凛然

 六月に入ったある日の放課後、とうとう僕のもとにも熱意の(小町に言わせれば嫉妬の)使者が姿を見せた。使者の数は五人で、そこには見覚えのあるクラスメートの他に、別のクラスの女子も混ざっていた。

「あんたさ、花家と仲いいよね」

 五人の内のリーダー格であろう、緩くウェーブのかかった髪をした、別クラスの名前も知らない女子が僕にそう言った。派手なメイクで飾り立てられた彼女は、間違いなく男の目を引く存在だった。きっと、小町と同じように自分の容姿に自信があるのだろう。僕は周囲を囲む女子たちにも、程度の差こそあれ、大体同じような印象を抱いた。そして、彼女たちが小町を目の敵にしている理由をなんとなく理解する。

「そうだね」

 僕は手短に頷いた。するとなぜか女子たちから微かな笑いが起こる。それは明らかな嘲笑だった。

「知ってる? あの子、中学のときめちゃくちゃヤバかったんだよ」

 そう前置きして、彼女は話し始めた。大体は折原から聞いた内容と同じだった。これまでに何度も周囲に吹聴してきたためか、小町がしでかしたという悪行を語るその口ぶりは流暢そのものだった。そして流暢な分、声に語り手の個人的な感情が乗せられていた。それはうんざりするほどに嬉々とした声だった。彼女たちは、注意喚起をしているわけではない。ただただ、花家小町という存在を貶めたいだけなのだ。放たれた悪意は、生々しい実感を伴って僕に襲いかかる。

「悪いけど」

 一方的に小町の悪評を並べ立ててくる言葉を遮って、僕はどうにか声を挟む。

「なにを信じるかを決めるのは、僕だから」

 昏く緩んだ表情が固まり、瞬く間に険しさに塗り替えられる。きっと、折原が相手だったらこうもわかりやすく不快感をあらわにしないのだろうな、とそんなことを思う。

「なあに、やっぱあんた、あいつに惚れちゃってんの?」

 それは突然の質問だった。ここまでのやりとりとの脈絡が掴めずに返事ができなかった僕を、彼女たちは図星を指されて黙り込んだものだと思い込んだのか、「やだー」とせせら笑う。

「あんな顔だけの暴力女、やめときなって」

「いっちばんタチ悪いタイプだから」

 入れ替わり立ち替わり、目の前の五人組は好き勝手に小町を罵っていく。その言葉たちが堆積していくうちに、僕の中で怒りや呆れ、そして悪意という思念に対する恐怖のようなものが生まれ、混じり合い、名状しがたい不穏な感情を作り出していくのがわかった。

 僕が、そのひどく不安定な感情に呑まれてしまいそうなときだった。

「随分楽しそうな話をしているじゃない」

 彼女たちの背後から、聞き覚えのある澄んだ声がした。驚いた様子の彼女たちが振り返ったとき、声の正体が僕の目にも飛び込んできた。

 渦中の人物である、花家小町だった。ごく自然に背筋を伸ばして、素っ気なく唇を閉ざした無表情のまま、五人の女子に揺るぎない視線を送っている。下校しようとしていたのか、その肩には学校指定の紺色のナイロンバッグがかかっていた。

「な、なに? 伊勢に用事でもあるの?」

 リーダー格のウェーブがかった髪の女子が、さっきまでの流暢さが嘘のようにしどろもどろな様子を見せる。他の四人も、やはり決定的なことを言えずに狼狽えるのみだった。小町は悠然と女子たちを見渡し、それからつかつかとその間を割って進み、僕と五人組を遮るように立ってみせた。

 そのとき、薄荷の香りが、いつもより強く僕の鼻に届いた。

「別に隠さなくてもいいのよ。誰かから聞いた私の噂を、伊勢君に話していたんでしょう? 伊勢君だけじゃなくて随分色んな人に吹聴してまわっているようだけど、そんなに当時のことが気になるのなら、どうして直接私に真相を訊ねてこないのかしら」

 淡々とした口調で、小町は五人組に問いかける。こちらに背を向けているため、その表情はうかがい知れない。けれど、五人組は誰一人として小町と視線を合わせようとはしなかった。

「マジでウザい。もう行こ」

 答えに窮したリーダー格の女子が吐き捨てるようにそう言って踵を返すと、後の四人も慌てて後をついていく。五人組の姿が完全に見えなくなってから、小町は僕の方へと向き直った。そのとき僕は、小町の表情は怒りで険しくなっているか、あるいは緊張感により張り詰めたものになっていると思っていた。けれど、こちらを見上げるその表情が示しているのはまったくいつも通りの無機的なまでの美しさのみで、そこからはおよそ感情というものが読み取れなかった。あの五人組が小町と視線を合わせられなかったのも頷ける。人間、無表情を向けられるのが一番恐ろしく感じるのだ。

「あんな主体性のない子たちに囲まれて、伊勢君、災難だったわね」

「たしかに、ちょっとだけ困っていたんだ。助けてくれてありがとう」

 僕が強がり混じりの礼を言うと、小町は少しだけ沈黙し、それから瞬きのついでといった感じに唇の片側だけを持ち上げて笑ってみせた。

「助けるもなにも、私が蒔いた種のようだし」

 それから僕と小町は、いつもの河川敷に向かった。このところ、梅雨に突入する前にとばかりに晴れの日が続いていたせいで川の水位は下がり、吹く風は乾いたものになっていた。

 ここに二人で訪れるのは初めてのことだった。折原は今日、他校に通う女子と遊びに行くとのことですぐに教室からいなくなっていた。もしかすると、それは小町を避けるための口実だったのかもしれないな、とそんな邪推をしてしまう。

 コンクリートで埋め立てられた斜面の窪んだ部分に腰掛けたまま、僕はしばらくなにも言わずに川を眺めていた。こんなとき、いつも率先して口を開くのは折原だった。

「ねえ、伊勢君」

 やがて、小町が僕の名前を呼んだ。

「あの子たちの話を聞いて、どう思った?」

 僕がそっと顔を動かすと、彼女はまっすぐに僕を見ていた。視線がぶつかると、僕はすぐに川の方に向き直ってしまう。

「多分僕は、伝言ゲームで最後に伝言を聞く役回りだったんだろうね」

 そう答えると、数秒の間を置いて、小町は「ふうん」と呟いた。もっと気の利いた比喩はなかったのか、と僕は少しだけ恥ずかしくなった。

「先に言っておくけれど、私が中学生のときにクラスメートに暴力を振るったのは事実よ」

 事実、と最後に言葉にしたように、小町はあくまでも事実を語る客観的な口ぶりで、僕に当時のことを打ち明けてくれた。

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