母親
やがてリビングの照明が消され、室内は暗闇に包まれた。窓から差し込む街灯の薄明かりを頼りに、僕は小町の背を追いかけて寝室に入っていった。
ベッドが軋む音がする。暗がりに包まれた部屋の中で、小町の輪郭がぼんやりと浮かんでいるのがわかった。
「こっちへ来て」
小町がそう言った。迷った末に、僕はベッドの隅にそろそろと腰を下ろした。ベッドは想像よりずっと広かった。小町はいつも、この場所にたった独りで眠っているのだと思うと、少しだけ寂しい気持ちになった。
「まだ八時だけど、本当に眠れるの?」
と僕は訊いた。小町はなにも言わずにタオルケットの中に潜りこんだ。
この部屋まで歩いたときのように、僕たちは黙ったまま時間の流れに揺られていた。背中の方から、小町が欠伸を漏らす気配がした。心臓の鼓動は、ここに来た当初より落ち着いたような気がする。そのことに、他でもない僕自身が一番安堵していた。
「小町」
彼女の名前を呼ぶ。返事はなかったけれど、僕は構わずに言葉を続けた。
「君は今、なにを考えているのかな」
僕の声は、闇が薄らぎ始めた寝室に溶けていった。
「わからない? 伊勢君のことよ」
ぽつりと小町が呟いた。
「伊勢君がここにいてくれて嬉しいこと。勝手なお願いに付き合わせてごめんなさいって思っていること。でも、どうして私が一人では眠れないのか訊ねてくれなくて、少しだけ悲しいこと」
タオルケットを頭から被っているのだろう。彼女の声はこもっていて、おまけに囁くときのようにひっそりとしていた。僕はもう少しだけ小町に近づきたかった。でも、これ以上近づくことはできないと思った。
「訊けなかったんだよ。そういうのは、小町が話してくれるまで待つべきだと思っていたんだ」
「でも、私は伊勢君に訊ねてほしかったの。そうしないと、うまく話せる気がしないのよ」
再び僕たちは沈黙した。それは彼女の望む言葉を口にするための準備期間のような、どこか義務的に感じられる沈黙だった。
「旅先で、なにかあったんだね?」
小町が一人でいられないという理由。それは彼女が異国の地で過ごしている間に起こった出来事によるものだろうと、僕はごく自然にそう推測していた。
そして、穏やかな波間をそっと小舟が進むように、彼女の口からゆっくりと言葉は滑り出す。
「ワルシャワで、久しぶりに母と会ったのよ」
衣擦れの音がして、ベッドのマットレスがわずかに揺れる。小町の気配がほんの少しだけ遠くなった。僕は続く言葉を待った。
「父と離婚してから会うのは初めてだったけれど、母はとても活き活きとしていて、以前よりも綺麗になっていたわ。私ね、そんな母に会えて、素直に嬉しい気持ちになったの。やっぱりこの人は今までずっと自分を抑えていて、父と離れたことで、やっと抑圧から解放されたんだって、そう思った。久しぶりに会った私を、母は思い切り抱きしめてくれたのよ。『小町、会いたかったわ』って。私には、それが心からの言葉に聞こえた。この人は本気で私に会いたがっていたんだって、そう思うことができたの」
ねえ、伊勢君、そこにいるのよね? と小町が唐突に訊ねた。いるよ、と僕は答えた。すると、彼女は再び話し始めた。
「グダンスクとか、クラクフとか、そんなところを見て回ったわ。お城も町並みもとても綺麗でね。母も笑っているし、わざわざ飛行機で半日かけて飛んだ甲斐があったって思えた。ポーランドを二週間ほど観光すると、寝台列車に乗ったわね。夜は全然眠れなかったけれど、母はやっぱり楽しそうだったから、私も悪くない気分だったわ。それで、私たちはチェコに向かったの。知ってる? プラハ城のあるところ。城の中の大聖堂とか、美術館とか、母が得意げにガイドしてくれて、私がそれを聞いて笑っていると、母も笑うのよ。それから、ふと思い立ったように素敵な雑貨や服を買いつけることもあった。……前に言ったわよね? 母は輸入雑貨を扱う会社の社長で、バイヤーも兼任しているの。現地の人と、英語や英語じゃない言語でやりとりしている母を見ているとね、誇らしい気持ちになったわ」
そのとき、僕の手の甲に、あたたかいものが触れた。小町の手だった。
「もし変な気分になったらごめんなさい。でもね伊勢君、どうかお願いだから、そのまま私の話を聞いてほしいの。私、こうしていないと不安なの。とても、怖くなるの」
「わかったよ」
後ろを振り向かず、僕はどうにかそれだけ言った。彼女のその言葉を聞いていなかったら、僕はこの場所に留まることができなかったかもしれない。
「何日も一緒にすごしているうちに、このままずっと母と色んなところを見て回りたいって、そう思うようになっていたの。目に映る世界はとても魅力的で、母と一緒に食べるご飯はおいしくて、私たちは笑っていて……本当に、幸せだった。それで、リベレツの宿でチェコでの最後の夜をすごしていたとき、私は母にこう言ったわ」
――いつ、日本に帰ってくるの。
それは、小町が笑っていながら、幸せを実感しながら、それでも抱え込んでいた願いだった。
「私は、そんなことを訊ねるべきではなかったのよ。今でこそ言えるけど、そのときはなにもわかっていなかった。私はね、母がいつか、ヨーロッパを巡る旅を終えてこの部屋に帰ってくるって、本気で信じていたの」
重ねられた小町の手が、キュッと僕の手をつかもうとする。自然と、気持ちを波立たせることなく、華奢なその手と繋ぎ合わせて、優しく指と指を絡ませる。
「母は、私の言葉を聞いて笑ったわ。そして、『小町はもう、一人で生きていくべきよ』と言った」
小町の指に、わずかに力が入るのがわかった。
「母は、日本に戻って暮らすことなんてまったく望んでいなかった。私を呼んだ目的は、家族としての訣別を言い渡すためだったのよ」
微かに震える声も、しっとりと熱を帯びてきた手も、僕をどこにも連れて行きはしなかった。僕はただ、小町の話に耳を傾けていた。そうすることが――そうすることだけが――僕に与えられたただ一つの役目だったからだ。
「チェコからドイツに移動しても、母は変わらずに笑っていたわ。笑いながら、無邪気に私の名前を呼んだ。伊勢君、私ね、ずっと我慢したのよ。世界はちっとも綺麗じゃなかった。なにか食べようと思っても、それを身体が受けつけなかった。でも、母は私の身に起こっている異変に気づいてくれなかったわ。気づかずに笑って、ドイツ語で私にはわからないことを誰かと話していた。それでも、私は我慢した。絶対に弱音を吐きたくなかった。なにかマイナスなことを口にすると、今より不幸になってしまうって、強く自分にそう言い聞かせながら、フランクフルトからここまで帰ってきたのよ」
繋いでいた手から、いつからか僕たちの意思は消失してしまっていた。僕と小町の手が重なっているという、それ以外の事実はそこに存在していなかった。
僕は、小町の言葉を待った。かすかな駆動音を上げるエアコンが冷気を寝室に送り込んでぬるい空気を完全に上書きするまで、沈黙が続いた。緊張も、覚悟も、いつの間にかどこか遠くに消えてしまっていた。
ようやく、僕は彼女がすべてを話し終えたことを悟ったのだった。
「おやすみ」
他にどんな言葉をかければいいのか、わからなかった。自分の役割を全うしているはずなのに、憔悴した小町を背にしながら、僕はたまらない無力感に襲われていた。
やがて、背中越しにかすかな寝息が聞こえてきた。
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