婚約者が病弱な妹に恋をしたので、私は家を出ます。どうか、探さないでください。

待鳥園子

第1話『家出』

 大きな鞄を御者に馬車から降ろして貰い、|心付け(チップ)を渡すと、ここに来るまでお世話になっていた彼は、途端にとても嬉しそうな顔になり「良い旅を!」と機嫌よく片目を瞑り去って行った。


 ……あら。平民は何かしてくれたお礼にこうすると以前に聞いていて、それを実践しただけなんだけど……あれは少し、多過ぎたのかもしれない。


 私は家出のために出入りの商人に頼んで用意していた、財布の中にある大小様々な硬貨を見て、まずは貨幣価値を掴むことから始めなければと思った。


 こういう時には、どの程度の金額を渡せば良いのかなんて、私には全くわからないもの。


 ……だって、そうして学ばなければ、私が元々貴族であったとすぐにわかってしまうだろう。


「ふーっ……ここまで長かったわ。まさか、三日間も掛かると思わなかった。遠かったけど、ここまで来たら、見つからないでしょう」


 ここは王都より遠く離れた、山奥にある小さな村アンレーヌ。


 目に優しい緑の中に華やかな色の屋根の小さな家が立ち並び、品良く調えられた庭も綺麗だ。


 アンレーヌ村は質の良い木材を出荷していて、その木材は名物でとても有名だ。


 だから、村をあげての林業に携わる村人たちは一様に裕福で、貧困に喘いでいるという訳でもない。


 このお伽噺の舞台になりそうな可愛いアンレーヌ村の中で、私は人生をやり直す。


 今までの何もかもを捨てて、新しい何かを手に入れるための再出発をするの。


 きょろきょろと周囲を見渡していた私が、いかにも物知らずな子に思えたのか、すぐ近くに居た大きな身体の男性が近づき声を掛けてきた。


「あの……そこの、お嬢さん。もし何かお困り事なら、私にお手伝い出来ることはありますか?」


「いえ……! 大丈夫です」


 いかにも怪しげな誘いに思える厳つい顔付きをした男性からの言葉を振り切り、私は大きな鞄を持って早足で歩き始めた。


 あんな風に紹介もなく声を掛けられるなんて、とても驚いたわ。もしかして、私を騙して、売り払うつもりかしら……?


 絶対に騙されたりしないんだから。


 何故、こんな辺鄙な村に来て、私が人生をやり直そうとしているかというと、理由は簡単。


 ……私の婚約者が、病弱で可愛い妹に恋をしたから。


 二歳年下の妹オレリーは幼い頃から病弱で、三歳の時には無情にもこれでは成人は出来ないだろうと医師に告げられた。


 両親はそれを聞き嘆き悲しみ、姉の私だって胸が引き裂かれるくらい悲しかった。だって、あの子はまるで天使のようで、とても清らかな存在だと思っていたし、私にとってはたった一人しか居ない妹だった。


 オレリーの体調が両親の最優先になることだって、あの子の姉として、仕方ないと考えていたし寂しいと思う気持ちは押し殺して何も言わずに我慢した。


 ……だって、可哀想なオレリーは、大人になれずに亡くなると宣告されている。だから、生きている間、あの子が常に幸せであるように願っていた。


 姉の私は幸い健康な身体を持ち、少々風邪をひいたとしても、あの子のように重篤な肺炎を併発してしまうこともない。


 けど、妹オレリーは違う。大事に大事に育てなければ、すぐに死の危険迫る危篤になってしまう。


 私はローレシア王国の貴族に良く居るような金色の髪と緑の瞳だけど、あの子はまるで神に選ばれたかのような、珍しい銀色の髪に紫の目を持っていた。


 オレリーは、特別な女の子だった。姉の私とは違って。


 我がサラクラン伯爵家が一丸となって、何かあればすぐに儚くなってしまいそうな病弱なあの子を必死で見守り育てた。


 やっとのことで十五歳になり、あの子の病に効くという特効薬を飲むようになった。


 それまでは、ベッドで寝たきりで生活するしかなかったと言うのに、時間が経つごとにだんだんと出来ることが増えていくのを、姉の私もほっと安心して喜ばしく思ったものだ。


 幼い頃からとある家の事情で決まっていた私の婚約者ラザール様は、いずれ公爵家を継ぐ方で、本来であれば伯爵令嬢の私なんかよりも、地位が高く美しい令嬢と結ばれる方であったはずだ。


 けれど、貴族同士の抱えるややこしい事情で彼は私の婚約者となり、私たち二人はそれなりに仲良くしていた。


 週に一度、私は婚約者ラザール様と恒例のお茶会をしていた。お互いの邸で交互に開催するのだけど、その時はちょうど我がサラクラン伯爵邸だった。


 そして、ほんのひと月前に、彼は偶然に散歩していた妹オレリーを見掛けたのだ。


 最近は、まるで奇跡が起きたかのように著しく体調が良くなっているオレリーは、出歩くことも出来るようになり、ゆっくりとした足取りで庭を散歩していた。


 妹はお茶をしていた私たち二人に微笑み、軽く挨拶して通り過ぎただけだ。


 ただそれだけで、あの子は、私の婚約者の心を奪っていった。


 ……別に、オレリーは悪くない。


 それは私だって、良く理解している。


 あの子は性格も良くて可愛いだけ。姉の私なんかよりも、とっても可愛く清楚で男性の好みそうな容姿を持っているだけ。ただそれだけで、何も悪くない。


 婚約者のラザール様だって、悪くない。


 私の魅力的な妹に一目見て恋をしただけだもの。


 婚約者の私の前ではいつも通りで、妹オレリーのことを好きになったことは悟らせなかったけれど、私の両親には婚約者をオレリーに変更出来ないかと密かに打診していたのだ。


 それは今更難しいと断られて諦めたようだけど、たった一度見たオレリーと結婚したいとまで思ったのなら、それはそれで、オレリーの姉として喜ばしいことなのかもしれない。


 姉の私は頭では理解しつつも、割り切れない複雑な気持ちを抱えていた。


 オレリーだって、この前に初めて挨拶することの出来たラザール様のことは、好ましく思って居るようだった。


 『本当に格好良くて素敵なお義兄様で、お姉様の結婚式が楽しみですわ』と、頬を染めてそう言っていたもの。


 いえいえ。これでは……なんだか、姉の私がまるで、相思相愛の二人の邪魔者みたいよね。


 私という邪魔者さえ居なければ、彼ら二人はすぐに結ばれるだろう。そうして、幸せに過ごすの。


 それをわかりつつラザール様と結婚して生きていくなんて、私はあまりにも辛過ぎない?


 だから、悩みに悩んだ末に、私は家を出ることにした。『この人と結婚したかった』と思っている二人に挟まれて生涯過ごすなんて、絶対に嫌だったから。

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