ぷちぷちホラー

優美香

第1話 豪雨が怖い

 テレビを観ていると、背後から母が話しかけてきた。

「雅也は、ツイていたね。あんな雨を、まぬがれたんだもの」

 母もまた、食い入るように画面を見つめている。ゲリラ豪雨で関東各所のあちこちが洪水のようになっている。新宿や麻布、品川。特に駅構内や周辺の浸水やら冠水の状況を、熱心に取材しているようだった。

 ホームへと昇り降りするための階段の上から雪崩れるように大量の水が落ちている。

 まるで滝のようだ。

 呆然と視ているだけの俺に構わず、母は言う。

「昨日のうちに帰ってくれていて、よかった」

「ああ……まあね、まあ、そうだね」

「京都の生活は、もう慣れたの? お母さんは、よくわかんないんだけど。向こうの人って意地悪なんでしょ?」

「んなことないよ、大丈夫。学部の中でも、俺はハブられてないから」

「よかった。お父さんも関西に馴染みがなくてね。ほんとに、あんたの顔を見るまで心配だったのよ」

「うん、ありがと」

 生返事をしつつ、テレビから目が離せない。

 やがてテレビ画面は、ある光景を映した。

「あっ」

 俺と母は同時に声を上げていた。

 人通りなどない豪雨の夜空に、地面から太い柱となった泥水が噴き出している。てっぺんにマンホールの蓋がある。蓋を乗せた水柱は、空高く昇っていた。あまりにも軽い蓋は、あっけなく吹き飛んでいく。

 画面からは、ごうごうと咆哮のような音が響き続ける。

「だ、誰も怪我しなかったらいいね……」

 母は必死に声を出している。

「う、うん」

 途端に、イヤな記憶がひらいた。しらずしらずのうち、指先が震えだす。

「どうしたのよ」

 尋ねられた。

「いや、ちょうど去年。大学近くバイト帰り、あんな風にゲリラ豪雨? になって」

「うん」

「ものすごい雨のなか、俺の目の前に男の人が歩いてて。それこそ、ビニール傘が折れそうなくらいの強い雨だったよ。道路を必死で渡ってただろう、男の人が『ズボッ』って大きな音と一緒に消えたんだ」

「は? 消えた?」

 母の不思議そうな顔を見て、頭を抱えた。なんと説明すればいいのだろう。

 土色の空。激しい雨音。赤い信号。男性の悲鳴。濁流の音。雨水を大きく跳ねるように行き交う車の群れ。道の脇にいた人たちにも、車から寄越される分厚い水しぶきがざばざばと降り注いでいた。

 脳裏に生々しくよみがえる、あの光景。

「消えたんだ、地底に吸い込まれたっていうか」

「それこそマンホールの蓋が外れていたんじゃなくって?」

「探せなかったよ、足がすくんで。怖くて」

 そう、あまりにも非現実的なことが眼前で起きたのだ。たしかめることも、消えた男性を探そうと試みることもせず。

 あのとき、俺の周りの人も傘を落として呆然と佇んでいるだけだった。男性が消えたあたりを、いくつもの色を失った顔が黙って見ているだけだった。何秒か経ったあと、ずぶ濡れになった制服を着ていた女の子が、あわてて携帯電話を耳にあてて警察と消防に連絡していた。俺はといえば、なぜか踵を返して違う道へと走り出していた。

 俺は逃げた。

 ごうごう、ごうごう。

 雨の音は、いつまでも止まなかった。持っていた傘も、役には立たなかった。頭のてっぺんから足のつま先まで水浸しの状態で、ひたすら走った。冠水した道路を踏みしめるたびにシューズと靴下の間、ぐちゃぐちゃと水の音がした。

「そ、それで救急車は来たの?」

 ためらいながら問う声に、かぶりを振った。

「わかんない。反対方向に、走っちゃったから」

 母の深いため息が聴こえる。

「……なんで今さら、そんなことを言うかなぁ」

「急に、思い出したんだ。ずっと忘れていたのに」

「そっかぁ」

 それ以上、なにも聞かれたくなかった。なにも言いたくなかった。

 俺の唇から「ちくしょう」と、つぶやきが漏れてくる。

 母が黙って、その場を去った。責めなのか諦めなのか、わからない。







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