第16話 七年前の出来事
「今日は下りない方がいいと思う。たぶん、このまま吹雪いてくる」
そう言ったのは熊谷健一だった。
最初にその言葉に苦笑いをしたのは柴田自身だったように思う。
「大丈夫だよ、お前は心配しすぎなんだ」
実際、熊谷は慎重派だった。柴田から見れば慎重すぎるとも言えた。だから、正直に言えば熊谷の意見なんて採用したくなかった。
学生時代からしっかりと体力と経験を積んだ実力があると思っていたし、登山部のOBとしてもこんなところで弱腰になるのは避けたかった。
「それに、みんな明日は仕事なんだ。お前みたいに農家でのんびりやってられるほど、暇じゃあないしな」
橘が言うと、久保田も笑った。
「仕事がどうとかじゃなくて、風向きの問題だよ。ここでもしホワイトアウトすれば、仕事どころじゃなくなるんだ」
熊谷はそれでも意味のない抵抗を続けていた。
正直に言うなら――柴田は、自分は医者になるほど努力を重ねた自負があった。高校の教師。零細企業とはいえ経営者。そしてただの農家。柴田の序列から考えれば、添え物でしかない熊谷の意見を聞くほどではないと思っていた。
柴田は下山を強行した。もちろんそれは久保田や橘も同意見だった。彼ら二人がどう思っていたにせよ、柴田の意見に同意したのだ。とにかく急いで下山するという意見に。
それから一時間もしないうちに、吹雪は四人を取り囲んだ。あたりは真っ白になっていた。まだ大丈夫だろうという思いが、足を急がせた。なんとか明日までには帰らないといけなかった。下の方へとなんとか下りようとしていた時だった。
「……ぐうっ!」
小さな声がすると、熊谷が滑り落ちていくのが見えた。視界が悪いなかで、熊谷が雪に足をとられたのだ。
「おい、熊谷! 大丈夫か!」
久保田が叫んだ。下の方で、白ではないものが微かに動いた。
さすがに慌てた。動けないようだったが、少しずつ地面を辿って熊谷のところまで行った。この雪から飛び出した石にぶつけたらしく、足が奇妙な方向に折れ曲がっていた。
「どうにかしてくれ柴田! お前、医者だろう!?」
橘の叫びに、心臓が跳ねた。医者だと言われても、自分は内科医で――いや、応急処置くらいはできる。しかしこんな場所で。
「あ、ああ、任せろ」
そうは言ったが、早く下りなければという思いもあった。なにしろ視界はどんどん悪くなっていったし、あたりはすっかり白くなっていた。こんなところで熊谷が落ちなければ戻れたのではないかとさえ思って、苛立っていた。それでも柴田はなんとか熊谷の足を固定しようとした。寒い。手袋をしていても、指先の感覚が無くなりそうだった。いまにも頭がパンクして、何もかも放り出してしまいたかった。久保田は完全にパニックになっていたらしく、棒のように突っ立っていたままだった。橘は自分の頬を軽く殴って、意識を保とうとしていた。二人とも、家に小さな子供がいるのだ。ここで死ぬわけにはいかないと思っても、何もできなかった。誰も彼もが無言だった。
最初に異変に気付いたのは、橘だった。
「おい、何か……聞こえないか?」と橘。
「いいから手伝えよ……」
柴田は言ってやったが、顔をあげて、橘が見ている方向へと視線を向ける。方向さえわからなくなった白い視界のなかで、そいつはしっかりとした影を持っていた。
「……ほしいか?」
低い声が言う。
この場にいる誰の声でもない。
「……助けてほしいかあ?」
その声は嘲笑うように、地獄の底から響いてきた。巨大な体躯の影が映る。
二メートルはあるような巨体。頭から生える、獣の毛のような剛毛。その隙間から生える三本の氷柱のような角。冷気で鼻がやられているというのに、獣臭がした。上半身は簑を思わせる服か剛毛かわからないものに覆われ、巨大な黒い手が伸びている。
およそ人とは思えない、明らかな幻覚。
「ば……化け物……」
だが柴田以外の三人にも目の前の怪物は見えているようだった。久保田も橘も、そして他ならぬ熊谷もだ。
「助けてほしいかあ?」
ぬっ、と顔が近づいてきた。強烈な獣臭がすぐ近くでした。誰も動けなかった。これは現実なのか。
「た、た……助けてくれるのか?」
そう呟いたのは柴田本人だった。
巨体の顔が、途端ににんまりと笑った。大きな口が横に裂けていく。そして、長い爪の指先で指し示す。
「そうだ、助けてやる……。下まで……下りたいんだろう?」
その通りだった。
びゅうびゅうと吹き抜けていく風は、いまにも脳髄を舐めそうだ。
「本当に、助けてくれるのか?」
既に雪に埋まりそうになるなか、それは垂らされた蜘蛛の糸に思えた。
「た、助けてくれ。お願いだ!」
叫んだのは誰だったのだろう。
柴田だったようにも思うし、久保田か、橘か、それとも熊谷か。
「助かりたいならあ……、一人、差し出せ……」
全員が顔を見合わせた。
「そうすれば……、この吹雪を、止めてやる。お前たちを、下りられるようにしてやる……約束、する……」
たちまちに四人の間に沈黙が降りた。
「へへ。約束できなきゃいいんだ……。でも、この吹雪は、このぶんじゃずっと続くぞ……四人とも、死ぬぞお?」
柴田、もとい、正確には柴田と久保田、そして橘は――互いを見合わせた。この状況で一人差し出す。最初からそう決めていたかのように、互いを見た。誰かを差し出せば助かる。怪我人が一人出て、いますぐにでも帰りたいこの状況。目の前で垂らされた餌に食いつくいい魚だったことだろう。
通報して救助を待つという手も確かにあった。だが、毎年登っているという自負とプライドがそれを許さなかった。OBとしてかつての大学登山部にも顔を出している以上、顔向けできない。おまけに出勤に間に合わせるために下山を強行したなんてバレたら、いい笑いものだ。
だが、その汚点のすべてを知っている人間を処分できるなら――?
幸いにもその人物は足を骨折し、下山できるかどうかもわからない「お荷物」になっている。
心は決まっていた。三人の指先が、横たわる熊谷健一を指さした。
柴田たちは垂らされた餌に食いついたのだ。
「ま、待ってくれ。いったい何を……!」
黒い手がぐうんと伸びてきて、熊谷を掴んだ。まるで猫でも持つように簡単に。
「こいつは……要らねぇ……」
ドサリと荷物だけが返される。すぐには外れないようにしてある装備を、いとも簡単に引きちぎったのだ。その口が開く。熊谷の体が、大きな口へと運ばれる。
「や、やめ……やめてくれ。助けてくれええっ」
その言葉を最後に、熊谷の頭が口の中へ消えていった。肉へと突き立てられる牙。砕ける音。
「あっ、あがっ、あ……」
くぐもった、苦痛に喘ぐ声。白い世界に飛び散った血。誰も何も言えなかった。自分たちが何をしてしまったのか、直視したくなかった。
バタバタと暴れる熊谷の足が、次第にぶらんと伸びて動かなくなった。作り物のようになった。人間が怪物に喰われていく。
モチュモチュと音をたて、怪物はにんまりと笑った。
「約束は……守るぞ……」
怪物は三人に背を向けた。ザクザクと雪を踏んで、吹雪の中に消えていった。
何が起きたのか、何をしてしまったのか――まだ理解しないうちに、不意に吹雪がやんでいった。白い闇が晴れて、いつしか晴れていた。
いましがたの出来事はすべて幻だったかのように、何もかも無くなっていた。けれども現実であったのを示すように、熊谷から乱雑に外された荷物だけが残されていた。雪にぶちまけられた血は、やがてちらちらと降る雪に消されていった。
怪物は確かにいて、そして三人は熊谷健一を供物として捧げた。自分達が山から下りる為の交換条件として。
結局、柴田は警察に連絡をとることにした。一人いなくなったことをどう説明するのか――その解釈に苦しんだ結果、雪崩に巻き込まれて一人がいなくなった、ということにしたのだ。そのためには救助を待つのが最適だった。皆、疲れ切っていたのだ。
幻覚だ。いまのは幻覚だと、自分に言い聞かせた。それなら荷物を残した熊谷はどこへ行ったのかなど、誰も答えられなかった。
だがいまや、怪物は目の前で悪夢のように蘇っていた。
あの日と同じように。
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