神の悪戯
波のさざめき音を聞いて、ついに自分は死んだのか、と思った。
濡れた地面はじんわりぬるい。全身に降り注ぐ陽射しはあたたかく、背中まで押し寄せては引いていく波は少しひんやりとしていて、ここに来る前の嵐が嘘のように思える。
人は死んだらどこへ行くのだろう。
光の女神の信奉者に言わせれば、女神に遣わされた裁断者が現れて、生前の行いから地獄行きか天国行きかを決められるとか。
もし本当にそうなのだとしたら、ここは間違いなく天国だろう。むしろ生きていた頃よりもずっと安らかな気持ちでいる。こんなことがあって良いのかと思ってしまうほどに。自分は馬鹿なことをしたというのに。
――自ら海に身を捨てた。崖の上から、頭を下にして。
あれほど「生きろ」と言われたのに。「必ず逢いに行く」と言われた言葉を、忘れたわけではなかった。あの時は本当に、百年千年生きられる気がしていた。確かに生きると誓った。
そして実際、それだけを理由に生きてきた。人と出逢い、大切なものを手に入れては、失い、失い、また失い。何もかもが過ぎ去ったものとなって、まだ僅かに残っていた人間らしさを捨てて、過去を愛でて。まだ死ねない、まだ死ねない、いつまで生きる、いつ死ねる。希望だったかの言葉はもはや呪いとなった。
終ぞ待ち人は来なかった。
彼の魂は未だ輪廻の環を辿り続けているだろう。生まれ変わった先で、彼は前世の記憶などきっと覚えていない。そもそも無茶な誓いだったのだ。約束は反故になり、自分たちはなるはずだった通りに悲劇の結末を迎えただけ。
ひどく悲しかった。鼻がツンとして、視界がぼやけた。実に数百年ぶりの涙だった。溢れるままに、目を閉じる。
今は存分に悲しんでいよう。時間の許す限り。天国に着いた先で何があるのかは聞いたこともないが、きっとこれが最期になるだろうから。
一筋、二筋、流れ落ちて、瞬いて。
――次に目を開けると、少女の顔があった。
不思議そうにこちらを見つめる瑠璃の瞳が、涙もろとも心を吸い込んでしまったようだ。その
垂れ下がる彼女の髪が頬にかかってくすぐったい。でも、この泥砂に塗れた手で払うには、彼女はあまりにも清すぎた。
「あなたは、神様を信じる?」
血色の良い唇が発した言葉を、ゆっくりと呑み込む。
「信じてみてもいいかもしれない」
最期にこんな穏やかな気持ちで、悲しむべきことを悲しんで、ささやかな幸せに出逢えた。もしこれが神様のお慈悲なのだとしたら、感謝しなければならない。
「私もそう思う。縋るほど確かなものではないけれど、時に現実に奇跡のような救いをもたらしてくれる」
少女の声を聞いていると、手先の感覚が冴えてくるのを感じた。動かそうとすると、水を含んだ服がどっしりと重たく張り付く。
衝動のままに腕を持ち上げ、視界に映る作り物みたいな景色に泥を塗るように、陶器のような肌に触れた。あたたかかった。陽射しよりも、ずっと。
「これは、現実?」
触れた頬がまるく持ち上がる。綺麗だ、と思った。本当に夢みたいだった。でも、夢じゃないらしい。
「大丈夫、現実は思っているより優しいものよ。
――さあ、起きて。身体が冷えているわ。温かいものを用意しましょう」
彼女に腕を引かれるのに任せて身を起こす。目が眩む。青い空が、輝く海が、遠い水平線が、ひどく愛おしい。世界はこんなにも美しい。
振り返ると、少女は立ち上がって服についた砂を払っている。頰につけられた泥はまだ跡に残っていたが、それさえも美しい。
不覚にも、生きていてよかったと思ってしまった。また失うだけなのに。
わかっているけれど、神の悪戯か、また出逢ってしまったから。悲しいほどに苦しいほどに、人を欲している重たい重たい心がここに在るから。
出逢ってしまった以上、せめて人間らしく、心が望むままに、生きるしかないだろう。
「ありがとう。」
立ち上がって礼を言うと、彼女は無邪気に笑った。
そこで初めて気がついた。
彼女の目は、瑠璃色。
かの待ち人と、同じ色をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます