主人公が私と似ててな、共感できるもんだから影響を受けてしまって、恋愛を忘れそうになってしまっている」
電気信号が消灯した。なんだ、そういうことか。
コンビニ人間は私も読んだことがある。
主人公の女性にあった世界は、コンビニだけだった。共感性が乏しく、何にも興味のない、いわゆる普通じゃない女性だった訳だが、彼女がラストに下した結論は、私にはよく分からなかった。つまり私は、あちら側ではないのだ。
でも、一つ言えるのは、燈子先輩は確実にあちら側に近い人間ということ。
では小説の女性のように、燈子先輩にも何かしらの驚異的な依存性があるのだろうか。いや、真逆の存在だ。
たしか、あの話の主人公も、あんな性格をしておきながら、今の先輩のように人間関係に悩んでいた。
なんか嫌な顔をされているからとかいう、人間味があるようなないような理由だった気もするが。
「お前は恋愛していないのか?」
と、ストローでメロンソーダを回しながら、アヒル口で聞いてきた。
「私も最近してないですねー。っていうか、そのためにも大学行きたいんですけど。一緒に来てくれません?」
「だからそれをしたくないんだって」
「矛盾してるじゃないですか!」
そう軽く叱責をすると、彼女は黙ってしまった。
あの燈子先輩からボロが出た。彼女は男が嫌で行かない訳じゃないんだ。ここはチャンスだ。攻めよう。
「先輩、なんで大学行きたくないんですか?」
「だから、あそこは乱交パー」
「じゃないですよね?辞めてくださいファミレスですよ。恋愛をしてみたい気持ち、あるんですよね?」
「なあい。……訳じゃないけど。じゃなくて、学校はストレスでしかないから!行かない!」
「なんでストレスなんですか?」
「ストレスをなんでで挟むな。とにかく行きたくない!」
「もう」
腑に落ちないとはこういうことを言うのか。
落ち着くためにコーヒーを一口舌に当てると、さっきまで熱かったはずなのに、ぬるくなってしまっていた。
びっくりして、飲んだままの器を見てしまった。
いま私、絶対にブサイクな顔した。
ナプキンで唇を拭きながら、私は頬を隠して先輩を見た。
案の定、先輩は目を垂らして手で口を隠し、ニヤニヤと笑っていた。
私は眉をひそめ、仕返しをしてやりたい。そう思った。
その反発するような力で、バネのように一つ、私は閃いてしまった。
「先輩ひどい!」
そう言いながら、私は急に立ち上がって伝票を取り、燈子先輩を無視して会計を済ました。
このための犠牲なら、千七百円くらい払ってやる。
私はスタスタとファミレスを出て、一目散に駐輪していたママチャリに向かった。
「琴葉ー。ごめんー。笑ってごめんってばー。お金ちゃんと払うからー」
私の手を両手で取り、顔を覗きながら追いかけて謝ってくる先輩は少し可愛くて許してしまいそうになるが、笑みを抑えて、自転車の鍵を開け、わざと作った怒り顔で威圧して硬直させたあと、私は先輩を脇から持ち上げた。
「な、なんですか」
そしてそのまま彼女をチャイルドシートに乗せ……れない。
あれ、入らない。
私、先輩のこと小さいと思いすぎた。
「お前、バカにするのも良い加減にしろよ」
ヤバい。先輩のキレ顔だ。私が先輩と初めて会った時に「小学生みたいですね」と言った時に見せた、目を光を無くして少し歯に力を入れて威嚇しているようなこの顔。
私は困りながらも、ニヤリと、歯を見せてごまかした。辺りを見回して、私は車道からあるものを探した。自転車をお店に置いたまま、先輩を抱っこしながら車道に向かって手を挙げた。
ちょうど良いタイミングで来ていたタクシーに先輩をつっこみ、
「文月大学までお願いします」
と言いながら、閉じ込めてフタをするように私も一緒に乗り上げた。
「やめろ!変態!この人痴漢です!」
「おいおい姉ちゃんこの子大丈夫?」
「大丈夫です。大学に行きたがらないだけなんですよ」
と彼女に蹴られながらも、私は笑顔を保ち、顔の四角い運転手さんに、そう告げた。
「おお、そうか。大学は行かないとダメだぞ。よし、手伝ってやろう」
「頼んでねぇっつーの!どいつもこいつも!」
「行っちゃってください」
その合図で、車は急発進をした。
二、三分は燈子先輩は私に暴力を振り続けたあと、一瞬大人しくなったかと思うと、次は運転席に向かって頭をぶつけ始めた。
「はっはっはっ。本当に行きたくないんだなー。俺も最初はサボってたよ。留年しちゃってさ、親父にボコボコにされたなー。今思うと、大学行っときゃ良かったと思うわけよ」
「わかった!ように!いい!やがって!」
「先輩、血ぃ出ちゃいますよ」
先輩に口だけの心配をして、内では早く大学について欲しいと心底思っていた。
タクシーは三十分足らずで大学に着き、支払ってドアが開いた瞬間、燈子先輩は逃げようとすぐに出て、大学から離れるように走り始めた。
「あっ!すいません!ありがとうございました!」
去り際の一瞬、運転手のおじさんが、良い笑顔でサムズアップしていた気がする。
遠くに見える先輩を確認し、私は高校の時の陸上競技場を思い出した。八百メートル決勝。相手は外側から走り出しただけ。
彼女を遠くにいる敵だと想像して、突っ走り始めた。
「わー!こっち来んなー!」
泣きそうな顔をしながらこっちを見ている。なかなか速い。でも、陸上部元部長を、なめんなよっ。
ラストスパートの全速力で、私は先輩を追い越し、振り返ってブレーキをかけ、彼女の前で大の字になった。
「う、うわぁいやぁ」
「さっ、先輩、大学、行、き、ま、す、よ?」
「い、いやだぁー!」
また赤ん坊のように地面で暴れ倒す先輩を持ち上げて、私は、彼女を大学に連れ込むことに成功した。
「おっ、山本くん?山本くーん!」
先生は椅子から崩れながらもすぐに立ち上がり、メガネをかけなおして数メートルの研究室をわざわざ走って、扉の前いた私たちに近づいてきた。
「いやー会いたかったよー!やっと来てくれたんだねー!」
「僕は会いたくなかったし、来てあげてない。拉致された。警察を動かすぞ」
「まあまあ、そんなこと言わないで。一緒に研究の続き、しようね」
研究、という言葉に一瞬、私から降りようとしていた燈子先輩の動きが止まり、体が猫のように、ピクッとしたのを感じた。
しかしすぐにまた暴れ始め、抜け落ちて出口に向かって走り始めた。
「帰る!」
「山本‼︎」
静かだった研究室が、さらに静かになった。ビーカーや三角フラスコが微かに声の振動で、揺れた気がした。
「ど、どうしたの琴葉ちゃん」
「うるさい!このロリコン!」
そう、叫んだのは、誰でもない私なのだ。ポツポツと穴が空いていた堪忍袋が、一気に息を吹き込まれ、完全に割れた瞬間だったのだ。
「ロリコンじゃないって」
「そんでお前もだ!ロリ!」
「ひぇっ。ぼ、僕のことでしょうか」
「そうだ!僕っ子ロリ!」
「僕っ子ロリ」
「大学も行かずにダラダラとバイトしやがって。何か大学を凌駕する夢でもあるのか?!あ?!」
「な、ないけど……」
「私はここに入学するために必死に勉強して!塾に行く回数も増やしたんだよ!だから、努力せずにのうのうとしてるお前が!私は腹立たしくてしょうがない!」
「……」
彼女は、ワンピースのスカートの部分を握って、俯いてしまった。
「声を荒げてすいません。でも、燈子先輩には、私以上に良い人生を歩んで欲しいんですよ」
私は何を言ってるんだろう。今の私は感情的で、勢い任せでしかない。
先輩の、訳がわからないというような顔に、勝手に共感してしまった。私は自分で張り詰めさせた空気を勝手に崩して、おまけに真逆なことを言って濁してしまったのだ。
その空気に、私の苛立ちという熱気が鼻腔に入り込む。湿った匂いが鼻を少し詰まらせて、なかなか落ち着くことができなかった。
「はあ。お前が何を考えてるか分からないが、いいよ。今日だけいてやる。明日帰る」
後ろで、「うわぁ……!」と言いながら早いテンポでロリコン先生が拍手している音が耳に侵入してきた。ウザすぎて、その破裂音のリズムと共に、ぶん殴ってやりたいと思った。
彼女はガラケーをポケットから取り出し、そのままゆっくりと後ろに振り返り、扉のほうへと、てくてく歩き始めた。
「おい」
「お、おばあちゃんに連絡するだけだから」
私はついていって、先輩が逃げないように目を光らす。彼女はずっと、怪訝な目を私に見せていた。
その態度、今日までの我慢だ。今日だけは許してやる。
燈子先輩は私を背に携帯を耳に当て、
「あっ、おばあちゃん?えっと、今大学に来ております。うっ、うるさいなあ。いや帰ってくるよ。まあ、もし帰ってこなかったら、前みたいになってるってことだから。うん。バイバイ」
そう言って、彼女はガラケーをパタンと閉じ、体をくるりと半回転させて、汚れた床を、強く踏みしめて歩き始めた。
半開きで揺れていた目が、キリリとしてて、決意したように角ばっており、私はそんな彼女の目と目が合ってしまい、威圧に立ち尽くしてしまった。
まるでさっきとは真逆の立ち位置だ。
置物になった私を彼女は無視して通り過ぎ、研究室に入っていった。
何やら、教授と難しい話をしているように聞こえる。
そうだ。これが彼女らしい。これが、天才の生き方のはずなのだ。
その日から、私の生活は元に戻った。
一日で帰ると言っていた先輩は、結局、お風呂にも入らず、研究室に入り浸っていた。白衣を着ているからよくわからないが、多分、彼女は服を一回も着替えていない。
トイレに行く暇もないからと、スニッカーズをまとめ買いし、食事を最低限に抑えてまで、研究に没頭しているらしい。そこまで脳が回らないのが、バカと天才は紙一重なんだと、再認識させられる。
教授は、「ノーベル化学賞間違いなしだ!我々は新たなステージへ行くのだ!」と、悪役っぽい笑い声と共に、興奮しながら喋っていた。
私にそう語るのも無理がないほどに、燈子先輩のスピードは凄まじい。らしい。
私は同じ理系で一学年下というだけなのに、彼女のやっていることは、何一つわからない。
そもそも、頭がわかろうとしなかった。
先輩から弾けるような笑顔は消え、世間話をしようとしても、あしらわれてしまう。今の彼女には研究以外何も必要ないのだなと、巣に取り残された雛鳥のような寂しさと、心の隅に謎に出来た一抹の不安を抱えながら、分厚い分厚い透明の壁に触れないよう、見守っていた。
そして三週間。雷雨に照らされる彼女の顔は、少し、痩せこけていた。
肌も荒れ、髪の毛の乱れはイソギンチャクのように四方八方へと流れている。ただ、目だけは前よりも磨かれていて、再利用されてるであろう粘膜は、粘っこいツヤを作っていた。手が震えないように、浅い呼吸をして、一マイクロリットルのズレもないように、試験管にスポイトで何かを入れていた。
研究所は、ガラス窓を打ち付ける豪雨以外はやけに静かで、課題をするにはちょうど良い環境だった。
でも、雨は降る日をよく知っている。
突如、携帯の振動音が、この部屋に響いた。
ヴーン。ヴーン。ヴーン。
目の前で、燈子先輩のガラケーが震えて、落ちそうになっていた。
「先輩鳴ってますよ」
「今集中してるからとってあげて。多分おばあちゃん」
私は仕方なく携帯を開くと、ゴシック体で「おばば」と書かれた文字が映し出された。受話器のボタンを押し、耳に当てた。
「はい。あっいや、山本ではないんですけど、ていうか誰ですか?」
豪雨がピタッと止んだ。一瞬にして晴れたわけではない、むしろ、その逆と言えるような内容だった。
「わかりました。すぐに連れて行きます」
私は電話を切ると、精密なものがいっぱい置いてあるテーブルをどんと叩き、
「先輩のおばあさんが倒れました。今救急車で病院に向かっているそうです。行きましょう」
「無理。代わりに行って」
は?
こいつ今なんて言った?
「え?家族ですよね?」
「だから何?今ちょっと手ぇ話せないから」
動かない目が怖くなって、思わず後退りをしてしまい、木の椅子に転びそうになってしまった。
先輩の無機物な表情に混乱しながらも、病院に向かうために自分のものを片付けながら準備を進めた。
燈子先輩に、家族愛が少しでもあることに期待を寄せていたが、支度が終わっても、その背中は全く動こうとしなかった。
やっぱり、あちら側の人間なのか。
「私行きますからね。絶対にあとで来てくださいね!」
「うん。これが一区切りついたらね」
そんな日、一回も来なかっただろ。
愚痴をこぼさないように、今にも吐き出しそうな言葉を飲み込んで、私は研究室から飛び出した。
走りながらタクシー会社に電話をして、その勢いのまま大学の門を出た。
槍のように打ち付ける雨は、瞬く間に私をずぶ濡れにした。体が今の世界に染まっていく。
なんで私が。
タクシー来るまで待てばよかった。
服が肌に張り付き、体温と共に、元気を吸いとっていく。
熱を保つように息を荒げながら、私は木の下に体を隠した。
寒い。自分で自分をハグして、髪から垂れる水滴を無意識に目で追いかける。
なんで、なんで私がこんな悲劇のヒロインみたいにならなきゃいけないの。
なるべきは、先輩なのに。
精神安定剤のアプリを開いても、手がかじかんで、パズルゲームがうまくできない。画面に水滴が飛び散り、一ターン無駄にした。少しイラついて咄嗟に画面を消し、その後はずっと時計を見ていた。
八分、タクシーは私を侘しい思いをさせた。
「どちらまで?」
「丸巣の総合病院まで。できるだけ急いでください」
運転手のおじさんは無関心そうな、少し不審そうな四角い目を見せて、「はいよ」と言って振り返った。
お願い、生きてて。
呼吸を整え祈ることしかできない私の無力さで沈んでいた心が更に地球の奥の奥まで向かおうとする。
目頭だけが、急に熱を帯び始めた。
法定速度が四十キロのところを、おじさんは四十五キロで走行していた。顔には全く出ていないが、彼なりの優しさなのだろうか。法律が頭をよぎって、少し複雑な気持ちにはなったが、心の底に、燈が小さく点灯したような気がした。
三十分、やっと病院につき、タクシーが止まった瞬間飛び出そうとしたが、ドアが開かない。
「お会計」
「あっ、すいません」
タクシーのやや高い料金を払って、急いで病院の中に入った。
受付がすぐに見え、そこに濡れた靴を滑らせながら走っていった。
「お客様、どうされましたか」
「あっと、えっと」
燈子先輩のおばあちゃん。山本、山本だ。
「お客様、一旦お座りになられたらいかがですか?」
「山本さん!女性の、ご年配の、山本さんはいますか?」
「も、もうされましても、どの山本様でしょうか?」
そっか、いっぱいいるのか。どうしよう、こっから、おばあちゃん探す?広いな。
体はジェンガのように崩れ、今私ができるのは息を整えることだけだった。
視界が歪む、人の声が反響する。
「……ちゃん?琴葉ちゃん?」
私の名前が聞こえて、言うことを聞かない頭を強引に動かした先にいたのは、先輩のおばあちゃんだった。
「ずぶ濡れじゃない!大丈夫?どうしたのそんなに疲れて」
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
私はスライムのように湿った体を擦り付け、大きな施設の前で盛大に喜んだ。
おばあさんは点滴スタンドを持っていて、少し老けたような、顔色がまだ少しだけ戻っていないように感じた。
「なによー、ちょっと貧血で倒れただけ。なんか電話してくれてたらしいんだけど、その時にはもう倒れちゃっててね。それで、たまたまおじいちゃんの病院の人たちが来てくれて、そのまま連れてきてもらったのよ。様子を見て、来週には帰るわ。保険入っといてよかったわよー」
「そっか、そっか。良かったです。私も貧血で倒れそう」
私、冗談言えてる。自分のレベルの低いユーモアで、少しだけ余裕を取り戻したことが分かった。
おばあさんの手を取り、病室まで一緒に歩く。どうやら病院は久しぶりで、少し散歩をしたかったらしい。
冷静に息を整えながら、おばあさんの目元を見ていると、燈子先輩の石像のように動かない顔を思い出した。
「そういえば、先輩、おばあさんより研究が大事だって一緒に来てくれなかったんですよ。ひどいですよね」
「あの子一回集中すると、自分の世界に入っちゃうみたいね。いつものことだわ」
「でも、流石に家族に何かあったら、心配しません?」
「そうねえ、燈子ちゃんは、私より大事なものを見つけているのかもね」
「おばあさんだって大事ですよー」
「こんなおいぼれにありがとう。でも、あの子の考えがあってのことよ、あの子、愛がないわけじゃないから」
おばあさんの歩みはとても遅く、私も意識して一歩一歩進んでいた。たしかに、この歩幅は、燈子先輩は合わせられないだろう。
でもなぜ、おばあさんはあんな先輩を否定せず、むしろ個性のように扱ってあげるのだろうか。
先輩は愛せるバカだが、今回ばかりは絶対に愛せない出来事だった。何度自分と相談しても、その結論は変わらなかった。
「あ、そういえば、これ燈子ちゃんには内緒にしてて欲しいんだけどね……」
おばあさんを病室に送ったあと、私は総合病院を出て、燈子先輩に電話した。でない。だが私は、何度も何度も連絡した。彼女には、反省してもらわなければならないからだ。
無数の水の線が、私の前を通り過ぎる。そのホワイトノイズのせいで焦りを思い出して、私の具合を少し悪くさせる。
八回目の不在着信を終え、九回目の六コール目。
「もう何?!失敗したんだけど!また最初からなんだけど!」
「おばあさん無事でした。貧血で倒れたそうです」
「まあそんなところだろうね、すぐに死にやしないよ」
「なんで来てくれなかったんですか?」
「だから手が離せなかったんだって。見てたでしょ」
「それよりも、大事なものってあるんじゃないんですか?なんですぐ手を止めて、おばあちゃんのところに行かなかったんですか?あなたを育ててくれた」
「お前が大学に行けと言ったんだろ‼︎」
割れるような音が、私の耳を襲った。ゼロから百に変わる感情の起伏に、私はあっけに取られてしまった。
「大学にいなければ、私はずっとおばあちゃんと一緒にいたんだよ!お前だ。お前のせいだ」
「そんな、私、入り浸るなんて知らなくて、普通に家に帰るのかと」
「はっ、説教するために電話してきたの?琴葉さん本当にジャマしかしないね。じゃあね。続きあるから。あ、おばあちゃんによろしく言っといて。それじゃ」
プツッと電話が切れたあと、私は壁を背に、ずるずると重力に引っ張られ、自分を抱きしめるために体育座りをした。
この豪雨は、燈子先輩のじゃなくて、私のだったのか。
翌日、私は懲りずに、研究室を訪れた。
先輩も懲りずに、研究を続けていた。
朝はとても体が重く、なんのやる気も起きず、最低限のメイクしかできなかった。お腹が痛い。
今日は、先輩に背を向けて座った。肩を落とし、自動的に猫背になる。
雨は昨日からまだ降り続けている。多少弱くなったが、ガラス窓はぱらぱらと、素早いテンポで音を立てていた。
「なんで来たの」
引き締まらない筋肉をゆっくりと動かしながら、燈子先輩の背中を見た。
彼女の体は機械のように動いていて、抑揚のない発音に良く似合っていた。
まさか話しかけてくるとは思わなかった。
私なんて、先輩の中にはいないと思ってたのに。
「課題とか、あるんで」
「そう」
課題は一応持ってきてはいたが、今の私には重りでしかなかった。
元の体勢に戻り、隣の椅子に置いたトートバッグから、嘘はついてないですよと、冊子を机の上にドサっと置いた。
なんだよ一般化学って。私は大卒のレッテルが欲しいだけなのに。
参考書をさすり、一度、課題範囲を開いてみるが、背景にしか見えずにすぐに閉じた。
「おばあちゃん大丈夫そうだった?」
また話しかけてきた。何か申し訳ない気持ちを私に表してるのだろうか。けれど、今は受け取れる気分じゃない。
「はい。まあ、大丈夫そうでしたけど」
「良かった」
なんでお前が行かねえんだよ。
「行ってくれてありがとうね」
おせえよ。
「おせえよ」
自分の口が動いたことに気づいて、パッと目を見開いて、先輩の方向にもう一度振り返った。
彼女は固まっていた。
唇を隠して、私は燈子先輩の判決を待った。
「ごめん。行ってやれなくて」
声が、震えていた。
「せ、先輩?」
「僕って最悪だよなあ。またやっちゃったよ」
私は席を立ち、ゆっくりと先輩の顔をのぞいた。
彼女は、両手で鼻と口を隠し、大きな目から、大粒の涙が流していた。
一つ一つ、悲しみのこもった球の雫が、先輩のノートに、ポトッ、ポトッ、と落ちていく。
「ごめんねえ。本当にごめんねえ」
おばあさんが言っていた『愛がないわけじゃない』という愛のある発言が、静かな葛藤を産む。そこから私の怒りに勝つのは、数秒もかからなかった。
お前が行けば良かったと問い詰めるのも、彼女の前では少し、馬鹿馬鹿しく感じてしまった。
「いや、先輩の研究も重要です。おばあさん元気だったから、良かったじゃないですか」
「違う、違うんだあ」
すぐに席に戻ってトートバッグからポケットティッシュを取り出し渡すと、三枚とって目を拭き、もう三枚とって鼻をかんだ。
「はあ」
涙を垂らしたまま、彼女はため息をついた。
「僕ね、一回集中すると何にも出来なくなっちゃうんだ。僕、森が好きだったから、おじいちゃんとよく行ってたの。それで中学の時に、奥の見えない獣道が見えたから、行っちゃったんだ。自然のトンネルが、楽しかった。けど、みるみるうちに空が暗くなるの。怖くなって、泣いちゃって。おじいちゃんが助けに来てくれたんだけど、その時おじいちゃん、ボロボロだったの。その後、片足が、動きづらくなっちゃって」
ボロボロ、と言ったところから、彼女の声が震え始めた。
鮮明に覚えているのだろう。育ての親が、自分のために身を削った姿を。
「それからはね、一緒に勉強した。家だったら動かなくて済むから。おじいちゃん、頭良かったから、色んなことを教えてくれた。大学の教授だったの。すごいでしょ」
「ええ。燈子先輩の賜物なんですね」
私今、優しい目、出来てるかな。
先輩はこちらを見てはくれないけれど、彼女を知るために、私はおじいさんとの思い出を見ている彼女の瞳を見つめ続けた。
「理工学を専攻しててね、論文をいっぱい持ってたの。僕、読むの楽しくなっちゃってさ、学校も行かずに引きこもったの。勉強つまんなかったから」
つまらないと言いながら、私が必死こいて勉強して入ったこの大学に合格したのが、彼女の天才さに拍車をかける。
悔しい思いが少し蘇ってきたが、今は先輩の時間だと、気持ち出さないように、眉にくっついたモヤモヤを、鼻の奥に詰まらせた。
「おばあちゃんはドアを叩いて怒ってきたんだけど、おじいちゃんは何も言わなかった。高校も、一年生の時は行ってみたけど、周りの同級生の会話は本当にくだらなくて。全員の声が耳障りだった。だから行くのやめた。高卒認定試験があること知ってたし」
私の中の同情と嫉妬が、今大喧嘩している。
彼女は今真面目な話をしているんだ。辞めなさい私。感情的になっちゃいけない。
「それから二年くらいはおじいちゃんと過ごしたよ。車椅子になって、だんだん生気が無くなっていくのが悲しくって、一回、おじいちゃんの膝の上で泣いちゃったんだ。しわしわの手で撫でてくれた時は、まだ僕のおじいちゃんなんだなって、安心できた。でもやっぱり、あの日以来から、おじいちゃんはずーっとぼーっとしてるの。必要最低限の会話しかしなくて。あの時の元気なおじいちゃんを見るために、毎日勉強の話を持ちかけたんだ。その時は、目が輝いていたからね」
「本当に大好きだったんですね」
「今も大好きだよ。それで、おじいちゃんに大学に行くべきか聞いたら、大学は私の全てだったって。僕、大学に楽しみになった。やっと勉強が出来ると思って。……思ってたんだけど。琴葉の知ってる通り、行かなくなった。やっぱり、猿の集まりだよここは」
「何か、あったんですか?」
私は真剣な眼差しを彼女に見せた。犯人を追求すれば、ある程度通いやすくなるのではないかと思ったからだ。
「いや、何にもないけど。会話キモいなあと思っただけ」
「え、そのキモいと思っている人たちと関わらないために三週間もここにいたんじゃないんですか?」
「え、僕、三週間もここにいたの」
「心配した私がバカでした」
「え、なんかよく分からないけどごめん」
「続けてください」
「あ、はい。えっと、どこまで話したっけ」
「大学に行かなくなったんですよね」
「ああ、そうそう、良いところだと思って適当に選んだこの大学も、そういう話する奴らばっかりで、結局行かなくなったんだ」
適当に選んだ。か。
「……うぜぇ」
「なんか言った?」
「なんでもないです」
「それで、家にいる時に、なぜか大学から連絡が来て、研究員の一員になって欲しいって。おじいちゃんに聞いたら、一年生でなれるのはなかなか難しいと、良い経験だから行きなさいって言われたから、行ったんだ」
先輩の声色が、硬く、小さくなってきた。雨音が強くなる。気が散った私は、咄嗟に窓のカーテンを閉めた。
すると、若干照らされていた先輩の顔が物理的にも暗くなってしまったのを見て、マイナスな気持ちを助長してしまったのではないかと、少し申し訳ない気持ちになった。
「それから、私は大学に籠って勉強をした。ここじゃおばあちゃんの声が聞こえないから気が楽だったんだ。でも、そしたら、だんだん家族の存在を忘れて、いつのまにか、研究が僕の全てになってきて」
目が丸くなり、声が少しだけ細くなった。先輩は自分を恐れているのだろうか。
操作が効かず、無限に近い無意識。
想像するだけで、少し肩が震えた。
「年末に、学校が閉まるから、どうしても研究室を出ないと行けない時があって、仕方なく家に帰ったんだけど、部屋が暗くて、おじいちゃん、家にいなかった。入院したって。ガンだって。おじいちゃん、僕にずっと、ずーっと隠してたんだよ。大学に行かせたのも、それが理由なんだなって思っちゃった」
そうだよな。
おばあさんとの会話が、頭から再生され始めた。
『あ、そういえば、これ燈子ちゃんには内緒にしてて欲しいんだけどね……』
『はい、なんですか?』
『おじいちゃん。亡くなったの』
『え』
『私が倒れた時に、たまたまおじいちゃんの病院の人たちが来たって行ったでしょ、それは訃報を知らせるためだったみたい』
『そうだったんですか……』
『あの子おじいちゃん大好きだったから、今言ったらまたお勉強を辞めちゃう。あの子のために、言わないであげて』
『分かりました』
「ねえ」
「は、はい」
回想をしている間に、先輩に驚かされ、私は背筋を伸ばした。
「琴葉は、おじいちゃんは僕のために、生きる理由を与えるために大学にいかせてくれたって思う?」
「はい、そうだと、思います」
「おじいちゃん今何してるんだろ。会いたいな」
初めて柔らかくなった燈子先輩の声を聞いて、亡くなったことを、言わなければと思い始めた。私はどこか、彼女を裏切っている気がしたからだ。
おばあさんの思いも分かるが、やはり、どこかでお別れをさせてあげないといけない。
でも、いつ言えば。おばあさんは三年後とかを想像しているのだろうけれど、そんなの私が耐えられない。
自分の口に集中して、先輩からバレないように細く息を吐いていた瞬間だった。
「そういえばさ」
「はいっ」
「僕、琴葉に怒ったあと、我に帰ってね。おばあちゃんのこと、心配してたの。それで思い出したんだけど、おばあちゃん、なんで病院に行けたの?貧血で倒れたんだよね?」
試練が始まった。思っている以上に早かった。
息が詰まるのを、ダイレクトに感じた。
嘘、嘘をつこう。
「えーっと、通報してくれたみたいですね、近隣の方が」
「あそこ、誰も来ないよ?」
「いや、おばあさん今日は会わないなって思って庭を見てみたら、倒れてたって、言ってましたよ」
「そっか、隣のおばちゃんかな」
ふう。我ながら筋の通った嘘がつけたぞ。
緊張でカチカチだった顔を揉み、マッサージをしながら、ため息を鼻からついた。
「お見舞い行かなきゃ、なんて病院?」
「丸巣の総合病院です」
「え。おじいちゃんのいるところじゃん」
あ、そっか。そうだよね。
もしかして私、口を滑らした?
滑らしたんだ。燈子先輩の目が、どんどん輝いていくんだもの。
相対的に、自分は、顔が本当に青くなったんじゃないかと思うくらい、頭から血がスゥーっと消え、無数の髪の毛から熱が蒸発した。
ダメだ、頭が、働かない。
「えっと、あ、そうなんですか?知らなかったです〜」
「え、じゃあ、おじいちゃんにも会える?」
「あ、う」
「えー何持ってこうかな〜こういう時ってやっぱりお花だよね」
鼻を啜りながら、林檎が実るように顔色を取り戻していく先輩を見て、私はこれを自ら壊そうなどと到底思えなかった。
自然に任せよう。先輩になんで言わなかったのと言われても、しょうがない。私のせいだ。
罪悪感が、私の肺を潰そうとする。
燈子先輩。ごめんなさい。私はあなた以上に、人間なようです。どうしても、人間なようです。
時は満ちた。彼女の絶望を決定づけた未来。
なんてかっこいいようなことを冷静に言えるようになるくらい、私は先行して絶望していた。
タクシーから見える景色が、今日はやけに早い。世界はいつも、私の嫌がる方向に走っていく。
今日は特別な日だからと、燈子先輩が奮発ひたのだ。
そしてその横には、花束を持ったニコニコの彼女が、今日は大人しく鎮座していた。
両足が交互にゆらゆらと揺れていて、楽しみという気持ちがつま先からつむじまで充満しているのがわかる。
でも、その花も、じきに枯れる。
SFで未来が見えることは悲しいことだと読んだことがあるが、おそらくこういうことなのだろう。
赤信号が、タイミングよく青信号に変わった。
おじいさんのいない総合病院は、私の予想よりもかなり速く到着した。
「はいはい、お疲れ様」
メガネの運転手のおじいさんも、ニコニコだ。今日はそういう日じゃないんですよと、降り際に好意のない冷たい流し目を送る。
病院に入ると、中はやけに静かだった。
まるで、この前の私がとてつもなく騒がしかったことを示唆するように、何か私の感情的な側面に嫌味を言われた感覚を覚えた。
「山本健朗さんはいらっしゃいますか?」
燈子先輩は、鼻先ほどしか受付のテーブルから出ておらず、大きく広がっている花束をもちあげて、まるで幸せを祝っているように生き生きとした花達を、受付のお姉さんに見せていた。
「あの、えっと、山本健朗様は……」
ナースは、困惑と、告げなければいけない悲しさを混ぜた、深刻な目を先輩から背けるように私に見せて、私は、終わった。と現実逃避をするように強く目を瞑った。
「あ、おばあちゃん」
足音につられて目を開けると、この前よりは顔色が良くなっており、家にいた時と同じくらい元気そうなおばあさんに向かって走って行く先輩が見えた。
「あらー!綺麗な花束じゃない。あれ、とーこちゃん大学は?」
「それよりも大事な人に会いにきたんだよ」
さらっと言ったキザなセリフは、目の前のおばあさんにも、そしてここには居ないおじいさんにも言ったのだろう。
彼女の本心だとわかると同時に、タクシーに一緒にいた時に見た燈子先輩の幸せそうな表情に何度も殴られてアザになった負い目に、さらに銃弾を撃ち込まれたように、精神的な追い討ちを喰らった。
私は自分の胸を掴み、できるだけ呼吸を整えることだけに集中した。
おばあさんは、自分に言われたのだと、たるんだ肌が落っこちそうなくらいに、にこやかな笑顔を見せていた。
そして私と目が合うと、ハッと、すぐに燈子先輩の顔を見た。
私の握り潰されたような苦しい表情を見て、全てを悟ったのだろう。
燈子先輩が見てないことを良いことに、おばあさんに向かって、私は深く、頭を下げた。
「ねぇ、おじいちゃんは?」
こんどこそ、こんどこそだ。
「あ、あのね、とーこちゃん。聞いてくれる?おじいちゃんね、もうここには居ないのよ」
「え、病院移ったの?」
「いやね、おじいちゃんね、運ばれちゃったのよ、天使に」
病院の、通常運行の静けさは、周りの空気を固め、私の汗と、涙を同時に、鮮明に感じさせた。
「は、ハハ、あー」
彼女の開けた口が塞がらないまま、何も言えなくなってしまったのであろう。色のない小さな声が、計り知れない申し訳なさが作ったスピーカーから聞こえ、私には、耳を塞ぎたくなるくらいうるさかった。
「今日、変だったんだよ。琴葉。ずっと変だった。バカみたい。僕のためになると思ったの」
「……思って、ません」
私の、罪悪感の塊のような声を聞いた先輩は、荒ぶる呼吸と同時に肩を震わせながら大きな花束を持ち上げ、
「ああ、もう!あああ!」
と大きく振りかぶった。
しかし、先輩はピタッと止まり、静かに彼女は、おじいさんのための花束を、優しく抱き抱えた。
「おじいちゃん、今どこにいるの」
「お家で安置してもらってる。ごめんね、本当にごめんなさい。私、またとーこちゃんがお勉強出来なくなるって、そう思っちゃって」
「ふっ、ありがとう。でも勉強なんて、おじいちゃんと関わる口実でしかなかったんだよ」
燈子先輩の冷たい声は、先輩らしいような、らしからぬような、彼女の中の本質で、しかしそれは少しズレている表現なような気もした。
そんな違和感を感じながら、三人でタクシーに乗り込み、正真正銘のお通夜ムードを、車内に充満させた。
その空気感に苦しくなったのか、先輩は窓を開け、形は違えど何一つ個性のない曇り空を眺めていた。
私は膝を揃え、卒業式のように手を置き、自分の罪に静かに苛まれていた。
あんなところで死んだと言ったってしょうがなかった。そんなことは分かっていた。じゃあどこだったら良かったんだ。どんなタイミングで、どんな言葉だったら、彼女は最低限な苦しみで済んだんだ。
答えのない、自問自答というよりも、先輩が責める代わりに自身を責めるような、終わりのない詰問を繰り返していた。
燈子先輩の家は、暗い天気のせいか古臭く見え、雑草も、枝垂桜のようにしなりどんよりとした空気を漂わせていた。
玄関扉も、おばあさんが開けようとするが、一度ガッと引っかかり、だいぶ重そうな動きをしていた。
玄関で座ると、一気に体が重くなった。こんな時間稼ぎ、何にもならないのに。
靴を揃えて、ゆっくりと振り返り、ギシギシと鳴る廊下を歩く。楽しい音はどこにもない。
廊下から見えるお茶の間の菓子盆も空っぽで、私を表してるようにも感じた。
そしてやけに段差の高い階段を登り、二階に上がる。
すると、正面の壁から、あらゆる標本が並べられているのが見えた。
緑からだんだんと枯れていく、時系列のわかる葉っぱ達。そして、おじいさんが捕まえたのであろう虫のつがい達。
左に曲がり正面扉を開けると、そこには図鑑や、英語で書かれた分厚い本がズラリと本棚に仕舞われてあった。
本棚に入らない本は床に積まれていて、机の下には、おそらく論文であろう資料がダンボールにパンパンに入っていた。
そして部屋の右端っこに、おじいさんは、全うしたような顔をして、安らかに眠っていた。
掛け布団を掛けられ、顔色がよく見えるように、少し化粧が施されていた。
おばあさんは後ろで手を合わせ、私も一緒に合掌をしながら目を瞑る。
ゆっくりとおじいさんに近づく燈子先輩の足音。
そして、ドサっと花束が置かれる音が聞こえた。
先輩も弔うのだなと目を開けると、先輩は、花束をおじいさんの顔に被せていた。
「ちょっ、何やってるんですか」
「こんなのおじいちゃんじゃない。僕はあの知識人のおじいちゃんが好きだったんだ。こんなの、腐ったタンパク質だよ」
「酷い、おじいちゃんに会いたかったんじゃないんですか!」
「どこにいるんだよ!え?!もう!どこにも!居ないんだよ!あー!もう!あああ!」
先輩は感情のまま、本を蹴散らしながら走って出ていってしまった。
おばあさんは泣き崩れ、「ごめんね、ごめんね」と先輩に謝っていた。
私が、なんとかしなきゃ。
まず、呼吸を意識的に開始した。この暗く濁った空気に呑まれないためだ。
私が冷静にならないとと思った。
今日こそ、先輩との間にあった厚い壁を破らなければならないと思ったからだ。
私はあえてゆっくり部屋を出て、階段を一つ一つ、燈子先輩のことを考えながら降りていった。
散歩を繰り返していたはなぜだろう。理工学で自然について教えていたおじいさんのことを、忘れたくなかったのだろうか。
じゃあ病院に通えば会えたはずだ。
なぜ、わざわざ通わずに、間接的におじいさんを思い出していたんだ。
バイトをしているのはなぜだ。ここ二週間で大きな買い物をしているのを見ていない。
かといって、生活を支えるほど貧困なようにも感じない。
おじいさんの手術代を稼いでいた?そんなバカな。
彼女の両親はどこに。
なぜ先輩は生きると叫んでいたのだろう。
その心の叫びは、何のために。
走って彼女を探す覚悟をして玄関の扉を開けたが、先輩は、雑草に埋もれて、倒れていた。
「いた。先輩、先輩は、おじいさんに、憧れていたんですよね」
「僕の全てだった」
声に力が無い。まるで抜け殻だ。
「ですよね」
「何が分かるんだよ」
「何にも分からないです。だから、分かってあげたいんです」
「分かったら、なんなんだ」
「もうちょっと、先輩と仲良くなれるかなーって」
私は緊張を手を後ろで組んで隠し、出来るだけ優しい目で、先輩を見つめた。
すると、少し顔をあげ、先輩は色の無くなった眼球で私を見て、元の体勢に戻った。目があった時の先輩の頬は、土で汚れていた。
「仲良くなって、どうするんだ」
「また、サイゼ行きましょ。お散歩とかも」
「お前嫌がってただろ」
「最初は嫌でしたけど。今は楽しいですよ」
「そう」
「この際、先輩に聞きたいことあって」
爪先立ちで足の裏を伸ばしながら、緊張を絞り出そうとする。が、すぐに新しい緊張が身体の中を駆け回る。穏やかに、穏やかに。
私は先輩を、本物の先輩を蘇らせたい。
「何で、病院に行ってあげなかったんですか?」
そう言って、私はかかとを落とした。
しかし、先輩は黙っていた。
「おじいさんに会えたはずです。わざとですよね、会いに行かなかったの。昏睡状態とかだったですか?」
「……」
「失礼ってことは分かっています。別に時間を置いてからでも良かった。ごめんなさい。でも、先輩の元気の無い姿を見せられると、私、明日から大学行けないです」
「……知らないよそんなこと」
「そう、ですよね」
「僕には僕の人生があって、琴葉には琴葉の人生がある。でしょ?」
「そうで……」
何だろう。なぜか、心がざわついた。彼女の、芯の言葉を聞いたような。
自己啓発本にあるようなありきたりな言葉に、ものすごい説得力と、寂しさを感じた。
ふうと、私は大きく息を吐き、一か八かの、勝負に出ることにした。
「自分が、自分が一人で生きれるか、試していたんですか?」
「……」
「本当はものすごく会いたかったけど、必死に我慢して、それで自然を見て自分の想いを解消して。それでたまにバイトもして、自立を覚えようとして。おじいさんに、一人で生きれる姿を、見せてあげたかったんですか」
「あ、あああ」
先輩の小さい潤み声が、私の耳に、確実に入ってきた。
「私は、先輩すごく大人だと思いますよ。自分の考えがあって、子供にも優しくて、働く姿はとてもかっこいい。たまに迷惑をいろんな人にかけてしまいますが、それはみんなそうです。先輩はもう。立派な、大人の女性です」
「……これでもか」
「え?」
「これでもかよおおお」
そう言うと、先輩はいきなり立ち上がり、私に向かって抱きついてきた。
「ああああん!おじいちゃん死んじゃったよおお!」
私は子供のように小さい先輩の体を支えながら、おじいさんが与えた、知識の詰まった頭を優しく撫でた。
「おじいさん、先輩に興味をいっぱい持ってもらって、嬉しかったと思いますよ」
「うああああああん」
近隣の迷惑など気にせずに、私は彼女を慰め続けた。
先輩の汚い体液も、右半身についた泥も、今は愛として、おじいさんの代わりに受け入れた。
道を歩いていた小さな男の子が、先輩の家で立ち止まり、彼女が泣いている姿を、ぼーっと見つめていた。
でも私は全く恥ずかしくなかった。必死に生きている彼女を、誰がバカにできるんだろう。
私は先輩の頭を撫で続けながら、男の子に向かって、ニコッと、笑ってやった。
目が合った瞬間、男の子は走ってその場を去っていった。ちょっと怖かったかしら。
「ごめんね、ごめんね、迷惑だよね」
「迷惑は掛け合うものだって、言ったじゃないですか」
「ありがとう、ありがとう」
先輩が泣き止むと、外はやけに静かになった。風の鳴る音も聞こえない。
「……五歳のときに、両親は僕を手放した。普通の子じゃないって。そんな愛のない理由で。僕も両親が嫌いだった。制限をかけ続けるから。今考えると、それが普通の家庭っぽいんだけどね。それで、僕はおじいちゃんのところに引き渡された」
開放的な親なら、もっと彼女は自由奔放で、色々な挑戦をしていたかもしれない。でも、私たちみたいな人が、先輩を殺してしまったのだなと、強く彼女を抱きしめた。
「それで、ガンにかかったおじいちゃんは、入院する頃にはもう、末期だったんだ。僕のことを気にかけて、僕に言わずに、最後まで元気な姿を見せてくれてたらしいんだ。僕が落ち込んでるのを見たくなかっただけかもしれないけどね。入院してから、僕の心が、急に張り裂けそうになる時があって、その度に、僕は思わず叫んだんだ」
「生きる。って?」
「うん。半分、僕を置いて死のうとしたおじいちゃんに怒ってた。でも、もう半分は、死にそうな僕に怒ってたの」
「……」
「なんか全部どうでも良くなりそうで、毎回それを阻止してた。琴葉が言ってたのも合ってるけど、死ぬことを忘れるために、バイトしたり、散歩したりして、必死に抵抗してたんだ」
「まだ、死にたくなりますか?」
先輩は私に抱きついたまま顔をあげ、鼻水を垂らしたまま、パンパンの顔で、
「今は、琴葉がいてくれるから」
と、太陽のような、雲一つない晴れた笑顔を見せてくれた。
「ふふ、先輩、汚いです」
「うるっさいなあ」
大学は、私たちのことを知らずに、何食わぬ顔で開講していた。
先輩はあれから大学には来ていない。
まあ、ここの景色としては、それが普通である。
単位を取るためだけの時間が終わり、私はもしかしてと、ほんのわずかの期待を持って研究室を訪れた。
なんて、思ったことがその通りになるはずもなく、
「あー!ねー、琴葉ちゃーん?山本さんまた来てくれなくなったんだけどー。何やってるのよー。探してきてくれてるー?」
と空気の読めないロリコンがお待ちかねしていた。
「下の名前で呼ばないでください。キモいです」
ため息を、桑原に直接吹きかけると、先生のメガネが曇った。奥ではどんなやらしい目をしているのやら。
「そんなことより。これ、見てください」
そう言って、私は燈子先輩の課題が入ったファイルを先生に見せた。
「あっ!無くなってると思ったら!何勝手に盗んでるんだよー!なんか内容も似てると思ったんだよねー」
「そんなのどうでもいいんです」
「割と良くないよ」
「それはごめんなさい。じゃなくて、参考文献のところ」
と、燈子先輩の厚い資料をめくり、最後のページを指差した。
「これ、最後のページにずらーっと、Kennrou Yamamotoって」
先生は、明らかな苦笑いを見せて、
「そ、それがどうしたの?」
と戸惑っている声を出し始めた。
私は、失望するように頭をガクッとさせ、
「燈子先輩が天才なのは事実です。それで研究を手伝わせたかったのも本当でしょう。でも、本当の本当の狙いは、先輩のおじいさんの論文だったんじゃないんですか?調べてみれば、先輩のおじいさん、有名な大学の名誉教授らしいじゃないですか」
桑原の野郎はメガネを指で掛け直し、なぜかカーテンを開けて、窓を全開にして、外を見始めた。
「僕も、あの子と同じ、学習の虫だったのさ」
「先輩は先生と違って、そんな下心は無いですよ」
「あったさ」
「え?」
「大学に来なくなった時、僕、彼女に電話したんだ」
『ねえーなんで大学来ないんだよー』
『あそこキモいから。ホモサピエンス動物園だから』
『それ言ったらどこもそうでしょー。お願い!研究続けらんないよ!どうか!この通り!』
『じゃあ、お前は嫌だから、代わりに他の生徒を説得用に連れてきてよ。いるでしょ、大学入ったくせに勉強しない人。課題ばっかやって、単位だけ欲しい人』
『ま、まあいるだろうけど、なんで?』
『今の私は、そういう人だったら仲良くなれそうなんだよね。あと、おじいちゃん言ってたの』
「孤独を愛するな。人は連なり生きてきたのだから。だってさ」
四角い小さな世界から、大きな風が吹き荒れた。先生の白衣はなびき、私の髪は一気に後ろ側に持ってかれた。
「なれた?お友達」
「はい。少なくとも私はそう思っています」
「良かった。ていうかちゃんと連れてきてね?僕だってなりたいの名誉教授」
「それは無理ですね」
「なんでよ」
「今日、彼女と遊ぶんで。スポッチャでオールですって」
そう言って、私は研究室を飛び出した。
半永久的なパズルは、まだまだ終わらない。
でも、その方がよっぽど嬉しかった。
天才は孤独で、と言っても彼女は人間で。 小南葡萄 @kominamibudou
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