『親友』との時間を優先する婚約者に別れを告げたら
黒木メイ
第1話
ガタン! と馬車が大きく揺れた。予期せぬ揺れに対処できず、身体が勝手に傾く。
「っ」
「ステファニア様!」
細いがしっかりと鍛えられた腕に抱きとめられ、ホッと息を吐く。咄嗟にロザンナが支えてくれたおかげでどこもぶつかることはなかったが……びっくりした。
「ありがとうロザンナ」
「いえ」
感謝を述べれば普段無表情のロザンナの顔が微かに綻んだ。しかし、すぐに元に戻る。ロザンナは警戒するように小窓のカーテンの隙間から外を覗き、御者に話しかけた。
「なにがあった?」
御者から戸惑った声が返ってくる。
「それが、どうやらこの先で男女が派手に揉めているようなんです。野次馬連中が道を塞いでいて、さすがに危ないので馬を停止させたのですが……聖女様、怪我はありませんでしたか?」
「ええ。私は大丈夫よ。ロザンナのおかげで怪我ひとつないから。それよりも、そちらは大丈夫?」
「はい! 私も馬も誰も怪我はしていません」
「そう。ならよかったわ」
御者とステファニアが一安心している一方でロザンナの表情は未だ険しいままだった。むしろ、外の野次馬を見て眉間の皺が先程より深くなっている。
「この街の自警団は何をしているんだ? ……いっそのこと私が話をつけにいくか」
「まあまあ落ち着いてロザンナ。私達は帰るだけなのだから焦る必要はないわ」
「ですが……」
「ああでも……心配ではあるわね」
「心配、ですか?」
ロザンナが小首を傾げる。
「これだけの野次馬が集まっているということは、それだけ揉め事が長引いているっていうことだわ。周りに焚きつけられて、ヒートアップして最悪のパターンが起きるかもしれない」
無い、とは言えなかった。ロザンナがまだ
「それは……そうですがどちらにしろステファニア様が気にすることでは」
ロザンナの言葉を最後まで待たずに扉に手をかける。慌ててロザンナが止めた。
「ダメです! ああいうのは自警団に任せておけばいいんです!」
「でも……そうだわ! なら、ロザンナもついてきてちょうだい? それならいいでしょう?」
ロザンナが返答に困っている間に馬車を降りる。慌ててロザンナも降りた。
「さて、どこにいるのかしら……あそこかしら?」
人が多いので背伸びをして確認する。数メートル先にぽっかりと空間ができていた。おそらくあそこに問題の人達がいるのだろう。よし行こう! と人垣の隙間をぬって進もうとするが、如何せん野次馬が多すぎてなかなか進めない。ロザンナが前に出て「道を開けてください!」と声を張り上げた。
「なんだおま、え?」
怒鳴り返そうとした男の勢いがロザンナとステファニアを見て一気に失われた。ぽかんと口を開けて固まっている。それは周りにいた人々も同じだった。
ロザンナとステファニアは一見すると男女のペアのようだが、その実どちらも女性だ。
ロザンナの髪と目は平凡な茶色だが、それ以外がかなり目を惹いていた。顔は中性的で整っており、背は女性にしてはかなり高く、髪は男性と同じくらい短い。何より、身に纏っている服が特殊だった。白い騎士の制服は聖騎士のみ着用が許されている。聖騎士の中でも女性はかなり珍しい。皆、すぐに彼女が誰か理解しただろう。
そんなロザンナの後ろにいるのは真っ白な修道服を身に纏い、顔をヴェールで覆い隠した女性。隙間から見え隠れしているのは銀の髪。銀の髪は聖女の証。ロザンナが忠誠を誓っている聖女は一人しかいない。ステファニアだ。
この国で彼女達のことを知らない者はほぼいないだろう。それくらい筆頭聖女ステファニアとその専属聖騎士ロザンナは有名だった。まさか、そんな有名人とこんなところで出くわすことになると思っていなかった男性は、勢いよく膝をつき、両手と額を地面に擦り付けるように伏した。
男性に倣うようにして周りの人々も膝をつこうとするので慌てて止める。
「まって。やめてちょうだい」
「いや、わしはとんだ失礼を、聖女様に『おまえ』などと……大変申し訳ありませんでした。まさか聖女様だとは思わず」
「どうしていつもこうなるのかしら……わかりました。謝罪は受け入れます。その上で、不問とします。さあ、皆様お立ちになって。通行の邪魔になりますわ。それと、今の私はお忍びのようなもの……いいですね?」
人差し指を唇の前に立てる。皆は両手で己の口を押さえてうんうんと頷き返した。
「ステファニア様。こちらです」
「ありがとう」
ロザンナに誘導され、歩みを進める。いつの間にか人々が左右に分かれ道ができていた。その道をステファニアとロザンナは進んで行く。
辿り着いた先には一組の男女がいた。喧嘩は未だに続いているようで言い合いをしている。ステファニア達には気づいていない。周りが目に入っていないのだろう。
女性は尻もちをついたまま喚き、男性はそんな女性に手を差し出すことはなく冷たい視線を向けていた。
「あら?」
ステファニアは数回瞬きをした。二人の顔に、特に男性の顔に見覚えがあったからだ。年に一度会う程度の仲だが、ステファニアの婚約者であるルカ・シッキターノによく似ている。
「ルカ?」
確認もかねて名前を呼ぶと、ルカは振り向き、ステファニアを見て固まった。
「な、なんでステファニアがこんなところに……」
呆然と小声で呟く男性。本人で間違いないらしい。ということは……とさりげなく確認する。その間にロザンナがステファニアの前に出た。
「孤児院への慰問の帰りです」
ステファニアの代わりにロザンナが応える。
「そんなことより……ルカ卿はこんなところで何を騒いでいたのですか?」
顔は見えないが、冷たい声色からロザンナが怒っているのが伝わってくる。慌ててロザンナの服の裾を引いた。けれど、ロザンナは振り向かない。引く気はないらしい。仕方ないのでロザンナの横から顔を出してルカの様子を窺う。ルカは青ざめた顔で、下唇を噛んで黙り込んでいた。
皆が黙っている中、最初に動きを見せたのは先程まで座り込んでいた女性だ。自力で立ち上がり、頬を膨らませてルカに歩み寄った。
「ねえ、謝ってよ。ルカに突き飛ばされたせいで怪我したんだけど」
ほらと己の腕を掲げて見せる。しかし、ルカの表情は変わらない。「自業自得だろ」と吐き捨てる。
女性の目がつり上がった。ルカを睨みつける。
「なにそれ。ルカだってその気だったくせに。だから二人で会ってくれたんでしょう?」
「勝手な憶測で喋らないでくれ。僕はジュリアがマルコのことで相談があるって言ったから会っただけだ」
ルカの言い分を聞いてジュリアは鼻で笑った。
「それ本気で言ってるの? そんなの二人で会うための口実に決まっているでしょ。次期侯爵様ならそれくらい見抜いていたわよね? まさか、気づかなかったなんて言わないでしょう? それとも……ずっとグレーゾーンで楽しむつもりだったってこと? なにそれ。タチ悪っ」
ジュリアが軽蔑したような視線をルカに向けるが、ルカはその煽りにはのらなかった。ただ、苛立ちはしたようで殺意のこもった目をジュリアに向けている。殺伐とした雰囲気で睨み合う二人。
その時、短い破裂音が聞こえ緊迫した空気が霧散した。音の出所はステファニアの両手だ。
「痴話喧嘩は一旦そこまでにしてくださいな。まずは場所を変えましょう。ここでは邪魔になりますから」
「そんな必要はないよ。もうジュリアと話すことはないから」
ルカは断固拒否の姿勢を示したが、ステファニアは眉尻を下げた。
「そういうわけにはいかないわ」
何故だと目で訴えかけるルカ。
それを私の口から言わせるのか。と一度目を伏せた。けれど、このままだとルカは納得してくれないだろう。仕方なく口を開く。
「今後の二人の為には必要なことだからよ」
「その二人っていうのは僕とステファニアのことだよね? ……まさか僕とジュリアのことじゃないよね?」
そのまさかだと頷く。
「それは誤解だって。僕とジュリアはそんな関係じゃない」
はっきりと告げるルカだが、その言葉を信じるわけにはいかない。
「今更隠す必要はないわ。私、知っているもの。ルカにとってジュリア様がどんなに大切な存在なのか。他でもないルカ自身が教えてくれたでしょう?」
微笑みかければルカの顔が強張る。苦虫を嚙み潰したような顔で首を横に振った。
「違う。それは、そういう意味じゃなくて、あの時はその」
「私が知っているのはそれだけじゃないの」
たどたどしい言い訳をこれ以上聞いていられなくて途中で遮った。
「かなり前からルカとジュリア様、マルコ様の複雑な三角関係についても知っていたわ」
ギクリとルカの身体が揺れる。慌てて否定を口にした。
「違う。それは、周りが勝手に言っていただけで実際は違う」
違うと言いつつもルカの目は泳いでいる。多少なりともやましさはあったのだろう。
ステファニアの元に届いた彼らの『噂』はかなり詳細な部分まで書かれていた。いや、噂というよりはアレはもはや調査報告書だ。
そのことを、ステファニアは知っている。……ということにルカは気づいて血の気を失った。弁解のしようもない。ここ数年ステファニアよりジュリアを優先したのは事実だ。そこにやましいことがなかったとはいえ。いや、本当になかったと胸を張って言えるのだろうか。自信は、ない。
ルカにとって伯爵家の次男マルコ、大手商会の一人娘でもある一応男爵令嬢のジュリアとの出会いは運命だった。少なくともルカは今までそう思っていたのだ。
高位貴族のみが通う初等部、中等部には二人のような人達はいなかった。『親友』と呼べる二人に出会ってからルカの世界は一変した。『親友』が教えてくれる全てのものがルカには新鮮に映った。広がる世界。まるで生まれ変わった気分だった。けれど、同時に終わりがあることも理解していた。だからこそ、ルカは学生の間だけでも『親友』との時間を優先したいとステファニアに願い出たのだ。馬鹿正直に。
そんなルカの願いに対してステファニアはダメだとは言えなかった。ルカの気持ちもわかるような気がしたのと、自分が心の狭い人間だとは思いたくなかったから。一ヶ月に一度あった逢瀬は数ヶ月に一度に減り、半年に一度になり、とうとう一年に一度まで減った。ようやく会えたとしてもルカの話題は『親友』のことばかり。さすがに堪えた。ルカにとって自分がどういう存在なのか痛いくらいにわかったから。
極めつけはルカと親友カップルの歪な三角関係についての噂。信じたくはなかったが、全てがただの噂だとは思えなかった。情報を集めてくれたのがステファニアを慕う聖女達だったから尚更。
もう、半ば受け入れていた。ルカの心はもう自分にはないのかもしれないと。
それでも婚約解消に至らなかったのは、聖女の契りが継続していたから。
聖女の契りは過去の悲劇を繰り返さない為のモノ。
過去、婚約者に浮気をされた聖女がいた。婚約者は最初浮気はしていないと否定した。けれど、証人がいた。すると、開き直ったのだ。なかなか会えない女より、近場の女を愛して何が悪いと。それに激怒したのは、浮気された聖女……ではなく仲間の聖女達だった。仲間の聖女達は結託して婚約者と婚約者の家族、そして浮気相手と浮気相手の家族には何があっても聖女の力を振るわないと誓った。事実上の破門だ。結果として元婚約者とその浮気相手は着の身着のまま家から出されることになった。
以降、同じようなことが起きないようにと聖女は婚約の際に聖女の契りを結ぶようになった。聖女が還俗するまでの間、婚約者が過ちを起こさないように。もし、裏切ったらわかるようにと。
ステファニアは己の手首を握りながら、ルカの首をじっと見つめる。
還俗するまで後半年もなかったのに……。結局、こんな形でお別れになるなんて。
せめて、私が今日ここを通らなければ。……いえ、これもきっと神の思し召しだわ。
覚悟を決め、ルカを見据えた。ルカが怯えるようにビクリと震える。胸がチクリと痛んだが、気にしないフリをして告げる。
「婚約解消証明書が届くには早くて一週間。遅くとも一ヶ月はかかります。なので、シッキターノ侯爵にはルカの口から先に伝えておいてください。エンリーチ家には私から連絡しておきますから」
「ちょ、ちょっとまってくれ。婚約解消って僕とステファニアが?! なぜ?」
「なぜって……」
戸惑って答えられない。ルカが絶望したような表情を浮かべる。何故そんな顔をするのかと困惑する。
「ステファニアの還俗まであと少しだろう?」
「ええ。そうですね。ですが……ルカにはもう他に大切な人がいるじゃないですか」
ちらりとルカの後ろに立っているジュリアを見る。ジュリアはようやくことの大変さに気づいたのか青ざめている。ルカは必死で首を横に振った。
「だからそれはちがうって! ジュリアをそういう目で見たことは一度もない! そういう雰囲気になったことも今まで一度もなかった」
そう言われても……と頬に手を当て首を傾げた。
「でも、今日二人の間にナニカあったのは確かでしょう?」
「ちが、だ、だからそれはジュリアが無理矢理。僕はそんなつもりはなかった。本当だ! 信じてくれ!」
「今更だわ」
「なんで、そんなあっさり」
「あっさりというか……もしかして忘れているのですか? それとも気づいていない? もう聖女の契りは切れてしまっていることに」
「……え?」
よく見えるように左腕を上げ、その腕についていた金属製のブレスレットを外す。
ルカは目を見張り、慌てて己の首を押さえた。ハイネックシャツの首元を下げ、恐る恐る己の首にある金属製のチョーカーに触れる。軽く触れただけでチョーカーは滑り落ちていった。地面に落ち、カシャンと無機質な音を立てる。それを信じられないものを見るような目で見つめるルカ。
「ルカはもう自由よ」
おめでとうとにっこりとルカに微笑みかける。ルカはその場に膝をついた。ジュリアが恐る恐るルカに近づき、足元に落ちているチョーカーに視線を向ける。そして、震えながら指さした。
「ま、まさかそのチョーカーって……ち、違うよね。ルカに婚約者がいるなんて聞いたことなかったもの。まさか、そんな……大丈夫よね? ねえ?」
ジュリアがルカに何度も問いかけるが、呆然自失となっているルカは答えられない。ステファニアが代わりに答えてもよかったが……結局ロザンナに止められただろう。先程から痛いくらいロザンナに見つめられている。
これ以上ここにいても私にできることはないと、ステファニアは踵を返した。ロザンナが後に続く。
馬車に乗り込み帰路に就く。小窓のカーテンをしっかりと閉め、溜息を吐いた。なんだかどっと疲れた気がする。けれど、この後はもっと大変なはず。まず、大司教様に説明をしなければならない。明日には噂が広まっているだろう。あの二人はもちろん、ステファニアの周囲も騒がしくなる。できるだけ教会内の仕事だけにしてもらおう……。そう考えながらステファニアは目を閉じた。
瞼の裏にルカとジュリアの姿が浮かぶ。聖女の契りが切れたということは二人の間にナニカがあったのは間違いない。でも、想像していたより二人の仲はよさそうには見えなかった。
――――ルカは無理矢理って言っていたわね。もう少しルカの話を聞くべきだったかしら。
徐々に後悔が押し寄せて来る。
「ステファニア様」
「なにかしら」
「ステファニア様の判断は間違っていませんよ」
「そう。そう、よね」
心の中で自分に言い聞かせながら、同時にロザンナが側にいてくれてよかったと思った。
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