第5話

 目の前の男は身じろぎひとつしなかった。それは、礼儀にかなっている。

「お前が深町さんを守りたいがために話しをしないならそれでいい。俺は来須に頼んで言伝してもらうこともできるし、もちろん自身で頭をさげる覚悟もある。だが正直、俺は茉莉のことだけで精一杯だ」

 茉莉はなにも疑っていない。だが、俺の記憶のなかには幾つかの綻びはある。

 とはいえそれを親父に突きつけて離婚前から付き合いがあったと白状させるのは下策だ。それに俺は、女性なら自分の孕んだ子供の父親が誰かわかるだなんて言い種をそのまま素直に受け取るほど素朴にはできていない。男出入りのあったひとだと知っている。だからこそ、DNA鑑定だなんてことを持ち出すわけにはいかないのだ。

「俺はそれを義理の母親にしか尋ねられない。父を無罪放免にしてすましたいわけじゃないが、茉莉に知らせないようにするにはそれしかない」

「……あんたが、いや、あんたと義理の母親だけで全部引き受けるってわけ?」

「それ以外の方法があるのか?」 

「茉莉ちゃんが、それでもいいって言ったら? 戸籍上は問題ないわけだよね?」

 だから俺はこいつがたまに鬱陶しいのだ。

「俺はそれを茉莉に話すつもりはない」

「なんで独りで決めるわけ?」

「誰もがお前みたいな変態じゃないよ」

「それ、どういう意味?」

「わかるだろう」

「わかんねーよ。つうかさあ、オレが変態なのは否定しないけど、それを言うなら茉莉ちゃんだってそうでしょう。自分の好きな男のあんな小説を書くんだから」

「それはわりあい普通だ」

「は?」

 目を大きくしたままの相手へ、どう説明しようか迷ったが、言わなければ通じない。

「ふつう、という言葉自体がそもそもの問題だが、他にも類例は見つかる。べつに茉莉に限ったことじゃない」

「龍村さん、はなし」

「ずらしてない。俺は正直にこたえてるつもりだ。世間のジェンダーバイアスに従って行動することを強いられる女性たちの意識的、または無意識的な抵抗が、男同士の恋愛物語を好む『腐女子』という存在だと俺は思ってる」

 茉莉は、小さなころから俺のことが好きだったはずだ。だが、それを口に出すタイミングがはかれないできた。連れ子同士が恋愛関係になることへの躊躇があった。それだけでなく、茉莉は俺のほうから声をかけてほしいと願いながら行動してきた。待ちの姿勢――恋愛や性愛に積極的な女性を「淫奔」ととらえる風潮の圧力に屈した姿勢がそれだ。

 この二十一世紀においてまで、そんな馬鹿馬鹿しい抑圧があるものかと訊かれれば、あるところにはあるとこたえるしかない。龍村家がそういう家である「現実」は覆りようがないほど強固なのだ。

 俺の曽祖父は明治期に渡欧している。空襲で焼けてしまった家はアールヌーボー風の洋館であったそうだ。一族の男はみな目白の男子校で独逸語か仏蘭西語を学び、父は末子であったせいかすこし変り種で商社に勤めたが、家業を継がない場合たいていは学者になる。また、父のきょうだい六人のうち恋愛結婚をしたのは再婚の父一人だけだ。

 そして、俺を生んだ母は、すこしく変わったひとだった。子供のころから財布をもつ習慣がなく、気に入ったものを商店の店先から頂戴し、お手伝いさんが母のあとをついてまわり支払いをしたりツケを払ったりした。それがまかり通る家のむすめであった。

 父の兄たちならば笑ってすませたかもしれない癖が、父にはどうしても許せなかった。母は母でなにが悪いのかもわからず(盗みをしているわけではないし、また外商部の人間も奇癖とは思っていなかったであろう)、懇々とものの道理を説こうとする父を理詰め過ぎて窮屈だと呆れ、ついにはその執拗さを恐れた。

 父に嫁いだのは学者様のおうちだと思ったからだと言ってはばからなかった母は、父の商社マンらしい合理主義、現実主義を嫌っていた。母が死んだのは事故のせいだが、俺を置き去りにして出歩いたのは家からの逃避だったと思われる。そのいっぽうで、茉莉の母親は水商売勤めから龍村の家にはいった。俺という長男の耳にはいらない陰口は、当然あったことだろう。

 そしてまた、父は一人息子の俺に期待をかけた。俺は、学者になりたかったし出来得ることならピアノも続けたかったが、父はそれを望まなかった。俺にピアノの才能はないと知って、父はそれをやめさせた。否、正確にいえば「趣味で続けるならとめはしない」と言われて俺は自分の我を通すのが馬鹿らしくなったのだ。

 そんななか、茉莉はおのれに強いられた役割を完璧に演じてみせた。茉莉は、私立の女子高からエスカレーター式に女子大に行った。龍村家直系の女たちとは一線をひかれたのだ。彼女たちと同じほど優れていてはいけないが、無様なほどに劣ってもいけない。俺はその期待の微妙な温度差を感じとる茉莉が不憫だった。そのせいなのか、なんどかモデルにスカウトされたときも断った。本人は興味がないと華奢な肩をすくめ、最後にぽつんと、めんどうくさい、と苦笑した。そういう経緯の後、三十歳を目前にして今回の暴挙に出たのだから、もう我慢の限界だったに違いない。

 浅倉は思うところがあるのか視線をはずし、浅黒い頬をこちらにむけていた。同じ長男でも、こいつは姉のいる弟だ。しかも、至極よくできる美人の姉をもった弟だからこそ家をでた。

「俺は、父親も義理の母も必要ない。今の仕事をやめてもいい。日本でも海外でもどこででも暮らせるし、贅沢をしなければ茉莉ひとりくらい養えるだけの蓄えもある。だからといって、同じことを茉莉に強要するのは俺のエゴだ。茉莉には俺とちがって友人もたくさんいる。ピアノ教室の生徒も可愛がっている。母親とも仲がいい。むろん、父親とだってうまくやっている。その何もかもを捨てさせたうえで俺が与えられるものは何もない」

「あるだろう」

「それは、俺やお前が勝手に思っているだけのもので、相手の望むものとは限らない。それだけで事足りるなんてのは瞬間でしかないんだよ。浅倉、女性には俺たちと違う時間が流れている」

「子供のこと? それだって、あんたが決めることじゃないだろ」

「そうだな。だから俺は深町さんにお前から話してくれと頼んでるんだ」

「それ、オレにはよくわかんねーよ」

「わかるように言えれば俺だって深町さんを煩わせるようなことはしない」

 浅倉は唇をかんで何かを飲みこんだ。

 

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