花びらと心葉

まめろっく

陽翔と初 (ハッピーエンド版)

からからに乾く喉。全身の鬱陶しい倦怠感。そして、足の間を伝う生暖かい白濁。

荒い息を鎮めようと、深呼吸をする。そして、私は天井をゆっくりと見上げた。

私は娼婦。貧しい家族を養うために、売春をしてお金を稼いでいる。こんなことは日常茶飯事。普通の女の子がするような、幸せな行為など経験したことがない。乱暴に抱かれ、相手が満足するまで人形のようにされるがまま。終わった後は、金だけ叩きつけられ、着物を着て家に帰る。

家ではお腹を空かせた弟と妹、病気がちの母が待っている。三人の腹を満たしてやれるよう、ご飯を作って食べさせてやる。それが毎日。

「ほらよ、くれてやる」

びし、と顔に小銭を沢山投げつけられる。唇が切れて、鉄の味がした。

相手の男が部屋から出てゆくと、私は小銭をゆっくりと拾い集めた。拾ったそれを丁寧に巾着へしまうと、私も着物を着直す。今回の人は、酷かったな。他の客に比べても乱暴で、私の骨の浮く体に痣や傷跡を作るほどだった。


まあいいや、どうでもいい。


きしきしと痛む躰を起こして、私は部屋を、いや小屋を後にする。今夜もまた戻ってくるから、少しは片づけておいたが。まだ汚いな。

そんなことを思いながら、家への帰路を辿る。浅い息でふらつきながら、大切な家族の待つ家へと帰る。



「姉ちゃん、おかえり!」

「ただいま」

家へ帰るなり、弟が駆け寄ってきてくれた。こけた頬を緩ませる彼を、私は優しく抱きしめる。やがて妹もやってきて、帰ってきた私を見上げながら優しく微笑んだ。かわいい姉弟たちの頭をなでると、私は買ってきた食材でご飯を作り始める。二人は待ちきれない様子で畳に座り、足をばたばたさせていた。ごめんね、もう少し待っててね。

しばらく囲炉裏の傍で鍋をかき混ぜ、いい匂いがしてきたところで私は口を開いた。

「できたよ」

「やった!」

「いただきます!」

弟と妹は嬉しそうな声を上げ、ぱたぱたと囲炉裏の周りに駆け寄ってくる。私は先に母の分を取っておいて、涼しいところで冷ましておいた。そして美味しそうに食べる姉弟の横顔を見て、少し頬を緩ませていた。


そのあと寝込む母親にも食べさせにいき、皆にご飯を振舞ったところでまた家を離れる。いってきます、と誰にも聞こえないような声で呟いて、家の戸を閉めた。








***






いつも通りに売春婦として昼から次の日の朝まで働き、夜が明けたところでまた家に戻る。そこまでは本当にいつも通りだったのに。




私が家へ帰ると、誰も居なかった。




正確には、つい昨日元気に動いていた姉弟と、か細い息をしていた母親の死体が転がっていた。何もないのに家は荒らされ、なにかを物色された形跡がある。賊に、入られたのか。

生臭い嫌な臭いに巻き込まれ、意識はどんどん暗闇のそこへ沈んでゆく。どうしていつもこう、上手くいかないのだろうか。

不思議と涙は出てこず、代わりに果てしない虚無感を覚える。いつも貯金していた箪笥を確認して、私の口からため息がこぼれた。やっぱり、取られている。

箪笥の引き出しをゆっくり閉じて、私は家族の死体を綺麗に横に並べた。皆の目は閉じてあげて、顔に布をかけてやる。せめて葬送は家族一緒にしてやろうと、私は火打石を手に畳に火をつけた。

暖かい火の手がゆるりと周り、もう息をしない家族を包む。血と肉の焼けつく匂いが鼻を刺し始めたところで、私は表へと出た。そうしてどんよりと曇る空の下、炎を包まれる我が家をじっと眺めていた。地べたに座り込んで、家が真っ黒な炭になるまでずっと見ていた。

炭が崩れ落ちてゆくように、私の心も徐々に崩壊していく。あとに残るのは、ただ黒く墨のような闇だけ。もう私の目に映る景色には、二度と色が映ることはないだろう。そう、思っていた。


「大丈夫ですか?」


ざり、と地面を踏む音と声が聞こえて、ふと隣を見る。


見慣れない顔の、腰に刀を差した青年が私に手を差し伸べていた。私はただ、その手を握り返すこともなく、じっと見つめているだけだった。







***






気づけば私は青年の背中に負われ、心地よい揺れに身を委ねていた。

死んだ家族ともう帰るつもりのない家を自分で燃やして、道に座り込んでいるまではずっと一人だった。ただ、この青年が現れるまでは。

もう生きるつもりなんて毛頭ない。生きていたって、どうせお金がかかる。生きることの大変さはもう十分知っているし、大切な家族を失った今、生きる意味など無い。この青年が何を考えているか分からないけれど、きっと私を弄ぶつもりなんだろう。手を離してくれたら橋にでも飛び降りに出かけようかな。そんなことを考えていたら、青年に声を掛けられた。

「着きましたよ。眠たいでしょう、今日はゆっくり休んでください」

ある家の前で下ろされ、優しく手を引かれる。私は彼の思うがままに歩き出した。

小綺麗な、立派な屋敷。きっとこの青年、よくは分からないけど沢山稼げるのだろう。玄関で草履を丁寧に脱がされ、またもや優しく手を引かれた。そして通されたのはこぢんまりとした寝室。そこには布団が一組と、寝巻が置かれていた。

「今日から貴女の部屋です。好きに使ってください。食事ができたら呼びますので、それまでゆっくりしておいてください」

「…」

青年は私に優しく微笑みかけ、襖をぱたんと閉めた。そして足音が遠ざかっていくのを、私はずっとぼんやりしながら聞いていた。

今ならそばに誰も居ない。そう思って立ち上がり、私はさっき通った廊下や部屋を通って表へ出る。そこから近くの川に向かって走り出した。彼が何を考えているか知らないが、生かしてくれずともこちらで勝手に死んでおこう。そっちのほうが、ずっといいに決まっている。彼にとっても、私にとっても。

霜月の夕方。肌を刺すような寒さのなか、裸足で駆ける。皮膚の薄い足は石を踏むたびに切れ、血が足を濡らした。ただ、今はそんなことなどどうでも良い。

目の前に橋が見えて来て、私はそっと走る足を緩める。白い息を吐きながら欄干に手を掛け、迷うことなく頭から深い川へと身を投げた。

ざばん、と体が凍てつく冬の水に包まれ、冷たい水が躰の熱を奪ってゆく。ついには肺から空気までも奪い取り、代わりに水が肺を満たしていく。肺に異物が入ってくる激痛を感じながら、私は泡をひと吐き。

今更一人で生きていても、私が必要とされることはない。こうして死んでしまっても誰も困ることはない。むしろ助かるだろう。




もう誰も信じられる、頼れる人はここには居ない。




苦しさが限界まで混みあがってきて、自然に涙が湧き出る。霞む視界の向こうで、白い泡が夕日に照らされて綺麗に見えた。

その時、ざばんと音がして、またもや水飛沫。私の躰は誰かの腕に抱かれ、思い切り遠い水面まで浮かび上がった。

「げほっ、げほっ…っ!」

肺に入った水を躰が拒絶し、吐き出そうと喉が動く。激しくせき込む私の背中を、優しく叩いてくれる人が傍にいた。

「余計な、ことを、」

ようやく咳が止まったところで、私はぼそりと呟いた。私を助けたのは、先刻の青年だった。

「こういう時に、潔く見殺しにできるほど俺は優しくないんよ」


本当に、その通りだ。


ただ、冷え切ったはずの躰の奥底が、少しだけ温まった気がした。でもきっとそれは気のせいだ。


「俺のためやと思って、傍に居てほしい」


青年は私の手を優しく握りしめた。彼の手も、私と同じくらいに冷え切っていて、震えていた。どうしてこんな私なんかを助けるのか。きっと、同情しているだけだろう。そんな薄っぺらな言葉、誰が信じると思っているのだろうか。


「俺は、陽翔はると。これからよろしく」


馬鹿馬鹿しい。私にはなんていらないのに。

そう思っておきながら、私は少しばかり背の高い彼の胸に額を押し付けた。




「名前、なんて言うの?」

ぱちぱちと炎が燃える暖かい囲炉裏の傍で、陽翔が私にそう問うた。寝巻に着替えて、冷えた体を温めながら、私は呟くように答える。

はつ

蚊の鳴くような小さな声でも、彼は拾ってくれた。私の返答を聞くなり、前髪に少し隠れる垂れ目を優しく細める。それはよく居る胡散臭い人間の笑みではなく、心からの優しさの具現化だ。嫌でも分かった。彼は、私が仕事で相手にしてきた男と違う。でも、まだどこか信用を置けない。一度助けてもらったからと言って、彼が私をどう思っているかまでは分からない。一旦は、様子見だ。

「どうして、私を拾ったの。…あの時も、さっきも」

私の細い声が、暗い静かな部屋の空気を揺らす。陽翔は表情を変えることなく、優しく答えてくれた。

「言わなかったっけ、”潔く見殺しにできるほど俺は優しくない”って。初さんの事、大事にしたいって思ったからやよ」

気づけば、彼の喋り方は最初ほど堅苦しく無くなっていた。ちょっとだけ方言のような訛りが混じっているが、それも柔らかい彼の印象に合っている。私は、彼の言葉に返答するべく口を開いた。

「私なんか、大事にしたって…何も…」

自分を嘲るように鼻で笑いながら答えると、陽翔はなにやら真剣な顔つきでこちらを見据えた。それに少しばかり驚いて言葉を途切れさせてしまったが、陽翔はそれもお構いなしに口を開く。

「…好きやから、初さんのこと。会ったばかりって分かってるけど、幸せにしたいって思ったんよ」

馬鹿馬鹿しい。そうやって綺麗ごとを並べるけど、心の中ではそんなこと微塵も思っていないくせに。

明るい感情を持ち合わせていない今の私は、彼の言うことすべて心の中で否定した。嘘に決まってる、そんなはずはない、と。

けど、彼の顔を見たら、嫌でも分かってしまった。

頬は真っ赤に紅潮して、恥ずかしそうに唇を噛んでいる。おまけに正座に座り直した姿勢はかちこちで、緊張しているのが丸わかりだ。そこで私は思い知った。よく見てみれば、彼も私と同い年くらいの青年。嘘を付くとは思えないような純粋さを持ち合わせている。

彼は本当に、私のことを…

「好きだから、もう二度と泣かせない。絶対に幸せにしたいと思ってる」

きっとうわべだけの言葉。信じないほうが、あとで傷つかずに済むのに。それでも私は、彼の誠実さに心が負けてしまった。

彼なら、もしかしたら。私は本当の愛に、愛情に触れられるかもしれない。からっぽで飢えた心を今満たしてくれるのは、彼しかいない。

「もう、いいよ。私、もう逃げたりしないから。好きにして」

陽翔はよかった、とばかりに優しく微笑んで、私を見据えた。その顔を見た時から、なんだか胸が余計に苦しくなった気がした。


「今夜はあったかくして寝てね。冷え込むから。じゃあ、おやすみ」

陽翔に掛け布団をもう一枚渡され、それを両手に抱える。陽翔は部屋の襖をあけてそう言うなり、またもや優しく微笑んだ。私はまだ少しばかり困惑しながら、用意してもらった布団に包まる。ぱたん、と襖がしまった音がして暫くした後、私は一人で呟いた。

「おやすみ、なさい」





***





朝。私はゆっくり躰を起こした。

見慣れない部屋に、見慣れない天井。いつもの夜の倦怠感も、疲労感もない。目はすっきりとしていて、いつものぼやけた視界が晴れている。

私は布団から出ると、枕元に着替えが置いてあるのを見つけた。これを着てもよいということだろうか。あとで陽翔に聞いてから着よう。

小さな鏡を覗くと、そこにはいつもより見違えた姿の私。腰辺りまで伸びる長い黒髪や、翡翠色の瞳は変わっておらずとも、幾分か白い肌に血色が戻っている。なんだか、不思議な気持ちだ。


「おはよう、初さん。朝餉は食べれる?」

「うん、ありがとう。食べてもいい、?」

私がおずおずとそう言うと、陽翔はにっこりしておぼんを差し出す。塩むすびと、冬野菜が入った味噌汁。大根の焼酎付けも添えてあった。いただきます、と手を合わせてから、ほかほかと出来立ての湯気をあげるお味噌汁に箸を入れた。

ひと口だけ飲むと、躰のなかに温かさが広がる。こんなに優しくて温かいご飯は初めてだった。

「美味しい?」

「…うん、」

「よかった」

気のよさそうな垂れ目を細めて優しく笑う彼。その笑顔に心の底でこっそりと安心感を覚えていた。自分でも自覚できないほど、奥底の方で。

そのまま二人で朝餉を食べて、お皿を台所へ持って行った。そこで陽翔が着替えておいで、と言ってくれたので、私は再度着替えに部屋に戻る。そこで布団をたたみ忘れていたのに気づき、布団を丁寧にたたんで部屋の隅に寄せておいた。そして用意されていた薄桃色の着物に腕を通す。貧乏人の私にはいささか派手じゃないかとおろおろしてしまいそうになったが、我慢して帯を締めた。帯も落ち着いた赤色で少し派手だった。いつもと違う着物に少々焦りを覚えながら部屋を出て、陽翔のところへ行くと、彼はおお!と声を上げた。

「やっぱり、似合うと思ったんだ。綺麗やよ」

「…そうかな」

こんな派手な着物、私が本当に着こなせているのだろうか。彼に綺麗と言って貰ってもまだ不安は拭えない。私は黒髪を手でねじねじしていた。

「髪紐はいる?おろしておく方がいい?」

「うん、大丈夫」

「必要になったらいつでも言って。俺が買ってくるよ」

にこりと優しく微笑む彼。

「…ありがとう」

私は呟くようにお礼を言った。



その後は、陽翔は外に買い物に出かけ、私は屋敷で留守番をする。やりたいことはなんでもやっていいと言われて、いろいろな道具の場所も教えてもらった。今私は屋敷の庭に出て、押し入れから持ってきた鞠を蹴って遊んでいる。いい年して一人で蹴鞠なんて、と一瞬だけ思ったが、暇すぎるのでいいかと思う。それに、意外と遊ぶのも悪くない。これが、陽翔とやったらもっと面白いのだろうか。

そんなことを考えながら足で器用に蹴っていると、途端に眩暈がしてきた。ふらりと体勢を崩した私は、庭の地面にぺたりを座り込む。普段からあんなに良い食事を取っていないので、貧血で倒れることもしばしば。これもきっとこの類だろう。下を向いておけば、吐き気をなんとか紛らわせることが出来る。

その時、陽翔が帰ってきた。そして、庭に座り込む私に超特急で駆けつけてきてくれた。

「初さん?大丈夫?」

「うん、いつものことだから。平気」

私がそう答えても、陽翔はおろおろとするばかり。終いには、湯呑に水を入れて持ってきてくれた。少し水分を取ってじっとしていると、貧血が収まってきた。こんな時、いつもならそばに誰も居ない。不安と怖さを感じながら苦しさと戦っていたが、今は隣に陽翔がいた。それになぜかとても安心して、私は陽翔の胸に額を押し付けた。慣れない温かさと、陽翔の息遣いが聞こえる。陽翔は私の背中や頭に手を回すことなく、じっとそのままで居てくれた。私の前の職業上、知らない人に触られるのは慣れているが、これは彼なりの優しさなんだろう。本当に、優しい人だな。


それから半月ほど暮らして、私は益々彼と親しくなった。この前はしどろもどろだったが、髪紐を買ってきてくれ、と頼めたし、その後のありがとうも言えた。

日常的に少しずつ会話が増えて、なぜか私は嬉しいと感じるようにもなっていた。理由はなぜか分からないけれど、私が確実に死から遠ざかっているのは確か。前まで灰色だった目の前に、陽翔が明るい色を足してくれた。そのお陰で今、生きるのが楽しいと思えている。ありがとう、陽翔。





そんなある日、陽翔が夕食の席で私に話をしてくれた。

「初さん。知ってるかもしれないけど、俺の職業は剣客なんだ。実はこないだ、大きな仕事を持ちかけられて……」

段々と声が尻すぼみに小さくなっていく。私はきょとんとしながら彼の顔を眺めていると、彼はみるみるうちに真っ赤になっていった。林檎のごとく赤い顔だなあ、と呑気に思っていたら、陽翔が強張った口を開く。


「その仕事から、帰ってきたら…貴女と祝言をあげたいな、と思っていて…」


「えっ、」


突然の事で、私は上手く反応することが出来なかった。祝言?もしかして私と、夫婦になりたいと言ってる?

そんなの、

「私も、したい。嬉しい」

気づけばそう口から零れていた。なんでなんだろう、どうしてこんなに幸せな気持ちで満たされているんだろう。よく考えれば分かることだった。

祝言をあげたいと言われたことに嬉しさを感じている。これはもしかして、私も彼を好いている、のか。一度頭の中で巡らせた単語は、思いがけないほど私の気持ちにぴったり当てはまった。

「それって、」

陽翔はびっくりした顔でこちらを見ている。もう恥ずかしさなんて吹き飛んでしまったようだ。彼の疑念を確信に変えるべく、私は彼に胸の内を明かした。

「貴方が、好きです」

言いながら、自分の頬が緩むのを感じた。それと同時に、彼も瞳を涙に濡らして、いつものように優しく微笑んでいた。彼の前髪に少し隠れる瞳は、綺麗な翡翠。私と同じ色だった。








***







あくる日の朝。私は玄関で草履を履く彼をじっと眺めていた。

「それじゃあ、日が沈むまでに帰ってくるから。留守番をよろしくね」

ちゃき、と腰に刀を差す陽翔。綺麗な金色の鍔には、桔梗の花が彫られていた。

「うん、任せて」

私が微笑むと、彼も優しく微笑み返してくれた。いつものあの、優しい笑顔。私はここぞとばかりに勇気を振り絞って、今まで呼んだことのなかった彼の名前を口にした。

「いってらっしゃい、陽翔…さん」

一瞬ためらって「さん」をつけてしまった。でも、呼べたからいいのだ。それに対する彼は一瞬きょとん、とした後。嬉しそうに唇に微笑を刻む。

「いってきます、初さん」

私は庭に出て、彼の背中が見えなくなるまで見送っていた。





その日の夕暮れ。私はそろそろ帰ってきはしないかと、はらはらした面持ちで玄関に立っていた。彼が帰ってきたら、私は彼のお嫁さんになる。幸せすぎる。

前までの私からは想像できないような幸福感が、今の私には感じることが出来る。本当に彼は命の恩人だ。早く、帰ってこないかな。

わくわくと玄関で待っていても、帰ってくる気配はない。ついに、日は完全に沈み、辺りは暗くなった。それでも彼は、帰ってこない。

「陽翔さん、?」

私はたまらず草履を履いて外へ飛び出した。




暗闇に沈んだ静かな町を、見慣れない道を駆ける。灯りのついた家に彼のことを聞いて回ったが、皆知らないと首を横に振るばかり。なんで、どうして。焦りに焦った私は、さらに周りに聞き込みを続けた。すると、町はずれの河原で乱闘騒ぎがあったとの情報が耳に入り、私はすぐさまその方角へ向かう。

ようやく私が河原にたどり着いたころには、月がすっかり真上で光っていた。息をぜいぜいと切らせながら河原へ降りると、そこには信じられない光景が広がっていた。

「え…?」

死体の山。打ち捨てられた武器。河原の丸い石は、ほとんどが真っ赤に染め上げられていた。嘘だ。嘘だ。嘘だ。

私は思わず真っ赤な河原に座りこみ、あまりの衝撃にその場で嘔吐してしまう。胃液の酸っぱい味が、唇に染みついた。眩暈と吐き気のするまま立ち上がり、辺りを呆然と見回す。

ふと目に入ったのは、河原に刺さる一振りの刀。

月光を浴びて神々しく光る刀は、真ん中でぽっきりと折れている。その鍔は綺麗な金色で、まだ新しいものだと、知識がない私でも分かった。鮮血にまみれたその刀は、ここがいかに戦場だったかひしひしと物語っている。きっとここで沢山の人が善戦したのだろう、その金色の鍔には、桔梗の花が彫刻されていた。


月光を受けて煌めく金の桔梗は、痛いほど私の目に焼き付いた。


「そんな、」


その時から、目の前の景色は懐かしい灰色に戻っていた。







***






目が覚めると、そこは屋敷の玄関。壁に身を委ねて、私は眠りこけていた。凍てつく冬の朝。風邪ひくよ、と心配してくれる人は帰ってこない。

私はただただ、待ち続けた。

日が沈むまでに帰ってくると、言っていた。帰ってくると言っていたのだ。私との約束を破るはずがない。彼は私の知る中で、一番優しくて、一番誠実で、一番大好きな人。

「帰ってくるって、言ったじゃん……」

私の呟きは虚しく、静かな空気を揺らすのみだった。


次の日、帰ってこない。

そのまた次の日、帰ってこない。

七日後、帰ってこない。

半月後、帰ってこない。

二か月後、帰ってこない。




いつまで待たせるつもりなのだろうか。いい加減、早く帰ってきてほしい。







そんな時、ずっと沈黙していた玄関の門をくぐる人がいた。




「ただいま。ごめんよ、大分遅くなっちゃった」




血まみれの着物と袴。折れた刀を片手に、満身創痍の陽翔がそこに立っていた。

やっと帰ってきてくれた。私は、喜びのあまり陽翔に抱き着いた。

彼も、今度は背中に手を回してくれた。久しぶりの、彼の落ち着く匂い。温かい息遣いが、耳の傍に聞こえるのがたまらなく幸せだった。

「おかえり、陽翔」

いつの間にか自分の声は、涙に濡れていた。目の前がぼんやりと曇って、頬に温かい雫が伝っていく。陽翔も、鼻をすすった。

「ただいま、初」

耳元で優しく囁かれた。私は、さらに続ける。

「陽翔の事、愛しています」

彼の顔を見上げながらそう言えば、彼はいつも通りの優しい微笑みを浮かべた。それから、照れたように目線を逸らすと、うーんと唸った。暫くして、口を開く。

「俺も、初を愛してる」


この上ない幸せを、私はこの時手に入れた。

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