自販機の上の少女

小南葡萄

自販機

 彼女は自販機の上に立っていた。

 ひまわり柄のワンピースが、風ではためいている。手を腰に当て、自信に満ちた顔は、太陽を照明にてらてらと輝いていた。

 朝、ほぼ全員が醸し出す出勤前のどんよりとした空気のプラットホームに現れてしまった異様な光景は、首を曲げてスマホを見つめていた労働者の顔を上げさせていた。

 「先輩、そんなことしてないで大学行きましょうよ」

 「やだ!あんなところ、大人を満喫したい子供の集まりじゃないか!」

 「何言ってるんですか、降りてください」

 「やーだ!」

 こんな事態に私が見舞われたのは、実は初めてじゃない。滑り台に立って子供たちの渋滞を作ったり、大学の屋上に不法侵入したり、座っているハチ公に跨ろうとして頭から落っこちたこともある。こんな痴態を晒しながらも、同じ大学の先輩である山本燈子(やまもととうこ)は今日も大学に行かず、高いところに立っていた。そして彼女は大きく息を吸い、決まってこうを叫んでいた。

 「僕はああ!生きるんだああ!」

 その後は、いつも帽子を被った偉い人に連れ去られるまで、ただただ叫び続ける。先輩にとっての心の叫びを、皆にも伝えたいのだろうか。彼女は、申請をしていない一人デモを、アナウンスに負けじと響かせていた。

 数分後、今日も駅員に持ち上げられ、魚のように暴れながら彼女はホームを去っていった。私は渋々、毎回これに着いていくのだ。

 切符売り場の隣にある鉄っぽい扉に運び込まれ、その後すぐに背中から聞こえた駅員の怒鳴り声は、関係ない私でも少しビビるくらいの声量だった。もっと怖いのは、それに対抗してキンキンしたデカい声を張る燈子先輩だ。お互いの怒号は私がスマホのパズルゲームを一回クリアしても鳴り止まなかった。

 やっと、扉が開かれ、タコのように口を尖らせて頬を膨らましている小さい先輩が、膝を上げ、床を強く踏んで帰ってきた。

 「何分経った?」

 「三〇分くらいですかね」

 「まったく、時間の無駄だ」

 無駄にしているのはあなたなのですよ。と駅員に続き私も怒りたくなるが、瞳孔を私から離してみせるどこか寂しい表情に、私は困り眉を見せるしかなかった。

 大概、近くのサイゼかなんかに行って、スイーツを食べさせれば、彼女は機嫌を取り戻す。アイスを口に咥えた時にオン眉で見える絞ってるような眉毛の喜びと、まるで音符を出すように横に揺れる小さい肩、そして反対側に揺れる茶色いボブカットを見て、私は少し安堵を取り戻すことができる。

 「なあなあ、見ろ琴葉、あそこにでっかい貝に乗った女の裸体があるだろう?裸の絵が多いのは、金持ちがみんなそれをコレクションしたがるからなんだ。今でいうエロ漫画だな」

 と横目で絵を見ながら、注文した二個目のアイスをドリンクバーのメロンソーダに入れていた。水位が上がって、アイスをスプーンで奥に押すごとに、ぽちゃぽちゃとテーブルに緑色の水玉を作っていた。

 「やめてください、まだ昼間ですよ」

 「ヴィーナスの誕生が描かれたのは十五世紀頃とされているから、もっと女神的な、神秘的な絵として描かれているはずだけど、食いついているマセガキが見える限り、そうとは限らない気がするよね」

 と言いながら、自分で作ったアイスフロートにストローを刺してまたこぼしていく。先輩いわく、アイスを通過した先にあるメロンソーダは何にも変え難いらしい。私は育児をしている気持ちで、地面に張り付いたメロンソーダを紙ナプキンで拭いた。

 「ありがと。さすが私の後輩。そういえば、単位は大丈夫なのか?」

 「私は特別に、出席しないといけないのを課題提出で許してもらってるんです。先輩のせいですからね」

 「そうか、なんだか悪いな」

 「悪いと思うなら大学来てくださいよ」

 「やだねあんな性の巣窟。たまったもんじゃない」

 どうして先輩は大学に対してこんな偏見をつらつらと言えるのだろう。何か被害に遭っているのなら口出せないし、ただの行かず嫌いなら相当腹がたつ。

 「んで、今日はどこにいくんですか?」

 「昭島駅は今日はもう使えないな……。一駅歩こう。拝島まで」

 「そっちですかあ?立川から都会行きましょうよ。なんでわざわざ田舎のほうに」

 「いつも言ってるだろ。都会に行けば行くほど魂が無くなっていく気がして嫌なんだよ。あと臭いし」

 「そのアイスだって、都心の人たちが頑張って先輩が買える値段まで抑えて、先輩の肥えた舌を唸らす上質な味を提供できてるんですからね。感謝してください」

 「少しは僕の肩を持ったって良いじゃないか……」

 そう言ってまた目を横にずらし、メロンソーダにぶくぶくと気泡を作っていた。これで大人っぽい女性なら、下品だと一喝できるのだが、小学六年生と同じくらいの身長をした先輩に向かって怒るのも、なんだか大人気ない気がして言えなくなってしまう。あと反抗的な態度は、先輩が言ってた通り時間の無駄だと私も思う。


 店を出ると、強い日差しがお出迎えしてきた。今年は例年よりも暑いらしい。とニュースでは言っているが、大学内では「まだ暑い」という言葉が乱用されていて、今ではもう「元気?」レベルの会話になってきている。

 しかし燈子先輩は夏が好きらしく、麦わら帽子をかぶって、私が選んだ厚底の靴を履いて、フェンス越しに川が見える車道より少し段差を上げた木陰の道を歩いていた。

「かっこいい枝を見つけた!」

 そう言って木の棒を振り回している姿は、いよいよ小学生に見えてしまう。そんな無邪気な姿を、彼女の麦わら帽子のてっぺんを見ながら、私は後ろで見守っていた。

 赤信号を手を挙げて渡り、空き缶を見つけては、でかい透明なビニール袋を広げて回収していく。この程度の奇行では、私はもう何も言わない。

 そしてデカい袋に七、八缶だけ入れたものを、橋の下にいたホームレスに渡し、しばらく全身グレーに染まったおじいさんと、深く何かを熱弁していた。私はその間、柱に寄りかかり、スマホのゲーム画面を開いて、半永久的に続けられるパズルをこなしていた。

 二人の声が聞こえなくなってしまうほど集中してしまい、クリアをする瞬間に、燈子先輩から私はタックルをくらってしまった。ちょうど骨盤の上に肘が入り、私は食い込んだ痛みに手を添えた。

 「痛っいなあもお。なんの話してたんですか?」

 「そろそろこの街を離れるらしい。だからお別れをな」

 「そうですか」

 あのホームレスとは知り合いだったのか。彼女のストーカーを初めて2週間はたつが、いまだに知らない情報が出てくる。

 「水が飲みたい」

 彼女はそう唐突に呟くと、次は

 「水が!飲みたーい!」

 と大きな声でエンジンがかかり、急に歩道へと走って行った。私は持っていたトートバッグを肩に掛け直し、必死に先輩についていく。自販機の前で急停止して、そびえ立つ機械の私にとっては目線の真ん中、彼女にとっては首が折れそうになるくらい高い位置にある水のボタンを、指さしていた。

 「喉が乾いた」

 「買ってあげましょうか」

 「自分で買うから自分で押す。さぁ、僕を持ち上げなさい」

 「嫌です」

 「持ち上げなさい!」

 そう言いながら身体全体で十字を作る。人型のCGのような形を保つ先輩の背後で何度も「嫌です」「持ち上げなさい」を繰り返した。

 「なんでだよ!なんでなんでなんで!」

 「また登ろうとするからでしょう!」

 「ぎ」

 とイの口で目を細めた。ダラーンと効果音が出そうなその顔に向かって、

 「さっきの駅でも同じことしたじゃないですか!私も加害者みたいな顔を周りの人にされて、すっごく恥ずかしかったんですから!」

「ヤダヤダヤダヤダ!」

 お次は、地面に寝っ転がって両手両足をぶん回し、駄々をこね始めた。麦わら帽子も見兼ねたのかパサりと外れて、墜落したUFOのようになってしまった。

「もう!ほんっと子供みたい!何歳なんですか!」

「二十一歳!」

 と言いながら、拳を合わせる。私は先輩が死にかけのセミになっている間に、自販機から水を買って自分で飲み始めた。疲れて大の字になっている先輩を見ながら飲む天然水は格別だった。その後に来た罪悪感が、先輩を立たせるお手伝いをして、彼女にペットボトルを渡した。

「もっと早く渡せ」

「今度アイス奢ってくださいね」

 等価交換を求める私を無視して、水を飲みながら先輩は先に行ってしまった。忘れていった麦わら帽子は、私が代わりに被ることにした。

 二駅、三駅と歩いても、日は一向に落ちようとしない。時間の長さと、私がいかにそれを今まで無駄にしてきているのかがよくわかる。けれどしょうがない。休日というのは、スマホを見ながらぐうたらして一日の自分に後悔するループものなのだ。

 燈子先輩は、お城のような公園を見つけると、走って中へと潜入しに行った。私はそこら辺にポツンとあるベンチと一体化し、ぽつねんの一味になった。ふうと一息つき、細い丸太が連なる壁に三原色が盛り込まれたかなり大きなお城を眺める。先輩は、ひょこっと顔を出し、目が合うと手を振ってくる。よっぽど高いところが大好きなのだろう。と少し母性のような関心が私の胸を温めた。

 すると、ベビーカートに乗った六、七人くらいの子供たちと、先生と手を繋いでいる子が先輩がいる公園に近づいてきた。「こんにちは〜」と柔らかい声に会釈し、目線には数人の子どもたちと目があって、可愛いと思う反面、少し無垢な目に恥ずかしさを持ってしまい、それを口の中でもごもごとさせてしまう。カートが開くと、皆一斉に走り出し、お城の方へと向かっていった。

 少しすると、年をとっている先生と、自分の指をしゃぶっている気弱そうな男の子が来た。おばあちゃん先生は子どもの目線になって、もじもじしている子どもを遊びに促している様子が見える。きっと彼女も休みたいのだ。指をしゃぶりながら首を横に振る男の子の前に、少しだけ背の高いワンピースを着た女の子が近づいてきた。と思ったら相手はあの二十一才の燈子先輩だった。

 燈子先輩が見知らぬ男の子の、よだれのついた手を繋ぎ、そのままお城の中へと連れ込んでしまった。にこやかになったおばあちゃん先生が私とベンチを見つけ、そのまま隣に座り込んでしまった。

「良い子ねえ、お子さん?」

「ちっ違います!」

 と反射で声を漏らしてしまった。そんな焦り散らかしている私に向かって、

「こーとはー!」

 と城にかけられた橋の真ん中で、今では子ども同然のような先輩に手を振られてしまった。

「あーじゃあ姪っ子さんかしら。助かったわ。将来立派な子になるわね」

「あのーえっとー」

 私のそぞろとした声に、お婆様先生は首を傾げてしまった。もう、言うしかないか。

「先輩なんです、大学の」

「え?あらあ、えー。そうなのね……」

 と苦笑いをさせてしまった。私は小さく何度も「すいません、すいません」と顔を合わせずに頭を下げてしまっていた。

「こーとはー!」

 お願い!今はやめて!

「お姉ちゃん、ことはって、だあれ?」

「あそこで髪を垂らして恥ずかしそうにしている成人女性だ。みんな!あいつに追い打ちをかけるんだ!こーとはー!」

「ことはー!」

「ことーはー!」

 無数の子供に、ランダムに連呼される琴葉コールに私は耐えられず、大人が隣にいる前で膝をかがめ、顔を思いっきり隠しながら左手で小さく手を振った。その後止めるように手のひらを見せ合図したが、鳴り止むことはなく、

「ちょっとちょっと!お姉さん困ってるでしょ!」

 と先生たちによって制された。

 遅い遅い遅い!と大人たちに少し苛立ちさえ感じたが、よくよく考えれば子供達は何も悪いことをしていない。そんなことに、先生は注意するのを戸惑ってしまったのだろう。

「おい、起き上がり小法師みたいになっているぞ。ここを立ち去ろう。楽しくて一生いてしまう」

 という先輩の言葉に小刻みに頷き、先輩に手を引っ張られながら、破裂しそうな頬を麦わら帽子で隠して、お城を離れていった。その間も「ことはー!」「ことはー!バイバーイ!」と後ろから響き渡り、私も去り際に少しだけ手を振っていった。先輩の手は、やはりねっちょり濡れていた。

 駅に入り、私はホームの中でようやく正常を取り戻した。燈子先輩の様子を見ると、今朝の衝動性はなく、ぼーっとさっき買ったミルクオレを飲んでいた。ただ先輩の顔を見るとさっきの光景で熱が喉から上がってきて、思い出し笑いをしてしまった。周りにはバレぬように、とにかく手を押さえて、小さく小さく笑った。彼女はそれにつっかかることもなく、ただ電車を待っているようだった。

 電車に座っても、いつもみたいに膝立ちになって景色を眺めるでもなく、おとなしく座っていた。違和感を覚えた私は、

「どうしたんですか?そんなに静かになって」

と素直な質問をすると、

「いや、琴葉に悪いことしたなーって思って」

「え?今更ですか?どれですか?」

「どれって、さっきの琴葉コールしかないだろ」

 その言葉にまた私は思い出し笑いをしてしまう。なぜツボに入っているのだろう。少し興奮していた私には自分の状況がよく飲み込めていなかった。ただ電車内で漏れ出る笑い声を押さえ、涙を拭き

「良いんですよアレは。面白かったし」

「嫌がらせのつもりだったから」

「結果オーライです」

 と擁護しても、不満そうな顔は戻らないままで、見ていると、だんだん笑う気が失せ、私も静かに家に近づくのを待つことにした。


 私が大学に着いたときは、まず職員室に足を運ぶ。山本燈子の進捗について報告しなければならないからだ。だからと言って今週もこれといった成果はあげられなかったのでいつも通り、「行く気がないみたいですね」と私も生物学の桑原先生も聞き飽きた言葉を口にした。

「そーだよねーどーしたら来てくれるかなー」

「なんでそんなに、彼女に来て欲しいんですか?」

 単純な質問のつもりだった。単位をくれると言う理由でただなんとなく引き受けていた仕事だったが、別に彼女がいなくたってこの大学は回るし、痛くも痒くもないだろうと思った。その質問に白衣を着た先生はメガネをクイっと直して、両手を組み、肘を机に置いてエヴァのゲンドウのポーズを決め込んだ。

 あっこいつ、言葉詰まらしてるんだ。

 私が受けている彼の授業は、二限目からだということは分かっていたので、九十分。時間がある。根比べといこうじゃないか。

「あーもしかして、あの小さい体で先生は」

「そういうデタラメはやめてよお!」

「先生もやっぱり男の子だから」

「違う!違うから!」

 私は、先生の冗談やめてよと言わんばかりのふざけた表情をして、両手を重ねて上下に降っていた。私は当然、桑原に軽蔑した目を見せた。

「じゃあなんなんですか。あの子がなんでそんなに重要なんですか」

「はああ」

 と大きなため息をした後、デスクの引き出しから一番上のファイルに入った書類を取り出して、渡してきた。

「冗談でも広めるんじゃないぞ。僕はこの大学なんててんで興味が無い。ただ、研究する場所として使っているだけだ」

 それは山本燈子の、一年生の頃の提出課題だった。綺麗な字で書かれているが、どこをとっても、何を言っているのかさっぱりわからない。横文字のオンパレードだ。

「それ、お前にこの前出した課題と全くおんなじやつ。まるで論文だ。実力は多分僕レベル。つまり天才だよ」

 これが私と同じ課題?だとしたら内容も同じことをまとめているはずだ。一センチはあるであろう分厚い書類の最後には三ページに渡って参考文献が記されていた。舌の渇きで、自分がずっと口を開けていたのに気づいて、口を閉じると同時に、喉を鳴らした。

「えっこんな子が、なんで急に大学に行かなくなったんですか?」

「わかんないよ。大学はクソだとか二千人規模の合コンだとか言い始めて急に来なくなった。なんか一緒に見つけられると思ったんだけどなあ」

 そう言いながら、腕を後ろに組んで足も組み、椅子に思いっきり体重をかけて半回転していた。すぐに他の先生から「お行儀悪いですよ」と注意を受け、急いで元の体勢に戻った。

「とにかく僕は彼女に教えたいことが山ほどあるの。それで出世してこんな大学すぐに抜け出してやる」

 とぶつぶつ言っている先生を尻目に、大事そうな燈子先輩の成績をリュックに閉まってすぐに職員室から抜け出した。

 学校が終わると、私は自転車で、いつものように彼女を迎えに行く。個人経営しているらしい古びた和食屋に入ると、前掛けをしてハキハキした顔で料理を運んでいる先輩と目が合った。手を振ると、一瞬目があったが、少し曇らせた後すぐに目を逸らし、料理を客に運んでいた。

席につき、「すいませーん」と私は先輩に向かって声をかける。さっきまで元気ハツラツ!と言わんばかりの声と顔だったのに、私の前でだけめんどくさそうな顔をして、「ご注文は?」と気怠けな声を飛ばしてきた。

「お蕎麦ください」

「かけ?ざる?」

「ざるで」

「はいよ」

 と忙しい店主のようなスピードで、すぐに厨房に入ってしまった。カウンターを見ると、物腰柔らかい本物の店主が、一所懸命に働いており、その後ろでは、踏み台に乗っている燈子先輩が、テンポよくお皿を洗っていた。

「よぉ姉ちゃん!またお迎えかい?」

「そうですよー。なんか私にだけ冷たいんですよね」

「おおなんだ反抗期か。はっはっはっ」

 と料理を作りながら豪快に笑っていた。私も笑いながら、食品に唾が飛んでいるなあと思ったが、私の料理では無いからどうでも良かった。

「とーこちゃん!今日早めに上がっていいよ!定時で上がったことにしとくからさ」

「大丈夫です。その一瞬の快楽が長期的な怠慢を招くんですよ」

「いつも通りだな」

 と私に向かってお決まりのフレーズを言って、お互い高らかに笑った。

 燈子先輩が、気怠そうな顔のまま、私の料理を持って厨房から出てきた。

 「ざる、お待ちどうでーす」

 「ありがとうございまーす」

 伸ばす音を真似してニカっと笑うと、彼女は細い目を向けながら、厨房に入る前に、人差し指と中指で作ったVサインで自分の目を指した後に私の目の方を指すアメリカンなジェスチャーを見せてから、小さい体を厨房の中にもぐらせてしまった。

 割り箸を割り、宣材写真のようなざるそばをつゆにつけ、口に運ぶ。自分で作る蕎麦となんら変わりないはずだが、見える景色と和風テイストの綺麗な食器のおかげで、一段と美味しく感じられる。それでもやっぱり、ざるそば一杯七百円は、少し高いと感じてしまう。

 食べ終わった後、三十分ほど席でスマホを見ながら燈子先輩を待ち、時間になるとトートバックを持って白レースのワンピースに着替えていた先輩が、同じ表情で厨房から出てきた。

 「ほら行くぞ」

 「大学ですか?」

 「家に帰るの」

 そう言いながら、店を出ていった。

 「とーこちゃんのこと、よろしくね。頑張って」

 と言いながらボロボロの歯を見せる店主に向かって、手を振ってから先輩を追いかけた。

 先輩はヘルメットを被ると、子供用の自転車に跨り、シャカシャカと音を立てながら歩道を走り始めた。私も自分の自転車で追いかけるが、自転車の音が早いわりに車輪が小さく、私の一漕ぎですぐに追いついてしまうほどだった。きつい上り坂をお互い腰を上げながら登り、下り坂はブレーキをかけずにものすごいスピードで落ちていく。そのスピードを使って少し上り坂を登ったあと、また立ち漕ぎが続いた。そんな傾斜のある道路の周りは草木で覆われていて、昭和で時が止まったような焦茶の木造りの家が並んではいるが、その奥の景色は天を突き出す山々だった。先輩曰く、山のほとんどは人工で生やされた木で、自然はもう壊された後なのだと、帰りに熱弁されたことがある。

その並びの一つの家が、彼女の、おばあちゃんの家だった。四つしかない飛び石の周りは雑草が腕毛のように生えていて、私のふくらはぎをくすぐってくる。

家の前に自転車を停め、先輩がノックすると、ガラガラガラと玄関が開かれ、そこにはパーマをかけたしわくちゃのおばあちゃんが立っていた。

「よっ」

「あら、琴葉ちゃん。またいらしてくれたのね。さっ、上がって。お菓子あるから」

おばあちゃんは先輩の軽い挨拶を無視して、そのまま奥へと消えてしまった。先輩は厚底の靴をすぐに脱ぎ、玄関で靴下も一緒に脱いで、ドタドタと木の床を踏み締めて走っていった。私が靴を揃えて、「お邪魔しまーす」と中に入っていくと、掛け軸のある畳のリビングにはちゃぶ台が置かれていて、その上には菓子盆が真ん中を牛耳っていた。中には、チョコリエール、バームロール、ルマンド、エリーゼ。実にブルボンなラインナップだ。先輩はもう床に着いており、バームロールだけを食い荒らしていた。

 「こら、琴葉ちゃんも食べるの」

 と最後の一個を取ろうとする手が、しわしわな手に叩かれ、先輩はわざとらしく手をさすりながら、

「最後の一個食べても良いですか?」

と私にキラキラした目を見せつけてきた。私は正座をしながら

「どーぞ」と大人な対応を見せつけた。ちょっと私も食べたかったけど。

「やった」

「琴葉ちゃん優しすぎるわ。男に騙されないようにね」

「騙してくる男もいませんよ」

とおばあちゃんになんとなく冗談を言ったが、どうやら冗談には聞こえなかったらしい。少し寂しいような悲しいような顔をしてから「これから嫌になるほど寄ってくるわよ」となぜか励ましの言葉をもらった。

「どうだかね」

「こらっ、なんてこというの」

と茶々を入れた先輩に向かって、おばあちゃんは少しムッとした表情を見せた。

「先輩なんてこの前、保育園の先生に小学生に見られてましたからね。女性と思う人の方が少なそう」

とチョコリエールを開けながら仕返しをしてやった。先輩はただ「ふん」と言って席を立ち、麦茶とコップを人数分持ってきた。

「あ、ありがとうございます」

と口に含んだまま先輩に向かってお礼を言う。失礼な言葉は止まらないが、こういうところはしっかりしている。彼女の不思議でならないところの一つだ。

「そういえば、大学はどうなの?」

「行ってない」

「まだ行ってないの?立派な大人になれないわよ」

「行ってなれるなら行っとるわい」

と、先輩もモゴモゴと手で口を覆いながら喋っていた。たしかに、なれるなら誰でも言っているだろう。燈子先輩は、高卒社長か、インフルエンサーにでもなりたいのだろうか。そうやって皆の常識から離れていくのは、みにくいアヒルの子に自らなっていくような、不可解な現象のような気がして、私は少し怖いと思ってしまった。別に成功なんかしなくっていいとも思う。失敗ばかりの人生じゃなければ。この曖昧な考え方を、彼女は否定したいのだろうか。

「おばあちゃんの方は?体調は?」

「ぜんぜん元気よー、自分で立てるし、トイレだって行けるわ」

「この前行けなかったじゃん」

「すぐ近くにいたから頼ったのよ」

良い子なのだ。そういえば、あの黒かったアヒルも、心まで黒かったわけではない。どうにかすれば、私とスクールライフを送れるはず。そこには孤独もないし、みんなは優しいし、まあ燈子先輩の言うとおり鬱陶しい男はいるけれども、女はそういうクズに打ち勝つために集まるのだ。

セミの声が大きくなり始めた。まるで実家にいるみたい。おばあちゃんが私の祖母で、先輩がいとこか姪っ子。テレビにぼんやりと映る私たちの景色を見ると、昔の古き良き家族をみているようで、この家の実家感が加速している気がした。

「そういえば、燈子先輩はどんな子供だったんですか?」

「何急に」

「先輩は世間話もできなくなっちゃったんですか」

「学校を嫌がらない珍しい子だったのよ。毎朝ちゃんと起きて、宿題も自分でやってね、勝手に育っていったわ」

「そうだ、僕は勝手に育ったんだ」

先輩はやはり寂しい表情を見せていた。思い出してみれば、自分で遊んでいる時以外は、ずっと顔を曇らせていたのかもしれない。やっぱり何かあったんだ。大学の中のクソ男が、彼女を貶めたんだ。私は架空の相手に、少し憤りを感じてしまった。

「休みの日はおじいちゃんと薪割りをしたり、釣りをしたり、いろんなところに行ってたわね」

「うん」

「最近は行ってないの?」

「バイトが忙しい」

「そうね、いつもありがとうね」

もしかして、バイト代をおばあちゃんに生活費として分けているのだろうか。二人の生活は年金で賄えるだろう。いくらなんでもそんな残酷なことをする必要も無い気がする。いや、そういう家庭もあるか、私は心の中で勝手に思ったことを、勝手に反省した。また、蝉の声がうるさくなっていく。

「おじいさんは?」

「今は老人ホーム。これでも歳の差が少し離れてるからね、肩の荷が降りたような気もするけど、やっぱり騒がしいのが居なくなると、寂しくなるものね」

「そうですよね」

私もいつか行くことになるのだろうか。考えもしないし、これから数十年は考えないだろう。こんな元気な体が、ボロボロになっていってしまう想像がなかなかできなかった。

柔らかい畳に手を添えて、体重を支えながら上を向いた。蛍光灯の紐がわずかに揺れている。まるでそれが鳴ったかのように、りん。と鈴蘭が奏でた。

誘われるようにガラス越しに庭を見る。平和を象徴するような暖かい日差し、部屋の中でも酸素を感じられる景色を眺めていると、強い風が吹き、扉はガタガタと揺れ、りんりりんと鈴蘭が暴れ出した。

「風だ!風だ風だ!琴葉!外に出るぞ!」

風情のあった音は先輩の足音に変わり、風の切るような音は、彼女のギャハハという笑い声にとても良く似合っていた。

私は先輩が飛ばされるかもしれないといらぬ心配をして、おばあちゃんを置いて私も外に出た。

「今日は強いぞ!空気で窒息しそう!」

両手両足を広げて全身で風を感じながら笑っている彼女を見て、私と子供に戻ろうと、両手を広げてみた。強風が私をかたどる。ギリギリ前に進めないこのもどかしさは、なかなか悪い気はしなかった。

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自販機の上の少女 小南葡萄 @kominamibudou

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