12-2.書庫への逃亡
「大丈夫でらっしゃいますか? やはりお風邪を召されたのでは……」
話の途中で考え込んでしまった由羅に蘭香は気遣うように声をかけた。
その声に由羅はハッと現実に引き戻された。
「ううん。大丈夫よ」
由羅はいたって普通に答えたつもりなのだが、先ほどの行動がよほど不審だったのか、蘭香は探るような表情を浮かべながら言った。
「誤魔化しても無駄です。この薬、飲んでらっしゃるじゃないですか」
蘭香が指さした先には、紅玉薬の小瓶があった。
だが、無関係の蘭香にはこれが何なのかを教える事は出来ない。
どう答えればいいのか口ごもったのがいけなかった。蘭香の侍女魂に火をつけてしまった。
「えっと……」
「言い訳をしても無駄です!さぁ、寝台でお休みになってください。今、お医者様を呼びますから。もし由羅様に万が一があったら、わたくし、凌空様にも陛下にも合わせる顔がございません!」
蘭香がそう言いながら、由羅の腕を引っ張り上げ、そのまま寝台まで連行しようした。
このままでは、本当に典薬寮から医者の一群が押し寄せ、心配した紫釉が執務を中断してやって来て、誤解だとバレた時に執務を中断させたと凌空に怒られる……という未来が待っている。
それはまずい。
「本当に大丈夫だから。あ、そうだわ! 私、
「え、由羅様!? お待ちくださいませ」
「じゃあ、ちょっと行ってくるわね!」
蘭香が止める声を聞こえないふりをして、由羅は逃げるように部屋を後にした。
※
こうして
悩んだ末に由羅は宣言通り伯瑜に会いに行くことにした。
鵜呑みにしたわけではないが、以前「いつでもお茶を飲みに来ていい」と言われていたからだ。
それに一つ、紫釉について聞きたいこともあった。
(もし、邪魔なようならすぐに帰ることにしましょ)
そう思いながら由羅は書庫に向かい、書庫の入口でに着くと恐る恐る中を覗き込んだ。
書庫の中は相変わらず埃っぽい。
貴重な本や書類があるはずなのだから、本の虫干しや部屋の掃除をするなどの管理が必要だと思うのだが、どうやらそういうことをしている様子はない。
書庫の管理人である伯瑜が足腰が悪いことを考えると、この状況は無理もないと思うが……。
そんなことを考えながら由羅は意を決して部屋へと足を踏み入れようとしたその時、背後から声がかけられた。
「由羅?」
「ひゃっ!」
「あぁ、驚かせて悪かったの。どうしたんじゃ?」
「えっと……伯瑜様のお時間があればお茶を飲ませてもらえないかなぁと思いまして」
由羅がおずおずと言うと、伯瑜は満面の笑みを浮かべ、優しく手招きして書庫に入るように促した。
「もちろんいいとも。いつでも歓迎じゃよ。さ、今日も新しい茶菓子があるんだよ。お入り」
「ありがとうございます!」
そうして由羅は伯瑜の後について書庫の奥へと進んだ。
この間来た時と同じく、丸窓の傍にある
燦燦と降り注ぐ光が、暗い書庫内を明るく照らす。
伯瑜はにこやかに茶の準備を始めた。
ゆっくりと丁寧な一つ一つの所作を見ていると、ほっと心が落ち着いていく。
皇帝を暗殺しようとしたこと、お飾り妃になったこと、怪死事件を解決するために奔走していること。激変した日々から少し離れて一息つけたような気がした。
「ほら紅茶じゃよ。菓子は
「わぁ、美味しそうですね。いただきます」
そう言いながら由羅はまず紅茶を一口飲んだ。
前回と同様、独特で甘い香りが鼻腔をくすぐる。桃酥餅は紅茶によく合い、サクサクとした
お菓子に舌鼓を打っていると、伯瑜が思い出したように尋ねてきた。
「そう言えば、由羅は後宮の侍女かな? それとも泰然と知り合いということはどこかの省の女官かな?」
伯瑜の問いに、由羅は妃ですとは言えず、言葉を濁しながらなるべく自然に答えた。
「えっと、後宮の侍女です。泰然様とはそこで知り合いまして、仲良くさせていただいてます」
(後半は嘘じゃないわ。うん)
「そうか、後宮ならば紫釉様をお見かけすることもあるじゃろうか?」
「まぁ、そうですね」
(妃だから一応毎日会っているけど。そこは言えないわよね)
「紫釉様は怖く見えるじゃろうが、本当は優しい良い子なんじゃ。子供の頃はやんちゃで無邪気で、子供らしい笑顔をよく見せておったが、拉致される事件があっての。それ以降、すっかり人が変わったように大人びてしまわれた」
拉致された事件というのはこの間紫釉が言っていた事件のことだろう。
あれが紫釉を変えたのか。
確かに人買いに売られるという経験をすれば、無邪気さを失ってしまっても無理はない。
当時の紫釉が体験した恐怖を想うと、由羅は沈痛な面持ちになった。
伯瑜は由羅を見ながら、真剣な表情で懇願するように言葉を続けた。
「今では感情を見せず冷たい表情で、滅多なことでは表情は変わらん。お立場上仕方がないのかもしれぬが、敵には容赦しないし、官僚の中には冷徹皇帝などと言われている。だが、本当は優しくて良い子じゃ。だからお前さんも紫釉様を怖がる必要はないからの」
伯瑜の言葉を聞き、由羅は思わず首を捻ってしまった。
由羅が知っている紫釉とはあまりにも異なり、他の誰かと勘違いしているのではと思えるほどだ。
「えっと、紫釉様にはよくしてもらっているので大丈夫です」
「そうか。ならば良かった。これからも紫釉様に仕えておくれ。頼んだよ」
「はい」
由羅は笑ってそう答えた後、今日ここに来た目的を思い出した。
「そうだ! 伯瑜様は紫釉様の教育係だったんですよね?」
「遙か昔のことじゃがの」
「では、紫釉様の好きな食べ物って何かご存じですか?」
急にそう尋ねた由羅に、伯瑜は面食らったように一瞬目を見開くと、首を傾げたので、由羅は説明することにした。
「実は、この間紫釉様から柿を貰ったんです。私は柿が大好きなので、久しぶりに食べれて嬉しくて。それで何かお礼がしたいなと思いまして」
「なるほどの」
伯瑜はそう言うと、目を細めながら優しく微笑んだ。
そして少し考えた後、「そう言えば」と頷きながら答えた。
「紫釉様は蟹がお好きだったはずじゃ」
「……蟹の季節はまだ先ですね」
「この国の蟹は秋ごろが旬だからの」
その言葉を聞いて由羅はがっくりと肩を落とした。
今は春の終わりなので、今すぐに蟹を贈ることはできない。
「そうなんですね。あ、ということは、私の好物と紫釉様の好物は同じ時期の食べ物になるんですね」
「おお、そうなるかの。だが、蟹と柿を一緒に食べたらいけぬよ。食べ合わせが悪い」
「食べ合わせですか? 何か問題があるんですか?」
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