生きると叫ぶ。
小南葡萄
生きると叫ぶ。
朝、ほぼ全員が醸し出す、出勤前のどんよりとした空気のプラットホーム。
だが、その光景を一変させる出来事が起きた。
いつどうやって登ったのだろう。自販機の上に堂々と立っており、小さい体にまとうひまわり柄のワンピースと茶髪のボブカットが、風で国旗のようにひらひらとはためいている。前髪が短くて隠れない太い眉毛が、なんともたくましい。
現れてしまった異様な光景は、彼女の一言で、首を曲げてスマホを見つめていた労働者達の顔を一斉に上げさせた。
「僕は!生きるんだあああ!」
そう誰に訴えているのかもわからない勢いよく凄まじい声が、プラットホームに反響し全体を震わせる。
手を腰に当て、胸を張りふんぞりかえったその自信に満ちた表情は、まるで太陽が彼女にスポットライトを当てているかのように、おでこがてらてらと輝いていた。
「先輩、そんなことしてないで大学行きましょうよ」
「やだ!あんなところ、大人を満喫したい子供の集まりじゃないか!」
「何言ってるんですか、降りてください」
「やーだ!」
恥ずかしい。私は彼女の奇行にいつまで付き合わなければならないのだろう。
こう知人として話しかけてしまった以上、周りの目は「お前がなんとかしろ」と、非難するように私を攻撃していた。
私は麦わら帽子を深く被り、見えないフリに徹する。
見えない見えない。ここは私と先輩だけしかいない……。やっぱり恥ずかしい。なんで私がこんな目に……。
こんな事態に見舞われたのは、実は初めてじゃない。
私がこの変人を大学に戻す依頼を頼まれてからというものの、彼女は滑り台に立って子供たちの渋滞を作ったり、知らないマンションの屋上に不法侵入したり、ハチ公に跨ろうとして頭から落っこちたこともある。こんな痴態を晒すことをいとわず、同じ大学の私の一個上の先輩である山本燈子(やまもととうこ)は今日も大学に行かず、高いところに立っていた。
そして彼女は大きく息を吸い、決まってこう叫んだ。
「僕はああ!生きるんだああ!」
ここからはヤケクソで、声が枯れようが、誰かに怒鳴られようが、駅員に連れ去られるまで、ただただ、心の叫びを吐き出し続ける。
それでも彼女は、申請をしていない一人デモを、アナウンスに負けじと響かせていた。
私の手は届かないので、自分のトートバッグのショルダー部分を強く握り締め、早く止められることを祈りながら、歯を食いしばることしかできなかった。
数分後、予定調和のように駅員に担ぎ上げられ、暴れる魚のようにホームから消えていった。私は渋々、毎回これに着いていくのだ。
切符売り場の隣にある、鉄っぽい扉に運び込まれ、その後すぐに聞こえた駅員の怒鳴り声は、関係ない私でも少しビビるくらいの声量だった。しかしもっと怖いのは、それに対抗してキンキンした声を張る燈子先輩だ。
お互いの怒号は、私しかやっていないであろうパズルゲームの、自己新記録を達成しても、全く鳴り止まなかった。
「二度と利用してやらないからな!」
「二度とくるな!」
やっと、やっと扉が開かれ、タコのように口を尖らせて頬を膨らましている小さい先輩が、膝を上げ、床を強く踏みながら帰ってきた。
「何分経った?」
「三〇分くらいですかね」
「まったく、時間の無駄だ」
「無駄にしているのはあなたですよ」と駅員に続き私も怒りたくなったが、先輩がわずかに視線を逸らし、寂しげな表情を見せる。それを見て、さっきまで膨らんでいた腹立たしさが不意に揺らいだ。
この人、本当にこれを本気でやってるんだろうか。
理解できないという憤りと、真面目な顔に対して共感したい気持ちが、水と油のように胸の内で混ざり合わずに弾けて、それを整理できない私は結局、困り眉を向けるしかなかった。
そして私は地面を鳴らしながらぶつぶつ文句を垂れている橙子先輩をいつものように、「アイス食べに行きましょ」と言いつつ周りの視線から避難するために、近くの喫茶店かなんかに連れて行く。
席につき、私は麦わら帽子を外してパタパタと仰いだ。あー恥ずかしかった。
「アイスとドリンクバー頼んで」
「アイスフロートじゃダメなんですか?」
「アイスクリームを単品で頼んだ方が大きいのがでてくるし、ドリンクバーは何杯でも飲めるからお得」
私はあのお行儀の悪さが嫌なんだけど。
パットで注文を確定させた瞬間、先輩は弾かれたように走ってドリンクバーへと向かった。
「子供みたい」
ポツリと出た独り言には、少しの苛立ちと蔑み、そして少しのいじらしさと羨ましさがあった。
この感情を排出できたことで、ようやく私は背もたれに倒れることができた。
私も行くか。
橙子先輩によってなみなみ注がれたメロンソーダは歩くたびにこぼれそうになっており、その度に少しだけ啜っている。
私は席についてから、適量に入れたジンジャーエールを、ちびちび飲みながらアイスを待つ。これが先輩が奇行に走った後の、大体のルーティン。
「どうすれば大学来てくれるんですか?みんな待ってますよ」
「みんなって誰だよ。十人くらい挙げてみろ」
「私と、先生と、あとー、んと」
「結局科学の変態とその使用人だけじゃないか」
「使用人って言わないでくださいよ」
「間違えてはないだろ」
彼女はそう言いながら、先輩は氷を指先に触れて、器用にグラスをくるくる回している。
私は彼女が見ていないこといいことにムッと頬を膨らませた。腹がたつ。この先輩、レスバだけは謎に強い。
「さすが、私が死に物狂いで入った大学の先輩ですね」と心の中で大人な対応をでしてみせた。
「アイスジェラートお待たせいたしました」
と店員さんがテーブルに置いた瞬間、先輩はアイスの器をひょいと持ち上げると、メロンソーダが入ったコップにアイスを流し込んだ。泡がぶくぶくと立ち上り、緑の液体がテーブルにこぼれていく。
店員さんは唖然とした表情で対面の席にいた私を見る。私も申し訳なさそうに目をそらして、肩をすくめるしかない。
そんな気の使いあいをしていることを橙子先輩はつゆ知らず、スプーンでアイスを押し込みながら、メロンソーダをこぼしながらそこにストローをブッ刺した。
再度店員さんが私の顔を見る。
私も他人事のふりをして、何やってるんでしょうねと店員さんに向かって肩を上げた。
どうすることもできない橙子先輩を見て、店員さんは目を細めながらその場を後にした。
「ごゆっくりどうぞ」と言わなかったのは、店員さんなりの抵抗だったのだろう。
疲れた。やっと場を納められた。と、ジンジャーエールを一口飲んで、喉に溜めていたため息を吐いた。
ズゾゾゾゾゾ。
アイスをストローで啜るな音に目を向けると、先輩のオン眉がきゅっと寄り、甘さを噛みしめるように、彼女はうっとりした表情になっていた。
その細い肩が音符でも刻むかのように左右に揺れ、逆にボブカットは反対方向にふわりと振れる。
そうして彼女は過去を捨て去るように満面の笑みになり機嫌を取り戻すので、私も面倒臭い感情を過去に置き去りにして、まあいっかと私は心の中で呟く。
そうでもしないと、この奇人にはついていけないのだ。
「なあなあ、見ろ琴葉、あそこにでっかい貝に乗った女の裸体があるだろう?昔の絵に裸の絵が多いのは、金持ちがみんなそれをコレクションしたがるからなんだ。今でいうエロ漫画だな」
と横目で絵を見ながら、注文した二個目のアイスを、ドリンクバーで入れたメロンソーダに押し込んでいた。
私の中ではこれがいつもの先輩だと、なぜか安心できるような体になってしまった。これに対して何にも思わなくなる日が来るのだろうか。慣れというのは恐ろしい。
メロンソーダがまたみるみるうちに増水して、アイスを押し込むたびに緑の液体がじわりと溢れだす。
そしてだんだんとテーブルにコップの円をかたどっていく。
「やめてください、まだ昼間ですよ」
「ヴィーナスの誕生が描かれたのは十五世紀頃とされているから、もっと女神的な、神秘的な絵として描かれているはずだけど、食いついているマセガキが見える限り、そうとは限らない気がするよね」
と言いながら、自分で作ったアイスフロートにノールックでストローを刺してまたこぼした。
私は育児をしている気持ちで、「もー」と言いながらコップを一瞬持ち上げ、地面に張り付いたメロンソーダを紙ナプキンで拭き、そのままコップの裏側も拭いた。
基本的に彼女がガキ臭い行動をとった時は、相手を三歳児の赤ちゃんだと思えば、怒るのが馬鹿馬鹿しくなるので最近はそう考えるようにしている。
「ありがと。さすが私の後輩。そういえば、単位は大丈夫なのか?」
しかしこのデメリットは、先輩が急に年相応の話をした時、脳みそが一瞬止まってしまうことだ。
「私は特別に、出席しないといけないのを課題提出で許してもらってるんです。先輩のせいですからね」
「そうか、なんだか悪いな」
「悪いと思うなら大学来てくださいよ」
「やだねあんな性の巣窟。たまったもんじゃない」
どうして先輩は大学に対して偏見をつらつらと言えるのだろう。何か被害に遭っていたのなら地雷を踏みそうで口を出せないし、ただの行かず嫌いなら相当腹がたつ。
「んで、今日はどこにいくんですか?」
「文月駅は今日はもう使えないな……。一駅歩こう。多古まで」
「そっちですかあ?丸巣から都心行きましょうよ。なんでわざわざ田舎のほうに」
「いつも言ってるだろ。都心に行けば行くほど魂が無くなっていく気がして嫌なんだよ。あと臭いし」
お、きたきた。この言葉を聞くのは今日で四度目。私は余裕そうに手に顎を乗せながら、用意しておいたセリフを流暢に吐いた。
「そのアイスだって、都心の人たちが頑張って先輩が買える値段まで抑えて、先輩の肥えた舌を唸らす上質な味を提供できてるんですからね。感謝してください」
「ふん、少しは僕の肩を持ったって良いじゃないか……」
そう言いながら目を背け、メロンソーダにぶくぶくと気泡を作っていた。
弱々しくされたせいでまた私の脳みそが子供を相手にしていると勘違いし、私は戦意を失ってしまった。
これで彼女が大人っぽい女性ならこのまま下品だと一喝できたのだが、小学六年生だとしても低い身長をした先輩に向かって怒るのもやっぱり大人気ない気がしてならないので大体耐えている。あと反抗的な態度は、先輩と駅員の喧嘩を見て、時間の無駄だと再確認した。
店を出ると、さっきよりも強い日差しが私たちをお出迎えした。
暑い。毎年毎年嫌になる。しかし、ここ最近はずっと橙子先輩について行っているせいか、だんだん夏の暑さにも慣れてきた。
燈子先輩はどうやら夏が大好きらしい。私の麦わら帽子をかぶり、フェンス越しの川が見える木陰の道をスタスタと進んでいく。
「かっこいい枝を見つけた!」
そう言って木の棒を振り回している姿は、いよいよ本当に小学生に見えてしまう。そんな無邪気な後ろ姿を見て、私は子供が生まれたらこんな感じなのだろうか。と、不確定な幸せな未来を妄想しながら、彼女の麦わら帽子のてっぺんを見ながら見守っていた。
青信号を手を挙げて渡り、空き缶を見つけては、どこから出したかわからない大きなビニール袋を広げて回収していく。この程度の奇行では、私はもう何も言わない。
そして、袋に七、八缶だけ入れたものを、橋の下にあるスケボーが出来そうな広い敷地にいた、全身グレーに染まったホームレスに渡し、しばらくそのおじいさんと、何かを熱弁していた。
私はその間、柱に寄りかかり、スマホのゲーム画面を開いて、半永久的に続けられるパズルをこなした。
今日はなんだかうまくいく。あっ、このパターン知ってる。こうすれば、ほらっ。
二人の声が聞こえなくなってしまうほど集中してしまい、また記録を更新しようとした瞬間に、私は燈子先輩からタックルをくらってしまった。
痛った!
しかもちょうど脇腹に肘が入り、私は食い込んだ痛みに手を添えた。
「なんの話してたんですかって聞け!」
「痛いなあもお。なんの話してたんですか?」
「そろそろこの街を離れるらしい。缶をプレゼントしてお別れを言いに行った」
「そうですか」
あのホームレスとは知り合いだったのか。
彼女のストーカーを初めて二週間はたつが、いまだに知らない情報が出てくる。興味があるわけではないが、その行動力には脱帽だ。こんなこといつからやっているのだろう。
単位がもらえると言う理由でこの依頼を受けたものの、こんなにめんどくさいとは思っていなかった。もうさっさと大学行ってくれればいいのに。
「ホームレスの生き方って、すごく面白いんだよ。保護してもらえるはずなのに、プライドがあそこまで突き動かすなんてって、ダイナミックな生き方にいつもびっくりする」
先輩はそう言いながら、さっきまで話していたおじいさんの背中をじっと見つめていた。
そして急に、首をぐるっと回して私に視線を向けた。
「琴葉は、ああやって一人で生きていけると思う?」
なんだ急に。
「いやホームレスなんて無理ですよ。たとえ出来たとしても、孤独で死んじゃいます」
「そっか」
その時、ほんの一瞬だけ先輩の表情が沈んだような気がした。
「なんで急にそんな質問……」
「水が飲みたい!」
え。
先輩はそう唐突に呟くと、次は
「水が!飲みたーい!」
という大きな声でエンジンがかかり、急に歩道へと走って行った。私は持っていたトートバッグを肩に掛け直し、必死に先輩についていく。
目の前の信号は、赤。
「先輩、危ないですよ!」
思わず叫ぶけれど、彼女はおかまいなしに横断歩道に突進し、ぎりぎりのところで信号が青に変わった。私は安堵のため息をつくと同時に、歩道を全力で駆け抜けてようやく彼女を追いかける。
もう!なんなのよ急に!
追いついた。と思ったら、自販機の前で急停止した。
もう、なんなのよ急に。
私は少し行き過ぎたので、歩いて自販機に戻った。
彼女は一番上の段の水を指差し、どうにか押そうと腕を伸ばしていたが、ギリギリ届いていない。
「喉が乾いた」
「買ってあげましょうか」
「自分で買うから自分で押す。さぁ、僕を持ち上げなさい」
「嫌です」
「持ち上げなさい!」
「嫌です」
「持ち上げなさい!」
そう言いながら彼女は身体全体で十字を作る。
その手には乗らないぞ。
私は根気を振り絞り、人型のCGのような形を保つ先輩の背後で何度も「嫌です」と「持ち上げなさい」の堂々巡りな会話を繰り返した。
「なんでだよ!なんでなんでなんで!」
地面をバシバシと踏みしめて怒りを表す先輩に、私は大きく息を吸ってトドメを刺した。
スゥー。
「また登ろうとするからでしょう!」
「ぎ」
彼女は、イの口をしながら、目を細めた。ダラーンと効果音が出そうな顔だ。
「さっきの駅でも同じことしてたじゃないですか!私も加害者みたいな顔を周りの人にされて、すっごく恥ずかしかったんですから!」
「ヤダヤダヤダヤダ!」
お次は、地面に寝っ転がって両手両足をぶん回し、駄々をこね始めた。麦わら帽子も見兼ねたのかパサりと外れて、墜落したUFOのようになってしまった。
ざわつく気配を感じて視線を向けると、ママ友らしき二人組がこちらを見てはボソボソと何か言っている。
瞬間、カーッと血が上った。顔が熱い。恥ずかしいのか腹立たしいのか、自分でもよくわからないまま、胸の鼓動だけがどんどん早くなっていく。
このガキ。もう我慢の限界だ。
「もう!ほんっと子供みたい!何歳なんですか!」
「十九歳!」
と言いながら、彼女は勢いよく拳を合わせた。
もういい、無視しよう。こういうメンヘラにはそれがいい。
私は先輩が横で死にかけのセミのように暴れている間に、私は自販機から水を買って自分で先に一口飲んでやった。ぐいっと冷たい水が喉を通る。
ああ美味しい。疲れて大の字になっている先輩を見ながら飲む天然水は格別だ。
彼女はいつの間にか膝をたたんで、私を見ながら目を潤ませていた。
そんな顔しないでよ……。
罪悪感が、先輩を立たせるお手伝いをして、根気勝負に負けた私は、そのまま彼女にペットボトルを渡した。これは、いわゆる母性と言うやつなのだろうか。
「もっと早く渡せ」
母性ではないな。
「今度アイス奢ってくださいね」
等価交換を求める私を無視して、水を飲みながら先輩は先に行ってしまった。
本当に子供なんだから。
私は落ちていた麦わら帽子を拾い、軽く砂をはたいて私が代わりに被ることにした。
どこに行くつもりなんだろう。
二駅、三駅と歩いても、日は一向に落ちようとしない。
こう橙子先輩と一緒にいると、時間の長さと、私がいかにそれを今まで無駄にしてきているのかがよくわかる。
彼女は自分の携帯を見ない。時間はほとんど太陽で把握してるのだそう。
田舎のほうとはいえ、東京住まいな人とは思えない。
毎日大学と実家の往復だった私は、大学内では明日の休日は早起きをしてあれをしようこれをしようと考えていても、家に帰るとすっかり疲れてスマホ見ながら夜更かしをする。
けれどしょうがない。休日というのは、スマホを見ながらぐうたらして、一日を無駄にした自分に後悔するループものなのだ。
そう理解してから、無駄に対する罪悪感なんてものはとうに無くなってしまっていた。
私たちは一本道の途中にある、後ろが緑の濃い木で囲われたお城のような公園を見つけた。 先輩はお城に一目散に走って中へと潜入し、私は一目散にベンチに向かった。
ぽつねんとあったベンチに座り、ふうと一息つく。
日差しは相変わらず強い。ちょっと汗ばんだ額をハンカチで拭きつつ、細い丸太が連なる壁に三原色が塗られたかなり大きなお城をぼんやりと眺める。
ああ疲れた。水、水、あ、先輩が持ってる。じゃあいいや。
先輩は、ひょこっと顔を出し、目が合うと手を振ってくる。よっぽど高いところが大好きなのだろう。
私もなんとなく振り返した。
やっぱり子供みたい。でもこれは愛らしい。
「僕は!生きるんだあああ!」
げっ、また叫んでる。
周囲に人影がないのを確認して、私は心の中でホッとする。正直、もう止める気力もなかった。
それにしても、どうしてこんなにも“生きる”に固執しているんだろう。
そんな疑問が一瞬浮かんだが、深く考える前に、先輩の声がまた木陰に響き渡った。
高いところに登ると叫びたくなる気持ちは分かるが、毎回叫ぶ言葉は「生きたい」だ。思想が少し強い気がする。
まあ、ダラダラと仕事をして老化していく社会人よりかはいくらかマシだろう。
私がその当事者である可能性が比較的高いことは、自己都合で無視することにした。考えたくもない。
すると、カラカラカラと車輪が転がる音と共に、キラキラした可愛らしい声が近づいてくるのが聞こえた。
黄色い声の方を振り向くと、六、七人くらいの子供たちが大きなカートに乗っており、保育士の先生がそれを押して、先輩のいる公園へと近づいてきた。
可愛い小さい集団。橙子先輩がいっぱいいる。
その奥には老いた先生と手を繋いでいる子が、私のいるベンチのある方向へ歩いてくる。
こっちに来るのかな。ベンチは確かにここが一番近い。譲るべきだろうか。しかし、子供嫌いで離れたとも思われたくない。
「こんにちは〜」と柔らかい声に会釈し、目線には数人の子どもたちと目があって、可愛いと思う反面、少し無垢な目に恥ずかしさを持ってしまい、それを口の中でもごもごとさせてしまう。
カートが開くと、皆一斉に走り出し、お城の方へと向かっていった。
私の方向へと歩いていた年をとっているおばあちゃん先生と、自分の指をしゃぶっている気弱そうな男の子は、公園より少し遠くで立ち止まった。
おばあちゃん先生は子どもの目線になって、もじもじしている子どもを遊びに促している様子が見える。
きっと彼女は休みたいのだろう。指をしゃぶりながら首を横に振る男の子の前に、少しだけ背の高いワンピースを着た女の子が近づいてきた。
優しい子供が近づいてきてあげたのかなと思ったら、相手はあの十九才の燈子先輩だった。
嫌な予感がする。でも止めない。だって関係者と思われたくないから。
すると燈子先輩は見知らぬ男の子の、しゃぶっていた方のよだれのついた手を繋ぎ、そのままお城の中へと連れ込んでしまった。
安心して和かになったおばあちゃん先生が私とベンチを見つけ、そのまま隣に座り込んでしまった。
「良い子ねえ、お子さん?」
「ちっ違います!」
と反射で声を漏らしてしまった。そんな焦り散らかしている私に向かって、
「こーとはー!」
城にかけられた橋の真ん中で、橙子先輩に手を振られてしまった。
「あーじゃあ姪っ子さんかしら。助かったわ。将来立派な子になるわね」
どうしよう、知らない人なんて嘘は無理。でも事実を言うのが恥ずかしくてしょうがない。
「あれ返してくれない。こーとはー!」
「あのーえっと……」
私のそぞろとした声に、お婆様先生は首を傾げてしまった。もう、言うしかないか。
「えっと、その、先輩なんです、大学の」
「え?あらあ、えー。ん?あー、へー、そうなのね……」
苦笑いをさせてしまった。
私は小さく何度も「すいません、すいません」と顔を合わせずに、何を謝っているのかわからないが、頭を下げ続けた。
「こーとはー!」
お願い!今はやめて!
「お姉ちゃん、ことはって、だあれ?」
無垢な声が聞こえる。ここからもしかして相乗効果が、いや、負の連鎖が。
「あそこで髪を垂らして恥ずかしそうにしている成人女性だ。みんな!あいつに追い打ちをかけるんだ!こーとはー!」
「ことはー!」
「ことーはー!」
無数の子供に、ランダムに連呼される琴葉コールに私は耐えられず、大人が隣にいる前で膝をかがめ、顔を思いっきり麦わら帽子で隠しながら左手で小さく手を振った。
わかったから!わかったから!と手のひらを見せてやんわり止めようとするが、まったく効かない。
悶々としている私に先生たちは気づいたのか、
「ちょっとちょっと!お姉さん困ってるでしょ!」
やっと止められ始めた。
遅い遅い遅い!と周りの大人たちに少し苛立ちを感じたが、よくよく考えれば子供たちは何も悪いことをしていない。そんなことに、先生たちは注意するのを戸惑ってしまったのだろう。
「ことはー!」「こーとーはー!」「こーとはー!」
も、もう……耐えられない……
私はうずくまりながら、顔を両手で覆った。全身がじわじわ熱くなる。
「おい、起き上がり小法師みたいになっているぞ。ここを立ち去ろう。楽しくて一生いてしまう」
と急に目の前に現れた先輩の言葉に小刻みに頷き、先輩に手を引っ張られながら、破裂しそうな頬を麦わら帽子で隠して、お城を離れていった。
「あ、その帽子私のだから返せ」
お前のじゃない!今はすごく大事なアイテムだったのに!
しかしなぜか喉が詰まって声が出せなかった。
その間も「ことはー!」「ことはー!バイバーイ!」と後ろから響き渡り、私も去り際に少しだけ手を振っていった。
先輩の手は、ちょっとベタついていた。
最寄りの駅に入り、私はホームの中でようやく正常を取り戻した。
燈子先輩の様子を見ると、今朝のような衝動性はなく、ぼーっと、今さっきホームの自販機で買ったミルクオレを飲んでいた。
先輩の顔を見ているとさっきの光景のせいで熱が喉から上がってきて、つい思い出し笑いをしてしまう。
周りにはバレぬように、とにかく手で口を押さえて、小さく小さく笑った。
先輩に何か言われると思ったが、彼女はそれにつっかかることもなく、ただ電車を待っていた。
電車に入り、座席に座っても、いつもみたいに膝立ちになって景色を眺めるでもなく、おとなしく座っていた。違和感を覚えた私は、
「どうしたんですか?そんなに静かになって」
と素直な質問をすると、
「いや、琴葉に悪いことしたなーって思って」
と予想外な答えが返ってきた。
「え?今更ですか?どれですか?」
「どれって、さっきの琴葉コールしかないだろ」
その言葉にまた私は思い出し笑いをしてしまう。電車内で漏れ出る笑い声を押さえ、ハンカチで涙を拭いた。
案外人間らしいところあるじゃん。
「良いんですよアレは。面白かったし」
「嫌がらせのつもりだったから」
「結果オーライです」
と擁護しても、申し訳なさそうな顔は戻らないままで、私もだんだん笑う気が失せ、ガタン、ゴトン、と私たちを連れて行く電車に耳を傾け、静かに家の最寄りに近づくのを待つことにした。
大学に着いたときは、まず研究室に足を運ぶ。
なぜなら山本燈子の登校に対する意欲、その進捗について報告しなければならないからだ。
もちろん、橙子先輩は今はいない。
うちの大学は昔からある有名大学で、作りが古いので研究室と教室が絶妙に遠い。
あらゆるところに年季が入っており、昼間でも暗いところが多く、ホラーじみていて少し怖くてめんどうくさいが、単位がもらえるならしょうがない。
研究室には、分厚い木製のテーブルが四つ。長方形のそれぞれの長辺に、二つずつ箱型の椅子が並んでいる。
内側に座るとたまに人の背中に当たって気まずい雰囲気になるので、教室移動する時は真っ先に動き始めて、一番前の右端に座るようにしている。
部屋でいうところの角部屋。南向きで昼間だと眩しいのが難あり。
「お、琴葉ちゃんいらっしゃい」
「ちゃん付けやめてくださいセクハラで訴えますよ」
「ごめんごめん。で、橙子どうだった」
ニヤニヤすんな。コイツ、女の子にだけ下の名前で呼ぶんだよな。気持ち悪い。
今週もこれといった成果はあげられなかったのでいつも通り、「行く気ないみたいですね」と理工学部の桑原先生に、前回も言ったセリフを口にした。
「そーだよねーどーしたら来てくれるかなー」
「なんでそんなに、彼女に来て欲しいんですか?」
単純な質問のつもりだった。
単位をくれると言う理由でただなんとなく引き受けていた依頼だったが、別に彼女がいなくたってこの大学は回るし、痛くも痒くもないだろう。
先生は白衣の襟を正し、メガネをクイッと直すと、肘を机につき、両手を組んだ。まるでエヴァのゲンドウだ。
あっこいつ、言葉詰まらしてるんだ。
私が受けている彼の授業は、二限目からだということは分かっていたので、九十分、時間がある。根比べといこうじゃないか。
「あーもしかして、あの小さい体で先生は」
「そういうデタラメはやめてよお!」
「先生もやっぱり男の子だから」
「違う!違うから!」
先生は、勘弁してと言わんばかりのふざけた表情をして、両手を重ねて上下に降っていた。私は当然、桑原に軽蔑した目を見せた。
早期決着だったな。
「じゃあなんなんですか。あの子がなんでそんなに重要なんですか」
「はああ」
と彼は大きなため息をした後、デスクの引き出しから一番上の。ファイルに入った書類を取り出して渡してきた。
「冗談でも広めるんじゃないぞ。俺はこの大学なんててんで興味が無い。ただ、研究する場所として使っているだけだ」
私は勝った。と我ながらムカつくドヤ顔を見せつけながら受け取ったが、その顔はすぐに崩れ「えっ」という声が漏れたとともに、その目と口はしばらく閉まらなくなってしまった。
それは去年の、山本燈子の、一年生の頃の最初の提出課題だった。
綺麗な字。しかし何と書いてあるかは分かるが何を言っているのかさっぱりわからない。どこを取っても難しい言葉ばかり。専門用語のオンパレードだ。
それが紙なのに数センチ、分厚く、全てにびっしり書かれていた。
「それ、お前らに前出した課題と全くおんなじやつ。まるで論文だ。実力は多分俺レベルかそれ以上。つまり天才だよ」
これが私と同じ課題?
まだ一年生の単元だから、難しいとは言えどある程度基礎の内容のはずなのに……。
最後の方を確認すると三ページに渡って参考文献が記されている。同じ人間とは思えない。
舌の渇きで、自分がずっと口を開けていたのに気づいて、口を閉じると同時に、不可解な大きな鉄球を飲み込むように、喉を鳴らした。
「えっこんな子が、なんで急に大学に来なくなったんですか?」
「わかんないよ。大学はクソだとか二千人規模の合コンだとか言い始めて急に来なくなった。あんまり他の奴らとつるんでるイメージ無かったんだけど。あーあ、なんか一緒に見つけられると思ったんだけどなあ」
そう言いながら、腕を後ろに組んで足も組み、椅子に思いっきり体重をかけて右に左に半回転し続けた。
「俺は彼女に教えたいことが山ほどあるの。それで出世してこんな大学すぐに抜け出してやる」
とぶつぶつ言って目を逸らしている隙に、燈子先輩の提出物を何かに利用出来ないかと、こっそりリュックに閉まってすぐに研究室から抜け出した。
「あの子には絶対バックに誰か、あれ、いない」
そうたしかに聞こえたが、あえて聞き返さなかった。
顔がムカつくから。
学校が終わると、私は自転車で、いつものように彼女を迎えに行く。
夏の自転車はただただ暑い。風を受ける爽快感よりも、ちょっとした上り坂を立ち漕ぎで走るときの自分を客観視した恥ずかしさでもっと暑くなり、胸元に汗をかいてきてしまう。
襟でパタパタと仰ぎながら自転車を止め、橙子先輩がいるはずの古びた和食屋に到着した。引き戸を開けると、「お待たせしましたー!」とハキハキした顔で料理を運んでいる先輩と、すぐに目が合った。
手を振ると、彼女は少し顔を曇らせた後、すぐに目を逸らし、笑顔で料理を客に運んでいた。
私はいつもの席につき、「すいませーん」とわざと先輩に向かって声をかける。さっきまで元気ハツラツ!と言わんばかりの声と顔だったのに、私の時だけめんどくさそうな顔をして、目も合わせずに前掛けの紐を直しながら「ご注文は?」と気怠けな声を飛ばしてきた。
「お蕎麦ください」
「かけ?ざる?」
「ざるで」
「はいよ」
と忙しい店主のようなスピードで、すぐに厨房に入ってしまった。
カウンターを見ると、物腰柔らかい本物の店主が、一所懸命蕎麦を茹でており、その後ろでは、踏み台に乗っている燈子先輩が、テンポよくお皿を洗っていた。
橙子先輩の後ろ姿は、家事を手伝っている子供のようで、離れて見る分にはとても可愛い。
「よぉ姉ちゃん!またお迎えかい?」
「そうですよー。なのに、私にだけ冷たいんですよね」
「おおなんだ反抗期か。はっはっはっ」
店主は料理を作りながら豪快に笑っていた。私も笑いながら、食品に唾が飛んでいるなあと思った。でもまあ、私の料理じゃないから、いいか。
「とーこちゃん!今日早めに上がっていいよ!姉ちゃん待ってるし、定時で上がったことにしとくからさ」
「大丈夫です。その一瞬の快楽が長期的な怠慢を招くんですよ」
「いつも通りだな」
と私に向かってお決まりのフレーズを言って、私も店主の笑い声に合わせるように高らかに笑った。
燈子先輩が気怠そうな顔のまま、私の料理を持って厨房から出てきた。
「ざる、お待ちどうでーす」
「ありがとうございまーす」
伸ばす音を真似してニカっと笑うと、彼女は細い目を向けながら、厨房に入る前に、人差し指と中指で作ったVサインで自分の目を指した後に私の目の方を指すアメリカンなジェスチャーを見せてから、厨房の中に戻っていった。
やっぱり来て欲しくないのかな。
拾った木の枝を自慢するようなガキ臭いの橙子先輩も、真面目に自分があくせく働いている姿を見せるのは少し恥ずかしいのだろうか。子供が親元を離れていくようなイメージをしてしまい、少し寂しくなった。
でも、私にも単位があるからっ。
と自分を正当化しながら割り箸をパカっと割った。
宣材写真のようなざるそばをつゆにつけ、髪の毛を耳にかけながら上品に啜る。
自分で作る蕎麦と、なんら変わりないはずだが、すだれから差し込む光、その奥から見える広大な緑の景色。そして和風テイストの綺麗な食器のおかげで、そばは一段と美味しく感じられる。
それでもやっぱり、ざるそば一杯八百円は、少し高いと感じてしまう。
食べ終わった後、パズルゲームをしながら待っていると、白レースのワンピースに着替えていた先輩がダウナーな顔を私に見せながら厨房から出てきた。
「ほら行くぞ」
「大学ですか?」
「家に帰るの」
そう言いながら、私を残してすぐに店を出ていった。
「待ってくださいよー」
「とーこちゃんのこと、よろしくね。頑張って」
と言いながらボロボロの歯を見せる店主に向かって、さすがにマスクした方がいいですよという失礼な気持ちを隠すために、思いっきり笑顔で手を振ってから先輩を追いかけた。
先輩は子供用のヘルメットを被り、子供用の自転車に跨って、シャカシャカと音を立てながら先に歩道を走り始めた。
私もママチャリで追いかける。先輩の自転車は音が早いわりに車輪が小さく、私の一漕ぎですぐに追いついてしまう。これもなんだか、ちいさな娘を見守っているような、母性が働くようなムズムズした気持ちになる。
こんな小さな体にはたくさんの知識が詰まっているのか。全くと言って良いほど考えられない。
きつい上り坂をお互い腰を上げながら登り、下り坂はブレーキをかけずにものすごいスピードで落ちていく。
ああこれこれ。気持ちいい。
そのスピードを使って少し上り坂を登ったあと、また立ち漕ぎが続いた。
ああ。これこれ……。苦しい。
「僕はああ!生きるんだあああ!」
そんなファイト一発みたいに。
傾斜のある道路を抜けると、昭和で時が止まったような、焦茶の木造りの家々が現れる。
その奥の背景には空に突き刺さるような山々が見える。
この景色を見ると、小学生の頃、親戚の古い家に集まったときのあのワクワクが蘇る。
数世紀昔からゆっくり作られたの自然を、少しだけ切り取った世界にお邪魔する。そんなせせこましい都会にはない、無限に広がるような歴史の雄大さ。
でも先輩は「ここにある自然は全部、作られたものなんだ」と言う。
「昔の木はもう全部壊されて、植え直された結果がこれ。それを知ってからこの森は好きじゃない」
つまりテセウスの船なんだと、帰り道に熱く語られたことがある。
私にとってはどっちも船だから、どうでもいいんだけど。
そんなどこか懐かしい気がする住宅街にある、その並びの一つの家が、彼女の、おばあちゃんの家だ。
自転車を塀に沿うように平行に並べて、家の庭に入った。四つしかない飛び石の周りは、雑草が腕毛のように生えていて、私のふくらはぎをくすぐってくる。
一度痒くて足を上げるが、掻いてしまうと足が傷ついてしまうことを恐れて、やめる。恐れて、やめる。を一段ずつ、四回繰り返した。
先輩が玄関の引き戸をノックすると、ゆっくりと廊下を歩く音が聞こえた。その足音に合わせるように静かに扉が開くのかと思いきやガラガラダン!と勢いよく引き戸が開き、そこにはパーマをかけた、燈子先輩より少し背の高いしわくちゃのおばあちゃんが立っていた。頬も垂れていて、いかにもおばあちゃんらしい顔をしている。
着ているエプロンには雲が描かれていて、本来は青空だったのだろうが、使い込まれて薄暗く、雷雲のように見えた。
「よっ」
先輩がフランクに挨拶をすると、
「あら、琴葉ちゃん。またいらしてくれたのね。さっ、上がって。お菓子あるから」
おばあちゃんは先輩を完全に無視して、そのまま奥の部屋に戻ってしまった。
先輩はサンダルを脱ぎ、そのまま木の床をドタドタと駆け抜けた。
私は小さく「お邪魔しまーす」と言いながら靴を脱ぎ、お行儀よく靴を揃えた。先輩の分の靴も私が揃えた。私ってホント大人。
立ち上がって、おばあちゃん家特有のほこりっぽい匂いを吸い込むと、まだ数回しか来たことないのに、なぜか懐かしさがこみ上げた。
廊下の突き当たりを左に曲がると、畳の部屋があり、その上にはちゃぶ台が置かれていて、その上には菓子盆が真ん中を牛耳っていた。
いわゆる、お茶の間だ。ブラウン管テレビが置かれていて、ここまで昭和な風情のある家が残っているのはなかなか珍しいと思うので、来るたびに少しわくわくする。
この部屋でおばあちゃんから小さなポチ袋に入ったお年玉をもらったような。そんなわけないんだけど。
窓からは、物干し竿を覆うように、草木が青々と生い茂っていた。盆栽や、小さい木もちらほら見える。自分で育てているであろうグリーンと雑草が混ざっていて、一瞬ではどこまでがおばあちゃんの物なのか分からないほどだった。そもそも手入れされていないから、おばあちゃんの物かどうかも怪しい。
菓子盆の中には、チョコリエール、バームロール、ルマンド、エリーゼ。実にブルボンなラインナップだ。先輩はもう床に着いており、バームロールだけを食い荒らしていた。
「こら、琴葉ちゃんも食べるの」
と最後の一個を取ろうとする小さな手が、しわしわな手に叩かれ、先輩はわざとらしく小さな手をさすりながら、
「最後の一個食べても良いですか?」
と私にキラキラした目を見せつけてきた。私は正座をしながら、「どーぞ」と大人な対応を見せつけた。私もちょっと食べたかったけど。
「やった」
「琴葉ちゃん優しすぎるわ。男に騙されないようにね」
「騙してくる男もいませんよ」
とおばあちゃんになんとなく冗談を言ったが、どうやら冗談には聞こえなかったらしい。少し寂しいような悲しいような顔をしてから「これから嫌になるほど寄ってくるわよ」となぜか励ましの言葉をもらった。
「どうだかね」
「こらっ、なんてこというの」
と茶々を入れた先輩に向かって、おばあちゃんは少しムッとした表情を見せた。
「先輩なんてこの前、保育園の先生に小学生と間違われてましたからね。大人の女性だと思う人の方が少なそう」
とチョコリエールを開けながら仕返しをしてやった。先輩はただ「ふん」と言って席を立ち、戻ってきたかと思うと、麦茶のピッチャーとコップを人数分持ってきた。
「あ、ありがとうございます」
と私は口に含んだまま先輩に向かってお礼を言った。
失礼な言葉は止まらないが、こういうところはしっかりしている。子供なんだか大人なんだか。
おばあちゃんは麦茶を一口飲むと、ルマンドを吸っている先輩に向かって、あの質問をした。
「そういえば、大学はどうなの?」
「行ってない」
橙子先輩は嫌そうな顔をした。そして一瞬私を見る。どいつもこいつもと言わんばかりの不機嫌な口に、ルマンドを何個も突っ込んで隠していた。
「まだ行ってないの?立派な大人になれないわよ」
「行ってなれるなら行っとるわい」
と、先輩もモゴモゴと手で口を覆いながら喋る。喋れば喋るほど、ちゃぶ台がお菓子のカスで汚れていく。
たしかに、大学に行って大人になれるなら誰でも行っているだろう。
しかし橙子先輩はなれる側の存在のはずだ、なんなら逸材になれる可能性すら。なのにしがない蕎麦屋で働いている。
もったいない。そんな子が、なぜ大学に行かなくなったのだろう。
「おばあちゃんの方は?今日は体調はどう?」
先輩は話題を変えた。聞くなと言わんばかりのターンだった。
「ぜんぜん元気よー、自分で立てるし、トイレだって行けるわ」
「この前行けなかったじゃん」
「すぐ近くにいたから頼ったのよ」
普段の燈子先輩では感じられない、なんとも家族らしい光景で少し微笑ましい。
外では大胆な行動をしているが、燈子先輩は基本良い子なのだ。おばあちゃんの家に帰るたびに、それを感じる。
「バイトは今日どうだった?」
おばあちゃんの日常的な質問に、
「普通」
と目も合わせずに橙子先輩は素早く返答した。一つの家庭を盗み見ているような気がして、なぜだか少しワクワクした。
「あそう、いつもお疲れ様」
もしかして。
橙子先輩は、お金が足りなくて、バイト代をおばあちゃんに生活費として分けているのだろうか。大学費用が必要とか。いや、主席は授業料が免除されるはず。先輩ならなにかしら免除されていてもおかしくない。でも家はすごく貧困で……。いやいや、たとえそうだったとしても、大学生相手に、いくらなんでもそんな残酷なことをする必要も無い気がする。
いや、そういう家庭もあるか。心の中で勝手に思ったことを、勝手に反省した。
勉強が急に嫌になってサボっているのかな、でもあの大学一年生用の課題を論文のような厚さで出した橙子先輩が勉強嫌いとは到底思えない。
まさか。
蕎麦屋に昔から憧れていた?
いやまさか。
やはり彼女自体に何かあったのだ。橙子先輩の性格の問題も少し絡んでいる気はするが、それらを対処できれば、私と同じスクールライフを送れるはず。
そこには孤独もないし、みんなは優しいし、まあ燈子先輩の言うとおり鬱陶しい男はいるけれども、女はそういうクズに打ち勝つために集まるのだから、大丈夫だろう。
煮詰まった頭がなんとか結論を出した瞬間、セミの声が急に強くなった。そして、ちりんちりん――。鈴蘭が風に揺れる。
いつもなら鬱陶しいのに、今日のそれはどこか涼やかで、心地よかった。
この前、桑原先生がゲームをしながら言っていた、実家のような安心感とは、多分このようなことを言うのだろう。ゲームをしていた先生の言い方は、少し孤独を感じたが。
テレビにぼんやりと映る私たちの景色を見ると、まるで私も家族の一員に見える。
先輩のおばあちゃんが私の祖母で、先輩がいとこか姪っ子。
少し、自分の家族が恋しくなった。暇になったら会いに行こう。すぐ会えるし。
「そういえば、燈子先輩はどんな子供だったんですか?」
「何急に」
「先輩は世間話もできなくなっちゃったんですか」
嫌味を言うと、ケンカを制裁するようにおばあちゃんが会話に入ってきた。
「前までは学校を嫌がらない良い子だったのよ。毎朝ちゃんと起きて、宿題も自分でやってね、勝手に育っていったわ」
「そうだ、僕は勝手に育ったんだ」
先輩は少し、寂しさを隠すような硬い表情を見せていた。彼女はいつも笑顔のイメージがあったが、思い出してみれば、木の枝を振り回したり、公園に飛び込んだり、自分で遊びを見つけて遊んでいる時以外は、ずっと顔を曇らせていた気もする。
「だけど、おじいちゃんと遊ぶ時は当たり前みたいにズル休みして、それが毎日になっちゃって、かと思ったら自分の部屋に引きこもりだしたり、将来どうなっちゃうんだろうって心配だったわ」
「今大学行けてるからいいだろ」
「行けてないじゃない」
おばあちゃんらしいスタッカートの効かせた笑い方をしながら、橙子先輩の肩を叩いていた。
学校が嫌だったわけではないのに、学校に行かない。あの名門に入ったのに、また行かなくなっている。どうしてだ。
「なんで引きこもって――」
「そんなことよりさ、おじいちゃんどう?」
先輩がまた話題を変えた。さっきよりは少し、高い声で。
「普通ね。病院食がまずいって」
「ふうん、元気ならいいんだけど」
「おじいさん?」
「病院と併設された老人ホームにいるの。歳の差が少し離れてるからね。元気だったころはすごく威張ってたのよ。大学教授だったの」
「えっ、すごいですね」
「都会人はみんな学習意欲がないとか、虫の方がまだ根気強く生きてるとか、歳を取ったら大人しくなると思ったんだけどねえ。今は手術はしない!って叫んで迷惑かけちゃってるらしいわ」
「ふふ、橙子先輩みたいですね」
そう言った途端、チョコリエールを持った手が指の力で、パキッと割れてしまった。
あれ、怒らした?
「ちょっとこぼさないでくださいよー」
「ああ、ごめんごめん」
違ったみたい。
半分になったチョコリエールを静かに食べて、考え事をしているようだった。そしてゆっくり口を開いて、
「いつ帰ってくるの?」
本音がこぼれ落ちたような、低く重いトーンだった。
「さあ分からないわ。元気になったら迎えに行きましょ」
「うん」
ミンミンミンミンミーン。
落ち着いてしまった空間に、初めて蝉が邪魔をした。
みんな黙りこくってしまい、気まずい雰囲気から逃げるように私は柔らかい畳に手を添えて、体重を支えながら思わず上を向いた。蛍光灯の紐がわずかに揺れている。すると、まるでそれが鳴ったかのように、りん。と鈴蘭が音を奏でた。
誘われるように、ガラス越しの庭を見る。柔らかな陽射し、穏やかな空気。部屋の中でも酸素を感じられるような、植物。時間がゆっくり進んでいる。
平和という文字が頭の中で浮かんだ次の瞬間、花々が急に、左の方向に煽られた。
強い風が吹いたのだ。
ガラス扉はガタガタと揺れ、りんりりんと鈴蘭が暴れ出した。
先輩は音を聞くと、まるで跳ねるように窓へ駆け寄った。畳の上で何度も飛び跳ねながら、
「風だ!風だ風だ!琴葉!外に出るぞ!」
先輩の弾む声にかき消されるように、風鈴の澄んだ音が揺れた。吹き抜ける風の音は、彼女のギャハハという笑い声と不思議なほど調和していた。
私は、先輩が飛ばされるかもしれないといらぬ心配をして、おばあちゃんを置いて外に出た。
「今日は強いぞ!空気で窒息しそう!」
置いていた自転車のスタンドが、ガガ、ガガガと、少し引きずられている。倒れないといいけど。
「僕は!生きるんだあああ!」
両手両足を広げて全身で風を感じながら笑っている彼女を見て、少し羨ましくなった私は、一緒に子供に戻ろうと、後ろでこっそり両手を広げてみた。
強風が私をかたどる。
いつもはうざったくて嫌なのに、ギリギリ前に進めないこのもどかしさは、なかなか悪い気はしなかった。
「なあ、彼氏ってどんなんなの」
ちょうど、橙子先輩が公園の木に登っていつも通り騒ぎ立てたあと警察官に怒られて私が謝りながら担いで喫茶店に逃げ、急いでコーヒーとアイスとメロンソーダを注文して出てきたのがブラックコーヒーだったので角砂糖を一つ、二つ、三つと入れようとした瞬間だった。
なぜか今までせかせかと動いていた私は先輩の言葉に力が抜け、角砂糖を落としてしまい、カランカランと机に転がった。次の瞬間、全身に電撃が走った。
女の子特有のこのピンク色の電気信号が点灯し、気づけば口が動いていた。
「えー!先輩彼氏欲しいんですかー!意外すぎますー!」
「うるさいなあもお。だからこういう話は嫌いなんだ」
「なんで!なんで彼氏欲しくなったんですか?寂しくなっちゃいました?」
先輩どんな人が好きなんだろう。今まで彼女の好みの男性など、一度も聞いたことがなかったので楽しみでたまらない。
大人っぽい人かな、同じテンションでいられる人とかの方が好きなのだろうか。
「いや、コンビニ人間読んだんだ。主人公が私と似ててな、一つのこと以外興味がないところに共感できるもんだから影響を受けてしまって、恋愛ってどんなんだろうと思って」
ピンク色だった脳の電気信号が、一瞬で消えた。……なんだ、そういうことか。
落ちた角砂糖を拾って、冷静に近くからコーヒーに入れた。
コンビニ人間は私も読んだことがある。
主人公の女性にあった世界は、コンビニだけだった。共感性が乏しく、他には何にも興味のない、いわゆる普通じゃない女性だった。という話だった気がするが、私にはよく分からなかった。
人らしい描写はたくさんあったが、人間味に欠ける部分も多かった。つまり変な人。
彼女の言う通り、本当に橙子先輩に似ている。
たしか、あの話の主人公も、あんな性格をしておきながら、先輩のように人間関係に悩んでいた。
小説の主人公はなんか嫌な顔をされているからとかいう、これもまた人間味があるようなないような理由だったような気もするが、確かにそれも、橙子先輩に似ている。
「先輩、恋したことあるんですか?」
「まあ、あるというかないというか」
ピンク色の電気信号がまた淡く光る。橙子先輩の恋愛、気になりすぎる。
「えー!どんな人だったんですか!」
「いや、良いじゃない。恥ずいし」
「えーじゃあじゃあ、年上か年下かだけ教えてください!」
「えー、まあ、年上」
「えー!橙子先輩年上好きなんですかー!まあ確かに子供っぽいところありますもんねー」
「うるさいなあ、私の話おしまい!」
と、ストローでメロンソーダを回しながら、アヒル口で聞いてきた。アイスが来るまで飲まないルールらしい。意味不明だ。
こういう話を聞いていると、橙子先輩も一人の女の子なのだなと、初めて同じ土俵に立てた気がして、親近感が湧いたと同時に、少し嬉しくなった。
「私も最近してないですねー。っていうか、そのためにも大学行きたいんですけど。一緒に来てくれません?」
「だからそれをしたくないんだって」
「矛盾してるじゃないですか!」
そう軽く叱責をすると、彼女は黙ってしまった。
しかし、あの燈子先輩からボロが出た。彼女は男が嫌で行かない訳じゃないんだ。ここはチャンスだ。攻めよう。
「恋愛したかったんじゃないんですか?」
「いやしたいというか、好きってどんな気持ちだったっけなって」
「大学行けば分かるかもしれないじゃないですか」
「分かるわけないだろ、だってあそこは乱交パー」
「じゃないですよね?辞めてくださいファミレスですよ。恋愛をしてみたい気持ち、あるんですよね?」
「なあい。……訳じゃないけど。じゃなくて、スクールライフラブストーリーなんて求めてないの!大学はストレスでしかないし!だから行かない!」
「なんでストレスなんですか?」
「ストレスをなんでで挟むな。とにかく嫌なの!行きたくない!」
「もう」
埒が開かない。
さっきの重労働のせいで疲れていた身体がさらに疲れた。
落ち着くために浮いていた肩と腰をおろして、コーヒーを一口舌に当てた。
あれ、さっきまで熱かったはずなのに、すでにぬるい。
びっくりして、飲んだまま目を寄せて、コーヒーを見てしまった。
あ。
いま私、絶対にブサイクな顔した。
「ぷっ」
ナプキンで唇を拭きながら、私は頬を隠して先輩を睨んだ。
案の定、笑った悪党はこいつだった。先輩は目を垂らして手で口を隠し、クスクスと嘲笑していた。
私は眉をひそめ、こいつに、仕返しをしてやりたい。そう強く、強く思った。
そのバネのように反発する力で、私は一つ閃いた。そして、即実行に移った。
「先輩ひどい!」
そう言いながら、私は急に立ち上がって伝票を取り、燈子先輩を無視して会計をしにレジに向かった。
このための犠牲なら、千七百円くらい払ってやる。
先輩は私を不安そうに見つめながらついてくる。少し罪悪感が芽生えたが、見えないふりをして会計を済ませた。
そしてスタスタとファミレスを出て、一目散に駐輪していたママチャリに向かった。
「琴葉ー。ごめんー。笑ってごめんってばー。お金ちゃんと払うからー」
私の手を両手で取り、顔を覗きながら追いかけて謝ってくる先輩がだんだん可愛く見えてきて、思わず許してしまいそうになってしまう。
だめだめ。今日を逃したら次がないかもしれない。
笑みを抑えて、自転車の鍵を開け、わざと作った怒り顔で彼女を威圧して硬直させたあと、私は先輩を脇から持ち上げた。
「な、なんですか」
「大学、行きますよっ」
そしてそのまま彼女をチャイルドシートに乗せ……れない。
あれ、入らない。
私、先輩のこと小さいと思いすぎたかも。
「お前、バカにするのも良い加減にしろよ」
ヤバい。先輩のキレ顔だ。
私が先輩と初めて会った時に「小学生みたいですね」と言った時に見せた、目に光を無くし、少し歯に力を入れて威嚇しているようなこの顔。
私は口元をゆがめ、それをニヤリと笑ってごまかした。周囲を見回し、車道に目を向ける。私は先輩を抱えたまま、車道側に向かい、まっすぐ手を挙げた。
自転車はあとで回収すればいい。
ブウウウウン。
ちょうど良いタイミングで来たタクシーに先輩をつっこみ、
「文月大学までお願いします」
と言いながらフタをするように私の体を押し込み、自らドアを閉めた。
「やめろ!変態!この人痴漢です!」
「おいおい姉ちゃんこの子大丈夫?」
「大丈夫です。大学に行きたがらないだけなんですよ」
と彼女に蹴られながらも、私は笑顔を保ち、顔の四角い運転手さんにそう告げた。
「おお、そうか。大学は行かないとダメだぞ。よし、手伝ってやろう」
「頼んでねぇっつーの!なんなんだどいつもこいつも!」
「行っちゃってください」
その合図で、車は急発進をした。
最初からこうしておけば良かった。これでいいん、だよな。なんでだろう、ほんの少しだけ、彼女に申し訳なく思っている自分がいる。いやいや、頼まれたことをするだけだ。単位かかってるし。
二、三分は燈子先輩は私に暴力を振り続けたあと、一瞬大人しくなったかと思うと、次は運転席に向かって頭をぶつけ始めた。
「はっはっはっ。本当に行きたくないんだなー。俺も最初はサボってたよ。留年しちゃってさ、親父にボコボコにされたなー。今になって大学行っときゃ良かったと思うわけよ」
「わかった!ように!いい!やがって!」
「先輩、そろそろ血出ますよ」
私は口だけの心配をしながら、心の中では早く大学について欲しいとだけ思っていた。
タクシーは三十分足らずで大学に到着。私が財布を出す刹那だった。
燈子先輩は、右側のドアを開け、一目散に逃げ出したのだ。
「あっ!お釣りいりません!ありがとうございました!」
自動ドアが開き、私もすぐさま降りて橙子先輩を追いかける。
初めてお釣りいりませんって言っちゃった。
去り際の一瞬、助手席側の扉から見えた運転手のおじさんが、良い笑顔でサムズアップしていた気がした。
意外と遠い。このままじゃ逃げ切られる。
私は一度止まり、遠くに見える先輩と私の距離を確認した。
高校の時に行った、陸上競技場のトラックを思い出す。
八百メートル決勝。相手は九レーンから走り出しただけ。
彼女を遠くにいる敵だと想像して、クラウチングを決めた。
オンユアマーク、セット。パンッ。
「わー!こっち来んなー!」
風切り音が鳴る。距離はおよそ六十メートル。無理な距離じゃない。
邪魔なショルダーバッグを背中に回し、頭の中で橙子先輩の頭に点を打つ。あとはただそこに向かって走ればいい。余裕だ。
泣きそうな顔でこっちを見ている。
泣いても許してやらないんだから、陸上部元部長を、なめるなよっ!
ラストスパートの全速力で、私はそのまま橙子先輩を追い抜いて、振り返ってブレーキをかけ、彼女の前で大の字になった。
「う、うわぁいやぁ」
「さっ、先輩、大学、行、き、ま、す、よ?」
「いやだぁー!」
車道側に生えている木にしがみついている橙子先輩の手を片方ずつ離して肩に担ぎ上げ、私は、彼女を大学に連れ込むことに成功した。
勝ったな。
「おっ、橙子ちゃん?橙子ちゃーん!」
先生は椅子から転げるように立ち上がると、メガネをかけ直し、わざわざ数メートルの研究室を駆け寄ってきた。
「いやー会いたかったよー!やっと来てくれたんだねー!」
「僕は会いたくなかったし、来てあげてない。拉致された。警察を動かすぞ」
「まあまあ、そんなこと言わないで。一緒に研究の続き、しようね」
研究、という言葉に一瞬、私から降りようとしていた燈子先輩の動きが止まり、体が猫のように、ピクッとしたのを感じた。
しかしすぐにまた暴れ始め、抜け落ち、出口に向かって走り始めた。
「帰る!」
「山本‼︎」
研究室の静寂が、さらに深まる。ビーカーや三角フラスコが、微かな声の振動で揺れた気がした。
「ど、どうしたの琴葉ちゃん」
「うるさい!このロリコン!」
「ロリコンじゃないって」
そう、叫んだのは、誰でもない私なのだ。ポツポツと穴が空いていた堪忍袋が、一気に息を吹き込まれ、パァン!と完全に割れた瞬間だった。
「そんでお前!ロリ!」
「ぼ、僕のことでしょうか」
「そうだ!僕っ子ロリ!」
「僕っ子ロリ」
「大学も行かずにダラダラとバイトしやがって。何か大学を凌駕する夢でもあるのか?!あ?!お蕎麦屋さんの店長になるのが生涯の夢なのか!」
「ち、違うけど……」
「私はここに入学するために必死に勉強して!塾に行く回数も増やしたんだよ!それでやっとの思いで合格して!それをこんな形で無駄にされて!だから、努力一つせずにのうのうとしてるお前が!私は腹立たしくてしょうがない!」
「……」
橙子先輩は、ワンピースのスカートを握って、俯いてしまった。
私は彼女のしおれた姿を見て、やりすぎたとようやく気づいた。罵声を浴びせるために吸った息を、思いっきり吐いた。
怒りは、拳の中に握りしめた。
「声を荒げてすいません。でも、燈子先輩には、私以上に良い人生を歩んで欲しいんですよ」
私は何を言ってるんだろう。今の私は感情的で、勢い任せでしかない。
自分で張り詰めさせた空気を自分で崩して、おまけに真逆なことを言って濁してしまった。
先輩の、訳がわからないというような顔に、勝手に共感してしまった。
その濁った空気と、私の苛立ちで出来た熱気が一緒に鼻腔に入り込む。湿った匂いが鼻を少し詰まらせてしまい、なかなか落ち着くことができない。
握り拳が、そろそろ痛い。
彼女は頭をくしゃくしゃにかき混ぜ、場の空気をもう一度張り詰めさせた後、重力に任せて腕を落とした。
「はあ。お前が何を考えてるか分からないが、いいよ。今日だけいてやる。明日帰る」
勝った。今度こそ。でも心の中はまだ、ざわついてしょうがなかった。
「うわぁ……!」と間の抜けた声を上げながら、ロリコン先生が高速で拍手する。その破裂音が耳に侵入してきて、ウザすぎて、リズムに合わせてぶん殴りたくなった。
彼女はポケットからガラケーを取り出し、ゆっくりと後ろを振り返る。何をするのかと思うと、扉のほうへ、てくてくと歩き出した。
「おい」
「お、おばあちゃんに連絡するだけだから」
私はついていって、先輩が逃げないように目を光らす。彼女はずっと、怪訝な目を見せていた。
その態度、今日までの我慢だ。今日だけは許してやる。
燈子先輩は私を背に携帯を耳に当て、
「あっ、おばあちゃん?えっと、今大学に来ております。うっ、うるさいなあ。いや帰ってくるよ。まあ、もし帰ってこなかったら、前みたいになってるってことだから。うん。バイバイ」
そう言って、彼女はガラケーをパタンと閉じ、体をくるりと半回転させて、床を強く踏みしめて歩き始めた。
さっきまで半開きで揺れていた目が、急にキリリとしてて角ばっている。決意した目だ。私はその威圧に、思わず立ち尽くしてしまった。
置物になった私を彼女は無視して通り過ぎ、研究室に入っていった。
私は体が動かなくて、理科室には入れなかった。何やら、教授と難しい話をしているように聞こえる。
そうだ。これが彼女らしい。これが、天才の生き方のはずなのだ。
でも心の中はまだ、ざわついてしょうがなかった。
その日から、私の生活は元に戻った。
一日で帰ると言っていた先輩は結局、二週間もお風呂に入らず、研究室に入り浸っていた。
最初は、やっぱり好きなんじゃん。と温かい目で見守っていたが、一ヶ月が過ぎた時から、だんだん彼女に可愛げが無くなっていった。
食事をする暇もないからと、コンビニでスニッカーズをまとめ買いして最低限に抑えてまで、研究に没頭しているらしい。
自分の体のことまで脳が回らないのが、バカと天才は紙一重なんだと、再認識させられる。
萩原教授は、「ノーベル化学賞間違いなしだ!我々は新たなステージへ行くのだ!」と、
私にそう語るのも無理がないほどに、燈子先輩の技術は凄まじい。らしい。
悪役っぽい笑い声と共に、興奮しながら喋っており、より一層キモくなっていたのが裏付けだ。
たまに研究を覗きに行くと、同じ理系で一学年上というだけなのに、彼女のやっていることが何一つわからない。
そもそも、頭がわかろうとしなかった。
顔を見ると、先輩から弾けるような笑顔は消え、世間話をしようとしても、あしらわれてしまう。
今の彼女には研究以外何も必要ないのだなと、巣に取り残された雛鳥のような寂しさと、心の隅に謎に出来た一抹の不安を抱えながら、分厚い分厚い透明な壁に触れないよう、一番離れた席に座って、動きの止まらない最中を見守っていた。
そして三ヶ月、雷雨に照らされる彼女の顔は、少し、痩せこけていた。
肌も荒れ、髪の毛の乱れはイソギンチャクのように四方八方へと流れている。ただ、目だけは前よりも磨かれていて、再利用されてるであろう粘膜は、粘っこいツヤを作っていた。
彼女は手が震えないように、浅い呼吸をして、一マイクロリットルのズレもないように、試験管にスポイトで何かを入れていた。
研究所は、ガラス窓を打ち付ける豪雨以外はやけに静かで、課題をするにはちょうど良い環境だった。
でも、雨は降る日をよく知っている。
突如、携帯の振動音が、この部屋に響いた。
ヴーン。ヴーン。ヴーン。
目の前で、燈子先輩のガラケーが震えて、落ちそうになっていたのを拾い上げる。
「先輩鳴ってますよ」
「今集中してるからとって。多分おばあちゃん」
私は仕方なく携帯を開くと、ゴシック体で「おばば」と書かれた文字が映し出された。受話器のボタンを押し、耳に当てる。
「はい。あっいや、山本ではないんですけど、ていうか誰ですか?」
豪雨がピタッと止んだ。一瞬にして晴れたわけではない、むしろ、その逆と言えるような内容だった。
「わかりました。すぐに連れて行きます」
私は電話を切るとすぐ橙子先輩に駆け寄り、精密なものがいっぱい置いてあるテーブルをどんと叩いた。
「先輩のおばあさんが倒れました。今救急車で病院に向かっているそうです。行きましょう」
「無理。代わりに行って」
は?
こいつ今、なんて言った?
「え?家族ですよね?」
「だから何?今ちょっと手ぇ話せないから」
動かない目が怖くなって、思わず後退りをしてしまい、木の椅子に足が引っかかって転びそうになった。
先輩の無機物な表情に混乱しながらも、病院に向かうために自分の片付けながら準備を進めた。
支度をしながら、きっと彼女は私が出かける瞬間についてくると、家族愛が少しでもあることに期待を寄せていたが、支度が終わっても、その背中は全く動こうとしなかった。
本当に人間じゃないんだ、こいつは。
「私行きますからね。絶対にあとで来てくださいね!」
「うん。これが一区切りついたらね」
そんな日、一回も来なかっただろ。
愚痴をこぼさないように、今にも吐き出しそうな言葉を飲み込んで、私は研究室から飛び出した。
走りながらタクシー会社に電話をして、その勢いのまま、外に出た。
ざああああ。
そうだ、雨だった。
でも多分タクシーはこっちまで来てくれない。どこにいるかわからないままどっかに行ってしまうかもしれない。そうしたら、間に合わずにおばあちゃんが死んじゃうかもしれない。
私の感情はすぐに決意して、豪雨の中を突っ走った。
槍のように打ちつけられる。瞬く間に私をずぶ濡れにする。体が、今の世界に染まっていく。
なんで私が。
服が肌に張り付き、体温と共に、力を吸いとっていく。
熱を保つように息を荒げながら、私は車道の近くにある木の下に体を隠した。
寒い。自分で自分をハグして、髪から垂れる水滴を無意識に目で追いかける。
なんで、なんで私がこんな悲劇のヒロインみたいにならなきゃいけないの。
なるべきは、橙子先輩なのに。
精神安定剤のアプリを開いても、手がかじかんで、パズルゲームがうまくできない。画面に水滴が飛び散り、一ターン無駄にした。イラついて咄嗟に画面を消し、その後はずっと、スマホの時計を見ていた。
短針が、遅い。
八分。タクシーは、私を侘しい思いをさせた。
「どちらまで?」
「丸巣の総合病院まで。できるだけ急いでください」
運転手のおじさんは無関心そうな、少し不審そうな四角い目を見せて、「はいよ」と言って振り返り、車をゆっくり発進させた。
お願い、生きてて。
呼吸を整え、祈ることしかできない私の無力さで沈んでいた心が、この待ち時間で更に地球の奥の奥まで向かおうとする。
体は寒いのに、目頭だけが、急に熱を帯び始めた。
速く、もっと速く!
メーターを見ると、法定速度が四十キロのところを、おじさんは四十五キロで走行していた。顔には全く出ていないが、彼なりの優しさなのだろうか。法律が頭をよぎって、少し複雑な気持ちにはなったが、心の底に、燈が小さく点灯したような気がした。
三十分。やっと病院につき、タクシーが止まった瞬間飛び出そうとしたが、ドアが開かない。
「お会計」
「あっ、すいません」
タクシーのやや高い料金を払って、急いで病院の中に入ろうとしたが自動ドアは私のことを知らずにゆっくりと開く。
早く開いて早く開いて早く開いて。
自動ドアをすり抜けると、受付がすぐに見え、そこに濡れた靴を滑らせながら走っていった。受付カウンターにぶつかり、転びそうになったところを、ナースがカウンター越しに私の腕を捕まえて、なんとか持ち直した。
「お客様、どうされましたか」
「あっと、えっと」
燈子先輩のおばあちゃん。山本、山本だ。
「お客様、一旦お座りになられたら——」
「山本さん!女性の、ご年配の、山本さんはいますか?」
「も、もうされましても、どの山本様でしょうか?」
そっか、いっぱいいるのか。どうしよう、こっから、おばあちゃん探す?広いな。
体はジェンガのように崩れ、カウンターを手に置いても、うまく立ち上がれない。今私ができるのは、息を整えることだけだった。
視界が歪む、人の声が反響する。
「……ちゃん?琴葉ちゃん?」
誰、こんな時に。
私の名前が聞こえて、言うことを聞かない頭を強引に動かした。
その先にいたのは、先輩の、おばあちゃんだった。
「ずぶ濡れじゃない!大丈夫?どうしたのそんなに急いで」
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
私はスライムのように湿った体を擦り付け、大きな施設の前で盛大に喜んだ。
おばあさんは点滴スタンドを持っていて、少し老けたような、顔色がまだ少しだけ戻っていないようにも感じた。
「なによー、ちょっと貧血で倒れただけ。なんか病院の人が電話してくれてたらしいんだけど、その時にはもう意識失ってて。それで病院の人たちが来てくれて、そのまま連れてきてもらったのよ。様子を見て、来週には帰るわ。保険入っといてよかったわよー」
「そっか、そっか。良かったです。私も貧血で倒れそう」
私、冗談言えてる。自分のレベルの低いユーモアで、少しだけ余裕を取り戻していることが分かった。
おばあさんに手を取ってもらい、病室まで一緒に歩く。どうやら病院は久しぶりで、少し散歩をしていたら、私を見つけたらしい。
冷静に息を整え、おばあさんの目元を見つめながら話していると、燈子先輩の石像のように動かない顔がよみがえった。
豪雨はまだ続いている。雨音に重なるように、彼女の無機質な沈黙が、頭からこびりついて離れない。
「そういえば、先輩、おばあさんより研究が大事だって、一緒に来てくれなかったんですよ。ひどいですよね」
「あの子一回集中すると、自分の世界に入っちゃうみたいね。いつものことだわ」
「でも、流石に家族に何かあったら、心配しません?」
「そうねえ、普通はね。まあ、しょうがないのよ」
おばあさんの歩みはとても遅く、私は意識して一歩一歩進んでいた。たしかにこの歩幅は、燈子先輩には合わせられないだろう。
でもなぜ、おばあさんはあんな先輩を否定せず、むしろ個性のように扱ってあげるのだろうか。
先輩は愛せるバカだが、今回ばかりは絶対に愛せない出来事だった。何度自分と相談しても、その結論は変わらなかった。
「あ、そういえば、これ燈子ちゃんには内緒にしてて欲しいんだけどね……」
おばあさんを病室に送ったあと、私は総合病院を出て、燈子先輩に電話した。しかしでない。私は、何度も何度も連絡した。彼女には、反省してもらわなければならないからだ。
無数の水の線が、私の前を通り過ぎる。そのホワイトノイズが鬱陶しくて、病院のまえをうろうろしてしまう。少し、お腹も痛い。
八回目の不在着信を終え、九回目の六コール目。彼女は、応答した。
「もう何?!失敗したんだけど!また最初からなんだけど!」
本当にダメなやつだ。冷静に、しっかり怒らないと。
「おばあさん無事でした。貧血で倒れたそうです」
「まあそんなところだろうね、すぐに死にやしないよ」
失礼な発言に私は憤りを感じ、少しだけ声を荒げた。
「なんで来てくれなかったんですか?」
「だから手が離せなかったんだって。見てたでしょ」
こいつ。頭きた。
「それよりも、大事なものってあるんじゃないんですか?なんですぐ手を止めて、おばあちゃんのところに行かなかったんですか?あなたを育ててくれた──」
「お前が大学に行けと言ったんだろ‼︎」
割れるような音が、私の耳を襲った。ゼロから百に変わる感情の起伏に、私はあっけに取られてしまった。
「大学にいなければ、私はずっとおばあちゃんと一緒にいたんだよ!もしかしたら事前に助けられたかもしれない!お前だ。お前のせいだ」
「そんな、私、入り浸るなんて知らなくて、普通に家に帰るのかと」
「はっ、説教するために電話してきたの?琴葉さん本当にジャマしかしないね。じゃあね。続きあるから。あ、おばあちゃんによろしく言っといて。それじゃ」
プツッと電話が切れたあと、ツーツーツーという音を聞きながら、私は壁を背に、ずるずると重力に引っ張られた。
この豪雨は、燈子先輩のじゃなくて、私のだったのか。
体育座りをして、弱い自分を抱きしめた。強く強く抱きしめた。痛みが苦しみを超えるように。強く、強く。
翌日。
私はまた、懲りずに研究室に来た。
先輩もまた、懲りずに研究を続けていた。
今日は、いつにも増して体が重い。やる気も湧かず、最低限のメイクだけ。昨日からずっと、お腹が少し痛い。
橙子先輩を見ると見える透明な壁が、昨日よりも分厚い気がした。その圧に耐えられず、私は、背を向けるように座った。なぜか自動的に猫背になった。
つまるところ、すごく辛い。私のせいで、橙子先輩は、橙子先輩らしさを失ってしまった。私のせいで。
昨日から雨は降り続けている。多少弱くなったが、ガラス窓はぱらぱらと、素早いテンポで音を立てていた。
「なんで来たの」
引き締まらない筋肉をゆっくりと動かしながら振り返り、私は燈子先輩の小さい背中を見た。
彼女の体は機械のように動いていて、抑揚のない発音と良く似合っていた。
まさか話しかけてくるとは思わなかった。
私なんて、先輩の中にはいないと思ってたのに。
「課題とか、あるんで」
「そう」
課題は一応持ってきてはいたが、今の私には重りでしかなかった。
元の体勢に戻り、隣の椅子に置いたトートバッグから、嘘はついてないですよと、冊子を数冊、机の上にドサっと置く。
なんだよ一般化学って。私は大学卒業のレッテルが欲しいだけなのに。
参考書をさすり、一度、課題範囲を開いてみるが、背景にしか見えずにすぐに閉じた。
「おばあちゃん大丈夫そうだった?」
また話しかけてきた。何か申し訳ない気持ちが、私に少しでもあるのだろうか。けれど、今は受け取れる気分じゃない。
「はい。まあ、大丈夫そうでしたけど」
「良かった」
なんでお前が行かなかったんだよ。
「行ってくれてありがとうね」
おせえよ。
「おせえよ」
あれ。
今言ったの、私?
咄嗟に先輩を見た。
彼女は、固まっていた。
私はすぐに覚悟した。息を吸って歯を食いしばり、拳を握って、燈子先輩の判決を待った。
「ごめん……行ってやれなくて……」
彼女は震えていた。
声も、肩も。
「せ、先輩?」
「僕って最悪だよなあ。またやっちゃったよ」
外から聞こえるのとは違う雨音が聞こえた。それはまるで、心の奥に滲んだ後悔が形を持ったような音だった。
私は席を立ち、ゆっくりと先輩の顔をのぞいた。
彼女は、両手で鼻と口を隠し、大きな目から、大粒の涙が流していた。
一つ一つ、悲しみのこもった球の雫が、先輩のノートに、ポトッ、ポトッ、と落ちていく。
「ごめんねえ。本当にごめんねえ」
静かな葛藤が生まれた。そこから慰めが怒りに勝つのは、数秒もかからなかった。
なぜなら彼女は、理解力がとてつもなく高い本物の天才で、しかし感情を察することができない本物のバカで、それでも過ちに気づき、誰かのために後悔できる本物の人間だったからだ。
「いや、先輩の研究も重要です。おばあさん元気だったから、良かったじゃないですか」
「違う、違うんだあ」
私がポケットティッシュを取りに自分の席に戻ると、彼女は窓を思いっきり開け、
「僕は! 生きるんだあああ!」
渾身の叫びを響かせた。
私は彼女の声が枯れるのを待ってから、ティッシュを差し出した。
彼女は三枚とって目を拭き、もう三枚とって鼻をかむ。
「はあ……」
鼻をすすり、涙を垂らしながら、橙子先輩はため息をついた。そして、ぽつりと呟く。
「僕、一度集中すると何にもできなくなるんだよ。まるで人が変わったみたいに」
彼女は手をじっと見つめながら、静かに語り始めた。
「森が好きだった。おじいちゃんとよく行ってたんだ。中学の時、僕しか入れなさそうな奥の見えない獣道があって、それに魅了されて、つい、一人で入っちゃった」
先輩の指が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。
「楽しかったよ。小さい自然のトンネルみたいで。でも、みるみる空が暗くなって、いつの間にか迷子になってた」
だんだんと、先輩の声に後悔の色がにじみ始める。
「おじいちゃんが助けに来てくれたけど、泥まみれで、服は木の枝で破れてて、血が滲んでた。その時、足を引きずってたんだ。ボロボロでさ。その後、その片足がうまく動かなくなっちゃって」
苦い記憶が、先輩の顔を曇らせる。「ボロボロでさ……」と呟いたあたりから、声が震え始めた。
鮮明に覚えているのだろう。育ての親が、自分のために身を削った姿を。
「それから、おじいちゃんと一緒に勉強した。家なら動かなくて済むからね」
そう言って、先輩は小さく笑った。
「おじいちゃん、大学の教授だったんだよ。僕が知ってる誰よりも頭が良かった」
「燈子先輩の知識は、その賜物なんですね」
今、私の目は優しくなれてるかな。
先輩はこちらを見てはくれないけれど、彼女を知るために、私はおじいさんとの思い出を見ている彼女の瞳を見つめ続けた。
「おじいちゃんね、理学を専攻してて、論文をいっぱい持ってたの。
僕、それを読むのが楽しくなっちゃってさ。学校も行かずに引きこもった。普通の勉強もしなかった。つまんなかったし」
つまらないと言いながら、私が必死こいて勉強して入ったこの大学に合格したのが、彼女の天才さを際立たせる。
悔しい。
その気持ちが少し蘇ってきたが、今は先輩の時間だ。
眉間にくっついたモヤモヤを、鼻の奥に詰まらせるように、黙って聞いた。
「おばあちゃんはドアを叩いて怒ってきた。でも、おじいちゃんは何も言わなかった。高校も、一年生の時は行ってみたけど、周りの同級生の会話が本当にくだらなくて。もう、全員の声が耳障りだった。だからやめた。高卒認定試験があることは知ってたし」
私の中で、同情と嫉妬が大喧嘩している。
彼女は今、真面目な話をしているんだ。
やめなさい、私。感情的になっちゃいけない。
「おじいちゃんが車椅子になって、生気がなくなっていくのが悲しくて……一回、膝の上で泣いちゃった。そしたら、しわしわの手で撫でてくれてさ。その時は、まだ僕のおじいちゃんだったんだなって、安心できた」
先輩の声が、小さくなる。思い出すように、彼女は自分の頭を触った。
「でも、あの日以来、おじいちゃんずっとぼーっとしてた。必要最低限しか話さなくなって……だから毎日、僕は必死に勉強の話をしたんだ。おじいちゃんの目が、その時だけは、少しだけ昔のかっこいいおじいちゃんに戻る気がして」
橙子先輩と初めて恋バナした時に彼女が思い描いていたのは、きっとおじいさんのことだったのだろう。親としても、そして一人の男性としても、彼を愛していたのだろう。
「本当に大好きだったんですね」
「今も大好きだよ。それで、おじいちゃんに大学に行くべきか聞いたら、『大学は私の全てだった』って。僕、大学が楽しみになった。やっとちゃんと、おじいちゃんが論文で扱ってたような勉強ができるって思って。……思ってたんだけど。行かなくなった。やっぱり、猿の集まりだよ。ここは」
「何か、あったんですか?」
私は真剣な眼差しで彼女を見つめた。
もし犯人を突き止められれば、少しは通いやすくなるかもしれない。
没頭癖もあるのだろうが、彼女が研究室に入り浸ったのは、人と関わらないためだった可能性が高い。
だって、あれだけ嫌がっていたのだから。
「いや、何にもないけど。同級生の会話がキモいなあと思っただけ」
「え、そのキモいと思っている人たちと関わらないために、三週間もここにいたんじゃないんですか?」
「え、僕、三週間もここにいたの?」
「……心配した私がバカでした」
「え、なんかよく分からないけど、ごめん」
「続けてください」
「あ、はい。えっと、どこまで話したっけ」
「大学に行かなくなったんですよね」
「ああ、そうそう。良いところだと思って適当に選んだこの大学も、そういう話する奴らばっかりで、結局行かなくなったんだ」
適当に選んだ。か。
「……なによ、それ」
やばい、流石に漏れた。バレたか?
「なんか言った?」
「なんでもないです」
よかった。バレてなかった。
「それで、家にいる時に、なぜか大学から連絡が来て、研究員の一員になって欲しいって。
おじいちゃんに聞いたら、『一年生でなれるのはなかなか難しい。良い経験だから行きなさい』って言われたから、行ったんだ」
先輩の声が、だんだん硬く、小さくなっていく。
そのタイミングを狙ったように、雨音が強くなった。
気が散った私は、咄嗟に窓のカーテンを閉める。
すると、先輩の顔が、物理的にも暗くなった。
マイナスな気持ちを助長してしまったかもしれない。
そう思うと、少し申し訳ない気持ちになった。
でも、だからといって、もう一度開けるほどのメンタルは私にはない。
そんな自分に気づいた瞬間、ものすごく恥ずかしくなった。
「それから、私は大学に籠って勉強をした。ここなら、おばあちゃんの声が聞こえないから、気が楽だったんだ。でも、そうしてるうちに、だんだん、家族の存在を忘れて――いつのまにか、研究が僕の全てになってた」
先輩の目が、ほんの少しだけ丸くなる。
その声がかすかに細くなったのを、私は聞き逃さなかった。
――自分が怖いんだ。
操作が効かず、無限に近い無意識。
想像するだけで、少し肩が震えた。
「そのせいで、そのせいで僕は――」
気づけば、私は彼女を抱きしめていた。
ただ、彼女の感情が、私の中に静かに染み込んでいくのを感じながら。
ちょっぴり臭い。でも、暖かい。
「落ち着いて、大丈夫、大丈夫です」
先輩はしゃくり上げながらも、さっきよりは少し落ち着いた口調で、続きを語り始めた。
「年末に、学校が閉まるから、どうしても研究室を出なきゃいけなくて、仕方なく家に帰ったんだけど――部屋が暗くて、おじいちゃん、家にいなかった。入院したって。ガンだって」
「……」
「おじいちゃん、僕にずっと、ずーっと隠してたんだよ。大学に行かせたのも、それが理由なんだなって思っちゃった」
「どういうことですか?」
「僕の没頭癖を見抜いて、勝手に死のうとしてたんだよ。僕を残して。僕に悟られないうちに」
「……」
「だから僕は、大学に行くのをやめた。ちゃんと看取るために。なのに、また……」
橙子先輩の熱い涙が、私の胸にじんわりと染み込んでいく。
私も、自分の感情に任せて、抱きしめる力を強めた。
そして――
おばあさんとの会話が、頭の中で再生され始めた。
『あ、そういえば、これ燈子ちゃんには内緒にしてて欲しいんだけどね……』
『はい、なんですか?』
『おじいちゃん。亡くなったの』
『え』
『私が倒れた時に、たまたまおじいちゃんの病院の人たちが来たって言ったでしょ? あれね、電話をくれてたみたいなの。
でも、それは……訃報を知らせるためだったみたい』
『そうだったんですか……』
『でもね、私はもうすぐ彼が死ぬって分かっていたの。本人が言っていたから。でもこんな急に……。もし、橙子ちゃんがそれを知ったら……あの子も、どこかへ行ってしまうような気がして、怖くて』
『……』
『いつか言わなきゃと思っていたんだけどね。あの子、おじいちゃん大好きだったから。でも今言ったら、またお勉強をやめちゃう。もう少し、彼女が大人になったらにしてあげたいの。あの子のためにも、言わないであげて』
『……分かりました』
まさか。
私の脳裏に蘇った真実が、彼女に伝わらないように。
無意識のうちに、両腕を離していた。
橙子先輩が、一番起きてほしくなかったことが、私のせいで。
今――。
「ねえ」
「は、はい」
回想している間に、先輩の声に驚かされ、私は背筋を伸ばした。
「おじいちゃんは、僕のために……他に生きる理由を与えるために、大学に行かせてくれたのかな」
「はい、そうだと……思います」
「おじいちゃん、今何してるかな……」
どうしよう。
「……会いたいな」
初めて聞いた、柔らかい燈子先輩の声。
それがあまりにも優しくて、私は「亡くなった」ことを伝えなければと、思い始めた。
どこかで、彼女を裏切っているような気がしたから。
おばあさんの気持ちも分かる。でも、やっぱりどこかでお別れをさせてあげないといけない。
でも、いつ?
おばあさんは三年後とかを想像しているのだろう。
だけど、そんなの私が耐えられない。
私は、息を殺すように、細く息を吐いた。
バレないように。
その瞬間――。
「そういえばさ」
「はいっ!」
「僕、琴葉に怒ったあと、我に帰ってね。おばあちゃんのこと、心配してたの。
それで思い出したんだけど、おばあちゃん、なんで病院に行けたの?貧血で倒れたんだよね?」
試練が始まった。思っている以上に早かった。
息が詰まるのを、ダイレクトに感じる。
「えーっと、通報してくれたみたいですね、近隣の方が」
「あそこ、誰も来ないよ?」
「いや、おばあさん今日は会わないなって思って庭を見たら、倒れてたって……言ってましたよ」
「そっか、隣のおばちゃんかな」
咄嗟に、嘘をついてしまった。私は逃げたんだ。
緊張でカチカチになった顔をほぐすように揉み、鼻からため息をつく。
「お見舞い行かなきゃ。なんて病院?」
「丸巣の総合病院です」
「え。おじいちゃんのいるところじゃん」
あ、そっか。そうだよね。
まずい、口を、滑らせた。
燈子先輩の目が、どんどん輝いていく。
相対的に私は、顔が本当に青くなったんじゃないかと思うくらい、頭から血の気がスゥーっと消えていく。
無数の髪の毛から、熱が蒸発するように。
ダメだ、頭が、働かない。
「えっと、あ、そうなんですか? 知らなかったです〜」
「え、じゃあ、おじいちゃんにも……会える?」
「あ、う」
「えー何持ってこうかな〜こういう時ってやっぱりお花だよね」
鼻をすすりながら、林檎が実るように顔色を取り戻していく先輩。
私は、これを自ら壊そうなどと到底思えなかった。
――自然に任せよう。
先輩になんで言わなかったのと言われても、しょうがない。私のせいだ。
罪悪感が、私の肺を潰そうとする。
燈子先輩。ごめんなさい。
私はあなた以上に、人間なようです。
どうしても、人間なようです。
時は満ちた。
そんな言葉が浮かんでしまうほど、私はすでに、未来を知っていた。
どうしようもなく、最悪の結末が待っていることを。
それなのに、隣にいる彼女は、桃色のスイートピーのような、綺麗なグラデーションをしたワンピースを着ながら、無邪気に花束を抱えている。
今日は特別な日だからと、奮発したらしい。
私は気分がどうしても、黒い服しか選ばなかった。
窓の向こうを流れる景色は、妙に早かった。
もう少しだけ遅く。
もう少しだけ遅く。
タクシーに乗りながら、愚かなことをずっと祈っていた。
だが、時間は止まらない。
いつもそうだ。
世界は、私の嫌がる方向にばかり走っていく。
今だけ、死んでしまいたい。
いや、生きたい。嘘でもそう思わないと、魂がこぼれ落ちそうだった。
「生きなきゃ……」
私は、私にも聞こえないように、喉の奥で精神のバランスを取った。
それに対して、彼女の両足は交互にゆらゆらと揺れている。
つま先からつむじまで、楽しみの気持ちが充満しているのがわかる。
でも、その花も、笑顔も、じきに枯れる。
SFで「未来が見えることは悲しいことだ」と読んだことがある。きっと、こういうことなのだろう。
先に知ってしまった「未来」に、何もできない無力さ。
赤信号が、タイミングよく青に変わった。
そして、おじいさんのいない総合病院は、私の予想よりもずっと速く、到着した。
「はいはい、お疲れ様」
メガネの運転手は、人の良さそうな笑顔で、燈子先輩に釣り銭を渡していた。
こんな時じゃなかったら、私も同じように笑えたのかもしれない。
でも、今は違う。
今日は、笑うべき日じゃないのに。
降り際、私は無意識に運転手を睨んでしまっていた。
病院に入ると、中はやけに静かだった。
LEDの白い光が、妙に冷たい。
暖色に光っているように見えるのは、橙子先輩だけだった。
ただ一人、明るく、元気そうに。
「山本健朗さんはいらっしゃいますか?」
受付のテーブルから、鼻先ほどしか出ていない燈子先輩。
彼女は、大きく広がった花束を持ち上げ、幸せを祝うように、生き生きとした花たちを受付のお姉さんに見せていた。
「あの、えっと……山本健朗様は……」
ナースの瞳に浮かんだのは、困惑と、告げなければならない悲しさ。
それを隠すように、彼女は燈子先輩ではなく、私を見た。
私は、終わった。
現実逃避するように、強く目を瞑る。
あの未来が、来る。
「あ、おばあちゃん!」
足音につられて目を開けると、先輩が走っていく姿が見えた。
先にいたのは、前よりも顔色が良くなったおばあさん。
家にいたときと同じくらい、元気そうだった。
「あらー! 綺麗な花束じゃない。あれ、とーこちゃん、大学は?」
「それよりも大事な人に会いにきたんだよ。」
さらっと言ったキザなセリフは、目の前のおばあさんに、そして――。
ここにはもういない、おじいさんにも。
彼女の本心だとわかると同時に。
タクシーの中で見た、燈子先輩の幸せそうな笑顔が、何度も何度も私を殴りつけ、アザだらけになった負い目に、さらに銃弾を撃ち込まれたような、精神的な追い討ちを喰らった。
私は胸を掴み、できるだけ呼吸を整えることだけに集中する。
おばあさんは、言葉が自分に向けられたのだと思ったのか、シワのある肌をもっとシワシワにして、にこやかに笑った。
だが、私と目が合った瞬間。
ハッとした表情のまま、すぐに燈子先輩の方へ視線を戻した。
私の握りつぶされたような苦しい表情を見て、すべてを悟ったのだろう。
燈子先輩が見ていないことをいいことに、私はおばあさんへ向かって、深く、頭を下げた。
「ねぇ、おじいちゃんは?」
私の心臓が跳ねる。
今度こそ。
今度こそだ。
「あ、あのね、とーこちゃん……」
先に謝るように、震えた声が落ちる。
「おじいちゃんね……もう、ここにはいないのよ」
「え?」
燈子先輩の笑顔が、ピタリと止まる音がした。
「……病院、移ったの?」
まるで、自分に言い聞かせるように。
まるで、その答えを聞かなかったことにするように。
ああ。
ああ。
「おじいちゃんね、運ばれちゃった、天使に」
その音だけを残して。
時間は、ゆっくりと止まった。
病院の、通常運行の静けさが、周りの空気を固める。
私の熱い汗と、冷たい涙を、同時に、鮮明に感じさせた。
「は、ハハ、あぁ」
燈子先輩の開いた口が塞がらない。
何も言えなくなってしまったのだろう。
色のない小さな声が、私の計り知れない申し訳なさが作ったスピーカーから聞こえてくる。
私には、耳を塞ぎたくなるくらい、うるさかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。
「今日、変だったんだよ。琴葉」
息が詰まるような、静けさの中。
「ずっと変だった。バカみたい」
言葉のひとつひとつが、胸を締めつける。
「内緒にしてたんだね、今のままで。……僕のためになるとでも思ってたの?」
「……思って、ません」
私の、罪悪感の塊のような声を聞いた先輩は、荒ぶる呼吸と同時に肩を震わせながら、大きな花束を持ち上げ――
「ああ、もう! あああ!」
大きく振りかぶった。
――花びらが、一枚、散った。
先輩はピタッと止まる。
そして、静かに、おじいさんのための花束を優しく抱きしめた。
「おじいちゃん、今どこにいるの」
かすれるようなその声に、私は察した。
本当に彼女は、ギリギリで今を生きている。
「お家で安置してもらってる。ごめんね、本当にごめんなさい。私、またとーこちゃんがお勉強できなくなるって、そう思っちゃって……」
「ふっ、ありがとう。でも勉強なんて、おじいちゃんと関わる口実でしかなかったんだよ」
燈子先輩の冷たい声。
それは先輩らしいような、らしからぬような――。
彼女の本質のようで、どこか違う気がした。
そんな違和感を抱えたまま、私たちは三人でタクシーに乗り込む。
正真正銘のお通夜ムードが、車内に充満した。
普段なら、落ち着くはずの花の甘い香りが、今は、ただイラつくだけだった。
その空気が苦しくなったのか、先輩は窓を開ける。
形は違えど、何一つ個性のない曇り空を眺めながら。
私は膝を揃え、卒業式のように手を置き、自分の罪に静かに苛まれていた。
あんなところで死んだと言ったって、しょうがなかった。
そんなことは、分かっていた。
じゃあ、どこだったら良かったんだ。
どんなタイミングで、どんな言葉を選べば、彼女は最低限の苦しみで済んだんだ。
答えのない、自問自答。
いや、これはもう、先輩が私を責める代わりに、自分自身を責めるような、終わりのない詰問だった。
燈子先輩の家は、暗い天気のせいか、いつもより古臭く見えた。
雑草は枝垂桜のようにしなり、どんよりとした空気を漂わせている。
玄関扉をおばあさんが開けようとするが――。
ガッ。
一度引っかかり、鉄の扉のように重く開いた。
靴を脱ぐために玄関に座ると、一気に体が重くなる。
隣にあった先輩の靴は、しっかりと揃っていた。
私も靴を揃えて、ゆっくりと振り返る。
ギシギシと鳴る廊下を、一歩、一歩、踏みしめて歩く。
楽しい音は、どこにもない。
こんな時間稼ぎ、誰のためにもならないのに。
廊下から見えるお茶の間の菓子盆は、空っぽだった。
それが、まるで私自身を表しているように感じた。
そして、やけに段差の高い階段を登る。
私は、初めて二階に足を踏み入れた。
すると、すぐ正面の壁に、あらゆる記録が並んでいるのが見えた。
緑からだんだんと枯れていく葉っぱたち。
時系列のわかるスケルトンリーフ。
そして、おじいさんが捕まえたのであろう、虫のつがいたちがずらり。
まるで小さな博物館のような、自然が刻まれた壁だった。
左に曲がり、正面の扉を開ける。
そこには、図鑑や、英語で書かれた分厚い本がずらりと本棚に並んでいた。
本棚に入りきらないものは床に積まれ、机の下には、おそらく論文であろう資料の束が、ダンボールからはみ出していた。
そして――。
部屋の右端に、おじいさんは眠っていた。
全うしたような、穏やかな顔をして。
掛け布団がかけられ、顔色がよく見えるように、少し化粧が施されている。
おばあさんは、後ろで手を合わせた。
私も、一緒に合掌をし、目を瞑る。
ゆっくりとおじいさんに近づく、燈子先輩の足音だけが、静かな部屋に響いた。
――ドサッ。
花束が置かれる音がした。
先輩も、弔うのだな。
そう思って目を開けた瞬間――。
燈子先輩は、おじいさんの顔に花束を被せていた。
「ちょっ、何やってるんですか!」
「こんなの、おじいちゃんじゃない。僕は、あの知識人のおじいちゃんが好きだったんだ。こんなの、ただの腐ったタンパク質だよ!」
「ひどい……! おじいちゃんに会いたかったんじゃないんですか!」
「どこにいるんだよ! え?!もう、どこにも、居ないんだよ!!あー! もう! あああ!!」
先輩は感情のままに、本を蹴散らしながら、部屋を飛び出していった。
「燈子……!」
そう言っておばあさんは、その場に泣き崩れた。
「ごめんね、ごめんね……」と、先輩に向かって何度も謝っていた。
バランスが、崩れようとしている。
私が、なんとかしなきゃ。
でも、冷静に。慎重に。
まず、意識的に呼吸を整えた。
この暗く濁った空気に、呑まれないために。
そして、今日こそ、先輩との間にあった厚い壁を破らなければならない。
私が、一時的にでも、彼女の添え木になってあげなければ。
あえてゆっくり部屋を出て、階段を一つ一つ、橙子先輩に近づいていることを悟ってもらいながら降りていく。
あとはかけてあげる言葉を考えなければ。これはそれまでの時間稼ぎでもあった。
それにしても、彼女はなぜ、あんなに散歩を繰り返していたのだろう。同じ理学部のはずなのに。
自然について教えていたおじいさんのことを、忘れたくなかったのだろうか。
――おじいさんを忘れる以前に、病院に通えば会えたはず。
バイトをしているのはなぜだ。ここ二週間で、大きな買い物をしているのを見ていない。
かといって、生活に困窮しているようにも感じない。
おじいさんの手術代を稼いでいた?そんなバカな。
彼女の両親は、どこにいる?
なぜ、先輩は「生きる」と叫んでいたのだろう。その心の叫びは、何のために――。
走って彼女を探す覚悟を決め、玄関の扉を開けた――が。
先輩は、雑草に埋もれるように倒れていた。まるで、地球の一部になるように。
「いた」
「先輩、先輩は、おじいさんに憧れていたんですよね」
「僕の全てだった」
声に力がない。まるで、抜け殻だ。
「ですよね」
「何が分かるんだよ」
「何にも分からないです。だから、分かってあげたいんです」
「……分かったら、なんなんだ」
「そうしたら、もうちょっと先輩と仲良くなれるかなーって」
緊張を隠すように、後ろで両手を握る。できるだけ優しい目で、先輩を見つめた。
すると、少し顔を上げた燈子先輩が、色のなくなった眼球で私を見つめ――そして、元の体勢に戻る。
目があった一瞬、先輩の頬には土がついていた。
「仲良くなって、どうするんだ」
「また、喫茶店に行きましょ。お散歩とかも」
「お前、嫌がってただろ」
「最初は嫌でしたけど。今は楽しいですよ」
「……そう」
これ以上、引き延ばしたってしょうがない。
よし。
「この際、先輩に聞きたいことがあって」
見切り発車の言葉が、間を生む。
大丈夫、私。
爪先立ちで足の裏を伸ばし、緊張を絞り出そうとする。だが、すぐに新しい緊張が、身体の中を駆け回る。
穏やかに。穏やかに。
私は、燈子先輩を――本物の燈子先輩を、蘇らせたいんだ。
「何で、病院に行ってあげなかったんですか?」
そう言って、私はかかとを落とした。
しかし、先輩は黙っていた。
「おじいさんに会えたはずです。わざとですよね、会いに行かなかったの。昏睡状態とかだったですか?」
「……」
「今聞くのは失礼ってことは分かっています。別に何日か時間を置いてからでも良かった。ごめんなさい」
少し頭を下げて、両手を握り直す。圧をかけないようにそのまま下を向き、目を合わせないようにする。
「でも、先輩の元気の無い姿を見せられると、私、明日から大学行けないです」
そう言いながら、私は顔を上げて、静かに寂しそうに笑おうとした。上手くできてるかな。
橙子先輩がまた私を見ている。さっきと表情が変わらない。
「……知らないよそんなこと」
「そう、ですよね」
「僕には僕の人生があって、琴葉には琴葉の人生がある……。でしょ?」
「そうで……」
何だろう。なぜか、心がざわついた。
彼女の、芯の言葉を聞いたような気がした。しかし先輩の声は、どこか無理をしているように聞こえた。
でも、その表情は変わらない。
まるで、自分の気持ちに蓋をするみたいに。
自己啓発本にあるようなありきたりな言葉なのに、ものすごい説得力と、寂しさを感じた。
そうやって私を突き放して、一人にして欲しいのはよく分かる。
でも、一人……。
ふう、と私は大きく息を吐き、一か八かの、勝負に出ることにした。
「自分が、自分が一人で生きれるか、試していたんですか?」
「……」
「本当は、すごく会いたかったんじゃないですか」
私は問いかけるように、静かに言った。
「でも、必死に我慢して、自然を見て、自分の想いを解消しようとして。たまにバイトもして、自立を覚えようとして……」
今、確かに、彼女の目が揺れた。
「おじいさんに、一人で生きられる姿を、見せてあげたかったんじゃないんですか」
「あ、あああ」
先輩の小さな潤んだ声が、私の耳に、確実に届いた。
「私は、先輩すごく大人だと思いますよ。自分の考えがあって、子供にも優しくて、働く姿はとてもかっこいい。たまにいろんな人に迷惑をかけてしまいますが、それはみんなそうです。先輩はもう、立派な、大人の女性です」
「……これでもか」
「え?」
「これでもかよおおお」
そう言うと、先輩はいきなり立ち上がり、私に向かって抱きついてきた。
「ああああん……! おじいちゃん……死んじゃったよおお!」
先輩の声が途切れる。喉が詰まったみたいに、言葉が出なくなる。
そのまま、私の胸に顔を埋めて、子どものように泣きじゃくった。
私は子供のように小さい先輩の体を支えながら、おじいさんが与えた、知識の詰まった頭を優しく撫でた。
「おじいさん、先輩に興味をいっぱい持ってもらって、嬉しかったと思いますよ」
「うああああああん」
近隣の迷惑など気にせずに、私は彼女を慰め続けた。
先輩の汚い体液も、右半身についた泥も、今は愛として、おじいさんの代わりに受け入れた。
道を歩いていた小さな男の子が、先輩の家の前で立ち止まり、彼女が泣いている姿を、ぼーっと見つめていた。
でも私は全く恥ずかしくなかった。
必死に生きている彼女を、誰がバカにできるんだろう。
私は先輩の頭を撫で続けながら、男の子に向かって、ニコッと、笑ってやった。
目が合った瞬間、男の子は走ってその場を去っていった。ちょっと怖かったかしら。
「ごめんね、ごめんね、迷惑だよね」
「迷惑は掛け合うものだって、言ったじゃないですか」
「ありがとう、ありがとう」
先輩が泣き止むと、外はやけに静かになった。
風の鳴る音が微かに聞こえるだけで。
「なんで、生きるって叫んでたんですか?」
すると、先輩は私の服を、強く掴んだ。
「……五歳のときに、両親は僕を手放した。普通の子じゃないって。そんな愛のない理由で。僕も両親が嫌いだった。制限をかけ続けるから。今考えると、それが普通の家庭っぽいんだけどね。それで、僕はおじいちゃんのところに引き渡されたの」
開放的な親なら、もっと彼女は自由奔放で、いろんなことに挑戦していたかもしれない。
でも、私たちみたいな人が、先輩を殺してしまったのだろう。
「僕のことを気にかけて、僕には内緒で、最後まで元気な姿を見せてくれてたらしいんだ。でも、ガンにかかってたおじいちゃんは、入院する頃にはもう、末期だったんだよ。手術はしないって言ってたけど、本当は手術の施しようがないって、自分で分かってたんだろうね。入院してから、僕は一人になった実感が、急に胸を締めつけるようになった。張り裂けそうな孤独に襲われるたびに、僕は思わず叫んだんだ」
「生きる。って?」
「うん。半分、僕を置いて死のうとしたおじいちゃんに怒ってた。でも、もう半分は、死にそうな僕に怒ってたの」
「……」
「おじいちゃんのいない世界に生きる意味が見出せない。だからすごく死にたくなった。でも、そんなのダメだって、子供の考えだって、頭でわかってた。だから、死にそうになったら。毎回死にたくなるのを阻止してた」
「そうだったんですね」
「おじいちゃんがいる間に、一人で生きられるようになって、大人にならなきゃって考えてた。でも、考えるたびに一人なのが寂しくて」
「死にたくなるんですね?」
「なる」
「これからは一緒に、生きるんだって、叫んじゃいます?」
「いや、言わないほうがいいし、もう言わなくていい」
「なんで?」
「今は、琴葉がいてくれるから」
先輩は顔を上げた。鼻水は垂れ、目元は真っ赤で、泣き腫らしていた。
でも、その表情は、誰よりも晴れやかだった。
私はそっと、彼女の頭を撫でる。
「ふふ、先輩、汚いです」
「うるっさいなあ」
外はまだ曇り空だった。でも、そのうち晴れる。
生きると叫ばなくても。
大学は、私たちのことを知らずに、何食わぬ顔で開講していた。
先輩はあれからこの大学には来ていない。
まあ、ここの景色としては、それが普通である。
それでも、教室は埋まり、講義は淡々と進んでいく。
変わらない景色の中に、変わってしまった自分だけが取り残されている気がした。
単位を取るためだけの時間が終わり、私はもしかしてと、ほんのわずかの期待を持って研究室を訪れた。
なんて、思ったことがその通りになるはずもなく、
「あぁ!ねー、琴葉ちゃーん? 山本さんまた来てくれなくなったんだけどー。何やってるのよー。探してきてくれてるー?」
と、空気の読めないロリコンがお待ちかねしていた。
「下の名前で呼ばないでください。キモいです」
ため息を、桑原に直接吹きかけると、先生のメガネが曇った。
奥ではどんなやらしい目をしているのやら。
「そんなことより。これ、見てください」
研究室の机に、分厚いファイルをドンと置く。
「あっ‼︎」
桑原先生がオーバーに肩を跳ね上げ、その衝撃でメガネが少し落ちた。
「無くなってると思ったら! 何勝手に盗んでるんだよぉ! っていうか、この前の琴葉が提出した課題、なんか似てるなと思ったんだよねー」
「そんなのどうでもいいです」
「いや、割と良くないよ? パクリだよパクリ」
「それはごめんなさい。じゃなくて、参考文献のところ」
燈子の厚い資料をめくり、最後のページを指差す。
「これ、最後のページにずらーっと、Kennrou Yamamotoって」
桑原先生は、一瞬だけ顔を引きつらせた。
でも、すぐに苦笑いを作る。
「そ、それがどうしたの?」
しらばっくれたような声と、下手くそな口笛。
――やっぱりか。
私は、失望するように頭をガクッとさせた。
「燈子が天才なのは事実です。それで研究を手伝わせたかったのも本当でしょう。でも、本当の本当の狙いは、先輩のおじいさんの論文だったんじゃないんですか?」
「……」
「調べてみれば、先輩のおじいさん、有名な大学の名誉教授らしいじゃないですか」
「……」
「そして橙子の課題に書いてあった参考文献には、検索かけても出てこない論文がたくさんあった。未発表のデータです。彼女は知らなかったんでしょうね」
桑原はメガネを指で掛け直し、なぜかカーテンを開け、窓を全開にして、外を見始めた。
「僕も、あの子と同じ、学習の虫だったのさ」
「違いますよね」
「違くないよぉ!」
「その論文をいつしか盗んで、自分の名前で掲載しようとしてたんでしょう!」
「僕、そんなに悪い奴に見えるぅ?!」
「安心してください半分冗談です」
「一パーセントでもあったら嫌なんだけど」
「とにかく、もう橙子はきませんよ」
「なんだよもーあいつ友達ほしかっただけじゃーん」
「そういえば前から不思議だったんですけど、なんで私が選ばれたんです?」
「ああ、大学に来なくなった時、僕、彼女に電話したんだ」
『ねえーなんで大学来ないんだよーもう冬休み終わったよー』
『やだ』
『お願い!』
『絶対やだ!』
『 研究続けらんないよ! どうか! この通り!』
『じゃあ、お前は嫌だから、代わりにさ、他の生徒を説得用に連れてきてよ。その人の意見に納得がいったら、行ってあげる』
『えー、説得できるかなあ』
『おじいちゃんがね、入院する前に言ってたの』
「孤独を愛するな。人は連なり生きてきたのだから。だってさ」
四角い小さな世界から、大きな風が吹き荒れた。
先生の白衣がなびき、私の髪は一気に後ろ側に持ってかれた。
「それで君は八人目」
「えぇ?!」
「頭の良い子とか、優しい子とか、イケメンとか、いろいろ送ってみたんだけど、ダメだったんだよねー」
「もしかしてですけど、その人たち、男ですか?」
「そうだけど。周りにそういう奴しかいなかったからさー」
「だから先輩、大人を満喫したい子供の集まりとか性の巣窟とか」
「せっ、性の?!」
「キモイですやめてください」
「それはもう理不尽じゃない……」
私の意地悪に、桑原先生は落胆し、頭をガクッと落とした。
そして、顔を上げ、静かに笑いながら、ぽつりと呟いた。
「なれた? お友達」
珍しく、真剣な声だった。
「……はい」
一瞬だけ、言葉を飲み込んでから答える。
「少なくとも、私はそう思っています」
「良かった。ていうか今日ちゃんと連れてきてね? 僕だってなりたいの、名誉教授」
「それは無理ですね」
私は、背を向けた。
「なんでよ」
「今日、彼女と遊ぶんで」
そしてくるりと振り返り、先生に向かってピースをしてやり、
「スポッチャでオールですって」
桑原が、「はあ?」という顔をしたのを横目に、私は笑顔で、研究室を飛び出した。
生きると叫ぶ。 小南葡萄 @kominamibudou
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