夢を叶える本屋

蒲生 聖

心の空洞と夢の代償

 私たちの街の片隅にひっそりとたたずむ古びた書店があった。表には「夢を叶える書店」と書かれた小さな看板が掲げられていたが、誰もその店に近寄ることはなかった。


 店の外壁は年月により色あせて、木の扉は隙間だらけで、まるで時間が止まったかのような印象を与えており、木の扉に貼られたシールの「いらっしゃいませ」の文字が風化して「らいせ」としか読めない。


 店内の天井は低く、電球の少ないランプがかすかな明かりを放っており、空気はひんやりとしている。店の奥には、長い年月を経た古いカウンターがあり、その背後にはおそらく書店主のための小さな事務スペースがあるようだ。


 ある日、好奇心からその店に足を踏み入れたのは、若い作家の八重子だった。彼女は叶えたい自分の夢を持ちながらも長い間、実現の難しさに苦しんでいた。


 というのも、八重子は幼い頃から夢見がちな少女だった。しかし、彼女の家族は貧しく何かを成し遂げることが難しい環境にあった。


 彼女の両親は常に働き詰めで、家計を支えるために多くの時間を費やし、家族との時間もほとんど持てなかった。


 そのため、八重子は一人で過ごすことが多かった。彼女の唯一の慰めは、図書館や書店で過ごす時間だった。


 学校での授業が終わると、八重子はいつも近くの図書館に通い詰めて、本を読むことで自分の世界を広げていった。


 特に旅行記や冒険物語に心を奪われ、世界の広さや未知の世界に憧れるようになった。彼女の夢は、文字の中でしか知らなかった遠い国々を実際に訪れ、多くの人々と出会い、様々な文化に触れることだった。


 しかし、現実は厳しかった。彼女が成長するにつれて、家計がさらに困窮こんきゅうし、彼女の夢はますます遠いものになった。


 大学進学の際には、奨学金を借りながらもアルバイトに追われ、旅行どころか日々の生活さえもままならない状況が続いた。


 それでも、彼女の夢を諦めることはできなかった。彼女は自分の将来がどうなるかを見通せない中でも、夢を追い続ける希望を持ち続けた。


 作家としての道を選んだのも、旅行や冒険の経験を得るための手段と考えたからだった。


 物語を書くことで、自分の夢を実現するための資金を稼ぎ、いずれは世界を旅するという計画を立てていた。しかし、成功は遠く、希望は曖昧で、なかなか現実に結びつかなかった。


 そんな時に、「夢を叶える書店」の存在を知った。町の片隅にひっそりと佇むその書店は、彼女にとって最後の望みのように感じられた。


 書店に恐る恐る入ると小さな書店の内部は意外にも整然としており、一冊の真っ白な本が棚の中央にぽつんと置かれていた。店主はどこにも見当たらず、静寂だけが漂っていた。


 八重子はその白い本に目を奪われた。カバーにはタイトルも著者名もなく、ただの白い表紙であった。彼女は不思議に思いながらも、手に取ると、その本は非常に軽かった。ページをめくると、中は完全に空白だった。


 「これはなんなの?」と八重子は自問した。


 すると、店の奥からしわがれた声が聞こえてきた。


 「その本になぁ、自分の夢を描けば叶うんや。だが、それには代償がいるんじゃ」


 振り向くと、年老いた書店主がゆっくりと現れた。彼の目は深い知恵を持っているようで、しかしその顔には長い年月の重みが刻まれていた。


「代償とは何ですか?」八重子は恐る恐る尋ねた。


 書店主はゆっくりと答えた。「代償とはなぁ、おまえさんが一度も得られなかったもの、あるいは一度も手に入れることができなかった願いの一部や。それが何であれ、夢をかなえるために必要なものを差し出さなければならない。」


 八重子はその言葉に内心動揺した。自分の夢を描くことで何を差し出さなければならないのかを考えると、心の中での葛藤が生まれた。


 しかし、彼女は長年の願望を実現したい一心で書店主の言葉に従う決心をした。


 彼女は書店で本を買い、その場で自分の夢である『世界中を旅すること』をその白いページに描き始めた。


 自分の描いた景色や出会う人々を想像しながらページに色を付けていくと幻想的な風景が次第に広がっていった。まるでページが自分の夢の世界を具現化するようだった。


 描き終えると、満足して八重子はその本を閉じて持ち帰ることにした。書店主は薄暗い部屋で笑っていた。


 帰り道、彼女の心は期待と不安でいっぱいだった。


 翌朝、目を覚ますと八重子の家には見知らぬ郵便物が届いていた。それは彼女が長年憧れていた世界一周旅行のチケットだった。


 早速、支度を済ませた彼女は世界中を旅し、多くの素晴らしい体験をすることができた。しかし、その旅行が進むにつれて彼女の内面には変化が訪れた。


彼女は自分に自信を持てなくなってしまったのだ。


ーー


 旅行の途中、彼女は様々な国を訪れ多くの人々と出会い多彩な文化に触れた。夢を叶えたことへの代償をすっかり忘れて、新しい風を浴びていたのだ。


 その中で、彼女は特に文学界で名を馳せている海外の作家たちと接する機会が多くあった。彼らの作品は深い洞察力と豊かな表現力に満ちており、佐矢子はその才能に圧倒された。


 思い返せばそれが、自己肯定感の欠如の原因だったのかもしれない。


 ある時、彼女は一流の作家たちが集まる文学イベントに参加することになった。そこで、彼女は自分が感じた夢と現実のギャップに直面した。


 会場に集まる作家たちは世界中の読者に影響を与えるような力を持っておりその創作力や知識は並外れたものであった。彼らの作品と比べると自分の書いた物語は浅薄で感動を与える力が欠けていると感じた。


 特に一人の著名な作家と話す機会があり、その際に彼の作品についての話を聞いたことが大きな打撃となった。


 その作家は自分の憧れの人であった。彼は深い洞察と豊かな経験に基づいた作品を創り出しており、彼の成功が、八重子にとって圧倒的な基準となってしまった。


 彼と比較することで、自分の努力や才能が無力であるように感じ、自信を失っていった。


 また、旅の途中で読んだ様々な海外作家の作品も、彼女の心に影響を与えた。それらの作品は、彼女が抱いていた夢や情熱を遥かに超えており、自分が持つべきだったと思われる才能や視野の狭さに気づかされた。


 どれだけ努力しても、自分の作品や自己表現がそれらに及ばないと感じるようになり、自己肯定感は次第に崩れていった。


 成功を収めている他者と自分を比較する中で、八重子は次第に自分の価値を見失い、心の奥底に不安と自己疑念が広がっていった。夢を叶えたはずなのに、その達成感は薄く、自己肯定感の欠如が心に深い空洞を作り出していた。


 どんなに成功を収めても、満たされることはなく、心の奥底には常に不安と自己疑念が渦巻いていた。


 彼女は旅の終わりに帰国すると、自分がかつて持っていた自己肯定感を取り戻すことはできなかった。周囲の人々と比較しても、自分が劣っているように感じ、成功を手にしても、常に満足感が得られなかった。


 自分の夢を叶えたはずなのに、心には深い空洞が残っていた。


 「夢を叶える書店」は町の中で次第に忘れられていった。しかし、八重子にとって、その店での体験は忘れられないものであった。


 白い本は彼女にとって、夢の実現と引き換えに失った自信と自己価値の象徴となり、彼女はそれを受け入れながらも、自分自身と向き合い続ける日々を過ごすことになったのだ。

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