第29話 本能寺の変

 まだ夜も明けぬ京都の街。

 人影の無いはずの大路を甲冑姿の武者たちが足早で駆け抜けていく。

 武者たちは次々と路地に現れては北へと走り去って行く、その数は千や二千をゆうに超える。足音を消し息を潜めるその動きは只ならぬ殺気をおびた戦場へ向かう群団であった。


 東の空が薄く白み始めた頃。

 街に火事を知らせる鐘の音が鳴りわたった。


 その夜、妓楼で一夜を明かし客間で横になっていた、女商人「よろずや・千寿」は体に掛けられた上衣を剥ぎ飛ばした。


「火事かっ!」


 声を上げると妓楼の前の通りに飛び出した。


 路地に面した妓楼の客たちは空の響く鐘音に慌て、悲鳴にも似た声をあげて飛び出してくる。表通りには旗指物を掲げた甲冑姿の武者たちの姿があった。


 千寿は空を見上げる。


 西洞院大路と油小路通り辺り。その空に天にも届きそうな火柱が立ち昇っていた。

 焼ける木材と硝煙の匂いが早朝の冷たい風に混じり鼻につく。

 千寿は只ならぬ嫌な予感に顔をゆがめる。


 ―――本能寺。その辺り一帯が炎が包まれていた。


「まさか『本能寺』っ!」


 大声を上げた千寿は目を見開いて前方に立ち昇る火柱をみた。


 本能寺には数日前から織田信長公が政務の為に滞在している。

 今日、信長公から注文のあった貴重な品々を納品する為、千寿は本能寺へ出向き、信長公本人との謁見の予定であった。


「千寿様っ」「一大事でございます」

 同時に配下の数人が慌てた様子で口々に叫びながら千寿の元に駆けつけて来た。


 ◇◇◇


 一報を聞いた千寿は急ぎ配下の者を四方に飛ばし、正確な詳細情報を集めるよう指示を出す。


 次々と報告される信じられない内容に顔色を変えた。


「謀反だとっ!」

「明智日向守様が謀反を起こした……」


 商売上、何度か顔を合わせ互いに知らぬ仲ではなかった。


「あの明智様が……信長公の右腕と言われた、あの男が……」


 物見にやった配下の一人が転がる様に部屋に駆け込んでくる。


「何っ!」

「―――信長公が討たれたあっ」


「本当かっ!」


「間違いございません」

「すでに本能寺を囲んでいた明智の軍勢はその場から離れ、一軍は京の東へ移動中。明智軍の主力本隊は西へ移動中です」


「千寿様、ご報告っ」別に物見へやった配下が駆け込んで来る。

「明智軍の一軍が大坂方面へ向かっております」


「何っ大坂だと」千寿が眉間を寄せる。

「明智様。なぜに大阪に軍を動かす?」

「今、明智の敵となる軍は大坂にはいないはず……」


「まさかっ。やるつもりか」千寿の拳が畳を打ちつけた。


「急ぎっ大坂に戻る!」


 千寿の凛とした顔から血の気が失せ、厳しい商人の口調を吐いた。


 ◇


 長い廊下をけたたましく踏み鳴らす人の気配。

 千寿がミナトの部屋に急ぎ足でやって来た。


「ミナト殿、一大事が起こった」

「すぐに出立の支度をして、私と一緒に付いて来てくれないかっ」


 店の騒ぎにミナトは既に身支度を済ませ、中庭から外の様子を覗っていた。


「詳細な事は、馬上で話す」

「急ぎ出立をっ」


 千寿の差し迫った眼差し。


「千寿殿……俺は……」


 ミナトの腕をグッと掴み引き寄せると、有無を言えないほど強引にミナトを引っぱっていく。

  

 

 千寿はミナトと数人の配下を連れ、京都の街を急ぎ離れ大阪へと馬を走らせた。


 ◇◆◇◆  


 京都の街と大坂堺をつなぐ主街道。

 騎乗する馬に身をまかせ、一人の男がゆるりゆるりと京都の街へと向かっていた。

 紺の着物に馬乗り袴をはいた遠乗り姿。実に重心の定まった風体をした男であった。


 人通りの多い主の街道で早馬が数騎すれちがう、男は怪訝な顔をする。


「何だ何だあ。戦でもあるまいし」

「こんな人通りの多い街道で早駆けとは、何と無作法な奴らだ」


 しかし、前から数頭が駆けて来る馬に騎乗する人物の姿を見て、男は思わず体を乗り出した。


「よろずや! 千寿殿ではないか」


 と男は大声で呼び止め、手に持つ短槍を左右に振る。

 そして道を塞ぐように馬を操った。


「ほ、本多様っ!」

「本多様っ。一大事でございます!」


 向かい風に当たり乾いた喉で咳込みながら、千寿は早駆けで上がった息を整える。


「何事じゃあ。貴女そなたほどの女子がぁ」


「本日、未明っ。明智日向守様の謀反により、織田信長公が御討ち死にされました」


「はあっ?」


 今宵、夕刻あたりに京都の街で落ち合う手はずであった千寿と、こんな場所でばったり会ったばかりか、またとんでもない暴言を聞かされた本多忠勝は、呆けた様な大声を上げた。


 主君である徳川家康は、長年にわたって戦ってきた宿敵・武田軍を織田・徳川の連合軍でついに滅ぼし、戦勝祝いの為に御殿自ら安土城に訪れていた。

 昨日までは大阪の堺で街の有力者との茶会や遊覧見物を済ませ、今日の夕刻には京都の街に入り、明日には本能寺で信長公と謁見の予定であった。


 それが、どうして……千寿の言葉とて、とても信じがたい。


「本多様っ! 本多様っ!」

「この事を早くっ三河の殿様に伝えねば!」

「明智の軍勢は、すでに京を発って、大坂に向かっております」


 千寿は馬上から本多忠勝に言い放つ。


「三河の殿様は今、何処に?」


「お、おうっ」

「殿は今、京の外れ、飯盛山の麓の寺におる」


 千寿が目を丸くする。


「何とっ!」


「昨晩から殿が渋られてな。京都へ行く予定を急遽変更なされ、飯盛山の寺に泊まりおる」


 千寿が息を飲んだ。


「何と運の良い殿様じゃ」

「これはっ明智勢も予想していないぞ」


 千寿は天を仰ぐ。


「これも天運か……」


「とにかく、早くっこの事を三河の殿様にっ」


「私もできるだけ多くの情報集め、準備でき次第すぐに寺に向かいます」


「し、承知したっ!」


 と本田忠勝は、愛用の短槍を小脇に抱えると戦場さながらの様子で馬に鞭を当てる。そして疾風の如く、今来た街道を駆け戻って行った。

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